小屋の外は、薄ら雪を纏っていた。こちらでも、季節は冬なのだ。雪を掬った手先に白の冷たさが染み込み、若干かじかむ。吹き抜ける風がジーニアスの短い白髪を撫で、頭皮を冷やした。同時に、額に熱を感じる
――時間はかけられねえ、か。
額が熱く、体全体が重く、だるい。
喉が痛みを訴え、冷気が体を芯から寒からしめる。
しばらく休みの無い移動を行ったが故に、身体が限界を訴えているのだ。多少休んだところで、全快には程遠い。早く休めるところを見つけなければ、限界を迎えてしまう。
視線を、小屋の方にやった。一から手づくりで建てられたのだろう小屋は、まるで心の原風景を見ているかのようで、ジーニアスを優しく手招きする。
――こんなとこで世話になるなんざ、御免だな。
その手招きを振り切ったのは、他ならぬジーニアスだ。このまま受け入れようという気持ちは、万に一つもない。
「大丈夫? 無理だったら諦めてよ」
「バカ言え! テメェの助けなんざ借りる気はねぇ!」
虚勢を返し、しかし自身の限界が近いことをジーニアスは感じていた。
だからこそ、やることはシンプルだ。目の前に立ち塞がる彼女を倒し、ここから出ていく。野宿でも、体調を整えるくらいなら容易だ。そのための知恵を、ジーニアスは持っている。
彼女は左手に刃のないナイフのような木の棒を逆手で持ち、突き出すように構えた。もう片方の右手は、相変わらず袖を風になびかせ、空虚だ。
――隻腕の女か。ハンデ持ってる奴に、オレが負けるかよ!
雪の地面を蹴り飛ばし、ジーニアスは走った。
まずは、小手調べだ。
動かない彼女に対し一気に肉薄、振りかぶった右腕を鉄化させて裏拳をかます。相手が女性であろうと、戦いとなれば話は別だ。完膚なきまでに叩き潰す。
女性はナイフの腹でジーニアスの拳を受け止めた。だけでなく、そのまま後ろに跳んで衝撃を逃がす。
言うだけはある。足元が雪というバランスのとり辛い地形であるにもかかわらず、後に跳んだ彼女は容易に着地して見せた。
ジーニアスは止まらない。勢いに乗った体をそのまま追撃に活かし、裏拳の勢いを左腕に伝え、突き出した。
彼女はこれを屈んで躱す。そして、ジーニアスの脇をすり抜けるようにして抜け出した。
出し過ぎた右足で踏ん張るが、雪の地面が足を滑らせ、踏ん張りがきかない――ように見せかけ、攻撃を誘う。しかし、彼女は距離を取っただけだった。追撃は、ない。
「おい、やる気あんのかよ」
「もちろん。やるからには、本気だよ」
告げられる言葉は、一切の情けが失せていた。ただ眼前の
――言うだけあって、ただもんじゃねぇな。
体勢を整え、ジーニアスはゆっくり踏み出した。
楽しい。
彼女は、ただの一般人という訳ではなさそうだ。ほんの僅か、戦い方を見ただけでジーニアスには察せた。雪という不安定な地形に慣れ、また、相手の様子を伺う時も隙がない。
ゾイド戦ではなく対人戦。だが、それでも楽しいものだ。やはり戦いはいい。そして、だからこそ全てをねじ伏せ、何にも囚われない称号、『最強』に焦がれてしまう。
――じっくりやりてぇが、その余裕もねぇ。
再び、直線的にジーニアスは迫った。狙いは彼女の右側。隻腕の彼女は、それだけで大きなハンデを背負っている。彼女の右側は、全くの無防備だ。
無論、彼女も簡単には隙を取らせてくれない。雪の上を跳ねるように、適度に位置を変えてジーニアスの攻撃に備える。
突き出す鉄の拳がナイフでいなされる。流れるように、いなしたナイフの腹で殴りかかるが、それは腕で受け止められた。簡単だ。
「はっ、やるじゃねぇかよ! 女ぁあ!」
懐まで飛びこまれたが、迎撃は簡単だ。屈んでジーニアスの懐に飛び込んだ彼女に、不意打ちの如く膝蹴りを見舞う。
だが、
――なにっ!?
