夕刻。
リィに案内されるままにレイヴンがやってきたのは一件の大衆食堂であった。昼は喫茶店としておしゃれな印象を与える店だが、夜になると仕事を終えた街の住人や、
「はいよ、お待ちどうさん」
リイに指定された席に座って待っていると、ふわりといい匂いが鼻先を漂った。
テーブルの上に置かれたのはとろりとした赤いソースを絡ませたパスタ料理。ピーマンにベーコン、タマネギ、それにゆで卵がトッピングされ、トマトの強い酸味が食欲をそそる。先の大戦でエウロペの各地で物資は不足しているが、ここエリュシオンは比較的被害が少なかったこともあって偶の贅沢を甘受できるくらいの食料品は残っている。しかしながら日ごろ質素で腹持ちのよい料理ばかり――もちろん味に文句はつけないが――の
ただ、レイヴンが思考を止めたのはそれだけが原因ではない。
「リイ、だよな?」
「んだよ。文句あっか」
料理を運んできたのは、リィだった。膝を負おうか覆わないか程度の長さのフリル付きの黒いスカートに、白いエプロン。頭に白髪と対をなす黒いカチューシャ。いわゆる――普段のリィを知るなら絶対に似合わないと感じるだろう――メイド服と呼ばれるものだ。
「しゃ、しゃーねーだろ! ここの店長が制服だっつって渡されたのがこれなんだから。あー分かってる。分かってるさ! どーせ私にこれが似合わねぇっつーんだろ! 私だって分かってるさ! 私の性格とこんなひらひらしたモンはこれっぽっちも似合わねぇ! リーゼの方がまだマシだろうさ! レイヴンもそう思ってんだろ、いいさ、思う存分笑いやがれ!」
ぼうっと眺めていると、リイは火のついたように顔を赤くして矢継ぎ早に自虐し始める。周囲の雑踏に負けぬ――むしろ店内で一番の大声で騒ぎ立てる。せっかく目立たない端っこの席をとったというのに、これではまるで意味がない。
「おいリイ、落ち着け」
「これが落ち着いて――」
「意外に思っただけだ。新鮮な感じだ」
「す、ストレートに言うじゃねぇか」
「その姿も、なかなか様になってるぞ」
穏やかな声で、諭すようにレイヴンは告げる。すると、リイは急におとなしくなった。
「最初からすぐそう言えよな」
蚊が鳴くような小声でぼそりと呟く。自分の肩越しに周囲に視線をやっているところから、自分がいかに騒いだかに思い至ったらしい。
「それで、これは一体どういうことだ?」
「い、いいからまずは食ってみろ! そんで感想を言え! うまいか! おいしいか!」
それは不味いと言ってほしいのか? そんな言葉がのどから飛び出そうなのをレイヴンは意識して抑えた。さっきまで爆発していた彼女だ。ほんの些細な刺激でもまた暴発してしまいかねない。そうすればまた自分たちが注目の的。それだけは避けたい。
フォークをとり、パスタにさして巻き付ける。確かこうやって食べるのだったなと苦いのか甘いのかよく分からない――プロイツェンに教えられた作法の――記憶を掘り返す。
口に入れると、レイヴンは思わず目を向いた。レイヴンの人生における食という経験は、決して裕福なものではない。むしろ逆だ。両親と共に暮らしていた時は、両親ともに研究で忙しく、夕食も簡素なものになりがちだった。プロイツェンに拾われてからは味よりも栄養を重視した軍食堂のものであり、一度か二度ほどプロイツェンに連れられて会食の席に立った経験がある程度。ローレンジたちとの旅やその後の
しかしこのパスタはどうだろう。トマトソースの酸味と味の調整に入れられただろう僅かな胡椒が食欲を掻き立て、素材の味は全く損なわない。それでいてプロイツェンの下で食べた会食にありそうな贅沢な感覚もあれば、偶に作ってくれた母の手料理のような温かさ。
とてもではないがレイヴンの持ちうる言葉では説明しきれない。端的に言ってしまえば――
