贖罪のゼロ   作:KEROTA

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絶対凱歌EDGAR―9 生死問答

 

 人間の生涯には、大なり小なり転機というものが存在する。千桐にとっては、幸嶋との立ち合いがまさにそれだった。

 

 試合時間自体は、おそらく15分にも満たかっただろう。人生という長い時間の中では“瞬きほどの”という形容詞でさえ大げさすぎるほどの、ごく短い時間。だがその15分は、それまでの人生観を粉々に打ち砕いた。

 

「おっと、隙ありだ!」

 

 ──刹那の緊迫を駆ける快感。

 

「なんの、お返しですっ!」

 

 ──技の冴えを競う高揚。

 

 礼法だとか定石だとか、そういうお行儀のいいものは必要ない。技巧と経験、敵を斬る覚悟だけが物を言う弱肉強食の理。

 純然たる闘争の前に、33年の歳月が築き上げた高尚な信念はあまりに脆い。

 

「ふふッ、あはははははッ! 楽しいですねぇ、幸嶋くん!」

 

 ゴチャゴチャと飾り立てた理屈を脱ぎ捨て、あるいは無意識の内に抑圧していた闘争本能を剥き出しにして、千桐は笑った。

 

「おーにさんこちら♪ 手の鳴る方へ♪」

 

 挑発か誘いか、口をついてわらべ歌が流れ出す。唖然とする門下生など、もはや眼中にない──彼女の全神経、全思考はたった一人の少年との果し合いへ注がれていた。過ぎ行く1分1秒を惜しむ、その時間すらも惜しい。細胞の一片、血の一滴に至るまで、戦闘を全力で楽しむ。この時よ永遠であれ、そう願いながら。

 

 しかし彼らの戦いは、15分の後──驚くほど呆気の無い決着を見ることとなる。

 

「あ、れ──?」

 

 グラリと千桐の視界が傾き、倒れ込む。一拍を置いて脳が認識する痛みは、しかし痺れたように鈍い。

 

「師範が倒れた!?」

「なんだ!? 何が起こったんだ!?」

 

 周囲から聞こえる内容から、千桐は己の身に起こったことを即座に理解した。よりにもよってこの最悪のタイミングで、一族に伝わる遺伝病を発症したのだと。

 

「おいッ、風邪村さん!?」

 

 だが、呆けている場合ではない。模擬とはいえ今は試合の最中、これしきのことで攻撃を緩めるわけにはいかないのだ。

 

 駆け寄る幸嶋に、千桐は床に転がった模擬刀を拾おうとする。しかし指はまるでかじかんだように動かず、得物は彼女の手から滑り落ちた。ならば徒手、多少なり覚えのある柔術で応戦しようと顔を上げ──その口から、小さく絶望の声が零れた。

 

「──ぁ」

 

 彼の目から、戦意が完全に消え失せていたのだ。当然だろう、もし自分が幸嶋の立場でも試合を中断し、相手の身を案じていたはずだ。

 

「しっかりしろ、今救急車を──」

 

 だが認められない、認められるはずもない。初めてだったのだ、こんなにも何かを楽しいと思えたのは。今の彼は、己を敵として見てすらいないのだ。

 

 “そんな目で、わたくしを見ないでください”。

 

 けれどその嘆願を口にすることは叶わず、千桐はそのまま意識を失った。かくして最高の戦いは最悪の形で幕を下ろした。

 

 

 

 ──人間の生涯には、転機が存在する。

 

 

 

 幸嶋隆成、後に“人類最強”と呼ばれることになる男との戦いで風邪村千桐が得たものが、三つある。

 

 一つ、戦いの最中に身を躍らせる悦楽。

 

 一つ、最後まで戦い抜けぬ無力への屈辱。

 

 一つ──

 

『治ったら続き()ろうぜ、風邪村さん』

 

 ──()()()()()

 

『確かに試合なら、俺の勝ちかもな。けど俺達の()()はまだ着いちゃいねぇ。そうだろ?』

 

『もっと強くなったら、またあの道場に行くからさ。アンタも牙を研いで待っててくれ……いや、この場合は刀か? とにかく』

 