彼女は、そのままジーニアスの背後に回った。
早い。一瞬だ。
蹴りという攻撃は力が強い反面、隙も大きい。そこを突かれた。彼女の眼力の冴えと、勘の良さが伝わった。
ジーニアスの攻撃をよけながら、少しずつジーニアスに隙の大きな攻撃を打たせたのだ。そして、生まれた隙を突いて一気に斬り込む。
ふと、背後を盗られたシチュエーションに覚えがあった。あれは……そう、ニクスで
そして、今相対する彼女もナイフを持っている。
――させるか!
反射的に背中を鉄化させるジーニアス。それが決め手だった。
「――がっ……!?」
背後から来る衝撃。厚い靴底の感覚を背中に浴び、ジーニアスは自分が蹴り飛ばされたのだと気付く。柔らかく冷たい雪の感触が、顔いっぱいに広がった。
うつ伏せでは不利だ。相手が見えない。
すぐに起き上る――より早く振り返ったジーニアスの腹を、彼女が踏みつけた。
背中が雪に押し付けられ、喉元に彼女のナイフが突きつけられる。
「――お前……強いじゃねぇの」
「当然。昔に、相当鍛えられたからね」
そう語る彼女の言葉は自慢げだが、同時に強い哀愁を放っていた。
「病気の人に手を出すなんて嫌だったけど、あなたからの提案なんだから、文句はないよね」
「……ったりめぇだ。言い訳なんて情けねぇマネ、誰がするか」
「私は、意地でも自分の意志を貫き通す。あなたが勝手に出ていくなら、無理やりにでもここに置いておく」
「……おいおい、てめ……んだよ、そりゃあ……」
決然と言い放つ彼女の姿は、カッコいいと思う。それだけの意志を貫ける姿を、ジーニアスは尊敬に値すると思っている。
なぜなら、意志を貫ける姿勢は、ジーニアスが最強の座へと向けるものと同じだから。ただ、その意思が、本当に彼女の本心なのかは、気になった。
「それに、ちょっと今外に出す訳にはいかないわ。危ないから」
彼女の言葉は、少し違和感を感じるものだった。何か隠している。だが、ジーニアスの疑惑を覆う様に、意識は途切れていく。流石に無理をし過ぎたようだ。僅かな意識の中で、彼女の右の袖がふわりと揺れ……、
そして、ジーニアスは再び意識を闇に溶かした。
***
じー君大丈夫? という言葉に、ジーニアスは仏頂面を返した。途端に少女は泣き出す――と思っていたのだが、予想に反して少女はおかしそうに笑った。問い詰めると、ふくれっ面の顔が可笑しいのだとか。ふんだりけったりだ。風邪なんて、ひくもんじゃない。
バカは風邪を引かないってのは、やっぱあてにならないね。
あんだとクソババア!
ほらほら、怒ると余計に頭が悪くなるよ。
いつものようにからかってくる親代わりを自称する女性に食ってかかり、しかし看病に来てくれた少女の「よかったね。じー君は馬鹿じゃないよ」という言葉に二の句を告げなかった。
本当に、ふんだりけったりだ。
ジーニアスが喰らいつき、鬼のような女性があしらい、泣き虫の少女がなだめる。いつも通りの光景は、そのうちの一人が体調を崩そうと一向に変わらなかった。
ふいに、女性が大きくなった自分のお腹を押さえながら、口を開く。
ねぇあんたたち。この子が生まれてさ、そしたら……この子の兄弟代わり、親代わりになってくれるかい?
