――
ホラー映画でも比較的ポピュラーなこのクリーチャーの起源がアフリカにあることを知る者は存外に少ない。
そもそも“ゾンビ”の語源はコンゴで信仰されている「ンザンビ(Nzambi、不思議な力を持つ者)」に由来し、その性質はブードゥー教の司祭の一種である「ボコ」が魔術的な儀式を取り行うことで「起き上がらせた」死者というものであった。
霊魂の存在を信じるアフリカの農民たちにとって、永劫その魂を奴隷として掌握される「ゾンビ」はさぞかし恐ろしい概念であったことだろう。彼らは死体を埋葬後36時間も見張ったり、死体を切り裂いたりして、家族や親しい人がゾンビ化しないように手を打ったという。
しかし、しかしである。これが神秘の存在が信じられていた中世以前であれば、あるいは深く霊魂の存在を信仰する人々であれば話は別だが――残念ながら、自然科学の発達した現代において、ゾンビはさしたる恐怖ではない。
だから現代になって、新たなゾンビが産み落とされた――それがパニックホラーでお馴染みの「感染するゾンビ」である。「捕食」という攻撃手法、「噛まれた」者はいずれゾンビになる、鼠算式に「増え続ける」、そしてゾンビ化の原因は感染症や寄生虫などの“パンデミック”。神や悪魔などのオカルトではなく、論理的に説明ができ「もしかしたら」というリアリティを感じさせる科学による説明は、観衆を大いに魅了したことだろう。
もっとも、多くの人が映画館で悲鳴を上げながらも、胸を躍らせて主人公たちのスリリングな冒険を楽しむことができるのは、どこまで行ってもゾンビがフィクションのクリーチャーにすぎないからである。感染するゾンビは
もし何の前触れもなく、パンデミックが起こったとして。
もし感染症が蔓延し、理性を失った人食い怪物がうろつき始めたとして。
もし捕食対象として、自分やその身近な人が絶えず危難と恐怖の坩堝に叩き落とされたとして。
果たしてヒトは、どれだけ冷静でいられるのだろうか?
それは――『伝染する狂気』。
――――――――――――――――――――
――――――――――
スレヴィンから手に入れた情報と、目の前から迫りくる異形と化した職員たちの群れ。それらを認識したミッシェルの判断は、迅速だった。
「総員撤退、生物兵器だ!」
「! 了解!」
彼女の言葉にシモンは我に返り、すぐさま踵を返した。それを見たダリウスもまた気を取り直すと、女性職員の傍らにしゃがみ込む。
「ちょっとごめんよ、お嬢さん」
「へ? ……きゃっ!?」
ダリウスはへたり込んでしまった女性職員をお姫様抱っこのように抱え上げると、シモンの後を追って一目散に駆け出し、残る面々もそれに続く。幸い異形と化した職員たちの足取りは遅く、すぐさま闇の向こうに亡者の姿は飲まれて消えた。
「――スレヴィン、分かっているだけで良い。使用された兵器の情報を寄越せ」
来た道を逆に駆け戻りながら、ミッシェルはインカムに呼びかけた。この期に及んで「本当に生物兵器が使われたのか?」などと無駄な問答をしている時間はない。先程の変わり果てた職員たちの姿を見れば、生物兵器かそれに類する“何か”が使用されたのは一目瞭然。
見極めなければならない、自分達がとれる最善の選択肢を。そしてそのためには、少しでも確かな情報が必要だった。
『使用されたのはウイルス兵器。正式名称は不明、CIAの情報照合待ちだ。その具体的な効力は――』
『“人間のゾンビ化”だ』
「! クロード先生!?」
割り込んだ別の声に声を上げたのは、シモンだった。スレヴィンが呼んだのか、という考えが脳裏をよぎるが、直後に聞こえてきた驚きの声にその考えを否定した。
「……博士、何かご存じで?」
ミッシェルが問う。クロードは具体的な症例や効果ではなく、名称で“人間のゾンビ化”だと断言した。クロード・ヴァレンシュタインが何の根拠もなく、そのような非科学的な証言をするとは思えなかったのである。
『ああ。経緯は伏せるが……私はこの最悪のウイルス兵器の詳細を良く知っている。これは『狂犬病ウイルス』と『ストーン熱ウイルス』をかけ合わせて作られた『狂人病』――俗な言い方をすれば、“ホラー映画のゾンビを現実に再現するためのウイルス”だ』
