──『彼』は暗闇の中で目を覚ました。
『彼』は不快そうに喉の奥から唸り声を漏らす。全身が酷く気だるい。それは睡眠が充足した、自然の目覚めではないためだ。
『彼』は生まれついての王だった。
王たる『彼』にとって自分以外の生物は全て等しく矮小な存在である。それは己という存在を作り出し、自らに食料を供する人間すら例外ではない。だから『彼』は、アメリカという国で繰り広げられる
槍の一族の刺客が軍事施設を立て続けに殲滅しようと、フランスの尖兵がホワイトハウスを陥落させようと、アメリカの英雄たちが護国のために立ち上がろうと。それは『彼』にとっては気を割く程の出来事ではなく。
だが一匹の悪鬼がアメリカの土を踏んだその瞬間、彼の意識は深き微睡から覚醒した。
それは理屈や倫理ではなく。王たる『彼』の根幹に根差す原初の衝動──即ち王座を脅かす者への強い敵意。『彼』は煮えたぎる衝動を押さえつけながら、ただじっと時を待つ。
──唐突に、暗闇の中に光が差し込んだ。
重々しい開門の音と共に、闇の閉鎖空間に道が拓けていく。『彼』はその眩さに一瞬だけ目を細め──立ち上がると、ゆっくりと歩きだす。
脆弱な檻を食い破り、喚きたてる矮小な人間たちを一睨みで黙らせ。そして『彼』は悠然と、生まれて初めて外界へと降り立った。視界いっぱいに果てしなく広がる大地に困惑はない。彼はただ一点、遥かなる地平の果てに立つ悪鬼を見据える。
──己の縄張りを無作法に踏み荒らす『外敵』は必ず排さねばならぬ。
『王』は暁に吠えると、大地を蹴った。牙を剥いた怪物に、自ら鉄槌を下すために。
※※※
「オォッ!」
「うわっとぉ!?」
渾身の力で振り下ろされた拳を、紙一重で躱す。ミッシェルの腕がアスファルトの地面を叩き割ったのを見て、フィリップはヒュゥと口笛を吹いた。次いで顔面を狙い振るわれた腕もヒョイと躱し、彼は「いいキレだ!」と笑う。
「筋肉ソムリエの俺だからわかるぜ! ただ鍛えぬいただけじゃあ、ここまでにはならない! 元々の体質を加味したってそうだ、相当筋肉を苛め抜いたらしい……案外ミッシェルたんはトレーニングマゾだったりするのかな?」
「キショい呼び方すんじゃねぇぞカス」
額に青筋を立てたミッシェルはスゥと息を深く吸い込む。
「──その喧しい口を閉じやがれ!」
そして、ふっ! と彼女は肺の中の空気を一息に吐き出す。しかしそれはただの呼吸、ただの吐息ではない。フィリップの鋭敏な視力は、空気の流れに乗せられた霧状の液体を視認した。
「爆弾アリの特性か!」
吸い込んだら体の中で破裂する。事前情報と突合、即座にその正体を見抜いたフィリップのとった行動は回避ではなく、迎撃だった。
「ちょっとカッコ悪いけど……ブゥッ!」
そう言いながらフィリップもまた口内から何らかの液体を噴霧する。それはミッシェルの爆液とぶつかると、パシュゥ! と炭酸飲料の入ったペットボトルを開けたときのような音を立てて相殺される。
「やれやれ危なかったな、っと!」
「チッ……!」
間合いを詰めようとするミッシェルだが、それより一瞬早くフィリップはサイドステップを切る。好機を逃したミッシェルは深追いせず、態勢を立て直し……戦況は白紙に戻る。
──防戦に徹してやがるな、こいつ。
ミッシェルは静かに敵の挙動を観察していた。先ほどからずっとこの調子だ。眼前でニヤつく変態は防戦に徹し、自分からほとんど仕掛けていない。ミッシェルの攻撃は防御や回避でいなし、間合いに踏み込めばするりと離脱。
おそらく目の前の変態は、敵の一味の中で『足止め』を任されているのだろう。のんべんだらりと戦闘を引き延ばし、敵を釘付けにする。一刻も早くホワイトハウスへと向かい、先行したシモンとスレヴィンに助勢したいミッシェルにとって最大級の嫌がらせである。
向こうから突っ込んできてくれるならば、いくらでも手の打ちようはあるのだが──
「やりづれぇな、クソ……!」
「そりゃ光栄!
