神に見放された地。ある程度事情に精通した地元の農民は、其処をそう呼んで憚らなかった。
古代都市マテール。
第八秘蹟会と
岩と乾燥した気候によって形成された劣悪な環境。枯れきった土壌は碌な作物も育てられず、灼熱の太陽は飢えを滾らせ、硬い岩盤を掘り進めても井戸からは塩水しか採られない。
先の見えない未来に絶望した人々が、何かに救いを求めるのは必然だったろう。
だから、彼らは創った。
美しく舞い踊り、絶世の歌を奏でる――人の心を癒す、快楽人形を。
その核となった不可思議な結晶が、どのようなものだったのかも知らずに。
「……駄目です。何度も試しましたが、やはり通じませんでした」
今回の任務でエクソシストたちに同伴した
時にはアクマとの交戦すらも余儀なく迫られることとなる部隊に所属する彼である、無線が通じなくなった部隊の面々が今どのような状況に在るかは痛いほど理解しているのだろう。口元を覆うマスクの奥で悔し気に歯噛みする彼を一瞥した綺礼もまた、自分達の居座る廃屋から俯瞰する戦況が決して楽観できないものであることを鋭敏に悟る。
――思っていた以上に、部隊の壊滅が早いな。
先行したアレンと交戦しているレベル2に全滅させられたか、報告にもあった死徒による襲撃を受けたか。どちらにしても、常人の敵う相手ではとてもないことだけは確かだった。
(最悪、イノセンスが強奪されている可能性もあったが……それはどうにか免れたようだな。件の人形は神田が回収、ウォーカーは……思いのほか、使えないな)
視線の先では、二体のアクマを容易く撃破した黒髪の青年が両手に人形と……巻き込まれた一般人だろうか、二人の人間を抱えて離脱していた。抱えられている人影はどちらもローブと帽子を被っている為、遠くからではどちらが人形なのかは釈然としない。
――問題は、単騎で
致命傷を負って昏倒した
「とはいえ、いつまでもこうしている訳にも行かないか。……トマ、ティムキャンピーを回収して神田と合流しろ。万一死徒と出くわすことになっても、奴の近くに居ればそうあっさりと死にはするまい」
「了解致しました。しかし綺礼殿はどうされるので……?」
「イノセンスを回収するべく現れたエクソシスト。一人は
交戦が続いているのだろう、古代都市で断続的に破砕音が響き渡る中――さながら遠雷の如く、通りから一層凄絶な轟音が轟いた。
「痛っ……何だったんだ、今の」
分厚い壁を何枚もぶち抜く羽目になった背が、莫大な負荷に悲鳴を上げていた。
痛む身体に鞭打って上体を上げたアレンは、瓦礫の崩れる音を朦朧とする意識の中で認識しながら低く唸る。
アクマとの交戦中。イノセンスを発動した自分は力任せにもぎとった壁を目晦ましに接近、渾身の一撃で醜悪な
だが、空っぽの
(能力だって、あのレベル2は言ってた。多分身代わりもあの妙な力でコピーした奴だ。でも、まさか対AKUMA武器まで模倣するだなんて……)
脳裏を過ぎるは、先にアレンを薙ぎ払った一閃。
彼の腕を装備したアクマ。イノセンスを宿す巨腕、その形状を三つ又槍のように変化させると強烈な刺突を打ち込んできたのだ。
恐らく、写し取った能力はある程度自分好みの仕様に変えられるのだろう。面ではなく点での一撃……左腕での防御が間に合わなければ串刺しになっていたかもしれない。
「って、嘘でしょ傷ついて……!またコムイさんに治療されるぅ!? 嫌だなあ――」
「ふぅん、思ってたより脆いんだね。対AKUMA武器ってのは皆そんなもんなのかな?」
「!?」
悪寒が奔る。
珍しいものを見つけたような、愉し気な声。耳朶から入り込み鼓膜を蕩かして。そのまま脳漿までずぶずぶに侵されてしまいそうな、妄想だと唾棄すべき危うさを抱かせられてしまうような、そんな悍ましい声だった。
(何だっ、これは――)
屍のように終わった街。建物は光を閉ざし、月の明かりも星の瞬きも暗い雲に覆われた夜。
とっくの昔に人の営みを失った廃屋、腐りかけた屋根に腰を下ろして。
矮小な人間を見下ろす『死』が、其処に在った。
「っ、あ」
「初めまして、エクソシスト」
黒い
「自己紹介は必要かな? 僕の名はシーバー・カンツォーレ、死徒だ。……うん、聞いた通りの格好をしてる。君はエクソシストで間違いないね」
「、」
ふざけるな、と言ってやりたかった。
魂の在り方について、どうこう言うつもりはない。自分はただ
アクマのエネルギー源として拘束される魂魄が摩耗していく姿は知っている、それが一層深刻になったレベル2もたった今見た。千年伯爵に弄ばれるその姿は、どこまでも哀しい。
だが、彼は知っている。
悲劇、殺戮、戦いの果て。死力を尽くす戦闘で破壊された
だから、決して怯むまい。これから接敵するであろう死徒の姿がこの左眼にどう映ろうとも、揺らぐことなく自らに課した道を歩もう。
そう決めた、筈だったのに――、
『ソレ』を目にした瞬間に、全部ぶち壊された。
「? これは一体――あぁ、その眼か」
こん、な。
こんな、こんなものが。
元は、ヒトだっただなんて――、
「認められる訳、ないだろう……!!」
「あんまりジロジロと見るもんじゃあない、気色悪い。……殺すか」
