~002~
「嫌よ」
再度戦場ヶ原は繰り返す。
「残念だけど、あなたのお兄さんの所有権を譲る気も、手放す気も毛頭ないわ」
火憐の失礼極まりない発言を受けて、戦場ヶ原は毅然と言い放った。
ありのままの事実を雄弁と語るような、確固たる意志を感じさせる力強い声音だ。
「へーんだ。兄ちゃんのこと大して知りもしないのに、彼女だなんて、笑っちゃうね。ぜったいあたしの方が、兄ちゃんのこと知り尽くしてるもんねーだ!」
それに負けじと、挑発染みた語調で火憐が言い返す。
って、僕の個人情報を多く知っていた所で、交際関係には微塵も関係ないような……なぜか自慢げに勝ち誇っているし。
「そうね。きっと火憐さんは私の知らない阿良々木くんのことをいろいろと知っているのでしょうね。でも、だからこそ、これからもっとお互いのことを知り合っていく為にお付き合いするのよ」
まぁその挑発もあっさりといなされてしまっているが。
戦場ヶ原の余裕な態度に火憐は悔しそうに歯噛みする。その腹いせなのだろうか――何を血迷ったのか兄の社会的立場をまったく考慮しない発言を口にするのだった。
「兄ちゃんに歯磨きしてもらったこともないくせに!」
「!?」
僕は声にならない声をあげる。心中では絶叫だ!
おい! 待て火憐ちゃん!! 何を言っているっ!? 何を言っていらっしゃるっ!?
「はい? はぁ……ええと……それはないけれど…………面倒見のいいお兄さんなら、普通にやってそうなものよね……?」
自問自答するように怪訝な顔で戦場ヶ原。
一瞬肝を冷やしたが、どうやら幼少期における家族間交流の一場面として認識してくれているらしい。
そりゃそうだ。正常な判断ができる人間だからこそ、火憐の言わんとする意図を見出すのは不可能なのだ。
戦場ヶ原としても、どう反応すればいいものかと、答えあぐねるしかない。ともあれ、話を穿り返されずに済んだ。首の皮一枚繋がったってところか。
テーブルに配膳されていた――というか僕が事前に用意しておいた玉露の入った湯飲みを手に取り、極度の緊張により渇きった喉を潤し、一呼吸置く。
まったく、危ないところだった。
「あ、戦場ヶ原さん戦場ヶ原さん。それ、ついこの間――正確には8月14日早朝の話です。子供の頃にあった心温まるエピソードとかじゃないんですよ! 私、この目で見ました!」
茶を噴出した。
繋がった皮が、懇切丁寧に切り離された!
燻ってはいたものの、放って置けば鎮火したであろう火種に、ガソリンを放り込むような蛮行である。
戦場ヶ原に対し好意的な態度だからつい失念していたが、阿良々木月火はファイヤーシスターズの一員であり、片割れ――詰まる所、火憐の味方だ。
こいつらは二人合わせてファイヤーシスターズ。月火が火憐に加勢するのが当たり前のことだった。
いや、ただ単に面白がって焚き付けているだけかもしれないが。
そして気が気でない、戦場ヶ原の反応は――
「へぇそうなの」
おや? 以外に淡白な反応だ。
「あれれ、軽蔑しないんですか? 面白くな~い」
月火の目論見がはっきりとした! やはり僕を貶める為に、楽しんでいただけの愉快犯だ。
「軽蔑なんてしないわよ」
そんな悪逆非道な妹の言葉を受けて、戦場ヶ原は言う。
みろ。これが僕の更生した彼女――戦場ヶ原ひたぎの懐の深さと言うものだ。
「金髪金眼の幼女とお風呂に入ったり、ツインテイルの少女と戯れることを趣味としている人間が今更妹の歯を磨いたところで、私としても『はい、そうですか』としか言えないわね。さして驚くべきことでもないわ」
羽川により幼女忍、少女八九寺の情報もしっかりとリークされていた!
「ん? 金髪金眼の幼女とお風呂って……? たしか……この間お風呂でお兄ちゃんが……あれ?」
「ん? そういやツインテイルの小学生を襲撃する男子高校生が居るって噂があるけど……あれ?」
そして、月火と火憐の抹消されるべき記憶が掘り起こされかかっている! 予期せぬところに飛び火しているじゃねーか!
