日はすっかり沈み、完全下校時刻を過ぎたせいで人気もほとんどなくなった学園都市。夜道を照らす街灯のみが存在を主張する夜八時。そんな寂しげなとある鉄橋の欄干に、一人の少女が憂鬱な表情でもたれかかっている。
ベージュ色のサマーセーターを着込み、紺色のプリーツスカートを穿いている少女。短く切られた茶髪に髪留めを差しているその姿は一見するとそこら辺にいる女子学生だが、その少女はここ学園都市において最大のネームバリューを誇っている学生だ。知らないものなどほとんどいない、十四歳の中学生。
第三位の超能力者、電撃使いの通称【超電磁砲】。御坂美琴。
学園都市内でも五指に入ると言われる超名門校、常盤台中学に籍を置く彼女は、持ち前の負けん気と明るい人柄から多くの人々に好かれている。彼女を慕う後輩も多く、校内では御坂美琴ファンクラブなるものも組織されているともっぱらの噂だ。
だが、鉄橋に身体を預けて遠くの風景をぼんやりと眺めている彼女からは、普段の明るい様子は微塵も感じられない。生気はほとんどなく、その目はガラス玉のように何も映していないように見える。整った顔からは健康的な赤みが消え、死人のような土気色に変色しかかっていた。
どこからどう見ても何かに絶望している雰囲気の美琴は、誰もいない鉄橋の上でかすかに溜息をつく。
「……どうして、こんなことになっちゃったのかな」
たらりと一筋の汗が美琴の頬を流れる。思わずと言った風に漏れ出した彼女の呟きには、まったくといっていいほど覇気が感じられない。死にそうな程に弱り切ってしまっていた。
彼女の脳裏に浮かぶのは、最強の超能力者によって無残に虐殺された妹達の姿。肉を抉られ、骨を砕かれ、人間の死体と呼んでいいのかというくらいに破壊されつくした妹達の光景。そして、碌に抵抗も出来ず一方通行にいとも簡単に命を奪われる妹達を前にして、何も行動できなかった自分への怒りが込み上げてくる。複雑な負の感情が渦を巻き、大きな絶望が心を支配する。
「……て。たすけて、よぉ……」
誰にともなく放たれた彼女の弱音。基本的に人に頼ることを良しとしない彼女が漏らした、自らの本心。
こういう時に、脳裏には何故かスキルアウトの無能力者が浮かんでくる。能力なんて皆無で、戦闘力すらゼロに等しい最弱少年のことが頭から離れない。彼が来たところでどうしようもないのに、心の中では助けを求めてしまう。
肩を震わせて嗚咽を漏らし始める美琴。そこにいるのは喧嘩っ早い最強の超能力者などではなく、無力で儚い一人の女の子だった。
死んだように景色を眺める。すると、気味が悪いほどの静寂に支配されていた鉄橋に、猫の鳴き声らしき音が響いた。小さくも甲高いその鳴き声からすると、まだ子猫のようだ。あまりにも場違いな猫の声に、美琴は怪訝な表情で声がした方を見やる。
――――一人の青年がいた。
整髪料を使っているようなツンツン頭が特徴的な、中肉中背の青年。カッターシャツの第一ボタンを開け、中に来ている赤色のシャツを見せつけているその青年に、美琴は覚えがあった。
かつて自分と勝負し、全ての攻撃を防いだ男。無能力者にもかかわらず、超能力者である美琴を負かした正体不明の能力者。電撃を、砂鉄の剣をかき消す右手を持った、ツンツン頭の高校生。
思わず、言葉を失った。何故今このタイミングで彼が現れるのか理解できず、頭が真っ白になる。目は大きく見開かれ、口は間抜けにも半開きになっていた。それほどまでに、青年の出現は予想外だったのだ。
美琴の姿を認識した青年――――上条当麻は、普段のおちゃらけた様子からは想像できない真剣な面持ちで美琴を見据える。
「……探したぞ、ビリビリ」
そう口にすると、美琴へ歩み寄ってくる上条。彼女を探して随分走り回ったのか、息は乱れ、シャツは汗で湿っている。相当な距離を駆け回ったのか、酸素を求めて肩が大仰に上下していた。
何故? どうして? 疑問だけが頭の中をぐるぐると回っていくが、状況を打破するために美琴の口から飛び出したのは救助要請でも怒声でもなく、その場を凌ぐための誤魔化しだった。いたって平静を保って、動揺を表情に出さないよう心がけながら言葉を並べ立てていく。
「探した? 女の子を探して夜な夜な走り回るなんて、アンタそんなに変態だったわけ? 怖いわねぇ」
「…………」