一度、思考が停止した。
どこにその根拠があるというんだ。思わず愚痴る様に言うと、少女は答えた。強い
もう少し言いくるめてやろうかとジーニアスは息を吸い、咳き込んだ。それがきっかけであったかのように、頭がボーっとする。起きてられないと感じ、目を閉じた。額に濡れタオルが乗せられ気持ちがいい。乗せてくれたのは、泣き虫の少女だ。
つい問う。
なんで、こんなことをしているんだ?と。要領を得ない質問に、少女はきょとんと首を傾げる。うつっても知らねぇぞ。そう言ってやると、少女はやがて、にぱっと笑った。
だって、じー君が心配だから。
よかったじゃないか。愛の告白だねぇ。
女性のからかいに少女は激しく反応する。顔を真っ赤に染め、何を言っているのか分からないしゃべりで、何か叫んでいる。それは、ジーニアスの耳には一切入ってこない。
心配だから。そう言われ、少し分かった気がした。そう言われるほどに、自分は想われているのか、と。少し、嬉しかった。
それは、もういつの頃の記憶だったかも覚えていない。思い出すことすらなかった、忘れ去っていた記憶。
ジーニアスが、人の温かさを肌で感じた瞬間だった。同時に、無くすのは惜しいとも思ったが、それはもはや、想う意味が無い。
苛立ちはあった。あの戦いの最中、ジーニアスはぼんやりと気づいた。もう記憶の中にしか存在しない彼女の想いが、通信に乗って届けられたから。なぜ苛立つのかは分からないが、少なくとも、それに応えられなかった自分に苛立ちを覚えた。
そして、この苛立ちは一生消えないのだろう。
記憶の中の彼女も、クソババアと言い捨てたアリエルも、もうこの世に存在しないのだから。
***
ジーニアスが小屋に連れてこられて、一週間が経過した。逆を言えば、一週間も経ったというに、家主の彼女はジーニアスを介抱してくれなかった。
ジーニアスを襲った病は、大したものではなかった。実際、三日も経てば完治した。だが、ジーニアスの身体にはまだ疲労が残されていた。
ニクスの極東部からデルポイの東部山岳地帯へ。野生ゾイドたちの縄張りを通り抜けるのは、常に警戒心を張り巡らせておかねばならない。おまけに極寒の暗黒大陸から温暖な中央大陸へ。環境の大きな変化は、極地で鍛えられたジーニアスの体調バランスを大きく揺るがした。
その上、デルポイに墜落した当時の頭痛のこともあった。
結果、ジーニアスの体調は万全と言えず、彼女が解放してくれるのもまだ先だった。
「――あー! またやってる!」
森の中から彼女の怒気を混じらせた声音を訊き、ジーニアスは「けっ」と唾を吐き捨てた。トレーニングの一環として振っていた刀を鞘に納め、雪の上に落とす。
「身体がなまっちまうんだよ。別にいいだろうが」
「無茶したらだめ! それに、近くの野生ゾイドに襲われたらどうするの?」
「ねじ伏せる」
「バカ。あなたがどんなに強いかは分かってるけど、この辺のゾイドたちはみんな強いよ。人じゃ太刀打ちできない。……身体で知ったと思ったんだけど」
彼女の言葉は間違ってはいない。一度、小屋の近くに現れたゴリラ型野生体のゾイドと生身で戦ったのだが、コテンパンに叩きのめされたのだ。とどめを刺される直前で彼女が割って入り、宥め、事なきを得たものの、代償は大きかった。
「この辺のゾイドは強い。奴らを潰せるくらいの力がねぇと、『最強』名乗れねぇな」
「はぁ、……あなたを拾ったの間違いだったかしら」
「だったら、出て行くぜ」
「ああそれはダメ。山の中で死体見つけたくないし」
「死ぬの前提かよ!」
「当たり前でしょ!」
