贖罪のゼロ   作:KEROTA

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絶対凱歌EDGAR―7 結晶尖塔

 

 

 ──ここは、どこだ? 

 

 暗闇の中で自問するも、脳にかかった靄は答えを返さない。生温かい揺り籠の中で、彼女は緩慢に記憶の糸を辿った。

 

 ──私は、何をしていた? 

 

 長い夢を見ていた気がする、ひどく荒々しい夢を。

 

 どんな夢だっただろうか? 思い出そうとして、けれど彼女はすぐに思考を放棄した。眠気がひどく、体が怠い。何かを考えるのも億劫で、自分の体感さえも煩わしい。

 

 ああ、ならばいっそのこと、このまま眠ってしまおうか。そうすれば、もう自分を悩ませるものは何もない。大丈夫だ、まだ出勤までは時間がある。それにいざとなれば、母さんが起こしてくれるだろう。

 

 あと少しだけ。ほんの数分だけ。

 

 そう自分に言い聞かせながら、穏やかな闇の中へ意識を手放そうとした──その時。

 

 

 

『起きなさい』

 

 ──彼女の耳は、遠く懐かしい声を聴いた気がした。

 

『起きなさい、ミッシェル』

 

 厳しく、しかし慈しむように。その声はただ一言、ミッシェルに告げた。

 

『ここで眠ったら、二度とイヴに会えなくなってしまうよ』

 

「ッ!」

 

 その言葉に、彼女は思わず瞼をあげた。周囲に人の気配はない。幻聴だったのだろうか? いや、この際それはどうでもいい──大事なのは、ミッシェルが自らの置かれた状況を認識したことである。

 

(っ──思い出した!)

 

 ぼやけた記憶が、僅かに鮮明さを帯びる。そうだ──フィリップを戦闘不能にした直後、死角から現れた大蛇に締め付かれたのだ。

 

 彼女の視界に飛び込んできたのは、一筋の光さえない暗黒。全身を四方から圧迫するぬめぬめとした質感の固形物は数秒おきに脈を打っている。呼吸の度に嫌な生臭さが肺一杯に充満し、ミッシェルはえづきそうになるのを必死でこらえる。

 

 遠のく意識の中、彼女が最後に見たのは大口を開けた蛇の姿。

 

(つーことは……今私は奴の腹ん中か!)

 

 脳内で自らが置かれた状況を整理しながら、得られる知覚情報から態勢を把握していく──幸運なことに、右手の指を動かすと薬のホルダーに触れた感覚があった。すぐさま彼女は薬を取り出すと自らに打ち込むと、腹を突き破ろうとその腕に万力を込める。

 

「ッ──!」

 

 だがパラポネラの腕力を以てしても、大蛇の筋肉を凌駕するには至らない。消化管の収縮に押し返され、彼女は肉の壁に潰される。

 

 元より四方を筋肉で抑え込まれた状況で打てる手はそう多くない。加えてこの空間は、胎内ということもあって酸素が薄い。一時的にとはいえ、思考が覚醒したことは奇跡と言えよう。しかしそれにも限界に来ていた。

 

(クソ──!)

 

 再び靄がかかり始めた思考に、ミッシェルは舌打ちする。ただでさえ少ない酸素を急激に消費したことで、彼女の頭蓋は内側から鈍い痛みを訴えている。どう考えても、力技での打開は間に合わない。

 

(──考えろ。今の私にできることは何だ?)