「なっ……!?」
その反応を効いた全員の顔に動揺が浮かんだ。なぜならこの2つの病気は、数ある病の中でも特に恐ろしい感染症であるからだ。
――『狂犬病』。
古来より地球上の至る国で確認されている死病。狂犬病に感染した犬を始めとする動物に噛まれることで感染し、一度発症すれば身体の麻痺、意識の錯乱、昏睡を経て呼吸障害を起こし、死に至る。
その最大の特徴とも言えるのは、2620年現在でも治療法が確立されていないという点である。発症すればその致死率は全患者数の99%にも達し、事前にワクチンを接種していない患者の生存率は“0”である。
――『ストーン熱』。
狂犬病とは対照的にごく最近――2570年のパンデミックによってその名を知られた死病。身体の麻痺、幻覚の意識障害など症例は狂犬病のそれに似ているが、最大の特徴は感染者の脳が“ドロドロに溶けて死亡する”という点である。
アフリカ発、空気感染によって瞬く間に広がったこの病気は、地球上から実に2億という人間の命の灯を消し去った。ワクチンによって終息こそしているが……耳新しいこの感染爆発は、今なお人々にとって恐怖の語り草である。
――そしてそれらが組み合わさったウイルスは、陳腐なホラー映画の世界終末を現実世界に呼び起こす。
『正式名称は“狂人病”。潜伏期間は1~48時間とブレがあるが、健常な状態ならギリギリまでは発症しないだろう。しかしウイルスの活性化に伴い発症したが最期、狂人病ウイルスは罹患者の前頭前野や脳幹の一部で
「……本能的な欲求?」
薄々答えを察しながらも尋ねたダリウスに、クロードが説明する。
『より厳密には生理的欲求だ。だけどこのうち、即座に命の危機に関わることのない性欲は抑制される。またどんなに眠くなろうと、睡眠を司る脳幹が破壊されているために眠れない。となると――』
「“食欲と排泄欲”か……吐き気を催す下衆だな」
ミッシェルが吐き捨てる。一度発症したら決して助からないだけでなく、罹患者は人間としての尊厳を奪われた上、健常者を食い荒らし、排泄物を撒き散らし、国土を汚染する病原体になり果てる。どこまで人を馬鹿にすれば気が済むのだ。
湧き上がる怒りをこらえきれず歯噛みするミッシェルに、スレヴィンが通信機の向こう側から呼びかける。
『とにかく、一度撤退して態勢を立て直せ! U-NASAの医療チームがそっちに向かってるから、合流を――』
『いや、撤退は許可できない』
「――理由を、聞かせてくれませんか?」
見ようによっては冷血ともとれる裁定に顔を強張らせながらも、ダリウスは問いかけた。
裏アネックスの構成員はクロードと直接かかわりを持っていないが、評価を耳にする限り科学者の中でも良識派と言って差し支えない人間だった。装備不足、情報不足――これらの要素が出揃ってなお撤退を許可しないからには、相応の理由があるはずだった。
『今、私とベルトルト博士を中心に、医療チームが急ピッチでワクチン開発を進めている。なんとか被害を最小限で食い止められるようにね。私が知る遺伝子組成に改良が加えられているようだが、幸い旧型のワクチンデータは私も持っているからね。その応用でなんとかできるはずだ』
――クロード・ヴァレンシュタイン。
――ヨーゼフ・ベルトルト。
片や科学技術という一点のみでいえば、かつてアレクサンドル・グスタフ・ニュートンすらも及ばないと認めたダ・ヴィンチの再来。
片や裏アネックス計画の幹部搭乗員の専用武器の設計を一手に担い、
U-NASAが誇る最高の科学者2人による急ピッチの作業進行。ならば最悪だけは避けられるか、と安堵しかけた一行に冷や水を浴びせるように『だが』とクロードが言葉を続ける。
『――三日。どれだけ急いでも、ワクチンの開発には三日かかる。そして狂人病は発症したが最後――』
――生存率は0だ。
開発期間3日……未知のウイルスに対するワクチンの製作期間としては、もはや人知を超えていると言っていい速度。だが、それでは遅いのだ。