「阿良々木くんはね。変態さんなのよ。そんなの彼女なら把握しているに決まっているじゃない。それに変態と言えば私の傍にはもう一人変態の後輩がいるのだし、阿良々木くんなんて物の数ではないわ。例え他の女の子といちゃいちゃしようとも、最終的に私の元に返ってきてくれるなら、私は構わない。だってこれほどのいい男なのだから、好かれてしまうのは、当然のことだわ」
ぴしりとファイヤーシスターズの前で言ってのける。
僕の事を過大評価しすぎなきらいがあるのはさて置いて、簡単に戦場ヶ原が言わんとすることを纏めると、『元から変態なのだから気にしたら負けでしょ?』となる。
彼女の寛容さに感謝するべき場面なのだろうが、なんだか釈然としない気分だ。だってこれ、『寛容』というより、『諦観』といった感じだしな……
後日、『幼女』と『少女』の件について、姉妹二人掛りで厳しい追及を受けることになったが、それはまた別の話としておくとして、更に戦場ヶ原は言葉を続ける。
「ねぇ火憐さん。聞いた話なのだけど、貴女にもお付き合いしている男の子がいるのでしょう?」
と、そんな風に切り出すのだった。
「だったら此処はお兄さんの幸せを、晴れては私の幸せを祝ってくれてもいいんじゃないかしら?」
「じゃあ、別れる。だから戦場ヶ原さんも別れて」
売り言葉に買い言葉。火憐としても、つい口にしてしまったのだろうけど、その発言に戦場ヶ原の目付が目に見えて鋭くなる。
「火憐さん、そんな気持ちで付き合っているのなら、その男の子とは、本当に別れてしまった方がいいわね。その人に対して不誠実だし失礼よ。あと当然、火憐さんが別れたからといって、私が阿良々木くんと別れる理由にはなりはしない」
更生してからは久しく聞く事のなかった、冷淡な戦場ヶ原の声。『別れろ』と言われた事より、火憐が『別れる』と言った事に対して憤りを感じたみたいだ。
「っん…………ごめんなさい。別れると言った事に関しては、取り消します」
出掛かった言葉を押し止め、非を認める火憐。
感情的なって喰って掛かりかねない場面ではあったが、自らの発言に思うところがあったのだろう。
ただ失言なのを重々承知で兄の本心を語れば、別れてくれて一向に構わないんだけどなー。
って火憐ちゃんに彼氏なんていたっけか? 僕は全然知らないけど。妹に彼氏? なにそれ? おいしいの?
「もう一度宣言しておきましょう。私の意志で阿良々木くんと別れるということは、ない。ありえない。もし仮に、阿良々木くんから別れたいと言うのなら、その時、私は命を絶つ、それほどの覚悟で阿良々木くんに恋しているの。人からの指図で揺らぐような思いではないのよ」
「ぐぬぬ……」
明確な意志を持って戦場ヶ原は断言する。揺るぎのない真っ直ぐな視線に射抜かれ、完全に火憐の発言は封殺された。
なんというか、火憐が一人突っかかっていって、いいようにあしらわれているだけだよな、これって。火憐が愚直な闘牛ならば、戦場ヶ原はそれを翻弄して弄ぶ歴戦の闘牛士のようだ。
そもそも戦場ヶ原に論舌合戦で勝てるはずがないのだ。
基本というか、至極当たり前の話、口論とは頭がいい人間が勝つのが必定であって、馬鹿に弁護士は務まらないのは道理。
もし羽川が弁護士になんて役職についてしまったら、どんな不利な状況でも勝訴することだろう。
いや羽川だからこそ、どの裁判官よりも公平な立場で判断し、本当に悪事を働いた被告人が相手だったとしたら、自首を促すのかもしれない。完全無欠の弁護士になるか、不偏不党の審判者になるか、難しいところだ。
なんて傍観者気分で物思いに耽る僕だったのだが――
「なら……兄ちゃん! 戦場ヶ原さんに別れるって言って。兄ちゃんから言って。今すぐ言って!」
闘牛がこっちに突っ込んできた!
戦場ヶ原をどうこうするのは難しいと判断した結果なんだろうけど――だけど、僕の気持ちだって同じだ。
「それは無理だ。というか僕も嫌だ」
即答する。幾ら火憐が駄々を捏ねようとこればっかりは譲れるはずがない。
それにあいつ、僕が別れるといったら命を絶つって宣言したんだぞ! いや、そんなの関係なしに、別れる気はないんだけどさ。
そんな訳で――言葉の応酬で戦場ヶ原に勝てるはずもなく、頼みの綱としていた僕にも断られ、為す術をなくした火憐だったのだけど…………。
ここで大人しく引き下がってくれればよかったのだが、そう易々と退く火憐ちゃんではなかった。
「だったら…………兄ちゃんが欲しいのなら、このあたしを倒してからだ! 兄ちゃんを賭けてあたしと勝負しろっ!!」
口で語って駄目なら、拳で語る。困った事に、それが阿良々木火憐の有する基本理念なのだった。