 

 切迫する鼓動の音を聞きながら、ミッシェルは知恵を絞る……やがて彼女は、一つの可能性に行き着いた。

 

 あまりにも危険な方法である。仮に上手くいったとしても、戦線に復帰することは難しい。下手をすれば死ぬ可能性さえもある。

 

(いや。迷ってる場合じゃねぇか)

 

()()()()()()()()()()()()()()()。ならば彼女がとるべき行動は決まっている。

 

 ──こんなところで死ぬわけにはいかない。

 

 腹を括ったミッシェルは、一か八かの賭けに出た。

 

 

 

 ※※※

 

 

 

 ──どうにも自分は昔から、ここぞという場面でのツキに恵まれない節がある。

 

 メリュジーヌに抱かれ、死に行くシーザーを眺めながらフィリップは思案する。任務の度に思っていたことではあるが、今回もその例に漏れなかったようだ。

 

 思えばミッシェルに『(グレープフルーツ)』のタネを見抜かれたのがケチのつき始めだ。

 

 レオ博士が人体実験を兼ね、本来のベースを経由して接ぎ木の要領で差し込んだ特性。自らに組み込まれた意外過ぎる生物には思わず二度見したものだが、いざ使ってみれば『MO手術被験者』にとっては天敵のような能力だった。彼は幾度となく、その特性で強力なベースを宿した刺客を屠ってきた。

 

 それを、力技で破られた。

 

 仕方なく撤退まで隠しておくはずだった『(メリオルキス・カリビア)』と『メリュジーヌ』でミッシェルを下したと思えば、偶発的に遭遇した生物兵器(シーザー)との連戦である。表面上は余裕を崩していなかったものの、内心は生きた心地がしなかったというのが本音だ。

 

「だけど──これでゲームセットだ」

 

 己に言い聞かせるようにフィリップは呟く。裏腹に、その顔はどうにも晴れない。

 

 ──胸の奥に、粘つくような苦さがあった。

 

 この言いようのない嫌な感覚には覚えがある。かつて他国からのスパイであった親友を、迷いから殺せなかった時に似ているのだ。理由は分からないが、確信だけがあった……自分は詰めを過ったのだという確信が。

 

 これが思い過ごしであれば、どれほどいいだろう。だが自分の勘は、嫌な時に限ってよく当たる。どうにも自分は昔から、ここぞという場面でのツキに恵まれないのだ。

 

 ──虫の息。

 

 とぐろに巻かれたシーザーの意識がまさに闇へ落ちようとした、その瞬間だった。突如として大蛇が、その身を大きくよじった。

 

「メリュジーヌ?」

 

 異変に気付いたフィリップの眼前でメリュジーヌの巨体が大きく傾き、そのままアスファルトの上に倒れ込んだ。地響きと共にのたうち回る胴は車を押しつぶし、街灯をへし折る。もだえ苦しむ大蛇はえずくようにその肉を2,3回痙攣させると、その口から塗れた何かを吐き出した。体液に塗れながら地面に転がったそれは──。

 

「!」

 

 ──先刻、メリュジーヌが呑み込んだはずのミッシェル・K・デイヴスだった。

 

 アスファルトに蹲り荒い呼吸を繰り返す彼女は、満身創痍ではあるが確かに生きている。

 ニュートンの発達した嗅覚はミッシェルがメリュジーヌに対して仕掛けた攻撃を瞬時に看破し、フィリップは顔をしかめた。

 

「なるほどね……()()()()()()()()()

 

 やられた、と。彼はシンプルに感心した。

 

 彼女はメリュジーヌの腹の中で、もう一つの特性を使用したのだ。通常の放出ではメリュジーヌの巨体を炸裂させるには至らない。だから文字通り、自分の体中の水分を使ってギリギリまで出しきったのだろう。

 

 まさしく一か八か、危険な賭けだ。だが彼女は、それに勝った。急速な膨張を察知したメリュジーヌは、本能的に爆液ごとミッシェルを吐き出したのだろう。その証拠にミッシェルにまつわりつく吐瀉液からは、先刻フィリップに向けられた毒霧と同じ匂いが漂っている。彼女は見事に、怪物の胃の中からの生還を果たしたのだ。

 

 ただし、その代償は小さくない。

 

「カハっ……」

 

 乾いた声で咳き込むミッシェル。その手足は小刻みに痙攣し、浅く荒い呼吸を繰り返している。意識も半ば朦朧としており、フィリップを睨む眼光も弱弱しい。明らかに脱水症状を起こしている。本人が見立てた通り、戦線への復帰は不可能な状態だった。