ストーン熱の特徴が反映されているのであれば、狂人病ウイルスは空気感染する。仮にダリウスたちが既に感染していれば、発症までの猶予は最長でも2日。ワクチンができる前に発症すれば、生存は絶望的。
そんなあまりにも実感の沸かない、しかし極めて現実的な死の宣告。それに続けて、クロードは「だから」と続ける。
『だから君たちは、
「は?」
そう声を上げたのは自分に並走するミッシェルか、シモンか、あるいはクロードの隣にいるだろうスレヴィンか、虎の子部隊の誰かか、はたまた自分か。
いずれにせよ、その禅問答のようなクロードの言葉を、この場にいる誰も理解できていないのは明らかだった。
「えっと、言ってる意味が……ワクチンはまだ完成していないんですよね?」
『そう……しかしワクチンはほぼ確実に存在する。それも君たちが今いる、サイト66-Eのどこかにね』
「あ、そうか!」
そこでクロードの意図をいち早く理解したシモンが口を開いた。
「
『その通りだ。実際この兵器の開発者はワクチンを用意していたし、この無差別兵器を使うならテロリストも相当数のワクチンを所持しているはずだ』
「なるほど、彼らからワクチンを強奪できれば……!」
そう言いながらダリウスは、抱き上げた女性職員をチラリと見やる。震えながら自分の顔を心配そうに見つめる彼女の赤い瞳と目があった。
自分のような犯罪者ではなく、シモンたちのように戦いの中で命を散らす覚悟をしているわけでもなく。大きな陰謀に巻き込まれただけのこの
「決まりだな。任務は続行、この施設を落とした連中を締め落とす。さしあたっては――あいつらを何とかしなくちゃあな」
逃走のために動かしていた足を止め、ミッシェルは迫りくる亡者の群れに向き直った。歩みは遅い、しかし確実に亡者たちはこちらへと近づいてきている。
「ミッシェル少佐、射殺の許可を」
「――ああ」
一瞬の葛藤の後、ミッシェルは精鋭部隊の隊長に一言そう告げた。職員たちには申し訳ないが、症状があそこまで進行してしまっては、もはや助けることはできないだろう。ならばせめて、苦しめずに逝かせてやるのがせめてもの情け。
「総員構え、撃て!」
虎の子部隊の隊長の指示に従い、隊員たちは各々に支給されたサイレンサー付きの銃の引き金を引く。
パシュ、パシュ、と耳をすまさなければ聞こえない程小さな銃声が立て続けに響いた。5発の銃弾はそれぞれ狙いを過たず大群の戦闘を歩く5人の職員の頭部に吸い込まれ、ある職員の額に風穴を空け、顔を吹き飛ばし、はじけた頭蓋骨からピンクの脳漿を撒き散らす。
――多くの生物にとって頭は明確な弱点である。
こと脊椎動物においては、脳という身体を動かすための器官が収められており、頭蓋骨という体の中でも特に頑丈な骨によって脳が守られていることからその重要性がうかがえる。
そしてそれは生物ならざるゾンビとて例外ではなく、多くのホラー映画ではゾンビを殺すために登場人物たちは頭部を破壊する。
彼らも律儀に映画に倣ったわけではないだろうが、司令部である脳が破壊されれば肉体の活動が停止するのは当然の帰結。そう考えての行動だった。
「……!?」
――だが。
「ゥヴ、オォォ……」
「ア、ああああ!」
「馬鹿な……!?」
――脅威、なおも健在。
事実は小説よりも奇なりとはよく言うが、およそ非現実的なベクトルで彼らの推測は破綻した。
並の人間などよりも遥かに強靭な生命力。不死身、というワードが脳裏をよぎり、さしもの精鋭である彼らでも動揺を隠しきれなかった。
「頭を撃ったんだぞ!? なぜ死なない!?」
『おいおい嘘だろ!?』
『ッ――!?』
そしてそれは、通信機の向こうにいた2人も例外ではなく。スレヴィンが思わず声を上げ、クロードが息を吞む音が通信機越しに耳に届く。
「ふッ!」
そんな中、真っ先に動いたのはシモンだった。彼は腰のベルトから抜いた2本のナイフを両手に構え、素早く投擲した。ナイフの内の一本は職員の喉に、もう一本は別の職員の膝に突き刺さる。
――さぁ、どうなる?