『──次に会った時、この戦いの決着をつけよう』

 

 そう言い残すと、彼は再び自分の道を歩み始めた。誰のためでもない、他ならぬ自分自身のために。

 誰かのために生きると決めた自分とは、正反対の生き方だ。決して自分には真似できない生き方だけれど、千桐はその在り様をとても眩しいと思った。

 

「だからわたくしはきっと、君に目を焼かれてしまったのでしょうね」

 

 ──病を発症して以降、彼女を蝕む病は回復の兆しを見せなかった。

 

 元より根治不能の難病である。MO手術なる人体改造手術を用いれば治癒の可能性もあったが……パッチテストの結果、千桐に適合する生物は存在しなかった。

 唯一の望みは絶たれたものの、その病は生命に関わる病ではない。死なないだけマシ、と思わねばならない。

 

「わかっています」

 

 今や彼女は、補助器具がなければ碌に立ち上がることすらできない。基本的には寝たきりを余儀なくされ、日常生活を営むにも介護補助が必要。

 もっともこれが一般家庭ならばいざ知らず、彼女が療養するのは日本でも屈指の名家。置かれた環境は最低限どころか、考えうる限り最高の病床。この環境に文句をつけたら罰が当たるだろう。

 

「わかっているのです」

 

 点滴の管が伸びる腕は発症以来、箸より重いものを持つことを許されていない。そのために健康だった頃より細く、白く衰えていた。

 しかしだからと言って、彼女の体がボロボロか? と言えばそうではない。効力が強く、副作用も少ない最先端医療の賜物だ。それを受けられる財力と縁故に恵まれた境遇にあることは、何にも代えがたい幸運だ。

 

「わかって、いますから……」

 

 仮に全身が動かなくなろうと、やりようはある。今まで身に着けた知識や教養がなくなるわけではないし、根治はできずとも今の技術ならばこれ以上の進行は食い止められる。

 かつての自分が定めた武士道を歩むのに、何の不都合もない。だから落ち込むな、気に病むな。たった一瞬垣間見ただけの別の道に、どうかこれ以上焦がれてくれるな。

 

「……」

 

 だが何度言い聞かせても、その15分は千桐に取り憑いて離れない。彼女の目に、脳に、心に、焼き付いた記憶が消えることない。どれだけ高説を重ねようと、本能が引き起こす衝動の前に、その抑圧はあまりにも脆い。

 

「……なぜわたくしは、知ってしまったのでしょうね」

 

 士道を歩む彼女は修羅道を知った、知ってしまった。ならばもはや、知らなかったことにはできない。既に千桐にとって、これまでの彼女を満たしていたものは塵芥にも等しく価値のないものになっていた。

 

『最高の環境で寝たままで()()()()』と、人は言うだろう。だが千桐にとって、その処遇は拷問にも等しい。

 自分の余生はあと30年か? それとも40年? 果たして自分は本懐を遂げられぬまま、どれだけの時をのうのうと生き続ければいい? 

 

 いつか歩みを止めるその時まで、幸嶋の魂は進み続けるだろう。それを自分は布団の上から、安穏と指を咥えて見ていることしかできない。あまりにも惨めな話だ。いっそこの場で腹を切り、果ててしまうのが幸せかもしれない。本気でそう考えてしまうほどに、生温く惨い地獄である。

 

 

 

 

 

「何故余が愚民の病床を見舞わねばならんのかと思っていたが……クハハ、なんの狂言だこれは? よもや床に臥しているのが亡者とは!」

 

 

 

 

 

 そんな千桐に語り掛けるのは、彼女にとってのもう一つの転機。

 

「なんだ、死人扱いは不満か? そう睨むんじゃあない、愚民。ただの事実だろう? 成すべきことも、成したいことも成せぬまま、ただただ無意味な生を享受している。この現状を死んでいると言わずしてなんというのだ?」

 

 ──エドガー・ド・デカルトである。

 

 政務のため偶然にも来日していた彼がその日、外交パフォーマンスの一環として風邪村千桐を見舞ったことが、彼女の人生の歯車を大きく狂わせた。

 