「うまい」
「そっか!」
ぱっと日陰から飛び出したときに浴びせられる太陽光のように、リィが快活な笑みを見せた。
リイの表情を窺ったのは一瞬。その後はすぐに、取りつかれたようにフォークを進め、あっという間に完食してしまう。
ほっと一息つくと、合わせたようにリイが食後のコーヒーを持ってきてくれた。
「すげぇ食いっぷりだな」
「久しぶりにうまいものを食ったからな」
「おいおい、久しぶりじゃあねぇだろ」
素直に言ったつもりだが、リイはなぜかニヤニヤと意地悪く笑っている。疑問符を張り付けた表情を向けると、リィは「しょうがない」とばかりに口を開いた。
「リーゼの作った菓子だって、作り始めた時よりはずっと良くなったんだろ?」
虚を突かれたような想いでレイヴンはリイを見る。
「甘いもんだって嫌いって訳じゃねーんだろ?」
「まぁ、な……」
リィの言うとおりだ。リーゼの作ったお菓子は、当初こそ甘すぎて「うまい」という自信のないものだったが、その後の特訓(?)のおかげか、見違えるようによくなった。それでも加減をさせないと以前のように虫歯の友になりかねないので苦言を言い続けてきたが。
「リーゼのことを想って、ってのは分かる。けど、人間褒めがねぇとやる気なんて起きねぇし、自信もなくす。きちんとうまいって言ってやれよ。さっきみたいにさ」
「それは……」
二人そろって、人付き合いが下手だな。
そう笑っているリィに、レイヴンは何とも言えない気分になった。
ふと、自分の足元に視線を落とす。そこに置いた土産は、果たして彼女との溝を埋める力になってくれるのだろうか……。
「んじゃ、もう少しのんびりしてくれよな。私はバイトがあるから」
「バイト?」
「ああ、週に一回だけどさ、ここで働かせてもらってんだ。あ、今度この服借りてきてやるよ。リーゼに着せてみたいだろ?」
「な……馬鹿を言うな。それよりも、仕事なんだろう。早くいけ。繁盛しているようだぞ」
リイから目線を逸らし、あっち行けと手で追い払う仕草をする。
すると彼女はくるっとその場を回って見せる。遠心力で持ち上がったスカートのすそをつまみ、普段の彼女の性格を知る者には似合わない――されど不思議なほど堂に入った――上品なお辞儀をしてみせた。
「ではお客様、ごゆっくり」
その時、店内から感じた刺すような視線は、きっとレイヴンの勘違いなどではない。
おそらくは、彼女だろう。今日一日、いてもたってもいられず見張ってたというところか。
大方、店内の誰かに意識を乗せて見張っているのだ。
やれやれ、帰ったらお小言だな。という言葉を心中で呟き、どうしたものかと思考を巡らせる。
と、その時だ。
「やってらんねぇぜ!」
ひときわ響き渡るだみ声。それと同時に叩きつけられたジョッキの衝撃。一瞬静まり返る店内だが、すぐに元の喧騒を取り戻す。
ここは酒場だ。日ごろの愚痴を吐き出すものがいたとして、何らおかしくはない。
だから、それだけなら、レイヴンも気にすることはなかっただろう。
「あの連中がいる限り、うちはいつまでたっても独立できねぇ! 足引っ張るだけの厄介者なんざとっとと切り捨てりゃいいじゃねぇか」
「まったくだ。あの方の知り合いだとか噂だが、つけあがった賊上がりの所為でいつまでたっても俺たちは軽んじられる」
何やら訳のありそうな言葉を吐き捨てる男たち。
気になってそちらに視線をやると、レイヴンはすぐに彼らの正体に気づいた。いや、そもそも気づかない方がおかしい。酒場の中で、彼らだけは妙に浮いている。
椅子に掛けられた軍服の背広。折れ目の目立たない、真新しい新品の卸したて。一ヶ月も経っていないだろう。
そして、レイヴンは彼らが何に苛立っているかかも見当がついた。
「
やはりな。