シモンは冷静に観察し、そして分析していく。
まずは喉にナイフが刺さった職員、こちらは反応らしい反応がない。
ここから導かれる答えとしては、彼らが呼吸を必要としないか、そもそも呼吸をしていないか。いずれにしても、異常であると言わざるを得ない。
次いで膝にナイフが刺さった職員。こちらは丁度関節部にあたった影響か、バランスを崩してそのまま床に倒れ込んだ。しかし彼は立ち上がりもしなければ膝のナイフを抜くような様子も見せずに這いずりながら、他の職員たちは、倒れ伏した彼を踏み越えながら近づいてくる。
「……念のために聞くけど、クロード先生。狂人病って、映画のゾンビみたいに異常な不死性まで症状として出るの?」
『――いや』
シモンの問いかけに、クロードは否定の言葉を返した。その声は僅かに震えており、平静を装ってはいるが、内心ではかなり困惑していることがうかがえる。
『私の知る限り、狂人病の感染者は“凶暴化した病人”にすぎない。普通の人間が死ぬような怪我なら、まず死亡するはず』
「なら狂人病とは別の仕掛けがされてる、ってことか……」
シモンはフルフェイスの下の顔を引きつらせた。
――思考能力が明確に落ちているのはともかく、呼吸が必要なく、更に再生能力はないものの、脳が破壊されても行動できる……?
狂人病ウイルスとは別の生物兵器が併用されているのか、あるいは何らかのMOの特性によるものか。いずれにしても、その正体は碌でもない者に間違いなかった。
「――止むを得ん」
一連の事態を見守っていたミッシェルは意を決したようにつぶやくと、ダリウスへと視線を向けた。
「こうなりゃ道は一つ、
「いやあの、ミッシェルさん? 俺の特性を使ったら潜入の意味が……というかそもそも、屋内じゃ危険すぎますって!?」
「時間がねぇ」
渋るダリウスだったが、ミッシェルは彼の言葉を一蹴する。
「ゾンビ共に手間取って本命に逃げられたんじゃ意味がない。ここまで来たら、あとは時間との戦いだ。特性の制御に関しては支給された専用武器と……気合でなんとかしろ」
『根性論かよ』
スレヴィンの呆れた声がスピーカー越しに届くが実際のところ、銃火器の類の効果が薄い以上、人為変態による白兵戦での制圧か迂回路を探すかの二択以外に道はない。しかし迂回路の探索は、とにかく余計な時間をとられる。かといって人為変態での白兵戦もまた、同様に時間を喰う。ミッシェルを始め、ここにいる者の特性はほとんどが直接戦闘系。不死身に近い耐久力を持つ相手に肉弾戦は分が悪すぎる。
つまるところ、どちらを選んだとしても時間の消耗は避けられないのだ。そう、
「……わかりました」
――だが、ダリウス・オースティンがいるならば話は別。彼の特性を用いれば、第三の選択が可能になる。
頷いたダリウスは、女性職員をそっと床に下ろした。頭に疑問符を浮かべる彼女の手を引いて、ミッシェルたちは後方に下がる。
「――出番だ、【無形】」
その途端、彼女達とダリウスの間に、一機の小型無人機が割って入った。ドローンを思わせるそれは、まるでミッシェルたちを守るかのように虚空で滞空する。
ダリウスの声に合わせ同型の無人機が更に三機、彼の前へと飛行した。見えない三角形を通路に作るように一機が天井に、もう二機は床に近い位置で滞空する。それを確認すると、ダリウスは注射器型の『薬』を腕に突き立てた。
途端、戦闘服の袖を突き破って彼の両腕に毒針と口吻が出現する。青黒い甲皮に全身が覆われていくが、身体の所々にそれとは対照的な明るい橙色の紋様が浮かび上がった。
――その昆虫は、口吻を持つ。
しかしてそれは、肉食の虻のように肉を食むためのものではない。硬質な物体も貫通する強度を誇るそれは、木の汁を啜るためにある。
――その昆虫は、毒針を持つ。
しかしてそれは、雀蜂のように獲物を狩るためのものではない。いかにも凶器といった様相のそれは、自らの身を守るためにある。
それが裏アネックス計画において幹部を務める、ダリウス・オースティンのベース。
決して気性が荒い生物ではない。この系統の虫には珍しく毒針を持ちこそするものの、致死性のものでもない。素体であるダリウス自身はそれなりに鍛えてこそいるものの、ずば抜けて戦闘能力が高いわけでもない。