 

 いかにオフィサーといえども、所詮は人間。フィリップの実力を以てすれば、今ならば赤子の手をひねるよりも容易く殺せる──

 

「──とはいかないんだよな、これがっ!」

 

 言いながら、フィリップは飛び退く。直後、彼が立っていた場所にメリュジーヌの巨木のような体が倒れ込んだ。

 

「グァルァ!」

 

 大蛇を引きずり倒した下手人、シーザーがすかさず追撃を仕掛ける。巨体を鞭のようにしならせてそれを弾き飛ばすと、鎌首をもたげたメリュジーヌは地を爬行し、獅子の横腹に食らいつかんとする。

 

(気ィ抜くと巻き込まれるな、こりゃ──!)

 

 とてもではないが、ミッシェルにとどめを刺すどころではない。顔面を直撃する軌道で迫る瓦礫を蹴り飛ばし、路駐してある車の影に滑り込む。呼吸を整えながら、フィリップは戦力差を分析する。

 

 素体──ライガーとティタノボア。どちらも戦闘力に優れた生物であるが、だからこそより大きい(デカい)方が優位であろう。よって軍配はメリュジーヌに上がる。

 

 手術ベース──ブルドッグアントとアルゼンチンアリ。純粋な戦闘力評価では明らかに前者の方が上。ただし、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。対アリ戦に特化した特性を持ち、現にシーザーがこれによって弱体化していることを考慮すれば、おそらくいうほどの差はないだろう。

 

 環境──基本的にどちらか片方を優位に働くことも、どちらか片方に劣位に働くこともない状況。だが、いざとなれば自分はメリュジーヌの補助に入ることができる。対して、シーザー側に助っ人は望めない……即ち、これもメリュジーヌに有利。

 

「……」

 

 故にフィリップは『見』に徹する。このまま順当に戦況が進めば、メリュジーヌは勝つだろう。仮に戦況がシーザーの有利に傾いたのであれば、自分が援護射撃をして戦況を仕切り直す。これがこの場において己がとるべき行動だと、彼は判断した。

 

 ──フィリップの分析には寸分の狂いもなかった。

 

 仮にこの状況におかれたのがステファニー・ローズであっても、同じ判断を下しただろう。フィリップは正しく汲み取るべき情報を選び取り、最善の行動を導き出していた。

 

 そう最善ではあった──だが()()()()()()()()。それが、彼の敗因。

 

「ッ!?」

 

「グ、ル──ガアアアアアアア!」

 

 フィリップが違和を察知したのと、シーザーが一際大きな咆哮をあげたのはほぼ同時だった。

 思わず物陰から飛び出したフィリップの眼前で、シーザーの姿が突如として変化を──否、変異を始めた。より強靭な甲皮に、より強靭な筋肉に、より強靭な顎に、彼の体が生まれ変わっていく。

 

「過剰摂取だと!? 俺は何も──」

 

 していない、と続けようとして。

 

 フィリップは見た──塵煙舞うアスファルトの上に立つ、人影の姿を。

 

「うっそだろ、おい……!?」

 

 フィリップは瞠目する。明らかに戦闘を続けられる状態ではなかったはずだ。意識もほぼ喪失していたはずだ。だがしかし彼女は紛れもなく己の足で直立し、己が成すべきことをなした。

 

(気力だけでここまでやるか普通──!?)

 

 フィリップのたった一つの誤算。それは彼がミッシェル・K・デイヴスという人間、その魂の本質を見抜けていなかったこと。

 

 これが彼の旧友であるオリアンヌであれば、躊躇うことなくミッシェルにとどめを刺していただろう。あるいはセレスタンであれば、無力化するために手足の骨を折るくらいはしただろう。

 

 だが人間を超えた人間として生を受けたフィリップは、およそ考えつきもしなかったのだ。生物としての規格が優位であるが故に、彼は()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 人間を超えた人間として生を受けた彼には、想像もつかなかったのだ。己の限界を超えて奮い立つ者の脅威──時に猫さえも噛み殺す鼠の執念がどれほど凄まじいものであるのかが。