彼女の中で自分はどれだけ弱い設定なのだろうか。彼女の認識を変えることも、ジーニアスの目標になりそうだ。
「ほら、ご飯作るから家でおとなしくしてて。あ、私の部屋に入らないでよ」
「興味ねーよ」
鞘ごと刀を振り回し、憂さを晴らすとジーニアスは小屋に入った。借りさせられた部屋は、元々彼女の言う「おじさん」が使っていたらしい。おじさんはいないのかと聞くと、目を伏せながら「もういない」と答えられた。
「そうだ、これ」
「あ?」
呼び止められ、振り返ったジーニアスに差し出されたのは小さな機械だった。
「んだよ、これ」
「補聴器。たぶん、あなたも必要だと思うから」
渡された補聴器をつまみ、裏表を確かめる。そして、促されるままに付けてみる。だが、特に変化はなかった。
「どういうことだよ」
「あなたが倒れてた場所。どういう場所か知ってる?」
ジーニアスが倒れていた場所。中央大陸を分断する山脈から東に張り出した台地地形の場所だった。それがどうしたと視線をぶつけると、彼女は続きを話す。
「グラントの集落の人はみんな知ってるんだけど、あそこってちょっと変わってるの。ゾイドの意識を狂わせる電波? みたいなのが常に放出されてて、その上、
ジーニアスはこの地についた当時を思い返した。妙なノイズ音が耳に木霊し、脳内をめちゃくちゃに蹂躙されたような感覚だった。
「
「……ああ」
「あ、でもあそこは絶対入ったらだめなの。どうしようもないって時以外は、絶対に入らないで」
「んだそりゃ――いや、ちょっと待て」
補聴器を懐にしまい込み、ジーニアスは彼女の右袖を取った。途端、空虚な袖だけを掴まれた彼女はバランスを崩しかけ、素早く体制を整える。
「な、なに?」
虚ろな右袖を掴まれたことに対し嫌悪を見せながら問い返される。が、その程度でジーニアスはひるまなかった。
「グローバリー台地って、なんだ。あそこには何がある」
「何って、別に……」
「嘘つくな」
懐から先ほどの補聴器を取り出し、突き出す。
「こいつは、あそこに入るのに必要不可欠なもんだ。そうだろ」
「ええ」
「そんな大層な機械が、このデルポイのどこで作れるってんだ? エウロペどころかニクスでも笑われるくらいのド田舎なデルポイで。どこでこんなものが作られる」
ジーニアスは気になっていた。グローバリー台地に立った時の違和感は、
それは、帝都ガイガロスをはるか上空から見下ろした時、
「あそこには大層なゾイドが眠ってる。違うか!」
「な、なんで、それを……」
彼女の口から決め手の一言が漏れ、それをジーニアスは見逃さない。
「オレは最強を目指すゾイド乗りだ。どんなゾイドも、オレの前にはおとなしく従う。だから、
彼女は「しまった」という表情が流れた。ジーニアスにしても勘に近く、かまをかけた問い詰めだったが、予想は的中だった。すなわち、グローバリー台地には何かがある。惑星Ziの古代史に関わる、何か強大なものが。
――グローバリー台地に滞留する電波は
「待てよ……!」
ジーニアスの記憶の縁から、一つ掘り起こされるものがあった。
「エウロペにも似た場所があったはずだ。そう噂を聞いた。名前は……まぁいい。そんなものがエウロペとデルポイにあって、ニクスの近くにもそれが存在する」
「ねぇ……」
「
「ちょっと!」
耳を怒鳴り声が劈き、ジーニアスの思考は一瞬にして泡に変わった。耳がジンジンと悲鳴を上げ、怒りのボルテージを引き上げた。
「なにしやがる!」
「あなたが人の話を聞いてないからでしょ! 病人はさっさと戻って! ほら早く早く!」
