前略
あなたと別れ、早十年の時が経ちました。年に一度、あなたとはあの酒場で再会しておりますが、やはり友と離れるのは辛いものがあります。ですが、それはあなたにとっても同じことでしょう。一刻も早い再会を望むこの心、あの約束に誓い、押し殺すと心に決めております。
さて、先日のレポートはすでにお手元に届いたでしょうか。
非常に興味深いものです。これにより、私自身の立場は少々悪くなりましたが、それに見合った、いや、それ以上の成果を出せるものと自負しております。研究成果については、進行に合わせて追ってお送りしたいと思います。
ところで、御子息の様子はいかがでしょうか。今年で十三になると存じます。以前、お顔を拝見いたしましたが、とても聡明で心優しい青年へと成長なさるでしょう。嘗て、あなたが私を助けて下さったように。やはり、血は争えないものだと理解させられます。
そういえば、先日遺跡調査の副産物として、彼の暗黒大陸に『魔龍』なる存在が居たと分かりました。強大な力です。諸刃の剣やもしれませんが、もう少し調査を進めてみようと思います。これについても、後々報告書をお送りいたします。
戦争は激化の一途を辿っております。この先、あなたのお顔を拝見することは難しくなるでしょう。前述した通り、悲願の成就まであなたにお会いできないことは心苦しいものです。
この長き戦いも、我らの悲願の成就と同時に終わる事と願っております。
ではまた。
親愛なるギンへ
変わらぬあなたの親友、ダッツより。
***
ヒンター・ハルトマンは聡明な男である。
ハルトマンは
そして、ハルトマンはズィグナーに次いでヴォルフへの信頼が厚い男だ。逆にヴォルフからの信頼も厚い。故に、今回もヴォルフの留守を預かるという大役を仰せつかったのだ。
――今頃、ヴォルフ様たちは上陸なされた頃か。
自身の元に通された書類に目を通しつつ、ハルトマンは勇んで戦場に出向いた主君の事を思った。
ヴォルフは司令官であり、これからの
現場主義も大概にしてほしい。
そう、ハルトマンはズィグナーと共にため息を吐いたものだった。呆れ、疲れ、どうしようもない主君だと嘆息しつつ、しかしハルトマンもズィグナーも見捨てるつもりは毛頭なかった。
まだ若い、青い主君だ。だからこそ見捨てようとは到底思えない。その若い精神に大望を掲げ、己のためではなく、弱き敗戦国の民のために、茨の道を進むと誓った主君。邁進し、行き過ぎな思想を抱くかもしれないが、それでも支えていきたいと思えた。
――さて、次は……。
ハルトマンはいくつかの書類に思考を巡らせ続け、すっかり疲れ切ってしまった頭をリフレッシュさせるべく、一つ伸びをする。時刻は午前十時くらい。六時に起床し、こまごまとした朝の用事を片付けてすぐにこの作業に取り掛かっていた。少しは飲み物が欲しい所だ。
――そろそろか。紅茶が欲しいな。
書類ばかりに目を通し、すっかり凝り固まった思考をほぐしつつ、ハルトマンは立ち上がった。
ハルトマンは紅茶が好きだ。ほのかに甘く、しかし茶の豊かな香り漂う紅茶は絶品だと主張している。どこぞの青年は「紅茶はお茶の中でもひっでぇ味だ! コーヒーのがなんぼかマシだ!」などとのたうっているらしいが、ハルトマンには彼の思考こそ分からない。「コーヒーなんぞ、泥水だ!」が、ハルトマンの主張である。
――今日は、レモンティーがちょうどいい。レモンの酸味と甘みを含め、頭をさっぱりさせたいものだな。
椅子を引いて一旦執務室を去ろうとしたハルトマン。だが、ちらりと机に戻した視線は一枚の紙を捉えた。他のものと同じ、ヴォルフの指示待ちの報告書や意見書類である。だが、ハルトマンはそこに記された報告内容が気になって仕方なかった。なぜなら……。
――……そうか、今日だったな。いかんいかん、この案件だけは外せないな。