そういってからからと笑うフィリップに、ミッシェルは舌打ちしたい衝動をぐっとこらえる。相手のペースに乗せられるな、ここで反応すれば思う壺だ。例えその言動がどれだけ不快でも耐えるのだ、そう己に言い聞かせ──
「いやそれにしてもミッシェルたん、君の筋肉はほんとエロいな! 特に殴り掛かるときの上腕三頭筋の隆起とか、勃起もんだ! ちょっと触らせてくれ!」
「寄るなこのセクハラ筋肉フェチ野郎」
秒と耐えられなかった。元々ミッシェルは気が長いほうではない、あっさりと堪忍袋の緒が切れた彼女の額には、青筋が浮き出ていた。
「つーかさっきからお前、オーデコロンがくせぇんだよ。変態の癖にフレッシュな香りしやがって」
「ひっでえ!? 俺の性癖と香水は関係ないだろ!?」
とほほ、とウソ泣きして見せるフィリップ。そのおどけたその振る舞いを冷めた目で見つめながらも、ミッシェルは思考を止めない。
──奴のベースはおそらく、『植物型』。
ジリ、と足に力を込めながらミッシェルは確信する。体表を走る葉脈の如き緑の筋、額から生えた角のような棘──それこそが彼女の推測を裏付ける論拠だ。
植物型の被験者が得意とするのは、毒や化学物質による特殊攻撃──格闘能力に直結しない代わりに、彼らの特性は搦手においては数ある生物型の中でもトップクラスの性能を有する。
そしてそれを補うように、高い身体能力を有する
だからこそ、モタモタしているとまずい。こちらの手札が完全に割れてしまえば、打つ手がなくなる。
幸いにして、今日の彼女のポテンシャルは絶好調だ。短時間とはいえ、静養が効力を発揮したのだろうか? 力が漲り、いつもの三割増しで力を振るうことができている。おそらくは、今が好機。
「──しかたねえ」
「うん?」
発言の意図を読み取れずに、フィリップが肩眉を上げる──その瞬間、
それはミッシェル・K・デイヴスの専用武器である、対テラフォーマー起爆式単純加速装置『ミカエルズ・ハンマー』によるもの。四肢や背中に取り付けた装置で彼女の特性である『爆弾アリ』の爆液を起爆し、攻撃や移動を爆発的に加速させるのである。
先の戦いではついぞ使うことはなく、軍病院に軟禁された際に押収されていたものをシモンが取り戻し、ここへ来る前に装備しておいたのだ。
「う、おッ!?」
爆風に押し出された彼女の体が一気に間合いを詰める。不意を突いた予想外の動きは、ニュートンの知覚を以てしても完全には反応しきれない。
(よけ切れない!)
へらへらとした笑みをひきつらせたフィリップの眼前で、ミッシェルが拳を握り締める。
「ぶっ飛べッ!」
振りぬかれた拳が、フィリップの腹に突き刺さる。そのまま彼の体は宙を舞い、派手な音共にガラス扉を突き破って向かいの通りの店の中へと突っ込んだ。この場にギャラリーがいれば「やりすぎだ」と思ってもおかしくないシーンだったが、しかしミッシェルの顔から警戒の色が消えることはなかった。
「……直前で後ろに跳びやがったか」
殴りつけた瞬間、拳に伝わった感触は羽を殴ったように軽かった──直前で後方に飛び退いたのだろう、これほど派手に吹き飛んだのはミッシェルの拳圧によるものだ。
──おそらく今の一撃では仕留め切れていない。
追撃のため、ミッシェルはアスファルトの地面を蹴った。建物の影を出た彼女は、朝日の照らす車道へと身を晒し──
──そして、
「なッ!?」
何の前触れもなく体に表れた異常に、ミッシェルは思わず足を止めた。咄嗟に激痛を訴えた右腕を見やれば、変態したその腕はひどい火傷をしたかのように赤く爛れていた。いや、右腕だけではない。左腕、顔、首筋……全身の至る箇所に、同様の症状があらわれている。
この状況下で己の肉体を襲う、謎の炎症。その元凶に思い至らない程、ミッシェルは愚鈍ではない。
「奴の特性か……!?」
「ご名答~!」
場違いに陽気な声が響き、建物の中からスーツについた埃を払いながらフィリップが姿を現す。果たしてミッシェルの予想通り、軽やかな足取りで歩みを進めるその姿に、ダメージを受けている様子は見られなかった。
「けど、ちょっと気付くのが遅かったねぇ」
その瞬間、ミッシェルの右肩を無音の弾丸が貫いた。
「ッ……!」