ではなぜ、ダリウス・オースティンは、裏アネックス計画の最高戦力として数えられているのか。その答えは、ベースとなった生物の最後の特性に秘められている。
――その昆虫は、歌うのだ。
子孫を残すため、雌に手向ける愛の歌。人間の掌に収まる程度の小さな体に宿る、七日限りの命。その炎を燃やして、
「皆さん、僕の後ろに下がってください。それと……」
そう言ってダリウスは背後の面々――特に、怯えている女性職員に向かって柔らかく笑いかけた。
「……少しの間、耳を塞いでいてください」
ダリウス・オースティン
国籍:アメリカ合衆国
21歳 ♂
177cm 73kg
『裏マーズランキング』 暫定1位
αMO手術 “昆虫型”
―――――――――――― ハデトセナゼミ ――――――――――――
――
深呼吸をするように腹いっぱいまで息を吸い込むと、ダリウスは発声した。ただそれだけ――ただそれだけで、迫りくる亡者の群れは赤い狭霧となって、原形もとどめずに飛び散った。
(す、すごい――!)
その様子を見守りながら、シモンは胸中で驚嘆の声を上げずにはいられなかった。
彼の手術ベースとして全身に組み込まれているカメムシ類の中には、ダリウスと同じ蝉である『クマゼミ』も含まれている。彼がやってみせたような広域制圧を再現することも不可能ではない。
だがそれには全力の咆哮が必要であり、一度使うと数分間は喋ることができなくなる。
しかしダリウスはシモンと同等の、あるいはそれ以上の威力の一撃を放ちながらも、疲弊した様子を一切見せていない。資料によれば、本人の体力が続く限りは何度でも発動が可能だという。
加えて、精密制御の点でも彼の方が上。その理由はαMO手術という特殊な手術形式に加え、彼に支給された専用武器にある。
専用武器:逆位相消音装置搭載型無人機『無形』
+
体内内蔵型出力制御・制限装置『
どちらも威力を引き上げるのではなく、制御困難な特性を管理するための専用武器。
前者はイヤホンのノイズキャンセル機能などの基盤となる『逆位相の音の照射』によって、ハデトセナゼミの呪歌を一部軽減し、味方を守るための物。形なき音を利用したこの武器には、まさしく『無形』の名が相応しい。
そして後者は、眠れる白痴の魔王の名を冠する専用武器『SYSTEM』。ヨーゼフ・ベルトルト博士が生み出したこの装備は、αMO手術を以てすら制御困難なハデトセナゼミの呪歌の威力や指向性を、ある程度制御することができる。
以上二つを組み合わせ、ダリウスは施設を破壊することなく、亡者たちを一掃して見せたのだ。
「これでよし、と」
勿論、動きが機敏なテラフォーマーや、MO手術の被験者たちを相手にした実戦で、今回のようにちんたらと調整をしている時間はない。せいぜい味方を巻き込まないようにするので手一杯、周囲の『物』にまで気を配るのは不可能に近い。
だが『必要ならばできる』というのは、大きな強みであり――今回はそれが、現状の打開に繋がった。
「よし、前進!」
そして全員が、一気に廊下を駆け出した。先頭を切るのはシモンとミッシェル、既に人為変態を終わらせた彼らは不意に現れる亡者を薙ぎ倒して後続の安全を確保する。彼らに女性職員を背負ったダリウスが続き、殿を虎の子部隊の面々が務める。
先程の爆音で、自分達の侵入は敵側にもばれたはず。ならば一刻も早く、少しでも奥へと進み、任務を達成しなくてはならない。
目指すは『管制室』。その気になれば今この瞬間、隣国にミサイルを撃ち込むことすら可能なその部屋は、テロリストたちの手に納めさせておくにはあまりに危険。
逆に自分達が管制室を制圧さえしてしまえば、この施設の全てのセキュリティが味方となる。危険なαMO手術の被験者を相手取る以上、少しでも手札の数は増やしておくべきだった。
「……チッ」
しかし逸る心とは裏腹に、天はそう簡単には微笑んではくれないものである。
「さっきの音が呼び水になりやがったか……!」
背後を振り返り、ミッシェルが舌打ちする。そこには一行を追い上げる亡者の群れがいた。やはり足取りは重たげなものの、その数はもはや目視では数えきれず先程の何倍にも膨れ上がっている。追いつかれなければいいだけの話、と思うかもしれないが、不測の事態が発生することを考えると不安要素はなるべく排したい。
――もう一度、ダリウスの特性で一掃するか?