書類を掴み、きれいに折りたたむと胸ポケットにしまう。ハルトマンは他のメンバーと同じように元ガイロス帝国の士官だ。服装もその頃の制服を少し変更したようなものである。なんでも、
ハルトマンは執務室を出るとその足で外に出て、エリュシオンにあるカフェへと足を延ばした。仕事はまだまだ山積みなのだが、根を詰めて働いても仕事の効率は上がらない。むしろ、己の中で働くスパンを決め、適度な休息と仕事を分けた方がよほどいいのだ。のんびり畑仕事ならばいいかもしれないが、書類の内容を頭に叩き込み、それに最適な指示を下す仕事の上では集中力がものを言う。体の疲れではなく、頭の疲れを癒す必要が大きいのだ。
そして、脳の疲労を癒すにはすこし屋外を出歩くのがいいとハルトマンは感じていた。発展途上の都市部を吹き抜ける風は背後の山々から吹き降ろす風。湖の畔という立地から目の保養にもなる。しかし険しい山々の合間であり、利用できる土地も谷間に生まれた湖が平地のほとんどを沈めてしまっており、街づくりを進めていくには厳しい場所だ。土地柄から言うとガイロス帝国の首都ガイガロスやへリック共和国の首都ニューへリックシティと比べ、劣っていると言っていい。
元々人の住むには向かない土地柄であり、帝国からも共和国からも、ほとんど必要性の無いとみなされた土地なのだ。だからこそ、ヴォルフはこの土地の所有権を貰うことが出来たのだが。
ハルトマンが目を向けた先では、また一つ民家が建てられようとしていた。エリュシオンは少しずつ発展している。ゆくゆくは、エウロペを支える三大大国の一角を担う祖国の首都として……。
――いや、それは願望だ。そして、願望を叶えるために私はヴォルフ様の下で働くのだ。
自らの、そして同胞たちとの夢を胸に押し込み、ひとまずリフレッシュだと目的の店に向かう。店は、木造のログハウスで洒落たつくりであった。木の看板にカラフルな色使いで店名が書き込まれ、およそ大真面目な軍人であるハルトマンには似つかない店だった。
「いらっしゃいませぇ!」
元気のいい店員の声と「カランカラン!」という鈴の音がハルトマンを迎え入れてくれる。ハルトマンは迷うことなく、まっすぐカウンターに向かい腰を下ろすとメニュー表を手に取った。
メニュー表には暑くなってきた西エウロペの気候に嬉しいシャーベットなるものやアイスクリーム、それにフルーツやクリームを包み込んだ薄生地のデザート――パフェ――が写真で示されていた。嘗てこの星に降り立った異星人が住んでいた頃の店内の様子やメニューを再現したらしい。そして、格好は似合わないまでもハルトマンはこの店を痛く気に入っていた。
「レモンティーに、この特大パフェを頼む」
「はい!」
惑星Ziでは近年デザートブームなるものが起こっているらしい。都市部では洒落たパフェやアイスといったデザートを振舞う店が増え、若い女性を中心に人気を博している。戦争の後始末で物資もあまり多くないだろうに、戦争での質素な生活の反動か、こういった嗜好食品の需要が増大したのだ。
そして、ハルトマンもそれに嵌った一人である。
多くの人々が町の発展を目指して働く中、まだ人の少ないカフェに立ち寄り「午前十時のデザート」を食べるのが、密やかな楽しみなのだ。
程なくして、注文の品が届く。レモンティーは氷が浸され程よく冷えている。そしてこれでもかと果物――キウイ、イチゴ、バナナ、パパオ、etc……などなど、季節感を完全に無視した果物が詰め込まれたパフェがハルトマンの目の前に置かれ、思わず歓声を上げそうになる自身を抑制する。今日はいつも以上に疲れているのか、これは何かの前触れか、そう脳裏に嫌な予想を立てつつ――食欲を抑えきれなかった。
薄いパフェ生地を噛み千切り、包まれた果物の果汁が口いっぱいに広がる。甘さ控えめな果実の酸味が、一緒に包まれたクリームの豊潤な甘みをさらに引き立てた。そしてレモンティーのさっぱりとした味と僅かなお茶の苦み。
――至福だ!