「ハハ! さすがの『ファースト』も、まさか素手の男に撃たれるとは思ってなかったかい?」
甘いなぁ、と。中折れ帽をかぶり直しながら、フィリップがせせら笑う。彼は手中に握る銀色の弾丸をこれ見よがしに地面へと転がして見せた。
「指弾術──文字通り指で礫を弾いて攻撃する暗器術の一つさ。うちの武術顧問が手慰みに教えてくれたんだが、これが中々便利でね。予備動作が少ないから、ミッシェルたんみたいな戦闘のプロでも割とあっさり喰らってくれるんだ」
「フン、随分べらべらと喋るじゃねえか」
灼熱感と撃たれた肩の痛みに顔をしかめながら、ミッシェルは吐き捨てた。
「勝った気でいるのか? だとしたら、めでてぇ頭だ。私がもう戦えないとでも?」
「──俺はそう思うけど?」
フィリップは意味ありげに答えると、ミッシェルを指さした。そして「ほぉら」と、彼は口を三日月に歪ませる。
「
──ミシリ。
鼓膜に響く奇妙な音。それが自分の体から上がった音だと気付くよりも早く、
「ぎッ……ぐ、ああああああああ!?」
内臓が引き裂かれるような痛みに、ミッシェルの口から苦悶の咆哮が飛び出した。声帯への負荷に喉が熱を帯びる。
──どういうことだ……!?
焦燥と混乱。しかしその中にあって、ミッシェルは自らの体を襲う異変の正体を正確に見抜いていた。
全身の痛みに呼応するように眼球が昆虫の複眼へと変異し、筋肉が増強された両腕にはパラポネラの毒針が発現する。急速にベース生物へと近づいているその体には、先ほどまでとは桁外れの力が漲っていた。
「過剰変態、だと……ッ!?」
MO手術で埋め込んだ生物の特性は、投薬によって被験者の細胞を『一度壊して造り直す』ことで発現させるものだ。当然、急速な人体の再構築には相応の痛みが伴う──ましてやそれが、肉体の限界を超えて力を引き出す『過剰変態』ともなれば。
通常、人為変態薬には即効性の麻酔物質が配合されているため、被験者が耐えがたいほどの苦痛を覚えることはない。
だが、もしも投薬以外の方法で過剰変態を引き起こされた場合──一切の緩和がされない激痛は、人からベース生物への不可逆の変異は。
肉体と精神の双方を鋭く打ち据える『鞭』となる。
「おかしいな……普通なら『戻れなくなる』量を打ち込んだのに、まだ人のままだ」
──やっぱ生まれつきMOを持ってると、変異への耐性値も高いのかな?
苦しむミッシェルの様子を見たフィリップは不可解そうに眉をひそめ、しかしすぐにその思考を打ち切った。大事なのは原因ではなく、ミッシェルから戦闘能力を未だに奪えていないという現状。ならば、己のすべきことなど決まっている。
「ま、それならもう1回打ち込めばいいだけか」
そう呟きながら、フィリップは次弾を握りこんだ。ミッシェルを生け捕りにする、という考えは最初から存在していない。彼女を捕縛すれば、フランスが国家間の軍拡競争で一層有利になることは疑いようがない。だが欲をかいて本来の目的を達成できない、などとなっては本末転倒だ。
二兎追う者は一兎を得ず──フィリップは経験上、それをよく知っていた。
「じゃあね、ミッシェルたん。戦友ほどじゃないが、悪くない筋肉だった」
フィリップの親指に力がこもる。その指が弾かれ、発射された弾丸が肉体に到達すれば、今度こそ死ぬ。ミッシェルは直感した。迷っている時間はない。
「オォッ!」
反射的にミッシェルが地面を殴りつけた。過剰変態によって極限まで高められたパラポネラの筋力はコンクリートを叩き割り、地割れを引き起こす。フィリップの足元がぐらつき、僅かに狙いが逸れた弾丸はミッシェルの髪を数本散らすに留まる。
フィリップが次の弾丸を取り出して握り込むまで、ほんの数秒ほど。その僅かな隙を縫って車の陰に飛び込んだミッシェルは、そのまま障害物を利用してビルの中へと逃げ込んだ。
「……あー、逃がしたか」
面倒なことになった、とフィリップは頬を掻く。
彼が『鞭』と呼ぶベースによる攻撃は、実は非常にリスキーな代物だ。万が一にも仕留め切れなかった場合、過剰変態によって極限まで強化された相手とそのまま戦う羽目になるためである。