脳裏に浮かんだその考えを、ミッシェルは即座に打ち消した。第七特務のハッカーの細工によって、この施設の監視カメラに自分達の姿は映らない。よって、自分達の所在がすぐさま正確に割れることはないだろう。
ただし、ダリウスの特性をもう一度使えば“音”というヒントを敵側に与えてしまうことになる。最初の一撃で階層までは特定されているはず、よって次の一撃で確実に敵はこちらの居場所を特定する。可能な限り、それは避けたい。
どうしたものか、とミッシェルが思案に暮れていると、背後から声がかかった。
「ミッシェル少佐! 許可さえあれば、ゾンビたちは我々で食い止めます!」
「できるのか、隊長!?」
ミッシェルが問えば、虎の子部隊の隊長は力強く頷いた。
「殲滅は難しくとも、足止めくらいならば! 我々が彼らを食い止めている間に、特性が強力なお三方に管制室の制圧を頼みたく!」
「わかった! 背中を任せるぞ!」
ミッシェルの言葉に「ご武運を!」と返すと、虎の子部隊の隊員5名は一斉にその身を反転させた。ミッシェルたちが曲がり角を曲がって間もなく、背後からは銃声が聞こえ始めた。
「大丈夫ですかね?」
「絶対、とは言い切れないが……U-NASAが非常事態に備えて用意した部隊、隊員1人1人の実力者も折り紙付きだ」
ダリウスの問いに、走りながらミッシェルが答えた。狭い通路を抜け、4人はだだっ広いコンテナのような空間に出る。
「余程の怪物が敵でもなければ、早々やられはしないさ。それよりも今は――」
「ミッシェルさん、危ない!」
――警戒を怠っていたつもりはなかった。
現に彼女は喋りながらも、絶えず敵が潜んでいないか周囲に視線を巡らせていたのだから。だからこそ、シモンが突然抜き放った槍で空中を薙いだ際にはその行動の意味が分からず。
しかし金属同士がぶつかったような甲高い音が響き、その直後一瞬だけ虚空に火花が散った様子を見て、不可視の敵がいたことを悟った。
「~ッ!」
思わず足を止めるミッシェルとダリウス。シモンは2人の一歩前に踏み出すと、すぐさま槍を構えた。それを嘲笑うように、どこからともなく男の声が聞こえた。
「フ、さすがに見くびりすぎたか。他愛のない相手と思ったが、それなりの使い手もいたらしい」
「何者だ、姿を見せろ」
フルフェイスの下から唸るように告げれば、虚空からクツクツと喉を鳴らしたような笑いが鳴る。その直後、一行の目の前にはダイバースーツのような衣装に身を包み、一本の槍を携えた青年が立っていた。
「初めまして――私はルイス・ペドロ・ゲガルド。肩書としては機械工学博士、経済学・政治学・経営学諸々の評論家、EU協同大学院名誉教授、ゲガルド流槍術師範代……こんなところか?」
青年、ルイスは慇懃にそう言うと、美しい碧眼で――一瞬だけ、胡乱気に女性職員を見つめてから――見下すように一行を見やった。
「さてようこそ、合衆国の犬ども。このような陰気な場所にわざわざ殺されに来るなど、ご苦労なことだ」
「退け、テロリスト。お前に構っている暇はない」
ミッシェルが睨みつけるが、それをルイスは一笑に付した。
「退けと言われて退くとでも? だが奇遇だな、セカンド。私も君たちのような凡愚に構っている暇などない――」
そう言った瞬間には、ルイスは既にミッシェルへと肉薄していた。
「――だから、死ね」
「っ!?」
喉を目掛けて繰り出された穂先を、咄嗟にミッシェルは払いのけた。すぐさまルイスから距離をとった彼女の背を、冷たい何かが走った。
「意識誘導を使った歩法――枢機卿やデカルトの犬にできるのなら私も、と思ったが。存外に難し……おっと!」
何やらブツブツと呟いていたルイスだったが、自分に向けて放たれた一撃察知するや否や、すぐさまそれを回避する。槍が穿ったものがルイスの残像だったことを認識すると、すぐさまシモンは片手で背後の2人にサインを出し、ある物をルイス目掛けて放り投げた。それを視認し、ルイスの顔から初めて余裕の色が消えた。
