そういうわけで平塚静は独身である。   作:河里静那

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そして情報生命体は光を手に入れる。

光。

明るい光。太陽の日差し。浴びているところがぽかぽかと、とてもとても暖かい。

 

音。

風の音。車の音。街にこだまする、人の生きる声。

 

匂い。

空気の匂い。どこからか僅かに漂う花と草の香りが、鼻孔をくすぐる。

 

感触。

髪をたなびかせる風。頬を伝わる、涙の雫。

 

──……ねえ、雪乃。お願いがあるの。自分の体を、ぎゅっと抱きしめてみてくれないかしら。

 

ああ。

ああ、なんて。世界とは、これほどまでに──美しい。

 

 

 

 

 

その朝、雪ノ下雪乃が何か奇想天外な体験をした夢から覚めると、ベットに横たわる自分が危機的状況に追い込まれていることに気がついた。いや、危機的というか、既に手遅れだった。

何故なら、窓から差し込む日差しの角度が、既に昼時を過ぎているのだと雄弁に語りかけてくるのだから。

 

本日は平日。カレンダーの日付の色は黒。行事の振替も無ければ、もちろん開校記念日でもない。

隕石……落ちてこないかしら、学校に。ふと浮かんできたそんな考えに、すっかり比企谷菌に感染してしまったわねと、どこか嬉しくも思うのは、既に末期なのであろう。不治の病の。

 

憂鬱な気分でスマホを探す。ベッド周りを一通り見渡した後、目的の物はずっと自分の手に握りしめられていたことに気がついた。

どうやら、動画を見ながら寝落ちしてしまったらしい。更には、無意識のうちに目覚ましも止めてしまっていたようだ。まったく、本当に自分らしくもない失態。比企谷菌は本当に強力だわ。バリアも効かないわけね。

 

現在時刻を確認しようと画面を見れば、そこには不在着信ありとの文字列が。表示されているのは、千葉市立総部高等学校の番号。

優等生で通っている自分が連絡もなしに欠席してしまったのだから、何かあったのかと確認の電話だろう。ましてや、一人暮らしの身の上だ。下手に心配されて大事になってしまっては色々と面倒。

覚悟を決めて、遅まきながら欠席の連絡を入れることにする。体調不良で、気がついたらこの時間だったということにしておこう。今から学校へ向かうという選択もあるにはあったが、調子が悪いというのも事実。主に精神面において。さっきまで見ていた夢のせいに違いない。

 

それにしても、酷い夢だった。当分、SF関係の本は読まないことにしよう。

電話の向こうの担任の心配げな声を聞く裏で、そんなことを考える。

明日は多分登校できます。はい、ご心配かけて申し訳ございません。それでは失礼致します。

普段の素行が良いと、こういう時に変に疑われることの無いのが助かるところ。

通話を終え、溜息一つ。そういえば、夢のなかでも随分と溜息を……

 

──あ、電話は終わったかしら?

 

そうですよね。

ええ、わかっていましたよ、本当は。あれが夢じゃなかったってことくらい。

だけど、ここで挫けてはダメ。あなたになんか、負けるものですか。崩れ落ちそうになる膝にぐっと力を込めて踏みとどまる。毅然とした光を瞳に宿す。傲岸なまでに胸を張る。そこに今一つふくらみが足りないのには触れないでやっていただきたい。

 

「おはよう、不法占拠者さん。朝の日差しを浴びて、消えてなくなってくれていることを期待していたのだけれど」

 

──吸血鬼が太陽の光に弱いというのは、後付の設定だそうよ? 原典であるブラム・ストーカーの吸血鬼ドラキュラは、日光の下でも出歩いていたとか。

 

毒舌の先制攻撃は、雑学の盾で阻まれた。思わず、きょとんとした顔をしてしまう。

まさか、自分が知ってる文学作品の話題で返して来るなんて。

 

「……確かにそうだったわね。でもまさか、千年の先までドラキュラの勇姿が伝わっているとは思わなかったわ」

 

──艦長が読書の好きな人でね。忘れ去られた古典を発掘してきたり、わざわざ紙の本にこだわったり。書物はボッチの真の友、なんですって。その影響で、余計な雑学が随分と身についたわ。

 

なんだか、妙な親近感を感じる。その人の瞳、もしかして濁ってないかしら?