レイヴンは上げかけた腰を椅子に戻し、小さくため息を吐いた。
そして、そんな歪獣黒賊《ブラックキマイラ》を
疑問に思うものは少なかった。それが当たり前であった。
だがそれは、これまでの
自治都市を持ち、一国家として成り立とうとしている
当然、これまで
だからだろう、嘗てならば誰もが知っていた
国として成り立とうとしている
なのにヴォルフは今も
考えてみれば当然のことだった。
けれど、それは分かっていたことだ。
過敏に反応することじゃない。
自分たちがしてきたことのツケが回ってきただけ。
だが、
「おっと失礼お客様」
そうできない少女がいた。
リィは――わざとだろう――その客の後ろを通ったところで足を引っかけ、盆の上の水を彼らの上に零す。
「なにすんだテメェ!」
「はん、なかなか聞き捨てならねぇことを聞いたもんでね。ちょっとばかし腹が立った」
「なに?」
「お前、まさか
立ち上がった二人が凄んで見せた。背は高く、日ごろ
「ああ、そうだ。うちの悪口聞いたから黙ってられず物申したんだ」
しかし、対するリィは全く臆することがない。彼女の悪い癖だ。相手が喧嘩腰だと、相乗効果のように彼女自身も目つきが悪くなっていく。
「ヴォルフ様に取り入って甘い汁吸おうとしてる愚連隊連中のガキが、言うじゃねぇか。泣きわめくまで相手してほしいか、あ?」
最初に愚痴を吐いた男はすでにかなり酔っているらしい。座った胡乱な目で、ねめつけるようにリィを見下ろす。敵意剥き出しの不良の様な少女と格好のギャップもあってかそういったよこしまな思惑すら入り込んでいるらしい。
「おいおい、落ち着けよ。こんなガキの売り言葉買ってなんになるんだ」
ただもう一人の方はそこまで状況が見えていないわけではないらしい。騒ぎになるのは不味いと相棒をなだめにかかった。
「ガキになめられたままかよ!」
「そのガキに手出したとあったら、それこそ問題だ。気にすんなよ。この娘だって分かってないだけさ」
「ああ、そうか。そうだな。『四天王の一人』なんて言われてるから調子に乗ってるだけさ。賊上がりのクズなんて――」
レイヴンは「あ――」と息を飲んだ。
彼らが
リィだって、そう言われてしまうのは仕方ないと分かっている。
つい物申してしまったが、手足が出てないだけ自制は効いているのだ。
けれど、
世間では厄介者、人として扱われることもない前科持ちの彼らを救ってくれたのは、『彼』なのだ。
その『彼』が馬鹿にされたとあっては、黙っていられる奴は
「テメェら!」
リイの顔が一気に紅潮する。敬愛する『彼』をコケにされた怒りは、彼女の意識から自制の二文字を吹き飛ばす。盆を投げ捨て、拳を握り締める。
雑踏の中で始まった騒動に、客の視線が注目する。誰もが固唾を飲んで見守った。街の統治者である
ただ一人を除いて。
「なにす――ってレイ……いやいやジョイス、じゃなくて師匠?」
突き出される寸前の拳をいつの間にか接近していたレイヴンが抑える。リイは彼の名を呼びかけ――と呼び方を迷った末に初めて呼ぶそれで不安げに言った。
「なんだテメェ?」
「こいつの連れだ。すまなかった」
レイヴンは真っ向から二人の顔を見据える。何気ない、揺るぎのない視線で射抜く。それだけで、男たちは気勢を削がれていた。
周囲の注目が集まる中、レイヴンは小さく息を吐き背を向ける。「帰るぞ」とリイに声をかけて、無理矢理店の出入り口を目指す。リイは不服そうに唇を尖らせていたが、何か言うでもなくレイヴンに従った。
しかし、
「レイヴン?」
酔いの軽い男が探るように呟く。
その瞬間、店内は一瞬にして凛と静まり返った。次いで、囁くように人々の憶測が飛び交い始める。
レイヴン? ガイロスの? ジェノブレイカーに乗っていた? 死んだはずじゃ……?