加えて屋内という環境においては一部の効果が発揮しづらく、遮蔽物が多いために指弾の射線も通りにくい──ミッシェルがそこまで考えていたかはともかく、『鞭』への対策としては最善の一手だ。
「しょうがない、なるべく早く仕留めないとだしなぁ……」
億劫そうに呟いたフィリップは、ミッシェルの後を追ってビルの中へと入っていくのだった。
※※※
「ハァ……ハァ……クソっ!」
ビルの上階、オフィスに並べられた事務机の陰に身を隠し、ミッシェルは悪態をついた。あのふざけた野郎にいいように遊ばれ、逃げることしかできないとは何たる体たらく。今の情けない状況を招いた自分がたまらないほどに苛立たしかった。今すぐにでも飛び出していって、あの男をぶちのめしたいほどに。
──いや、落ち着け私。
けれどミッシェルの中の理性が、それに待ったをかけた。深く息を吸い、気を静めていく。
今彼女が生きている状況は、完全に偶然の産物である。彼女は本能で理解していた。今は一連の症状が落ち着いているものの、次は戻れないだろう。無策で打って出るのは余りにも無謀。
「考えろ、奴の特性はなんだ……?」
ミッシェルは記憶を反芻する。彼女を襲った現象は二つ。突然の爛れと過剰変態の誘発である──おそらく、毒によってもたらされたものだろう。ならば、毒をこれ以上受けないことにこそ気を配るべきだ。
問題なのは、その投与経路である……候補が多すぎて、絞り切れないのである。過剰変態が弾丸を撃ち込まれた瞬間に表れたのに対し、皮膚の爛れは何の前触れもなく訪れたものだ。故にこの毒は直接注入によって効果を発揮するものなのか、ガス状の散布によってこそ効果を発揮するものなのか、あるいはもっとそれ以外の方法で自分は毒を受けたのか──無数の可能性が堂々巡りして、これという回答に辿り着けない。
──こうしてる間にも、奴が来るかもしれないってのに……!
ミッシェルが焦りを覚えたその時、彼女は首筋に焼けるような痛みを覚えた。
「ッ!!」
まさか、もう追い付かれたのか?
ぎょっとして振り返った彼女の視線の先に、しかし中折れ帽の男の姿はない。代わりに目に映ったのは磨き上げられた窓ガラスと、その向こう側から差し込む日光の身──誰もいなかった。
その事実に無意識に胸を撫でおろし、それから彼女は一段とその表情を険しくした。
──なんでまた今になって、急に肌が爛れた?
この場所には、未だフィリップの魔の手は迫っていないはず。ならば、既に付着していた化学物質が、何かに反応した?
首筋をそっと撫でる。肌は微かに腫れあがって、異様な熱を帯びている。まるで、ひどい日焼けでもしたかのようだ──。
「……日焼け?」
ふと引っかかりを覚える。日焼け……つい最近、その言葉を聞いた覚えがあるような気がしたのだ。
『どう、ミッシェル? いい匂いでしょ?』
『ん? ああ、そうだな……トリートメント、変えたのか?』
そうだ。確か少し前に、風呂上りの母親と話していた時のことだ。
『そうなの! この間友達に教えてもらった、ちょっといいオイルでね。髪の艶が今までのと段違いだから、使ってみて!』
『おー。気が向いたらなー』
気のない返事をするミッシェルの様子に気付いているのかいないのか、彼女は『ああ、そうそう』と、思い出したように付け加えたのだ。
『そのオイル、
「そういうことか……!」
「見ぃつけたっ!」
ミッシェルが叫んだのと、オフィスのドアが蹴破られたのはほぼ同時だった。
「さぁ、かくれんぼはおしまいだぜ!」
勢いのまま踏み込んできたフィリップの親指が、弾丸をはじき出す。机の陰に隠れてそれをやり過ごしたミッシェルは、手近な事務椅子を掴むとそれを力任せに放り投げる。
「ナイススローイング! 全身の筋肉の躍動感がえっちだね、ミッシェルたん!」
飛来する椅子を躱したフィリップの言葉を無視し、ミッシェルは観葉植物の幹を引っ掴むと鉢ごと投げつけた。
──私の予想通りなら、勝機は一瞬。
フィリップを自身へと近づけさせないために、一瞬の正気を待ちながらミッシェルは手が届く範囲にある物をひたすら投げつける。投げ尽くしたら別の机の陰に滑り込み、また投擲。
時間にして30秒ほど、三回ほどそれを繰り返したところで……待ち望んでいた、その瞬間は訪れた。
──来た!