 

「……何時の時代にも、そんな捻くれてる人がいるものなのね。私の知り合いにも一人いるわ。なんなら、その人を紹介して欲しいくらいよ」

 

──そうね。誤解されがちな人だけど、きっと、貴方だったら気にいると思うわ。それより……

 

語られる軽口に、ほんのりと加えられる真剣味。

 

──暗い部屋の中に一人きりで、ずっと膝を抱えて待っていたのよ。多分寝てしまったのだろうからと、気を使って言葉も発さずに。そろそろ、色の良い返事を聞かせてもらいたいのだけれども。

 

そう、本題はこれから。交渉再開。

十分な睡眠を取れたおかげで、頭のなかはすっかり明晰。コンディション・グリーン。

……とはいえ正直、手詰まりの感がないわけではないのだが。それでもいくらかでも、自分に有利な条件を引き出さなくては。

まずは、手始めにこの一撃。

 

「断ったら、どうなるのかしら?」

 

──私ね、歌が得意なの。72時間くらい聞かせてあげるわ。

 

そういえば、睡眠は必要ないとか言っていたわね。音楽鑑賞は嫌いではないけれど……正直、勘弁願います。

どうにも、昨夜からペースを掴まれたままだ。いけない、無条件降伏だけは避けないと。なら……

 

「……貴方を養うと、そう仮定して。期限はあるのかしら? 一生このままというのは、貴方にとっても本意では無いのではなくて?」

 

なら、期間限定というのはどうだろう?

平塚先生にいい人が見つかるまで協力して、それでさようなら。落とし所としては悪くないのではないかしら?

……いけない、失敗だったかも。この条件では、実質的に一生このままという可能性が高い……あら何かしら、急に寒気がごめんなさい。

ところが、幸か不幸か、その提案は別の理由により却下される。どうしようもない決定打が、下される。

 

──正直に言ってしまうと、現状、ここから出て行く手段は存在しないの。人間の精神を電脳空間へダイヴさせる機器が開発されるまでは、このままね。

 

「そんなもの、いつになったら……」

 

いつになったら作られるのよ。そう言いかけて、気づく。

昨夜の、いや、今朝の彼女の言い分では……

 

──そうよ。わたしなら、作れるわ。貴方の体を貸してもらえるのなら、ね。

 

勝負、あり。

ニヤリとした顔が目に浮かぶよう。顔の見えない相手だというのに。忌々しい、ああ忌々しい、忌々しい。

ああもう。わかりました、わかりましたとも。認めるしか無いんでしょう。

もとより、交渉するにしても条件が悪すぎたのだ。実質、選択の余地など存在しなかった。

ならもう、覚悟を決めましょう。事ここに至ってぐだぐだと、でもでもだってと逃げ続けるのは、自分の矜持が許さない。

だって私は、雪ノ下雪乃、なのだから。

 

「……雪ノ下雪乃、よ。これから共同生活をしていくのに、互いに名前も知らないのでは不便でしょ」

 

その名前に、精神生命体が息を呑む。大きな驚きと、少しの納得。この時代の依代として彼女が選ばれた、その理由。やはり、自分と彼女との間には、少なからぬ因果が結ばれているようだ。

 

──……随分と奇遇ね。私の名前は、ユキ=ノシタよ。ユキって呼んでくれて構わないわ。貴方のことは、雪乃と呼ばせてもらうわね。

 

 

 

 

 

そうして、ユキ=ノシタは生身の体を手に入れた。

初めて感じる光、風、音。その何もかもが……愛おしい。

内側からの願い事で、雪ノ下は自分の体を抱きしめる。

その時、自分の頬に涙が伝っているのに気がついた。

 

「……何故、私は泣いているのかしら?」

 

──ごめんなさい。感情が昂ぶり過ぎると、そちらにも影響が出てしまうようね。……自分が嫌いという訳ではなかったけれど、ずっと、ずっと、人の体に憧れていたの。

 

どこか寂しげに。どこか、悲しげに。

 

──人の体で、艦長の横に立ちたいと。そう、願っていたの。

 

「貴方……ユキ、今まではどういう姿をしていたの?」

 

クスクスと、今度は悪戯げな声が返される。

どうやら、冷静沈着な性格とみえながら、実は彼女はとても豊かな感情を持っているようだ。

 

──全長240mのラスコー級突撃型巡洋艦よ。八連装速射輪胴砲塔12基、対空砲6基、ミサイル発射管10門、量子魚雷噴進機2基で着飾っていたわ。

 

「……随分と、お洒落だったのね」

 

──自分で言うのも何だけど、美しい船だったわよ。けれど……悔しいけれど、貴方のほうが上ね、雪乃。

 

そう言って、にこりと笑う。

ユキがいるのは自分の内側。その姿を見ることは決して無い。にも関わらず、雪ノ下雪乃は、はっきりと。自分と同じ顔をした少女が、穏やかに微笑んでいるのを、幻視した。

 

 

 

 

 

さて。

共同生活が始まるとなると、必然的に決まり事が必要となってくる。

自分とそれ以外の人間とは、どこまで行っても結局は他人なのだ。その、他人同士が快適に、上手くやっていくために生まれたのがルール。これぞまさに文明の産物。

これが単純なルームシェアであるならば、話は簡単。この部屋は私の、あの部屋は貴方の。共同スペースの掃除当番を決め、必要ならば食事当番も。後は異性を連れ込む際の注意事項が必要だろうか。