「まぁでも、私みたいな美少女を求めるのも仕方がないかな。女に不自由してそうな感じだしさ――――」
「……佐倉が、一方通行と戦ってるんだ」
「――――は?」
へらへらと軽口を叩いていた美琴の顔が引き攣った笑顔のまま硬直する。予想だにもしなかった事実を聞かされて、脳が言葉の内容を理解するのを拒んでいる。口元がひくひくと痙攣を始め、全身を嫌な汗が覆った。
信じたくない。嘘に決まっている。そんな淡い期待を持つ美琴は震える唇を一生懸命に動かすと擦れたような言葉を紡ぐ。
「冗、談……なに、言って……」
「嘘じゃねぇよ。妹達を実験から解放するために、佐倉はたった一人で一方通行と対決してるんだ」
「――――――――。……、……で」
「あ?」
「なん、で……なんで、アイツが戦ってんのよっ……!」
言葉を放つと同時に、美琴の髪が青白い光を帯び始める。バチバチと甲高い音をあげながら小さな電撃が辺りに飛び散っていく。鉄橋のアスファルトに電撃が落ちると、《ゴッ!》という鈍い音と共に道路が陥没した。それは上条の周りにも被害を及ぼし始め、彼の頬や腕に小さな火傷を作っていく。
美琴は怒っていた。自分から放出される電撃に気を向ける余裕がないほどに、彼女は怒り狂っていた。どこまでも自分勝手な無能力者に対して、言い知れない憤怒の感情が湧いてくる。
ギン! と上条を睨みつけると、怒りのあまりに欄干の柱を蹴りつける。
「なんでそこで、佐倉の名前が出てくんのよ! アイツは関係ない、この実験にはまったく接点のない一般人のはずでしょう!? それが……そんなやつが、どうして一方通行の前に立ちはだかってんのよ! なんで、どうして……!」
「……そんなことも分かんねぇのかよ、お前は」
「はぁ!? 分かるわけないでしょう! 一切関係のない実験を止めるために命を懸けるなんて、考えなしの馬鹿がすることよ! そんな命知らずな愚行を冒す意味が分からない! 何考えてんだか――――」
「……お前を、守るためなんじゃねぇのか」
「…………え?」
上条が絞り出すようにして言ったその台詞に、美琴は思わず言葉を切ると拍子抜けた声を漏らした。彼の呟きがイマイチ理解できずに、目を丸くしてキョトンとしている。
呆けたように自分を見る美琴の目を真っすぐ見据え、上条は友人がとった行動の理由を推測ながらも述べていく。
「アイツはお前を尊敬している。恩人だとか言っていつもお前に恩を感じていたよ。狂信、と言っていいほど、佐倉はお前と言う人間に惚れきっていた」
「恩、人……」
「お前とアイツの間に何があったのかは知らない。だけど、佐倉が命を懸けてまで一方通行と戦う道を選んだのは、間違いなくお前への恩に関係があるはずなんだ。恩人を巻き込めない。お前を殺させるわけにはいかないと思ったんじゃないのか?」
「……で、でも、アイツより私の方が強いのよ? アイツは単なる無能力者で、私は学園都市に七人しかいない超能力者。私と佐倉の戦力差は比べるまでもなく歴然じゃない。アイツが戦うよりも、私が戦った方が勝率が上がるに決まってる。結局、考えなしの行動なだけじゃない」
「……お前は一方通行には勝てないよ」
「っ。……へ、へぇ、随分と私を舐めた発言をしてくれんじゃないの」
表情一つ変えずにそう言い放った上条にわずかに動揺しながらも、美琴は髪先から火花を飛ばして彼を威嚇する。あくまで自身の感情の揺らぎを悟られぬように、心を怒りで埋めていく。
それでも、上条は言った。
「お前じゃ、一方通行を倒すことはできないよ」
「だから、アンタはッ……!」
「もしも一方通行を倒せる策が一つでもあるのなら、お前は迷うことなくそれを実行しているはずだ。思考よりも直感で動くお前がこんなところで往生しているっていう点で、そんな策は最初から無いってことはわかる。お前だって分かってんだろ? 勝率なんか、ないって」
「…………」
上条の言葉を受けて、悔しそうに口を引き結ぶ。拳は強く握られ、その力のあまり色を失っていた。
美琴だって、本当は分かっている。自分の力では、あの最強には逆立ちしても勝てる見込みはないということくらい。今更上条に言われるまでもなく、痛いほど理解している。