「あーうるせぇ女だ。わーったよ、もどってりゃいいんだろ。――くそ、またか」
思考を邪魔され、その上はぐらかされた気がする。だが、そこまで気にかけることでもないだろう。それよりも、また頭痛が走ってきた。立っているのも辛くなる。
風邪は当に治っている。
小屋の扉を押しのけるように開け、ジーニアスはあてがわれた部屋に向かう。
その時だ。駆動音が外から届く。
見ると、泡を食ったような勢いで一体のゾイドが走り込んできた。ずんぐりとした体形に太い四肢。クマ型のゾイド、ベアファイターだ。
「――さん! 大――! あ――ら、――きやがった! ――様も興――てる!」
頭痛の所為か、声は良く聞こえなかった。だが、なにか緊急事態が発生したのは確実だろう。ベアファイターに乗ってきたのは、付近の集落に住んでいる自警団か何かだろうか。事態を把握すべくジーニアスは聞き耳を立てるが、それ以上に頭痛が酷く、満足に声を聞きとることが出来なかった。加えて床からは地鳴りも感じる。
壁に寄りかかり、そのまま座り込む。痛みを抑えるべくしばし沈黙していると、慌てた様子で彼女も小屋に戻ってきた。
「…………なにがあった」
「あなた……いいえ、大したことじゃない」
嘘だ。
それくらいは、すぐに分かった。それが自分を気遣ってのことだということも、容易に察せた。だから、余計に腹が立つ。
「嘘吐け……。てめぇ、隠し事すんなよ」
ジーニアスが養生している間、何度か自警団と思しき人とゾイドが小屋を訊ねて来る事があった。そこで、数ヶ月ほど前から見知らぬ集団がグローバリー台地を探っていること、何か良からぬことを企てているのではと見られていることを盗み聞いていた。
彼女はその何者かと戦うつもりだろう。そして、その集団が見知らぬゾイドを所有していることも。
「やるんなら、俺も連れてけ」
フラつくジーニアスを突き動かしたのは、純粋な闘志だ。強大なゾイド乗り。最強を名乗るならば、容認できない。必ずや倒して見せねばならない相手だ。でなければ、
「だめよ。あなた、フラフラじゃない。まだ体調が悪いんでしょ」
「このくらい、どうってことねぇよ。オレは最強だぜ? 負けはねぇ。……お前にも、誰にもな」
傍らに置いていた刀を杖代わりに、ジーニアスは立ち上がった。不敵な笑みを浮かべ、小屋の外へと向かう。だが、
「――がっ……」
「ごめん。無理はさせたくないの」
彼女の拳がジーニアスの腹に突き刺さる。想像よりも重く、的確に急所を突かれた拳は、瞬く間にジーニアスの意識を奪って行く。
「大丈夫。あなたを悲しませたりはしないよ。…………あの時と同じにはしないから」
彼女の決意とも取れる言葉が紡がれ、それを訊きとった瞬間、ジーニアスの意識は途絶えた。
***
おわぁ、おわぁ……。
その声を、ジーニアスは喧しく思った。
恥も何もなく泣き叫んで、見ていて腹が立つ。
傍らの泣き虫だった少女が「かわいいね」と言う。冗談だろと、ジーニアスは思わず口走った。その瞬間、毎度の如く鉄拳が頬に叩き込まれた。言うまでもなく、それは鬼とジーニアスが称した女性の拳だ。ただし、女性は布団に体を横たえ、顔も穏やかなものだ。
んだよババア。威勢が足りねぇな。
さすがに、今回は堪えたからね。無茶できないよ。
力なく笑う女性が、余計に腹立たしい。
ジーニアスは、口にこそしないが女性のことを尊敬していた。何が起ころうと動じない精神力。ニクスの守護者と呼ばれる者たちが束になっても敵わない戦闘力。魔龍の守護者とも称される黒龍を自在に操る天賦の才。