思わずにやけ顔が零れ落ちてしまうのだが、気にする必要はなかった。ここに来たのは一人で、だ。時間の関係上、店内に他の客はおらず、ハルトマンは一人至福のひと時に浸ることが出来た。
「くすっ……」
だから、漏れてしまった吹き出し笑いが店内に響き渡った。
ハルトマンはその吹き出しに心臓を飛び跳ねさせる。きょろきょろと周りを見渡すと、パフェを持ってきた店員が口元を押えている。
髪の色は黒。以前見かけた時はもう少しぼさついていたように思う。飲食店での仕事だからか、彼のトレードマークのように感じたゴーグルはつけていない。代わりに、後ろの方を縛っていた。
見た目から、年は十代半ば。数週間前にヴォルフ達と共に旅だったバンと同い年だろうか。
「リュウジ……? お前、ここに居たのか」
「すみません、ハルトマンさん」
少年の名はリュウジ・アカイ。ガイガロス決戦から数ヶ月、
リュウジを回収したのはハルトマンが率いた部隊であり、ハルトマンも良く覚えていた。ヴォルフに背負われ、ボロボロで今にも死にそうだったリュウジの姿を。
プロイツェンが倒れて数ヶ月。新たな皇帝――ルドルフの即位を機にガイロス帝国はその有り方を大きく変えようとしていた。その過程には、長年の戦争の中で生まれ、根付いた忌むべき制度――奴隷制の撤廃が含まれた。この変革はルドルフ皇帝の人となりが大きく関わっていると言えよう。出自を問わず同じガイロスの民と認めるルドルフにとって、嘗ての敗戦国の民だろうと虐げることは許せなかった。
だが、時代は易々とそれを認めようとはしなかった。
隷属されていたのは大部分がゼネバス帝国の民。そして虐げてきたのはプロイツェンに組することで甘い汁を吸い続けてきたガイロスの要人たちによるものだった。この事実はプロイツェンも知るところだったのだが、彼はこれを無視していた。『必要な犠牲』と割り切っての事か、はたまたプロイツェンにはもはやそれも眼中になかったのか。
ともかく、プロイツェンは倒されたのだ。この事実はそれまでプロイツェンに組していた者たちの力を大きく削ぎ、それに押さえつけられていた民の反感を買うには十分過ぎた。
北エウロペ大陸とガイロス帝国の国境に位置する町――アレスタにて大きな暴動が発生したのだ。鎮圧のため、町の統治を任せられていた者による市民への攻撃も加わり、多くの犠牲を生む結果となった。
結果、両軍のゾイドが町でぶつかり合う結果となり、アレスタは壊滅。多数の死者を出しながらも暴動は治まった。この事実はガイロス帝国の落ち度もあるが、
しかし、この一件を機に各国の対応を待つより自分たちで自治都市――ひいては国家を創り出す方が、各国の対応よりも確実ではないかという意見が増大した。その影には、民を守り戦う
そして、この争いの中で生き残った市民であり奴隷だった少年、それがリュウジだ。
当時は精神が死を迎える直前――もはやまともな人生は歩めないだろうと思われていたが、天はリュウジに奇跡的な回復を施し、今はこのカフェで働いているのだと言う。
「あの日のことは、あまり覚えていないんです。ですが、僕を助けてくれたヴォルフ様、ハルトマンさんのことは鮮明に記憶しています」
「なに、君も我々が救済すべき民の一人なんだ。当然のことをしたまでだ」
リュウジの元気そうな表情を見て、ハルトマンは今日、ここに来てよかったと心の底から思う。聞けばリュウジは先日病棟を出れるようになったばかりで、しばらく施設で暮らす予定だったのを断り、嘆願してこのカフェでバイトを始めることにしたのだそうだ。