「くっ――!?」
「皆、ここはボクに任せて先へ!」
シモンが叫ぶと同時、
「小癪な――! ワルキューレッ!」
ルイスが号令を下すと同時、見上げる程に高い天井の上から人影が3つ、地上へと舞い降りた。
防爆服製のコートを身に纏った、色素と言う概念に忘れ去らたかの如き少女たちだった。 3人の少女はいずれも、その背に鳥類と思しき生物の翼を生やしており、一見すればその様子は天使のようにも見える。
しかし目深にかぶったフードの影から覗く漂白剤に浸けたかのような銀髪や、死体と見紛う程に不健康な青白い地肌を見れば、むしろその姿は冥界からの遣いのようだ。
「背後の2人を分断しろ!」
「「「承知いたしました」」」
ルイスの指示を受け、3人の少女は軽やかに宙を舞うと、両手の指から生えた鋭利な爪でミッシェルとダリウスに襲い掛かる。
――少女に危害を加えることに抵抗がないわけではないが、一刻を争う状況でそんなことを言っている場合ではない。
「ふッ!」
咄嗟に変態したミッシェルは、眼前に現れたワルキューレをパラポネラの筋力で殴り飛ばし、そのまま管制室へと続く通路まで駆け込む。
「ぐっ――!」
しかし、ダリウスはそうはいかなかった。女性職員を背負っていた彼は、少女の攻撃を躱すことしかできない。少女の爪がダリウスの肩の肉を抉り、鮮血が女性職員の頬に跳ねた。
「ダリウス様ッ!?」
「俺なら、大丈夫――!」
悲鳴を上げる女性職員に、苦悶の声を押し殺しながらダリウスは答える。それから立ち止まるミッシェルへと叫んだ。
「ミッシェルさん、俺に構わず先へ! あとで必ず合流します!」
そう言い残すとダリウスは、ミッシェルの返事を待たず手近な別の通路へと逃げ込んだ。このまま三方向から攻撃された場合、背負った女性を守り切れないと判断したためだ。
「クソッ……ダリウス、シモン! お前ら2人共死ぬんじゃねえぞ!」
ミッシェルは大声で吠えると、通路の先の闇へと姿を消していく。
「ルイス様、分断に成功いたしました。どうしますか?」
「ミッシェル・K・デイヴスを追え。あの通路が管制室への最短ルートだからな」
「了解いたしました」
そう返すとワルキューレ達もまた、ミッシェルの後を追って通路の闇へと消えていく。
「さて、残ったのはお前1人だが……遺言はあるか、特別対策室の実働部隊長殿?」
「ないよ」
シモンはきっぱりと言うと、槍を構え直す。その穂先は、明確にルイスへと狙いを定めている。
「言い遺すことも、こんなところで死ぬつもりも、ねっ!」
そういうや否や、彼はその手に構えた槍ごとルイスに突撃する――と見せかけ、
「なにッ……!?」
予想外の行動に、ルイスの思考が一瞬だけ硬直する。その隙をついて、シモンは一気にルイスとの間合いを詰めた。全長3mにも及ぶ自身の槍を捨て、ルイスの得物である槍の間合いの更に内側、懐に飛び入ったシモンは素早く踏み込んだ。
――中国武術。
紀元前206年頃に起源を持ち、今日でも
シモンが使うのはその中でも「敵の動作を抑え」、「必殺の威力を必ず命中させる」という二点に重点を置き、特に実戦向きと評される武術である。
「スゥ――」
その極意、『接近短打』。
メディアで散見される他の武術と違い、派手な動作はない。この武術の踏み込みの歩法である“震脚”は、達人になればなる程動作は小さく静かになるのだ。
しかし、その小さな動作は“嵐の前の静けさ”。一度攻撃を許せば最後、使用者が練り上げた気は一気に解放され、あらゆる敵対者を防御ごと打ち破る。
それは『陸の船(動かないもの)』『熊歩虎爪(熊のようにどっしりとした歩法、虎のように俊敏な攻撃)』と評され、“爆発”と形容されるほどの威力を誇る絶殺の拳法。
その名も――
「
―― 八 極 拳 ! !