絶対に、
鬼気迫る形相で睨みつけるアレンに、人類の敵はつまらなさそうに鼻を鳴らして。
一蹴。
死徒が足場にしていた廃屋が、たった一撃で跡形もなく爆砕される。散弾銃さながらの勢いで飛来した瓦礫は、死徒を相手にするにはあまりにも無防備であった少年を容赦なく襲った。
「――ッ、ぐぅ!?」
受け止めた、弾いた、砕いた、防いだ――しかし足りなかった。
処し切れなかった弾幕が細身の少年に甚大な衝撃を叩き込み、飛び散った鮮血が地面に滴り落ちる。身体をくの字に折るアレンは、再度ばら撒かれた石材の破片に身を打たれ為す術なく地に転がった。
「ゕ、あ゛……!!」
耳を塞ぎたくなる轟音。
傷だらけになった白銀の巨腕を片足で踏み躙る青年は、靴の踵を焼き焦がす対アクマ武器を一瞥しては忌々しげに舌打ちを放つ。
「硬……なんだこれ、人間の振り回して良いような代物じゃないだろう。これは藪をつついて蛇を出したか……?」
「ぐ……」
割れた額から流れる血が目に入ったのか、朧げな視界は紅く染まっていた。
それでも、この窮地を打開するに足る一手を見出さんと、目を逸らすことなく眼前の死を見据えていたアレンは――見た。
雲の隙間から零れ落ちた月明かりに照らされる、一棟の廃屋。そこから飛び降りては音もなく着地した神父が、いっそ軽やかにさえ見える足取りで自分たちの、死徒のもとに歩み寄っていくのを。
「――取り敢えず。君は、そこに伏せていたまえ」
「あ?」
背後から飛んだ忠告に、青年が振り向くと。
その顔面に、深々と拳が突き刺さった。
鼻が砕け、眼球が潰れ、顔面が冗談のように陥没する。錐揉みしながら数十メートル以上も吹き飛ばされ、何度も地面をバウンドして転がった死徒は数度痙攣すると、やがて首をあらぬ方向に折り曲げて動かなくなった。
「言っただろう。君たちでは死徒には敵わないと」
懐から取り出した黒鍵を油断なく構えつつ、神父は厳かに告げる。
「対アクマ武器や、その恩恵を受ける君たちの問題だけではない。住む場所が違うと言っている。そも、死徒というのは自然の摂理を無視した枠組みに在る人類史の否定者――一定の位階を超えた存在を撃滅するつもりならば、それこそイノセンスの力を十全に使いこなす元帥たちや、高位の魔眼や獣化といった特異点……そして聖別化された武装を持ちでもしなければ手も足も出まい。あぁ、千年伯爵ぐらいの実力を持つ魔術師であれば、それこそ一〇〇単位一〇〇〇単位の死徒であろうとも滅ぼせるのであろうがね」
ミシミシと、軋む。
「あの、綺礼さん?」
「故に、適材適所といこう。この人外の相手は私が務める、君は神田と合流しイノセンスを回収したまえ」
「いや、その。変な音がするんですけれど」
ミシミシと、軋む。
アレンの指摘を受けて周囲を見回し、不可解な異音の正体を悟った綺礼は。
「おっと、足が滑った」
「!?」
震脚。死徒の攻撃から未だに立ち直れないでいたアレンの身体が飛び跳ねる程の衝撃がマテールの一角を襲い、アクマや死徒といった怪物の暴れる中で限界を迎えていた古都の地盤に蜘蛛の巣状の罅割れが走る。
メリメリメリメリ――どうしようもなく不安を掻き立てさせられる音響に真っ青になり、下手人の男のように咄嗟に飛び退くこともできずに口をぱくぱくと開閉させる少年から神父は顔色も変えずに背を向ける。ゆらりと、顔面を修復して起き上がった死徒と向かい合った。
「手応えからして、地下にはそれなりに広大な空間が広がっているようだ。イノセンスの回収は任せるぞ。――武運を祈る」
「え゛、ちょ待――うわあああああああああああああ!!??」
地盤が崩れ落ちていくのに伴い、少年もまた地下に落下して逝った。
「……うわぁ」
「どうしたのかね、その顔は。この場に居合わせるには難のある者を最短最速で離脱させただけなのだがね」
「あぁ、うん。屑だね、君」
薄ら笑いさえ見せる代行者に、死徒は路上にぶちまけられた反吐でも見たような表情を浮かべ――大きく踏み込んで接敵。綺礼もまた、黒鍵を投擲し迎撃した。
「ララ」
「……グゾル?」
共に過ごした八〇年の中で、すっかり聞きなれた嗄れ声。傍らの翁を見上げる少女は、人目を気にするようにエクソシストを見遣る。幸いと言うべきか、自分達を地下住居まで運んできた鋭い目つきの特徴的な青年は、不思議な形状の
「……どうかしたの? 身体が痛む?」
「いや、私は大丈夫だ。……それよりも、ララが凄く――辛そうだったから」
「ッ」
――私は、人形だよ?
普段なら、そう言い返していた筈なのに。言い返せた筈なのに。己に在るかも解らない
「……そう言う、グゾルだって。私より、ずっと――」
「……私も、詳しいことを把握している訳ではないがな。いずれ、こうなる気はしていたさ。彼の抱え込んでいたものは、それほど大きなものだったということだろう」
自虐気味にぼやいたグゾルの言葉に、ララは哀しげに目を伏せる。
思い返すのは、五〇年以上前、二人だけで過ごしていた頃どこからともなく現れた青年。黄昏た印象を与えさせる、赤い髪の来訪者。
人類の敵を騙った彼の名を、そっと呟く。
「シーバー……一体、どうしちゃったのかな」