ニクスにとって最重要の存在である【封印の巫女】という立場でありながら、黒龍を従え【『最強』の巫女】という唯一無二の呼名を手にした女性。
アリエル・バレンシアは、ジーニアスの目標であった。
儀式で疲れてたところにこれだよ。さすがに、あたしも限界だね。
弱音を吐く女性のそんな姿は、ジーニアスが見たくないものだった。薄く笑んだその姿に、泣き虫の少女は我慢の限界が来たようだ。女性の腹にしがみ付き、声を殺して涙を流す。
女性は少女の背中を優しく撫でた。
しばし、赤子の泣き声以外の音が響かない。
……頼んでいいかい。
やがて、女性は静かに言った。
ニクスの掟は、皆を縛り付けている。ニクスに生きる人々の暮らしを縛り、外に出ることを咎め、外からの進入を許さない。
だから、壊してほしい、と。
ジーニアスは外から来たがために、
掟は大切だ。守らなければならない。それが、昔から語り継がれた、危機を打開する唯一の方法だから。
しかし。それは、そこに生きる人々を縛ってしまう。縛られ、自由にできる空間も狭められてしまう。狭められた空間からは、僅かしか外を見ることが出来ない。
だからこそ掟も、その元凶も、全て壊してほしい。そう、女性は告げた。
その瞬間、女性からすべての力が抜けた。
少女が泣き叫び、ジーニアスは拳を握りしめた。涙を見せたのは、それが人生最初で最後だった。
その最期を、ジーニアスは今でも覚えている。最強が散った瞬間。忘れることのできない瞬間。ジーニアスが、最強を目指すことを決定づけた
それからジーニアスは己を鍛え続けた。
泣き虫だった少女も、強くなろうと努力した。あの人の望みをかなえたいと、必死になっていた。
そして、ジーニアスはアリエルが亡くなって以来誰にも従わなかった黒龍を下し、それに触発されるようにして少女は対を成す天馬を従えた。
ジーニアスは己が女性の跡を継ぎ、また己のためにも最強を目指した。己を確立するためにも、自由を手にするためにも、ひたすら最強にこだわった。少女は、アリエルの最後の願いと彼女自身の想いのために、戦い、散った。
ただ、二人はアリエルが力を失う瞬間の言葉を聞いていなかった。正確には、ジーニアスは聞こえていたが、アリエルを亡くしたことの衝撃で、ほとんど聞いていなかったのだ。
それが、今を作った。
アリエルの最期の言葉は、
せめて、この子が――マリエスが大きくなっても、掟の儀式で死んでしまわないように。
ニクスの悲劇は、この時から動き始めていた。それを知る記憶は、奥底に沈んだまま、泡と消えたのだった。
***
ジーニアスが跳ね起きた時、すでに夜中だった。窓から外を覗くと、グローバリー台地の方角から戦闘の音が響いている。
「くそ! あの女……めんどくせぇことしやがって」
考える必要はない。すぐに戦場に向かう。最強の証を、このデルポイにも刻むのだ。不本意ながら彼女から渡された補聴器を掴み、ジーニアスは部屋を飛びだす。
そこで、一つ忘れものを思いだし部屋に取って返す。刀だ。
ジーニアスにとって目標だったあの人の
それは、ジーニアスにとって
だが、部屋を見渡しても刀はなかった。彼女が隠したのだろうか。
なしでもいいかと思ったが、意識を失くした時に見た夢を思い返すと、そのままという訳にはいかなかった。不安、ではなく、予感がした。
そう思ってしまうことが、さらにイラつかせるのだが。
小屋中を駆け回り、しかし見つからない。探してないのは、入るなと釘を刺された彼女の部屋だけだ。入ったことがばれたら、またひっぱたかれるのだろうか。
――それがどうした!