「だが貴様の目、尋常ではない生への執着があるな……いいだろう、興が乗った。()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 否──彼女の人生の歯車を、噛み合わせた。

 

「貴様に今一度、剣を振れる体をくれてやろう」

 

「!」

 

 その言葉に思わず身を乗り出した千桐を嘲るように、エドガーは「だが」と言葉を続ける。

 

「代わりに貴様は、全てを失うことになるだろう。家柄、半生、矜持、そして未来……その全てを捨て、鬼になる覚悟があるならば余と来い。できないなら、これ以上余の時間を割く価値はない……そこで立ち枯れるがいい」

 

 垂らされたのは、今にも切れてしまいそうな糸。それも出所は釈迦ではなく、27世紀で屈指の独裁者である。正気の人間ならば到底掴むはずもない、険呑極まりない救いの手。

 

「承知しました。貴方の旗下へと下ります、大統領」

 

 しかし千桐は、それに躊躇なく縋った。辛うじて正道に彼女を縛り付けていた『現実』という鎖は、たった今引き千切られた。例えその選択がどれだけ浅ましく、醜いものであろうと。九十九の有象無象を切り捨てることになろうと、その先に渇望する“一”があるのなら──

 

「鬼でも修羅でも、喜んで成りましょう」

 

 かくして女は、この日を境に剣鬼へと堕ち。その武士道は、血霧に霞んだ。

 

 

 

※※※

 

 

 

「ドイツ支局からの報告書は読んだよ」

 

 人工細胞に侵食され、黒く染まった体を晒す千桐にシモンは言う。その脳裏には、クロード経由で手に入れた資料に記載されていた技術の概要が鮮明に蘇っていた。

 

 ──M.(モザイク)O.(オーガン)H(ハイブリッド)

 

 ドイツの民営企業(バイオ&メカニクス・アーゲンター)が開発した、人体改造手術とは別方面からのモザイクオーガンの軍事利用アプローチである。脳と機械を接続し、脳波によって機械操作を行う……といえば、分かりやすいだろうか。

 

 その集大成ともいえる兵器こそがM.O.Hスーツ、MO由来の人工細胞から作り上げた筋肉・外骨格を基盤とし機械兵装を融合させた次世代戦闘服。

 

「MO手術にはない量産性、規格が統一されていることによる戦術性、マーズランキングの上位ランカーにも引けをとらない基本性能……一民営企業の技術としては、頭一つとびぬけてた完成度だったね」

 

 M.O.Hスーツのスペックは、確かに目を見張るものがあった。事実、U-NASAドイツ支局では火星での任務に送り込む主戦力を『MO手術被験者』にするか『M.O.Hスーツ着用者』にするかで技術採用試験(トライアウト)が行われたほど。

 そしてその結果は──

 

「ただし、致命的な欠陥があった」

 

 ──『中止』。

 M.O.Hスーツには『人工細胞が着用者の細胞を侵食する』という問題があったためだ。M.O.Hスーツを着用した者は、徐々に全身の人工細胞に乗っ取られていき、最終的には死に至る。それを防ぐため、抗がん剤にも似た抑制薬や麻酔代わりの覚せい剤、MO活性薬など多量の薬物を服用せざるを得なくなってしまう。

 

「けれど私にとって、人工細胞の侵食はむしろ都合がいい。なにしろ、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 だが彼女にとって、それはまさしく天恵に他ならなかった。適合するベース生物をオーダーメイドでこしらえてまで施したESMO手術。それを以てすら克服しえなかった難病から彼女を救ったのは、皮肉なことに死に至る欠陥兵器だったのだ。

 

「馬鹿なことを……! そんな方法で体が動くようになっても──」

 

「ええ、遠からず死ぬでしょうね」

 

 シモンの言葉に、千桐はあっけらかんと頷く。彼女が受けた処置は、断じて治療などと呼べるものではない。毒を以て毒を制すとでも言うべき、あまりにも乱暴な一時しのぎでしかない。

 

「ですが、それが何だというのでしょう? わたくしは死にながら生き続けることより、生き生きと死んでいくことを選んだ。これはただ、それだけの話……それに、悪いことばかりではありません」

 

「──!」

 

 そう告げた直後、千桐は車椅子ごと刀の間合いへと踏み込んだ。回避は間に合わない。シモンは咄嗟に両手でナイフを抜くと、右手のそれで白刃を受け止めた。

 想定よりもはるかに重い衝撃と共に、甲高い音と共に火花が散る。シモンが辛うじて剣閃を受け流せば、衝撃を殺しきれずにへし折れたナイフの刃がクルクルと宙を舞った。

 

(金剛丹製のナイフが一発で──!)