「
誰かが呟いたそれが、次々に伝播する。
「まさか、ガイロスとヘリックが建国を渋ってるってのは本当なのか……?」
たどり着いた結論は、瞬く間に店内の人々の思考を掌握する。
レイヴンは胸中で舌打ちする。
ローレンジはレイヴンとリーゼの外出を許可するタイミングを慎重に計っていた。二人は先の【D騒乱】最大の戦犯者だ。彼らを
レイヴンとリイを包む視線が、明確に変わった。疑惑のそれから、仇を見るようなそれに。
「お、お前が……」
男の片方が怯んだ。レイヴンは知らぬことであったが、彼はD騒乱の最中に
彼らは気圧され、一歩後ろに足を引く。けれど、男は「テメェが、レイヴン!」と語気を強めて逆に足を踏み出す。レイヴンに対する恐怖よりも、彼への怒りが勝った。
同時に、彼を応援するかのように何人かが店の出入り口に近寄る。レイヴンを逃がさないためのものだ。
……ブゥン。
羽音が、レイヴンの耳に嫌に響く。
「リイ」
「どーすんだよ……」
「手は出すな」
「は?」
軽くリイの肩を叩き、レイヴンは前に出た。
「気に食わないのは、俺だろう?」
男は答えない。荒く呼吸しながら、一歩一歩近づいてくる。
「あいつには手を出すな。俺と、お前の、個人的なことだ」
レイヴンは、店内の全員に言い聞かせるように告げた。
男との距離は、大股で一歩程度。男の拳に力が籠る。ぐっと握りこまれた拳が持ち上げられ、足が踏み込む。出鼻を挫くなら、今だ。
「っぁああああああッ!!!!」
雄たけびに怒りと憎しみと、整理のつかない感情が乗り、男の拳がレイヴンの顔面に――
叩き込まれ、レイヴンはなされるがままに上体を大きく逸らした。
鼻を殴打され、鈍い激痛が全身を駆け巡る。
「っ、レイヴン!」
「来るな!」
助けようと出てくるリイに、レイヴンは鋭く告げる。
「なんでだよ!」
リイの憤りの疑問を、レイヴンは黙殺した。
手を出すわけにはいかない。もしも手を出せば、その瞬間、レイヴンは――
「テメェが、テメェみたいな犯罪者がいるから! 俺たちはいつまでも認められないんだよ! いらねぇんだよ!、テメェらみたいな奴らは! 社会のゴミクズどもは!」
レイヴンを殴れたことでタガが外れたのか、男は一気に言い放った。空いた距離を一気に詰め、男はさらに拳を見舞う。そして、それを非難する言葉は、上がらない。
拳が、脚が、次々と暴力が振るわれ、誰もそれを止めない奇妙な状態が続く。
レイヴンは、哀しかった。
殴られることが、ではない。投げられる言葉が、それを黙認されることが、誰も助けてくれないことが。
けれど、それは当然だと思っている。なぜなら、それだけのことをしたのだから。
思い出すのは、意図せず再会してしまったアーバインだ。相棒を亡くし、その怒りを正面から叩きつけられた時、レイヴンはやっと自身のしてきたことを理解した。誰かに怒りを向けられることで、自分がどれほど取り返しのつかないことをしたのか、自覚したのだ。
「なんで、もう、やめろよ。……やめ、ろよ」
視界の端で、リイが拳を固く握りしめるのが分かった。
リイは聡い弟子だ。レイヴンの思惑も、手を出すなと命じた理由も、分かっている。けれど、彼女は
その時だ。
レイヴンの耳に、
「手を出すなと言っただろう!!!!」
喉を振り絞って、絶叫する。
男の手が、飛び出さんとしていたリイが、気圧されてたたらを踏む。
「……なんで、反撃しないんだ」
ずっと傍観してきた男の相方が、声を震わせながら問う。
「俺が手を出したら、あそこがなくなってしまう」
唇から流れ落ちる血をぬぐい、リイに買ってもらったジャケットを彼女に投げ渡した。
「俺はいい。お前たちに殴られ、罵倒され、牢獄の中で生きることだって納得してやれる。その方が分相応だ。けど、
「何の話だ……?」
男が、困惑しながら問うた。
レイヴンは、額から流れ落ちる血をぬぐい、不敵に笑った。
「俺が、生涯添い遂げると決めた。女の話だ」
静まり返った店内に、来客を知らせるベルが鳴る。
唐突に鳴り響く軽快な音に、皆の視線が注がれた。
「……おや? これはどういう事態かな?」
瞬間的に店内の誰もが緊張した。特にレイヴンと対峙していた二人は一気に顔を青ざめさせる。酔いも一瞬で引いたことだろう。
「は、ハルトマン様……」