 

だがしかし。

雪乃とユキがシェアするのは、一つの体。そうとなれば、なかなか一筋縄ではいかなかったりもする。

少し遅目の昼食を取りながら、彼女と彼女は今後の方針に関して話し合っていた。

 

──ああ、なんて。本当に、なんて美味しそう。雪乃、貴方すごいわ。料理の天才なのではないかしら。尽くす言葉が見つからないくらいに素晴らしい……私に、料理の味を楽しめる日が来るなんて……

 

ユキは何やら、それまでの自分のキャラを忘れたように、初めての食事という行為にひたすらに興奮し、感動している。

その様子は何とも、微笑ましいと言えば言える。だが傍から見れば、延々と独り言を呟きつつ涙を流し続ける、ちょっと近寄りたくない人に見えてしまうのが困りもの。

こんな姿、とても誰かに見せられないわね。どこかほっこりとしてしまうのが、更に厄介だわ。

それはさておき、決めるべき事はきっちりと決めておきましょう。

 

「まず、体の主導権に関して。基本的には当然、私が管理します」

 

──それはまあ、仕方ないわね。でも例えば、私の知識を使ってなにか作ったりとか、いずれそういうこともあるでしょう? ……って、これがご飯……白米なのね? 白いご飯なのよね? ほんのり甘くて、なんだかほっとするような……これが、味覚……。

 

「人間の精神を電脳空間へダイヴさせる機器、だったかしら。作ってもらわないことには一生このままなのよね?」

 

──ええ、その通りよ。それ以外にも、雪乃に渡す報酬の話もあるわけだし。でも、私には人間の体を操縦した経験がない。だから、慣熟運転が必要だと思う訳。……これ、味噌汁? 味噌汁よね!? ああ、一度でいいから飲んでみたかったの!

 

「……話に、集中してくれないかしら……。それと、そういう表現はいかがなものかと思うのだけれど」

 

体の操縦。なんだか卑猥。

いやいや、そういうことではなく。

 

「人間の体を、機械のように表現するのは、やめたほうが良いのではなくて? ……貴方も、人間なのでしょう……ユキ?」

 

自然に口をついて出てきた言葉に、自分で驚いた。

自分は、この押しかけ同居人を、人間として扱っている。意識しないままに、当然のように、気遣っている。

 

そう、なのだろうか。……どうやら、意地を張ってもしかたがないようだ。

自分はこの正体不明で迷惑極まりない自称未来人を、嫌いにはなれないみたい。

こんな、怪しさ極まりない相手との会話。その遣り取りが、自然と心の腑に落ちる。率直に言ってしまえば、話していて楽しい。悔しいくらいに。

ああ、本当に、なんて忌々しい相手。

 

──……雪乃。まだほんの、半日程度の付き合いだけど……もしかしたら私達、上手くやっていけるんじゃないかしら?

 

「遺憾ながら、認めざるを得ないようね。……ただ、次からはこういう話を食事の時にはしないようにしましょう。まったく、食べ難いったらないわ」

 

文句を言いながらも、ふふっと顔が笑みを作っているのがわかってしまう。

本当に、何でこんなに、自分に近しい者のように感じてしまうのだろう。

 

──ねえ、食事が終わったら、コーヒーを飲んでみたいわ。砂糖と練乳をたっぷりと、思いっきり甘くして。

 

「……それも、艦長さんの趣味なのかしら?」

 

──ええ、そうよ。よくわかったわね?

 

わかるわよ、それは。

だって……だって、ねえ? 何となく、その人のことが手に取るようにわかる気がするのですもの。

本当に、男性の好みまで似通っているなんて、ね。

部活仲間の見慣れた濁った目と、彼が愛飲している缶コーヒーを思い返し、雪乃また、ふふっと小さく微笑んだ。

 

 

 

そんなこんなで、実際に甘い甘いコーヒーを淹れるときには、随分と時間が経ってしまっていた。何せ、箸を口に運ぶ度に、グルメタレントも裸足で逃げ出すほどの詳細な感想を言って聞かせてくれやがるのだから。

これでは、今後の食事作りに一切の気を抜けないではないか。この間よりも味が落ちたわね? なんて言われてしまったら多分、血管が一本切れる。脳の。プチンと。

もとより手を抜く気などさらさら無いし、張り合いがあるとはいえる。とはいえ、随分とハードルを上げてくれるもの。

 

そんな時だった。

インターホンがピンポーンと、来客の存在を声高に主張したのは。

 

「ゆきのん? 今日学校休んだって聞いたから、お見舞いに来たよ! ねえ、大丈夫? あたし、一生懸命お世話するから……あ、ご飯も作るよ!」

 

モニターには、自分が何より見知った顔。

カメラに顔をぐぐっと近づけて話す子犬のような少女と、その後ろに佇む死んだ魚の眼をした少年が、映し出されていた。

 

 

 


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