ミッシェルは自らの盾としていた事務机すらも放り投げると、フィリップに向かって走り出した。姿勢は低く、一気に距離を詰める。しかしミッシェルの拳が届くよりも先に、フィリップが動いた。
「おっと残念」
彼の指が弾丸を弾く。遮蔽物はない、全速力で突進するミッシェルは回避することもできない。弾丸は吸い込まれるようにミッシェルの肩を貫いた。
「これで終わりだよ」
ぐらりと前のめりに傾いたミッシェルの体に、勝利を確信したフィリップが呟く。
「まだ、だァ!」
「!?」
だが、ミッシェルは倒れなかった。ダン! と一段と強く踏み込むと大地を蹴り、勢いのまま拳を振るう。
「ぶべッ!?」
今度はよけきれない。ミッシェルの拳はフィリップの顎を打ち、その体は錐もみになって宙を舞った。窓ガラスを突き破り、彼の体はアスファルトの道路へと落下した。
「イデッ!? ……うっわ、マジか」
瞬時に自身の容態を把握したフィリップは顔をしかめた。咄嗟に受け身をとることで衝撃を緩和、致命傷は避けた。だが平衡感覚が狂っている……先の一撃で脳を揺らされたらしく、立ち上がることができない。
「やめやめ! こりゃ無理だ」
早々に立ち上がることを諦めたフィリップは脱力し、大の字になって仰向けに転がる。それから、建物を出てきたミッシェルをちらりと見やる。彼女は淀みない足取りで歩みを進めるが、あるところまで進むとピタリと足を止めた。
そこは太陽光が降り注ぐ日向と、ビルの日陰の境界。決して日の当たる場所に出ようとしない彼女の様子に、フィリップは確信した。
「どうやって俺の特性に気付いたのか聞いてもいいかな、ミッシェルたん?」
「これって決め手はねぇな。断片的な要素から組み立てた予想が、まぐれ当たりしたってだけだ。だから、率直に言って意外だったぜ──」
ミッシェルは表情を崩すことなく、しかし本当に意外そうな声音で告げる。
「まさか手術ベースが『グレープフルーツ』とはな」
──グレープフルーツ。
言わずと知れた、柑橘系の果物である。ブドウのように果実が房となってできるために『グレープフルーツ』と呼ばれるこの果物は、言うまでもないことだが危険生物などではない。
甘味と酸味の中にほろ苦さが混じった味が特徴的なこのフルーツは、多くの人間にとってはごくありふれた食材の一つ。近所のスーパーを訪れればダース単位で売っているような代物に、人間を殺すような猛毒など含まれているはずもない。
「だが、“日光にさらされた時”と、“ある種の薬と一緒に服用した時”だけは例外だ。どちらかが満たされた時、グレープフルーツは人間に害をなす」
グレープフルーツの果肉に含まれる植物性化合物質『フラノクマリン』がその原因である。
もしも皮膚にグレープフルーツの果汁が付着した状態で日光にさらされれば、紫外線エネルギーによってフラノクマリンが化学反応を引き起こし、細胞のDNAに深刻なダメージを与える。ミッシェルの体を蝕む『爛れ』の正体がこれだ。
これだけでも濃度によっては失明もありうる程の強い効果だが、真にフラノクマリンが恐ろしいのは付着した時ではなく薬と一緒に摂取した時。
フラノクマリンは薬の代謝機能に影響を与え、生物学的利用能を増大させる。シンプルにいえば、
MO手術の被験者がその特性を発揮するためには、原則として変態薬の接種が不可欠。必然的に『フラノクマリンが真価を発揮する』土壌を整えてしまっていることになる。
加えてフィリップは鍛錬により、このフラノクマリンの濃度を自在に操ることができる。果汁100%のジュースを飲むだけで人が死ぬこともあるのだ、より濃度を高めたそれを体内に注入されればどうなるか……その答えは、フィリップがこれまでに葬ってきた敵を見れば明らかだ。
「ただそれなら日光に当たらなければいい、薬を使わなけりゃいいだけの話だ。だから私は、薬が切れる瞬間を狙ってお前に特攻を仕掛けた」