現れたのは、ある意味でこの店ができた当時からの常連である、エリュシオンを統治するヴォルフ・P・ムーロアの片腕、ヒンター・ハルトマンその人だった。
ハルトマンはぼうっとした表情であったが、次第に焦点を合わせ、店内をざっと睥睨する。その肩近くで羽虫が旋回すると、傷だらけのレイヴンと、怒りとやるせなさで瞳に涙をため込んだリイに目を止め、「ああ」と小さく相槌を打った。
「なにやら一悶着あったようだが。私から言わせてもらおうか。彼、レイヴンの処遇は我々
店内のピリリとした空気がほんの少し緩和された。特にレイヴンを殴っていた男はあからさまにほっとした表情だ。
「だが、それは彼個人を敵視していい理由にはならない。むしろ、これからは彼の力すら我々には必要不可欠だ」
続けられた言葉に、空気が再び固まる。レイヴンも神妙な面持ちで続く言葉を待った。
「ゼネバス帝国の再建は、そもそも故ギュンター・ムーロア氏の悲願であり、我らゼネバスの民の半世紀に渡る大願だ。そして、彼レイヴンはギュンター氏に仕えた兵であった。道を違えたが、彼もまたムーロアの名を継ぎ、同じ大願に人生を委ねた者。その兵であったレイヴンも、我らの同志足りえると推察するが、どうかな? 諸君」
ハルトマンは朗々と、よく響く声で店内を見渡しながら告げ、レイヴンに向かって歩んだ。
街の統治者の代弁者の言葉に、皆が耳を傾ける。しかし、今もなお許しがたいという敵意の視線はやまなかった。
「苦節半世紀。我々の大願の成就も近しとあって焦る気持ちも解る。君たちのように、意気込んできたものの、出鼻を挫かれてやるせないというのもな」
発端者である男たちに向かってハルトマンはふっと笑いかけた。
そしてリイの肩をやさしく叩き、彼女を連れてレイヴンの傍に歩み寄る。
「だが、我々はこれほどの長き時を、来る日のために費やしてきた。もうほんの少し待ったところで、然程変わりはない。焦燥や憎しみ、怒り、今日まで抑え込めてきたのだ。もう少しくらい待てる。それでも我慢できず、彼にその責をを負わせたいというなら、心配はいらない。国が成り立ったその時、彼には、新たな平和の守護者として、馬車馬のように働いてもらおう。陰日向となって、ね」
底意地の悪い笑みをレイヴンに投げかけ、話は終わりとばかりにハルトマンは柏手を打つ。
「さぁ、後味の悪い話は酒の席には合わない。ここは、愛する者のために身を砕いてまで彼女の居場所を守ろうと泥を被った漢を讃えようではないか。なぁ! 我らがヴォルフ・ムーロア陛下の民よ!」
しんと、静まっていた店内。だが、小さく、声が呟かれる。
かっこよかった。見直した。いいとこあるじゃないか。元ガイロス帝国最強は伊達じゃない。一途でかわいい。
ハルトマンが、ぼろぼろのレイヴンを無理やり立ち上がらせる。リイに支えられた彼の手に、無理矢理ティーカップを授けた。
「酒、じゃないのか?」
「乾杯にはダージリンを使ったフォションティがいい。茶とあれば、やはりティーカップで飲まねばな」
ハルトマンが常連なのは、この店の紅茶を好みとしているからだ。ただ、それを他の客にもしつこく勧めるため入店を禁止されている時期があった。
そんな彼の紅茶馬鹿に、ある意味救われた気がする、レイヴンの気迫に対しての賞賛、がハルトマンには「また紅茶か」とのヤジが飛ぶ中、カップと杯が掲げられた。
***
気配を感じて、意識が揺り動く。
額から頭頂まで優しくなでられる感覚に、リーゼはゆっくりと瞼を持ち上げた。
「熱は、もう大丈夫みたいだな」
「……レイヴン!」
「ただいま」
リーゼは跳ね起きた。視界に映ったレイヴンは、顔のあちこちにばんそうこうを張っており、見るからに痛々しい。
「大丈夫、じゃないよな」
「大したことないさ。普段の特訓でリイに殴られた時の方が、よほど痛かった」
強がって、ではなく本気でそう告げるレイヴンに、リーゼはなぜか少し安心した。
あの後、ハルトマンによって仇から酒盛りの主役へと持ち上げられてしまったレイヴンは、店の客に代わる代わる謝罪され、そして同時に熱烈な歓迎を受けた。店主からもいつでも来いと満面の笑みで言われ、ただ直前のこともあって素直には喜べない。
事件の発端となった二人は、二週間の謹慎処分となった。それとは別に、軍部責任者であるアクア・エリウスの手でみっちり扱かれることとなった。
身体だけでなく、精神的にも。