 

 

 

「ミスった……!」

 

 

 

 フィリップはすぐさま指弾を放つ……が、僅かに遅かった。

 

「ガルルッ!!」

 

 アスファルトを蹴ったシーザーが跳躍し、鱗に覆われた喉元に食らいつく。その衝撃でメリュジーヌの体が大きく仰け反り、変態薬が充填されたフィリップの援護射撃は虚しく瓦礫に弾痕を刻んだ。

 

「シャアアァ!」

 

 メリュジーヌは激しく身をよじらせるが、過剰変態によりブルドッグアントの力を限界まで引き出したライガーを振りほどくには至らない。彼は両前脚の爪を大蛇の肉に突き立て、自らの体を固定し──その顎に、万力を込めた。

 

 ゴギリ、と。

 

 骨が砕ける音が響き、メリュジーヌの首があらぬ方向へと曲がる。首を90度回転させた大蛇は一瞬その巨体を硬直させると、重力に引きずられるように大地に沈んだ。

 

 

 

「グオオオオオオオオッ!」

 

 

 

 古き王の屍を踏みつけ、新しき王が勝鬨をあげる。その咆哮は空気を震わせ、ワシントン中に響き渡る。

 

 彼は勇壮に鬣を震わせると、既に意識を喪失したミッシェルを一瞥する。彼は眼前の人間が自分に何かをしたことを──より正確には、自分に助力をしたであろうことを理解していた。

 

 不届きだ、と本能が告げる。生態系の頂に君臨する王の威信にかけ、目の前の雌はその歯牙を以て殺すべきだ。

 

「……」

 

 だがシーザーは、何をするでもなく静かに視線を戻した。本能の言葉をかき消す程に、個としての魂が認めていたのだ。ミッシェル・K・デイヴスが見せた人間としての意地を。

 

 この場において、ミッシェルを殺さないこと。それが彼女に対して払うべき最大限の敬意であると、シーザーは判断を下す。

 

 ──ならばもはや、この場に自分が見るべきものはない。

 

 彼は踵を返した。予定外の足止めを食ったが、依然として自らの領土を侵す侵略者は健在である。例え己の命を賭してでも、王の矜持にかけて止めねばならない。

 

 シーザーはその歩を進めようとし──

 

 

 

Attendez(おいおい待てよ)

 

 

 

 ──咄嗟に、真横へ飛び退いた。

 

 バシッというかすかな音と共に瓦礫に弾痕が刻まれ、その鋭敏な嗅覚はそこから漂う柑橘の刺激臭を嗅ぎ取った。

 

「グァウ!」

 

「おお怖っ! あんまり吠えるのはnon merci(勘弁)だぜ、ライガー君」

 

 苛立たし気に振り返るシーザー。その視線の先で、フィリップはおどけた様に肩をすくめて見せた。

 

 

 

 ──フィリップ・ド・デカルトにとって、この状況は完全なイレギュラーだった。

 

 

 

 当初の想定通り、交戦勢力がビショップ(ミッシェル)ポーン(アメリカ軍)だけだったならば、彼は間違いなく勝利していた。仮にルーク(シモン)ナイト(スレヴィン)がいたとしても、それなりに上手くやっていた自信はある。

 

 だがいざ蓋を開けてみれば、ミッシェルを殺せなかったどころか猛毒部隊(ポイズナス)の別動隊は全滅。切り札だったメリュジーヌさえもたった今潰された。

 

 例えそれが、変則駒(シーザー)という計算外によって引き起こされたものであったとしても──『フィリップは敗北した』、この結果が全てである。

 

「ならさっさと尻尾を巻いて逃げろって話なんだけど、あいにく統合参謀長(キング)から撤退の指示はまだ出てなくてね。あーあ、嫌になるぜ本当に!」

 