第一位の持つ能力、【一方通行】は、全てのベクトルを自由自在に操ることができる。それは美琴の砂鉄や電撃も例外ではない。どんな攻撃を放っても相手に効果を上げることはできず、無様に跳ね返される。あの超電磁砲さえも指一本動かすことなく防がれた以上、彼女に対抗策は無い。
そんなことは分かっている。
しかし、
「……樹形図の設計者によると、私は一八五手で一方通行に負けると予測されているわ」
「……?」
いきなりそんなことを言い出した美琴を怪訝そうに見やる上条。彼女の真意が掴めず、眉をひそめる。
だが、戸惑いの表情を浮かべる上条など気にする様子もなく、彼女は言葉を続けた。
「でも、もし私にそれだけの価値が無かったら? 最初の一手で殺されちゃったりしたら、どうなんでしょうね」
「っ!」
さらりと衝撃的な台詞を漏らした美琴の肩を、思わずといった勢いで掴む。
美琴は何かを悟ったような、達観した表情を浮かべていた。もう覚悟はできていると言わんばかりに、穏やかな笑みを漏らしている。
上条は重々しく、唸る。
「……お前、本気かよ」
「えぇ。よく考えてみたら、それが一番手っ取り早い方法だったのよ。どうせ樹形図の設計者はもう壊されてしまったんだし、再演算されることもない。私という実験目標が消えてしまえば、あの子達も実験からは解放されるはずだし」
「…………んなよ」
「は? 何ボソボソ言ってんの。何か言いたいことがあるならはっきりと――――」
「ふざけんなよ、てめぇ!」
《ガォンッ!》という鈍い音が鉄橋に木霊した。音は金属の柱の間を跳ねかえっていき、エコーする。上条が思わず柱をぶん殴ったのだ。右手には血が滲み、肉が見えている箇所も見受けられる。
美琴は激昂した彼を機械のような顔で見つめていた。感情のない、まるで【妹達】のような表情で、上条当麻に視線を向けている。
上条は続けた。
「何が自分が死ねば解決だ、何が一番手っ取り早い解決法だ! そんなもんてめぇの勝手な思い込みに過ぎねぇじゃねぇか! ふざんけんじゃねぇ!」
「……ふざけてなんかいないわよ。というか、それ以外に方法は無いの。私が死なないと、またたくさんのクローンが殺されることになる。私一人の命と引き換えに一万人を救えるのなら、安い買い物じゃない」
「ふざけやがって……! 今、お前の為に血を流して戦っている馬鹿がいるってぇのに、平気でそんなことを言いやがって! 佐倉がどういう想いで一方通行と対峙しているのか、考えてみやがれ!」
「……知らないわよ、そんなの。自殺願望でもあるんでしょ?」
「てんめぇっ……!」
「なによ、まだ文句があるの?」
もう話は終わった。そう言わんばかりに肩を竦める美琴。先程まで佐倉の名前を聞いて激昂していたにも拘らず、会話の中で何か吹っ切れたのか途端に淡白な反応を返してくる。
……美琴の無機質な返事に、上条はこれ以上の会話は無駄だと悟った。
今の彼女にはそういったことに執着するような余裕はない。妹達を救う。そのことにしか思考を割くことができなくなっている。
このままだと、彼女は遅かれ早かれ殺されに行ってしまう。
(だったら……)
上条は突然美琴の手を掴むと、何も言わずに鉄橋から去り始めた。もはや抵抗する気さえ萎えているのか、されるがままに引き摺られていく。
「……何すんのよ」
「一七学区に向かう」
「……は? 何言ってんのよアンタ。私を止めるんじゃなかったわけ?」
「最初はそう思っていたさ。でも、今のお前に何を言っても無駄だ。だから、実験場に向かう。……佐倉を、助けるんだ」
「なっ……!? な、なんで私がアイツを助けないといけないのよ! あんな命知らずの馬鹿、勝手に死なせておけばいいじゃない! それをわざわざ、どうして……」
「……本当に死んでもいいって思ってんなら、なんでお前は泣いてんだよ」
「っ!」
指摘され、思わず目元を手で押さえる。
生暖かい、液状の物体が目の端に付着していた。それは徐々に量を増すと、一筋の軌道を描いて頬を流れ落ちていく。
ポタリと、足元の地面が変色した。
「私、なんで泣いて……」
「……死んでほしくないから、だろ?」
「…………」
「お前がどう思おうと知ったこっちゃねぇが、自分に嘘はつかない方がいいぞ。大切なモンを失ってからじゃ、何もかも遅すぎるんだから」
諭すように放たれる彼の言葉に、美琴は俯いたまま無言で肩を震わせる。
そんな彼女を優しい目で眺めると、上条は手を引いたまま一七学区へと走り始めた。