 

 動揺しながらも、シモンが手を緩めることはない。すぐさま逆手に握ったナイフを千桐の喉へ突き立てた。肉の柔い部分を狙ったはずの一撃だったが、即座に硬質化した人工細胞によって阻まれる。

 

「なっ!?」

 

「隙ありですよ」

 

 今度こそ驚愕したシモンの腹に、千桐の掌底が突き刺さった。体をくの字に折って吹き飛んだシモンは、乱立するガラス柱の一つに叩きつけられる。

 

「この感じ……直前で後方へ跳んで衝撃を逃がしましたか。粘りますね」

 

 黒く染まった手をしきりに握ったり開いたりしながら、感心したように千桐が呟く。

 

「痛っ、てて……!」

 

 激痛に顔をしかめながらシモンは上体を起こした。体を覆うキチンの甲皮にはひびが入っている。内臓にダメージがないのが不幸中の幸い。しかし千桐の外観からは想像もつかないその膂力は、紛れもない脅威。

 

「人工細胞による身体機能の上昇……話には聞いてたけど、ここまでとは」

 

 U-NASAドイツの報告によれば、『人工細胞の侵食率が一定水準を超えた着用者は、生身で人為変態に匹敵する身体能力を発揮する』。スーツの基盤となる人工筋肉や外骨格が、そのまま着用者の体に形成されるためだ。

 

 過去の事例では、人工細胞が侵食した被験者が、U-NASAの諜報局員5名を殺害している。確認された遺体はどれも損壊が激しく、首をねじ切られていたり体が上下に引き裂かれていたりと、獣害さながらの惨憺たる状況だったという。犯行はスーツ未着用かつ素手で行われたにも関わらず、である。

 

 限界まで人工細胞に肉体を侵食させた千桐の身体能力は、無論その比ではない。まして彼女の場合、直接戦闘型ではないとはいえそこにESMO手術による底上げも加わるのだ。その戦闘能力は過剰変態やαMO手術にも匹敵する。

 

 そして本格的な二度の打ち合いを経て──シモンはMO手術だけでは説明がつかない不可解な特性の仕掛けを見抜いていた。

 

「しかも、()()()()()()調()()()()()()

 

「ふふ、お気づきになられたようですね」

 

 クイズを当てられた子供のように、千桐は屈託なく笑う。

 

「特に隠す必要もないので喋ってしまいましょう。わたくしの車椅子(スーツ)に使われている人工細胞は、これ自体が専用武器です」

 

 ──改良型M.O.H兵器着用補助細胞『殺晶斥(せっしょうせき)』。

 

 彼女のスーツに使用される人工細胞は、着用者の手術ベースとなった生物の特性を発現できるよう、レオ・ドラクロワが独自の改良を加えたもの。そして千桐の肉体を構成する体組織がこの生物に置き換わることで、千桐の手術ベースとなった『コロナコリナ・アクラ』の特性は本来の真価を発揮する。

 

「なるほど、納得がいったよ」

 

 呼吸を整えたシモンは立ち上がると、これまでに得られた情報から不可解な特性の仕組みを完全に理解する。

 

 人体の限界を超えた超反射は、神経を約20万 km/sの(1秒に地球を5周する)速さで光を伝えるガラス繊維《光ファイバー》があって初めて成しうる絶技。攻撃に対する異様な打たれ強さは、被弾箇所をピンポイントで防弾ガラス化する精緻な細胞制御ありきの妙技。

 