リュウジは
ここをバイト先に決めたのは、恩人であるハルトマンが常連だからなのだそうだが。
――彼も、我々の同士となるわけか……。
喜ばしいことだ。同じ夢を目指し、共に突き進むのはありがたくもあり、また心強い。
だが、リュウジはまだ子どもだ。いや、子供と言うには成長しているが、大人と言うにもまだ幼い、そんな不安定な年頃の少年だ。未来に希望を見いだせる少年を、このまま茨の道に連れ込んでよいものか。
ハルトマンに妻子はいない。へリックとガイロスの戦時中に、住んでいた町を共和国の攻撃で失い、その時に亡くしている。自身が暮らしていたわけでもない、自身の内に眠る血族の祖国を求めるの理由は、言いようのない怒りの捌け口を求めて。そう自覚している。
そして、そこに彼のような少年を巻き込みたくはなかった。彼らの未来は、自分たち大人が作るべきだから……。
「……あの、ハルトマンさん?」
「ん? ああ」
固まっていたらしく、リュウジが訝しげに覗き込んでいた。ハルトマンは少し冷たさが抜けたパフェを頬張る。室温に晒されていても、パフェは冷たく、美味しかった。
パフェを食べ、レモンティーの入ったコップを傾けながらハルトマンは時計に目線を動かす。予定の時刻まで、もう少しだった。
客が多くなる時間まではまだかなりある。店内が忙しくないからか、店長の計らいでリュウジはハルトマンと会話の華を咲かせていた。
「そう言えば、今日は長いんですね」
「君は、今日入ったばかりじゃないのか?」
「店長からハルトマンさんの居る時間を聞いていたんですよ。毎日、一分一秒も長居せず、ピッタリ帰るそうじゃないですか」
ハルトマンは自嘲気味に小さく笑った。ハルトマンはいつも十時過ぎに来店、紅茶とパフェを頼み、きっかり三十分休憩を取って帰るようにしていた。毎日のようにそれが続けば、店長が覚えるのは当然だろう。
だが、今日はそれを過ぎてもハルトマンは帰ろうとしなかった。もちろん、それ相応の理由がある。
「今日は人と待ち合わせて居てな。せっかくだから、ここを指定したんだ」
「知り合いですか?」
「いや、初めて会う。だが、ここがピッタリだと思ってな」
「そりゃ、俺へのあてつけか何かか、ヒンター・ハルトマン元大尉」
カランッ、と店のドアにくくりつけられた鈴が乱暴に鳴らされる。入店してきたのは男だ。銃口のような、危険で不愛想な印象を持たせる男。
ぎしぎしと床を踏みしめ、ハルトマンの横、リュウジとは反対側の席に男はドカッと座る。腕を頭の後ろで組み、脚は組んだまま机の上に乗せ、それと椅子の片側の脚で器用にバランスを取った。その乱暴な態度に、リュウジは少し「ムッ」となる。
黒く、両肩を突き出した服装。額にはオレンジ色のバンダナを巻いており、片目の上に眼帯のようなスコープを身に着けている。纏う雰囲気からは、まるで盗賊か山賊。まともな人間ではないような印象を感じさせた。
その、明らかに怪しい風貌の男に、ハルトマンはにこやかな笑顔で返した。
「よく来てくれたな。アーバイン・キャバリエーレ」
「……けっ、あのヤロウからの紹介だからな。で、報酬は弾むんだろ?」
「無論だ」
ハルトマンの口から発せられた言葉に、アーバインは不敵な笑みを返すのだった。
アーバインが頼んだアイスコーヒーとハルトマンのおかわりであるレモンティーが届くと、ハルトマンは目を伏せてリュウジを下がらせた。ここからは仕事の話だ。