 もはや自分に残された手札はない、完全なタネ切れだ。いかに自分がニュートンの血族と言えど、相手は過剰変態によりブルドッグアントの特性が強力に発現したライガー。生物としての土台が違うのだ、勝ち目などあるはずもない。

 

 ここが、自分の死地だ。

 

「フランスの、エドガー・ド・デカルトの矢に選ばれた男として──砕けた盾と折れた剣(あいつら)に情けない恰好を見せるわけにはいかねぇよな」

 

 脳裏をよぎるのは旧友たちの姿──オリアンヌとセレスタン、そして今はもういない戦友たちの姿。彼らと共に学び、戦い、語り合った日々のことが次々と流れ、消えていく。

 

 ──走馬灯に出てくるのも、お前らなんだな。

 

 今この場にはいない彼らが、自分と共に立っているかのような気さえする──それがとても、心強かった。

 

「任務は遂行する、ここから先には誰も通さない。どうしても通りたいんなら──まずは俺を殺してからにしてもらおうか」

 

 ──悪いな、オリアンヌ。思いの外早く後を追うことになりそうだ。

 

 ──許せよ、セレスタン。なるべくこっちには遅く来い。

 

 心の中で謝罪して、フィリップは弾丸を握る右手の親指に力を込める。それを見たシーザーもまた、身を低くした。

 

 既に獅子から立ち上る怒気はなりを潜め、代わりに戦意を鋭く研ぎ澄ましている。知性の存在しない獣ではあれど、自らの怒りを前にしてなお退かないフィリップに何かを感じ取ったらしい。

 

 歯牙にかけるまでもない存在から、打ち倒すべき敵へ。フィリップへの認識を修正し、シーザーは彼に向き合った。

 

「それじゃあ……遊ぼうぜ、猫ちゃん」

 

 そして次の瞬間、フィリップの親指が弾丸を撃ちだした。それを迎え撃つかのようにシーザーは駆け出し、フィリップへと飛び掛かる。己の頭上へ振り上げられた猛獣の強爪を見ながら、フィリップは満足げに笑みを浮かべた。

 

 ──まぁ、色々と思うところはあるけれど。

 

 

 

「悪くない人生だった」

 

 

 

 その言葉を最後に、倒錯の庭師の意識は途切れた。

 

 

 

 ※※※

 

 

 

 獣の咆哮と破壊音を遠くに聞きながら、シモンはすり足で僅かに間合いを詰めた。

 

 ──刹那。

 

「ッ!」

 

 シモンは大きく上体を仰け反らせ、寸秒前まで彼の首があった空間を日本刀が滑らかに切り裂いた。すぐさまバックステップを切り、彼は深く息を吐く。

 

 ──この人、凄い剣圧だ。

 

 フルフェイスの内側、シモンの額はぐっしょりと汗をかいていた。眼前の女性はたおやかな花のように笑みを浮かべながら、剣よりも鋭利な闘気を絶えずシモンへ向けている。自らの『死』、それを感じずにはいられなかった。

 

 だがそれ以上に──

 

「なんて反応速度……!」

 

 人間が事象を知覚し、反応し、そして動くまでにかかる速度は最高で0.1秒が限界。これは電気的要因によって決まっていることであり、いかに鍛錬を重ねようとその壁を超えることは不可能。

 

 だが彼女の──風邪村千桐(かぜむらちぎり)の反応速度は、明らかにそれを超えていた。

 

 尋常の技ではない。そして非常に、不可解でもある。

 

 単純に攻撃速度という観点で言えば、例えば張明明の手術ベースである『ハナカマキリ』であれば、0.1秒の壁を破ることはできる。しかしそれは能動的な攻撃速度の話であり、受動的な反射速度の向上に結び付くものではない。

 

 ならば知覚に優れた生物がベースとなっているのであれば、今度は攻撃速度の説明がつかない。特に千桐は変態しているにもかかわらず、その見た目に大きな変化が見られない。おそらくベースとなった生物に、肉体そのものを強化する特性はないのだろう。

 

 ならば、彼女の超速攻撃の正体は何だ? 