 そのいずれも、M.O.Hスーツ“八咫硝子(ヤタガラス)”と人工細胞“殺晶石(せっしょうせき)”を専用装備とする彼女ならではの芸当である。

 

「サイボーグだからこそ発揮できる特性。確かに厄介極まりない……けど」

 

 そこで一度言葉を切ると、シモンは震脚を振り下ろした。口から吸いこんだ酸素を体内に循環させ、吐息と共に

 

()()()()()()()。千桐さん、次の攻撃で貴女を倒す」

 

「ふふ、小手調べはおしまいですか?」

 

 シモンの宣言に、千桐は楽し気に目を細めた。決してハッタリではない──そう確信させる気迫に、剣鬼はゾクゾクと胸を躍らせる。

 

「ならば、決着を付けましょう。我が刀の錆となるがよい……なんて、言ったみたりして」

 

 茶目っ気たっぷりな言葉とは裏腹に、刀を鞘に納めた千桐の佇まいには隙が無い。シモンは次の瞬間にも飛び出せるよう身構えながら、最後の打ち合いを仕掛ける機を見計らう。

 

 1秒、2秒……そして3秒の膠着を経て、戦況は一気に動き出した。

 

「フっ──!」

 

 シモンの姿がブレると同時、大地を蹴る音が二度響いた。千桐がシモンの姿を再知覚した時、彼は既に左方から突貫を仕掛けていた。

 

(そう来ましたか)

 

 要因⑦【攻撃の方向】。

 

 刀を差す者にとって、左とは『転身し』『間合いを計り』『刀を抜き』『斬る』という一連の動作に僅かなタイムラグが生じる死角である。

 

(ですが、この程度なら十分対応可能!)

 

 転身、M.O.Hスーツにより対応。間合い、光ファイバー製の神経系による高速伝達により、即時把握。サイボーグである千桐にとって、この要因はほんの一瞬で潰すことができる、誤差の範疇のもの。到底、形勢逆転の目となりうるものではない──()()()()()

 

「っ!?」

 

 シモンの姿を知覚した直後、千桐の視界は差し込む太陽の光によって真っ白に眩んだ。

 

 ──要因⑧【太陽高度】。

 

 無論この状況は、偶然の産物などではない。ここまでの立ち回りによってシモンが意図的に誘導したもの。千桐の瞳孔が光に順応するまでの僅かな時間、その一瞬に彼は全てを賭けたのである。

 

(面白い!)

 

 白い盲の中で千桐は笑うと、刀を鞘走らせた。目が眩む直前に捉えたシモンの姿から、間合いに踏み込むまでのおおよその時間は経験で分かる。見えない中で迫る敵の首へ、彼女は一閃を放つ。

 

 ──そして刃は、空を切った。

 

(! 攻撃の拍子をずらされた!?)

 

 急速に晴れ上がった眼前には、一瞬の静止を挟むことで読みあいを制したシモンの姿があった。

 

 ──実戦で居合を相手取るにあたり、攻略法と呼べるものは二つ存在する。

 

 そのうちの一つは、刀を抜かせないこと。そしてもう一つが、()()()()()()()()()()()

 居合術の脅威は、刀身が攻撃の直前まで鞘に納められているために太刀筋と間合いが読めない点にある。それ故に抜かせる──即ち初太刀を外してしまいさえすれば、居合術が他の武術に長じている点を潰すことができる。

 

 実際、江戸時代後期に記された武芸書『撃剣叢談』の中には『何の難きことか之あらん。抜かしめて勝つなり』との一文も残されているという。

 

 常人のみならず、戦っていたのが他の者であれば、ここで勝負は決していたであろう。

 

 

 

 

 

 

「 ま だ で す ! 」

 

 

 

 

 

 

 

 しかし楽し気に、そして往生際悪く叫んだ千桐は、すぐさま返す刃を振るった。

 

 ──『燕返し』

 

 2618年より遡ること1000年、とある日本の剣豪が編み出した“神速の切り返し”である。様々な創作において著名なこの技を実戦で使う場合、剣士には2つの条件が求められる。

 

 第一に、敵の動きに対応するすぐれた反射神経。

 第二に、全力の一撃から即座に真逆の軌道で剣を振るうための筋力。

 