一瞬躊躇してしまったことにすらイラつき、ジーニアスは部屋の戸を蹴り開ける。案の定、というべきか、刀は彼女の机の上に置いてあった。手に取り、腰に差すと、だいぶ落ち着く。やはりないよりもあった方がマシなのだろうか。
踵を返して部屋を出ようとし、ジーニアスはまたしても足を止めた。
今は、小屋に誰もいない。ならば、先日中身を見ることが出来なかった手紙の中身を読めるだろう。
気になったらすぐに実践がジーニアスだ。とって返し、引き出しを乱暴に開けて手紙を探し出す。
――何やってんだか、オレは。
若干自分の行動に飽きれつつ、しかし己の意志に従って手紙を開いた。
“
拝啓、この
突然お手紙を書くこと、お許しください。この手紙は届くことの無い、私の胸の内にだけ留め、そして時間の中で消えゆくものと思います。ただの、私の自己満足です。この手紙は、決して外に出すことはないでしょう。
しかし、唐突に掻き立てられた私の感情が、この手紙を書くことを求めました。ですので、誠に勝手ではありますが、この文面だけの言葉として、記させてもらいます。
あれから八年経ちました。一度たりとも忘れることのできなかったあなたのこと。あなたを想うたびに、私は暗い気持ちに包まれています。私は、あなたに深い哀しみを与えてしまったのでしょうから。未熟だった私が、あなたを傷つけたのです。
でも、先日はなぜかホッと、安堵の感情が溢れ出したのです。きっと、あなたの心が救われたのではないかと、そう思わずにはいられませんでした。
私は、あなたのことを恨んだことはありません。きっと、あの日立場が逆だったとしても、私はあなたと同じ選択をしたでしょう。未熟な私たちには、それしか選択肢がなかったのでしょうから。
あなたは、今までずっと悔いていたのでしょう。あの日の判断を。安心してください。私は生きています。あの日、あなたが私に眠りという名の安らぎを与えようとした日。あなたは最後まで迷い、私に別れを告げてなお、私に眠りを与えることを選びました。でも、あなたは失敗したのです。そのおかげで、私は落とした命を拾うことが出来ました
私を殺め、あなたは後悔の闇の中に居るのでしょうか
大丈夫です。私は生きています。今この瞬間を、一時一時を幸せに生きています。
ですから、あなたも私のことは忘れてください。いつまでも、捕われないでください。あの日の別れが、私たちの運命の別れ道だったのです。
さて、あなたは今どうしているのでしょうか。今も、あの人と共に暗く深い闇の道を歩いているのでしょうか。それとも、あの人と袂を別ち、しかし彼への妄執を忘れられずにいるでしょうか。
願わくば、あなたが幸せであることを望みます。私は、ある方に拾われ、遠い大陸で暮らしています。あの日々のあなたたちのように、新しい家族と共に日々を生きています。恩人でもあるその人は、もう亡くなられましたが、私はあの人との約束のために、これからも生きます。それは、きっと幸せにつながるでしょう。
だから、あなたも自分の新しい家族と共に、幸せであることを願います。
私は、幸せです。あなたも、幸せでしょうか?
本心を言えば、もう一度会いたいです。ですが、その時あなたはきっと哀しみ、自分に怒りを覚えるでしょう。ですから、会いません。
さようなら、お元気で。
”
「……なんだこりゃ」
読んでいて、意味が分からなかった。誰に向けたものなのか、なぜ出すことを止めたのか、彼女の意図がさっぱりつかめない。
ただ、
――恩人との約束に賭けて生きる……だと? その上、テメェの気持ちをここに押し込んだってのか……!
ただ、一つだけはっきりしたことがある。
苛立ち、だ。
この手紙を読み、そこに秘められた彼女の考え方、それに、ジーニアスはイラつきを覚えた。
嘗て、亡くした恩人との約束を胸に生きた女性がいた。胸に秘めた想いを最後まで言葉にせず、伝えないままに死んでいった。その生は儚く、つまらないものだと、ジーニアスは思う。
だが、それを分かっていながら傍で見ていた自分を、その想いに応えようとする気すら起きなかった自分に、今は無性に腹が立った。
決めた。最強の名を知らしめる。だが、その前に、彼女に一言叩きつける。僅かな触れ合いが関係を作るというなら、彼女にもジーニアスという最強の存在を知らしめる必要がある。
小屋を飛びだすと、待ちかねたようにガン・ギャラドが動き出した。ジーニアスの下へ歩み寄り、ゆっくりと頭を下げる。そして、コックピットを開いた。
「――行くぜ。ガン・ギャラド」
デルポイの山中に、惨禍の力を宿し、惨禍を沈めた黒龍が飛び立つ。
遠く、グローバリー台地からは、ジーニアスの頭に響くノイズ音が――落雷のような轟咆が響き続けている。