「なるほどねぇ……これだから、αMO手術や先天性のベースを持つ奴の相手は嫌なんだ」
うんざりした様にフィリップはこぼす。
薬が毒になるなら、薬を使わなければいい──だがそもそもの前提として、ニュートンの血族に連なるフィリップに、生身の白兵戦で勝てる者はそうそういない。だからほとんどの被験者にとって、この攻略法は実質的に机上の空論である。
しかし、その例外がαMO手術による施術を受けた者や、ミッシェルのように先天的にベースを有する者たちだ。彼らは薬を使わずに変態ができため、フィリップが有する生身の優位性が発揮されづらいのだ。
もちろん、尋常の使い手であればフィリップが負けるようなことは早々ない。だがミッシェル・K・デイヴスという人間の戦闘能力は、残念ながら並の枠組みに収まるものではなかった。
「お喋りは終わりだ、変態野郎──テメーを連行する」
「……ああ、そうだね」
ぱきぱき、とミッシェルが拳を鳴らす。それを見て、フィリップもまた倒れ伏したまま頷いた。
「
──バガァンッ!
轟音と共にアスファルトの地面が盛り上がり、そして爆ぜた。大小さまざまな礫が飛び散り、土煙が巻き上がる。
「! テメェ、何を──ぐ、かはッ!?」
事態を把握する間もなくミッシェルの体は何かに巻き付かれ、そのまま持ち上げられた。下手な樹木の幹などよりもよっぽど太く長く、びっしりと生えた滑らかな鱗に全体を覆われている。強靭な力でミッシェルの体を締め上げるそれは、パラポネラの筋力でも振りほどくことができなかった。
──シュー。
呼吸ができずチカチカと明滅する視界に、奇妙な音共にミッシェルを絞め殺さんとする者の姿がヌゥと映り込む。
それは巨大な怪物の頭だった。楕円の形状、縦長に絞られた瞳孔、シューシューという音と共に不規則に口から出入りするその舌の先端は二又に割れていた。
──蛇だと……!?
そんな馬鹿な、と目を剥くミッシェル。彼女の目測に間違いがなければ、この蛇の全長は15mは下らない──建物に換算して、実にビル4階建て分以上。そんな巨大な蛇がいるなど、聞いたことがなかった。
「いや、見事だったよミッシェルたん。実際、俺の武器が『鞭』だけならヤバかった……けど残念だったね」
その眼下で、フィリップは「よっこいしょ」と上体を起こした。まだ本調子ではないのか立ち上がる様子は見せないものの、随分と回復したらしい。彼は帽子をかぶり直しながら続ける。
「俺は単なるサディストじゃあない、『飴』と『鞭』を使いこなす調教師なのさ──やれ、メリュジーヌ」
フィリップの指示に従うように、メリュジーヌと呼ばれた蛇はミッシェルを締め付ける力を一層強める。なんとか振りほどこうと足掻くミッシェルだが、その力は次第に弱まっていく。
──太古の昔に滅び、進化の競争から脱落した絶滅生物をベースとする『ESMO手術』。
一人の天才が編み出したこの術式の実態は、現存する生物を掛け合わせ生み出された
今まさにミッシェルを死の淵へと追いやっているこの蛇、メリュジーヌもそうして生み出された合成生物の中の一匹だ。
手術の際の材料として生み出されながら様々な事情が重なって手をつけられることなく、研究施設内で飼育されていた余り物の実験動物。それをフィリップがもう一つの特性である『飴』を使い、騎馬ならぬ騎蛇として手懐けたもの。
古代爬虫類 ティタノボア・セレホネンシス──獰猛な捕食者であるワニを主食とする、史上最大の蛇である。
「メリュジーヌ、もう食べてもいいよ」
フィリップの言葉に返事をするようにシュゥと音を立てると、メリュジーヌはぐぱりと大口を開いた。生臭い吐息がミッシェルの頬を撫でるが、意識を失った彼女は何の反応も示さない。
そしてメリュジーヌはミッシェルに食らいつく。頭から丸のみにし、嚥下する──そうして初めて、フィリップは口を開く。
「悪くなかったけど、オリアンヌやセレスタン程じゃないな……ま、元騎兵連隊長の面目躍如ってとこか」