 そして千桐は、この2つの条件を満たした剣客である。リスクを度外視した人体改造の恩恵が、彼女にもう一度だけ反撃のチャンスを与えた。

 

「ッ」

 

 それに気づいたシモンに、しかし今更後退という選択肢は与えられない。既に彼は日本刀の間合いに踏み込んでいる、進もうと退こうと二の太刀をかわすことは能わない。

 

 シモンは迫る刃から首を守るように、左腕を滑り込ませる。だが、それがなんだというのか? 鋭い一閃の前に昆虫の甲皮程度の防御は無意味、腕ごと首を刎ねられて終わり──千桐は思考するより早く直感し、だからこそ攻撃の手を緩めなかった。

 

 

 

 ──この瞬間、彼女の敗北は確定した。

 

 

 

「!?」

 

 手応えは肉袋を切り捨てたものではなく、硬質なものを切りつけた時のそれ──シモンの左腕は、彼女の斬撃を防ぎ切っていた。

 

 瞠目する千桐の眼前、シモンの拳法服の袖口から、透き通ったものが零れ落ちる。千桐が形成したガラス柱、そのうちの一つを折って袖口に仕込むことで、人間離れした反撃すらも凌いだのだ。

 

 そしてシモンは、千桐の懐へと飛び込んだ。今度こそ万策尽きた千桐は、小さく賞賛の言葉を口にする。

 

 

 

「あっぱれ」

 

 

 

 ── ド ン ! 

 

 

 

 轟音と共に吹き飛ばされた千桐の体は、乱立するガラス柱をへし折りながら地面に転がった。

 

 ──靠撃(こうげき)

 

 肘打ちですら近すぎる密着距離で放たれる一撃。(もた)れかかるの字の通り、それは肩や背中を起点とする体当たり。八極拳においても大技に類される技である。

 それを人間大のウンカたるシモンが練り上げた功夫を以て行使すれば……体重72kgの彼の肉体が、防弾ガラスを以てしても防げない砲弾と化すのは想像に難くない。

 

「かフっ、ごぽっ!」

 

 噎せ込んだ口から大量の血が溢れ出し、地面を赤く濡らす。ヒュゥと呼気を取り込むと同時、千桐は自分の体がミシミシと軋んだ音をあげるのを聞いた。

 

「わお……」

 

 制御を失った体組織が暴走を始めたのだ──どうやら先の一撃で、モザイクオーガンが損壊したらしい。肉体を構成する人工細胞が活性と自死を繰り返し、それに呑まれまいとベース生物の遺伝子が急速に変異している。自らの体を舞台に細胞と細胞が食い合う、蠱毒が如き惨状。

 手のひらを太陽に透かせば、その指先はゆっくりと霜が降りるようにガラス化を始めているのが見て取れた。

 

 ──ああ、ここまでですね。

 

 常人ならば発狂しそうな状態の中にあって千桐は冷静に、そして即座に命運が尽きたことを悟る。ダラリと腕を放り出した時、彼女の顔に影がかかった。

 

「……勝負ありだ。貴女はもう、助からない」

 

 シモンだった。フルフェイスヘルメットの奥でどのような表情を浮かべているかは分からないけれど、どこか千桐への憐憫を感じさせる気配を纏っている。

 

「介錯は?」

 

 その問いかけに、思わず千桐は笑ってしまう。問答無用で殺せばいいだろうに、わざわざ選択肢を与えてくれるのは……きっと彼の、人の良さからくるものなのだろう。

 

「お構い、なく。わたくしはこのまま、じっくり果てることに、します」

 

 だからこそ、千桐はその申し出を断った。剣鬼へ堕ち、修羅道を進むと決めたのは己自身だ。その末路がこれであるならば、その手に縋れば己は修羅ですらなくなってしまう。

 

「そう……なら、ボクはこれで」

 

「ええ、おげんきで……」

 

 じわじわと結晶化がしつつある手を振る千桐に、シモンは背を向ける。それから数歩ほど歩みを進めて……ふと、シモンは足を止めた。

 