「何で待ち合わせの場所がこんな洒落たとこなんだ。合わねーだろうが」
「君と私の橋渡しをしてくれた彼が、君と話すならここがピッタリだと。ああ、もう少し客が増えた時間帯がよかったかい?」
「……用件を言え、用件」
アーバインはアイスコーヒーの横に置かれたミルクと砂糖には目もくれず、コップを傾ける。そして、軽く目を見張った。静かにコップを戻すアーバインに、ハルトマンは目を細めた。
「なかなかの味だろう? ヴォルフ様は、食の待遇の改善を優先するお方だ」
「……『腹が減っては戦は出来ぬ』なんて諺もあるからな。それがうまければなおよし、か」
納得したアーバインは再びコップを持ち上げ、コーヒーを飲む。それに合わせ、ハルトマンもレモンティーを口に含んだ。
「良い豆使ってるな。こいつは……マンデリンか。惑星Ziに移住した俺たちのご先祖様の故郷の星で作られてたっていう……それも、ピレムデン諸島産だな。栽培面積がそんなにでかくねぇから出荷も少ない貴重品だ。よく仕入れられたな」
「以前、マダガスカル島に出向いてな。その帰りに立ち寄った際、融通を利かせられるよう店主に頼まれていたのだ。交渉には苦労した」
「こいつぁ、ブレンドしてもうまいが単一でも逸品だ。コクのある苦み、悪くねぇ。良い店だな。こいつは何杯でもイケるぜ」
「ほぅ、そうなのか」
アーバインの意外なコーヒー知識にハルトマンは多少の関心を覚え――そして僅かに表情を歪ませる。
一息入れ、ハルトマンは懐にしまっておいた報告書を取りだし、アーバインに手渡した。アーバインは無言のままそれを受け取り、じっと睨みつけた。表情は全く変わらないが、その眼は真剣そのものだった。
「……なるほどな。話は分かった」
「君への依頼は、それから察せるかな。急を要することだ。だが、帝国は軍を動かすことはできない。帝国内部の事柄で、共和国に協力を求める案件でもない。我々が動こうにも、主戦力のほとんどをニクスに派遣したのちに発覚したことだ。適任者も、ニクスに行ってしまってね」
「ずいぶんデカい案件だな。こいつぁ、一介の賞金稼ぎごときでどうにかできる話じゃねーだろうぜ。つか、探偵の仕事だろーが、これ」
「だが、君なら達成できるだろう?」
「……へっ、挑戦ってことか。面白ぇ」
「君は証拠を掴んでくれればいい。さっきも言ったように、帝国軍が動くことは出来ないんだ。奴の手の内だからね」
「……まぁ、ここに書かれていることが本当なら、証拠さえつかめば軍が始末を付けられる。後はアンタらと帝国軍にお任せ。――いいだろう、引き受ける」
アーバインは紙を元のように折りたたむと懐にしまいこんだ。残っていたコーヒーを飲み干す。そして、気に入ったのかもう一杯追加を注文した。すると、ハルトマンの耳がピクリと動いた。
「君は、コーヒーが好きなのかい?」
「まぁな、ブラック派だ」
「……よく、そんな泥水を口にできるものだ」
苦言を吐き捨てるように、ハルトマンは言い放つ。最初にアーバインがアイスコーヒーを頼んだ時もそうだったが、ハルトマンはコーヒーという言葉を聞くたびに何か堪えるような反応を見せていた。
「泥水?」
そして、アーバインもその言葉に目ざとく反応する。店の奥で異変を感じたリュウジがこっそりのぞき込み、奥で店長が「あーあ」とため息を吐いた。
「そうだろう? コーヒーなど泥水だ。およそ人が口にしていいものではない。違うか?」