 

「ふふ……心が躍りますね。これほどの時間、真剣勝負でわたくしと立ち合って生きていた方は久方ぶりです」

 

 攻めあぐねるシモンに千桐はコロコロと笑い、「けれど」と続けた。

 

「悲しいですね。やはり貴方ほどの使い手であっても、彼には及ばない」

 

「……彼?」

 

 思わず聞き返せば、顔を綻ばせた千桐が「はい」と頷いた。

 

「ひたむきに己を研鑽する方でした。小難しい御託も、論理も、一切合切を無視して力のみ求めたヒト。その美しさと言ったら……病に伏し魂が枯死していた女を、修羅へ変生させるにあまりあるものでした」

 

 恋する乙女のように頬を赤らめ、ほぅと息を吐いた千桐は、うるんだ瞳をシモンへと向けた。

 

「頑張ってくださいね、ヘルメットのお方。この死線を、共に楽しみましょう。どうか()()()()()攻撃に、膝を折ってしまいませんよう──」

 

 ──幸嶋君ならこの程度、造作もなく凌いでくれますよ。

 

 そう言って、剣鬼は花のような笑みを浮かべた。

 

 

 

 ──全身をガラスで構築された生物がいる。

 

 それは水深1000m程の海底に生息する、奇妙な水棲生物。彼らはガラス繊維状の骨片が重なった網目状の円形体を持ち、プランクトンなどの有機物粒子を捕食するというごく無害な生態系を持つ。

 

 

 

 ──海綿動物。

 

 

 

 その中でも偕老同穴(カイロウドウケツ)を始め『ガラス海綿』と呼ばれる生物たちである。その美しい形状から芸術的価値を認められ、ヴィクトリア朝時代のイギリスにおいては3000ポンド以上の価値で取引されていた彼らは近年、工業的な視点からの評価もされている。

 

 彼らの最大の特徴、それは光ファイバーに類似した構造のガラス繊維を自ら生成できること。

 

 現代の技術ではガラス繊維の形成には高温条件が必須であるが、ガラス海綿たちはこれをごく低温の体内で生成することができる。加えて彼らは、体内の電気インパルスを高速伝達することで外部刺激に迅速に対応するためのシステムを有しているという。

 

 人類が最新の科学を以てして手に入れたその特性を、彼らは遥か昔から宿していた。ではその起源はどこにあるのか? 

 

 新生代か、あるいは中生代か? 否、それよりも遥か昔──5億6000万年前のエディアカラ紀には、既にその片鱗が地球上に現れていた。

 

 それは「硬質の組織を持つ最古の多細胞生物」として2012年に報告された、『エディアカラ生物群』と呼ばれる無脊椎動物の一種。属名を「縁のある丘」、種小名を「棘」という意の言葉からとられたその生物の構造体は、カンブリア紀の海綿動物と様々な特徴が類似していたという。

 

 これを現代の地球に生息する多種多様な海綿動物の合成によって復元した生物こそが、風邪村千桐のベースであり、彼女が行使する神速の抜刀術の真髄である。

 

 即ち──電気インパルスとガラス繊維体(光ファイバー)に置き換えた神経系による高速伝達システムと、その超知覚に反応できるだけの改造を施された肉体。

 

 この2要素を以て彼女は奇病による全身不随の真淵より全盛へ──即ち、龍百燐(ロンバイリン)に並ぶ現代の剣聖の座へ返り咲いて見せたのだ。

 

 

 

 ──ただ一人の男ともう一度、死合うためだけに。

 

 

 

 

 

 

 風邪村千桐(かぜむらちぎり)

 

 

 

 

 

 

 

 国籍:日本

 

 

 

 

 

 

 

 36歳 ♀

 

 

 

 

 

 

 

 162cm 66kg

 

 

 

 

 

 

 

 ESMO手術 “古代海綿型”

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ──────────── コロナコリナ・アクラ ────────────

 

 

 

 

 

 

 

 

 ──結晶の求道者(コロナコリナ・アクラ)反射(リフレックス)

 

 






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