「……最後に1つだけ」

 

「?」

 

 キョトンと目を丸くする千桐。そんな彼女を振り返ることなく、シモンは淡々と告げた。

 

「──貴女の居合、凄かった」

 

「! ……ふふ。ありがとう、ございます」

 

 どこまでも律儀な彼に、千桐は言う。それから「貴方も凄かったですよ」と続けようとして、シモンが既に走り出していることに気付くと口を噤んだ。

 

 ゴロリと寝返りを打ち、視線を空へ戻す。どこまでも雄大に広がる青はここ数年、血飛沫の赤ばかり見ていた千桐が久しく気に留めることのなかった色だ。

 

 ──剣鬼の最期としては、些か静穏に過ぎますが。

 

 千桐は目を閉じる。

 

 ──甘んじて、死ぬとしましょう。

 

 そうして彼女の意識は、ゆっくりと深い闇へ落ちていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「懐かしい気配を感じて来てみたらよぉ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「!」

 

 かけられた声に、千桐は目をカッと見開いた。冷え切った体が、急速に熱を取り戻していく。ああ、聞き間違えるはずもない、忘れるはずもない。この声は、よく通るこの声の主は──

 

「風邪村さんじゃねーか。こんなところで会うなんて、奇遇だな」

 

「ゆきしま、君……」

 

 幸嶋隆成。千桐が再戦を渇望した人物が、そこにいた。

 

「なんでここにいるのか、どうしてそんなことになってるのか……細かいことは訊かねぇ。興味ねーからな。だから一つだけ聞かせろ」

 

 ──()れるか? 

 

「当然、です」

 

 千桐の目に生気が戻る。その闘志に呼応するように異常活性した人工細胞が、ガラス化した末端組織を再侵食した。もはや屍も同然の体だが、それに鞭を打って彼女は体を起こす。この時のためだけに、彼女は全てを投げ打ってでも進み続けてきたのだから。

 

「立てなきゃ手を貸そうかと思ったが……大丈夫そうだな」

 

「おかげさまで。これこの通り、今のわたくしは元気いっぱいです」

 

 過剰変態にも似た肉体変異の賜物だろう。不随となった足腰すら、今この瞬間に限ってはかつてのように動いた。文字通り命を総動員して立ち上がった千桐を、幸嶋は油断も侮りもなく静かに見据える。

 

 ──彼らは両者ともに、互いの状況を何も知らない。

 

 幸嶋は千桐が人体改造によってサイボーグとなったことも、黒の城塞(ルーク)として侵略行為に手を染めていることも知らない。

 千桐もまた、幸嶋がアネックス計画の一員としてU-NASAに籍を置いていることも、つい先刻赤の怪物(モンスター)で重傷を負ってまさに搬送されている最中だったことも知らない。

 

 そんなことは知る由もないし、知る必要もないし、もっと言えば関係がなかった。武の道を極めんとする者同士が相対したのなら、肝要となるのは一点のみ。

 

 即ちどちらが勝ち、負けるか──それだけである。

 

「行くぞ」

 

「ええ、いつでも」

 

 言葉少なにかわすと、二人の武人は構えをとった。片や拳を、片や剣を。そうして対峙することしばし、やがてどちらともなく駆け出した彼らは、互いに全霊を込めた一撃を打つ。

 

 ──影が交差する。

 

 一瞬の静寂の後。ついに限界を超えた剣鬼の肉体は、こと切れて地面へと崩れ堕ちた。

 

「……いい試合だった。先にあの世で待っててくれ」

 

 ただ一合の死闘を制した人類最強は姿勢を正し、静かに告げる。

 

「俺が死んだら……その時はまた、続き()ろうぜ」

 

 砕け散った剣鬼に人類最強が手向ける、最大の敬意だった。

 





【オマケ】

千桐(霊)「いやー、それにしても強くなりましたね幸嶋君! わたくし、修羅に堕ちた甲斐がありましたよ! 本気の手合わせが楽しみです! 死ぬの待ってますね、ヴァルハラあたりで!」

幸嶋「余韻台無しじゃねーか」←霊感あり


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