這い寄ってきたメリュジーヌの頭を撫でると、掌からジワリと蜜のような物をにじませる。それを舐めとった大蛇は、どこか恍惚としたような様子で、その目を細めた。
──その花が咲いていたのは、今から推定2000万年ほど前。
ドミニカ共和国で発掘されたその琥珀の中に閉じ込められていたのは、一匹のハチだった。興味深いことに、そのハチは全身に花粉をまとわりつかせていたのである。検査の結果、その花粉はラン科の植物のものであることが判明。これをきっかけにして、ランの祖先の出現時期と繁栄の系譜が明らかになる──博物誌において重要な意味を持つこの花はしかし、それだけ。現生する植物のように奇々怪々な能力を持っていたかどうかなどは一切不明であり、今後明らかにされることもないだろう。
しかし重要なのは、彼らがラン科の植物であるという事実。
アリ植物、と呼ばれる植物がある。繁栄のため、ある特定のアリとの共生に特化して進化を重ねた植物たちの総称だ。
一例を上げれば、ラン科植物の胡蝶蘭などは花外蜜線と呼ばれる器官から蜜を放出することで蟻を誘引して繁殖や外敵の排除のために利用する。またある種のアカシアはより狡猾で、蜜の中にアリの特定の消化酵素を分解する物質を混ぜ込んでいる。これにより、一度アカシアの蜜を口にしたアリたちはそれ以外の食物を摂取することができなくなり、この木のために働かざるをえなくなってしまうのだ。
長い進化の中で
フィリップ・ド・デカルト
国籍:フランス共和国
27歳 ♂
179cm 76kg
MO手術 “植物型”
&
ESMO手術 “古代植物型”
──倒錯庭師の飴と鞭、
「さて、本隊はまだかな? いくら俺でも、これ以上は限界──!?」
ようやく立ち上がったフィリップは一人口を零そうとして、口をつぐむ。かつて一度だけ、戦友たちと共に挑んだ怪物が発したそれによく似た、圧倒的強者を前にした時に感じる
──何か、来る。
フィリップの頬に冷や汗が伝い、メリュジーヌも警戒するように鎌首をもたげた。ミッシェル・K・デイヴスなど比ではない──もっとずっと強大な何者かが、間もなくこの場に現れる!
「ガァアアアアアアアアアアアアアア!」
轟音と共に着地したソレは、獣の如き咆哮を挙げた──否、『如き』という表現は正確ではあるまい。
なぜならば、フィリップとメリュジーヌの前に突如現れた『彼』は比喩でもなんでもなく、正しく獣であったのだから。
彼は生まれついての『王』である。その肉体に流れる気高き血の半分は『
彼は生まれついての『兵器』である。ただでさえ強力なその肉体は、最先端の改造術式により限界すらも超越した強化を施されているがゆえに。即ち、MO手術──ベースとなった生物は数ある生物の中でも最強クラスの昆虫である。
最強 × 最強 = 最強
あまりにも単純な真理。それを現実のものにするため、人間の手で生み出された『彼』の名は、シーザー。
シーザーは怒っていた、怒り狂っていたといってもいい。
己の領土に土足で踏み込み、今なお進軍し続ける侵略者──己の玉座を脅かさんとする不敬者が一匹ならず二匹もいたことに。
「ガルル」
獣王たる『彼』は牙剥き、唸る──星霜の微睡より目覚めた古代の蛇王を、今一度醒めぬ眠りへと叩き落すために。
シーザー
国籍: ── / アメリカ
7歳 オス
体長250cm 体重400kg
MO手術 “昆虫型”
──
――それは、『喰らい合う二匹の獣』。
【オマケ】(※オリアンヌのベースネタバレ注意)
レオ「それでは手術ベースを発表する。オリアンヌ、君は『アンキロサウルス』だ」
オリアンヌ「ふむ、シンプルに使いやすい……よき力を得た」
レオ「次、セレスタン。君は『シノルニトサウルス』」
セレスタン「こっちはスピード型か。悪くない、鍛えがいがあるな」
レオ「そして最後、フィリップだが……」
フィリップ「……」ワクワク
レオ「『グレープフルーツ』だ」
フィリップ「待てや」