公衆の面前で、軍人が暴力をふるったのは許されないことである。しかし、その相手はレイヴンだ。エリュシオンの世論でもレイヴンは重罪人であり、それらを考慮された結果、世間体的に刑は軽くなった。本来ならば一ヶ月以上の謹慎、悪くすれば無期限であってもおかしくない。
リイはこの処分に納得いかないと言っていたが、レイヴンは受け入れることにする。自分の立場がどれほどのものか、そしてどれほど多くの人間に守られて今があるのか、それを再認識した。
レイヴンは机に置かれていた切ったドラゴンフルーツをフォークでさし、リーゼに差し出した。小さく笑い、リーゼはそれを食べる。
「それと、ありがとうリーゼ」
「な、なにさ急に」
「ハルトマンを呼んだのは、お前だろう?」
「……なんのことかな?」
「連行してきた、と言うべきか」
「ばれてたか」
騒動が起きり直前に羽音が聞こえ、レイヴンはリーゼの介入に気づいた。「手は出すな」というのもリイに対してだけでなく、リーゼに対してのものだった。
リーゼがあの場の誰かを操り、騒動を収めるという手もあるにはあった。けれど、それでは解決にならず
レイヴンに再度それを指摘されたリーゼは迷った末に、近くを通りかかった
「ごめん。スタッグは使わないって約束してたのに」
スタッグはリーゼの悪事の象徴でもある。だからこそ、レイヴンはリーゼに使わないよう言っていた。けれど、それをリイが――ある意味で――悪意のない方法で使うことを提案し、リーゼを丸め込んでこれまでも数度使用してきた。
レイヴンに直接言及されたのはこれが初めてで、リーゼは目を伏せながら謝る。
「いい。俺も思いつかなかったが、あの子のやり方なら、悪くないかもしれん」
「うん。フルミネにリイ。あの子たちには、世話になってばかりだ」
「そうだな」
二人が
「そうだ、リーゼ。土産だ」
レイヴンはポケットに突っ込んでいたお土産を取り出す。早速取り出したリーゼは「つけていいかい」と視線で問う。レイヴンが頷いたのを各西、自身の左腕にリストバンドをつけた。レイヴンの黒、リーゼの青が混ざったような暗青色がリーゼの手首を覆う。
「どうかな?」
「似合ってるよ」
「レイヴンが選んだんだ。似合わないはずないだろ?」
「ああ、意味は……聞いてたか?」
「いいや。ちょうど見てなかったんだ」
小さく舌を出したリーゼ。つまり他は見ていたという意味合いの言葉で、レイヴンは苦笑を隠せない・
「指輪にすればよかったかもしれないがな。誓いだ」
「誓い?」
「ああ。俺たちは、厚意に慣れてない。敵意ばかりを感じてきて、それを受け入れることに慣れすぎた。だから、俺たちは敵意でなく厚意を寄せてくれる
「レイヴンが、他の人に夢中になるかもって?」
言葉を予測して告げたリーゼに「……ああ」とレイヴンは申し訳なさげに続けた。
「だから、俺がいつまでもリーゼのことを捨てたりしないための証、指輪の代わりだ。けど、それだけじゃない」
「え?」
「今日で分かったんだ。俺たちは、
ローレンジなら「気にするな」「できる範囲でいい」と言ってくれるかもしれない。けれど、それではダメだ。
返しきれない恩を返す。
そのためには。多少なりと無茶が過ぎることだってしなければいけない。
そして、それにはレイヴン一人ではできない。
リーゼもいなければ。
「言われるまでもないさ」
リーゼは淀みなく答えた。
今日一日で、彼らへの恩を認識したのはリーゼもだ。思っていた以上に、リーゼは
それを理解したからこそ、今度はリーゼが彼らのためにすべきことをしたい。
リーゼも、
「一緒に頑張ろうリーゼ」
「ああ、レイヴン。一緒に」
ふっと微笑んだレイヴンはリーゼに顔を寄せる
リーゼも、避けたりはしない。
血の味がする。
甘い果物の味がする。
二人が受けた『厚意』と『敵意』の味を、唇で共有する。
どちらも共に、二人が歩む人生の導となる。
憎まれて、蔑まれて、疎まれて。
けれども、想いを共通できるリーゼと――レイヴンと――この信念を胸に、贖罪を続けるのだ。
『これからも、ずっと――二人で』
レイヴン×リーゼ編、以上です。詳しくは後書きにて話しますが、レイヴンとリーゼの恋愛話とするには疑問が出る形となりました、はい。
次回はやっと主人公、ローレンジ×タリスです。
ただ、ちょっと趣向は違います。