ハルトマンは紅茶の愛好家で、コーヒーを藪蛇の如く嫌っている。実はハルトマンが人の居ない時間に入店するのも、他の客がコーヒーを頼んだことに対し鋭く反応し、コーヒーを罵倒したことがあったからだ。一度は入店拒否を言いつけられたのを、なんとかこの時間だけ入ることを許されている。
ハルトマンは悪い意味で常連客だった。
そのハルトマンのコーヒーへの責苦が再び始まる。だが、この日はそれですまなかった。
「お前、何言ってんだ? 言わせてもらうが、紅茶だって腐った葉っぱを煮詰めて作ってんだろ? 要するに、腐った生ごみが原料じゃねぇか」
アーバインが、反撃に躍り出たのだ。
「君は知らないのか? 紅茶の原料の茶葉は発酵と言う過程を経ているのだ。発酵とは、微生物の働きで食物の栄養素の増加など、人体にとって良い影響を及ぼす者も多い。チーズや納豆なんかも、この過程を経ているのだぞ」
「はっ、御説明どうも。んなこと俺だって知ってる。だが、結局腐らせたことに代わりはねーだろ」
「ほう、そういうが、コーヒーはどうなんだ? 生では食えたものじゃない。焙煎しなければ無用の長物だろう? だが茶葉は違う。発酵の度合いによって出来る茶の種類も違い、摘みたても緑茶として味わえる」
「焙煎は加熱処理だ。人類がこの世に生まれ出でて最初に覚えた原始的調理法――加熱調理だ。腐らせる、食えねぇものを作る調理法とはちげーんだよ」
話しの論点がずれている。だが、アーバインもハルトマンも止めようとしなかった。店内を覗き込んだ新たな客が、店内の不穏な空気を感じ取って足早に去って行く。それでも止まらない二人はどんどんヒートアップしていく。
「お前も紅茶を飲んでみろ! それで分かる!」
「誰が腐った液体を飲みたがる! テメェこそコーヒーを味わってみやがれ!」
「泥水など私の口に合うものか!」
そして、二人は同時に店の奥に眼光を走らせた。そこにはポカンとその様子を見やるリュウジ。一瞬遅れて気づき、あたふたと奥へと逃げようとするが、もう遅い。
「おい! そこの小僧!」
「リュウジ!」
二人の怒鳴り声にびくりと身体を跳ねさせ、リュウジは恐る恐る振り返った。そこには血走った眼光でリュウジを見据えるアーバインとハルトマンの姿。依頼が云々はどこかへ吹き飛んでしまったのかと思うほどの豹変ぶりだ。
「コーヒーがうまいに決まってるよなぁ!」
「紅茶こそ至高の飲み物だ! そうだろ!」
カウンターを乗り越える勢いの二人に、リュウジは恐縮して身動きが出来ない。どちらを答えても地獄が訪れる予感しかない。それに唇がうまく動かないのだ。
「え、えっとぉ……お、おいしいのは……」
「「うまいのは!?」」
「ミルクに決まってるじゃない!」
カランカランッ、と本日三度目の威勢のいい鈴の音が店内に鳴り響いた。アーバインとハルトマンは素早くその方向に視線を向け、ピタリと止まった。
ハルトマンは我を取り戻したように平静な状態に、アーバインはその人物がなぜここに居るのか皆目見当がつかず目をぱちくりさせる。
そんな二人を、だらしない男を見るような目つきで見下し、彼はカウンターに歩み寄って行く。どこかくねくねとした歩き方が、彼の特徴でもあった。
濃い抹茶がかった髪に両頬の刺青、そしてオネェ言葉。
「ってわけでボウヤ、ミルクをグラスいっぱいに、お・ね・が・い」
今回のスティンガー再登場を予測できた方はいるでしょうか?
あ、ちなみに、私は小さいころに麦茶と思って紅茶を飲み、あまりの味の違いに不味いと感じたため、紅茶は苦手意識があります。コーヒー大好きです。塩コーヒーも偶には悪くないですよ、偶には。