「ぐ――!」
ウンカの脚力による強力な震脚で練り上げ、ヂムグリツチカメムシの強靭な腕力を通して放たれる、爆発的な威力の肘撃ち。その威力にルイスの体は十メートル以上も吹き飛ばされ、セメントの壁を大きく凹ませた。すかさずシモンは、ウンカの脚力で床を蹴る。
――ここで仕留める。
先ほどの一撃、入りはしたものの受け流された感覚があった。おそらくまだ、致命傷には至っていない。
加えて先程の擬態能力を考えれば、ルイスのベース生物がタコやイカのような軟体動物型である可能性がある。もしそうであればすぐに回復し、再び襲い掛かってくるだろう。
だからこそ彼は油断しなかった。温情をかける余裕はない、次の一撃で確実に息の根を止める――。
そしてシモンは追撃のために拳を構え――
「――浅はかだぞ、シモン・ウルトル」
――次の瞬間、数十の槍の穂先が彼の視界いっぱいに広がった。
「なっ!?」
驚愕しながらも、脳が命じる前に体は動いていた。体幹を咄嗟にずらし、利き手と人体の弱点の損傷を防ぐ。直後シモンは、大きく後方に跳び退いた。
「
しかしそれでも無傷とはいかず、太ももや肩に空いた穴が鋭い痛みを神経に焼き付けた。特に深刻なのは脇腹で、滝のように血が溢れ出していた。
「ほう、あの距離でよく避けたものだ」
薄ら笑いを浮かべたルイスの腹からは、数十本もの棘に似た形状の槍が生えていた。役目を終え、ズルズルと槍が体内に引きずり戻されていく様は異形そのもの。その様子にどこか名状しがたい悪寒を覚えるが、呆けているわけにもいかない。シモンは足元に転がる自身の槍を拾い直すと、すぐさま迎撃の姿勢をとろうとし。
ぐらりと、体が傾いた。
「え――」
咄嗟に槍を杖代わりにして転倒を堪える。態勢を立て直そうと足に力を入れ、そこでシモンは自分の体の異変に気付いた。
四肢の痺れ、悪寒を伴う発汗、息苦しさ――明らかに体の調子がおかしい。すぐさまシモンは1つの可能性に行きついた。
「毒、か――!」
「然り。我が聖槍をその身に受けた時点で、お前に勝ち目などない」
立つのもやっとと言った様子でこちらを睨むシモンを、ルイスは悠然と見返す。シモンはその背後に、面妖な相貌を持つ怪魚の幻影を見た気がした。
槍は本来、攻めではなく守りのために生まれた武器である。
古代ギリシャで用いられた重装歩兵たちの
もっとも古いファランクスは紀元前2500年の南メソポタミアでその痕跡を確認できるがその遥か何千何万年も前から、生物たちは己の体の一部を槍とすることでその身を守ってきた。
ある哺乳類は硬質化した毛を、ある両生類は肋骨の先端を、ある爬虫類は尖った鱗を、そしてある魚類は――毒を持った背びれを。
――その生物は、ただ静かに海底に座す。
まるで鬼か達磨を彷彿とさせるその顔は、一度見れば忘れられない程に印象強い。しかし、多くの遊泳客は彼の姿を目にすることはないだろう。
なぜなら、彼らは擬態の達人だから。
彼らは獲物となる小魚を捕食するため、海底の風景に溶け込む。そして例え目の前に人の脚が振り下ろされようと、微動だにしない。しかし目当ての餌が訪れれば一転、目にもとまらぬ速さで食らいつく。ごつごつとした肌は岩そのもので、人の目でも容易に彼らを見つけることはできない。だからこそこの生物はしばしば、海で楽しい一時を過ごす人間達に激痛と恐怖をもたらす。
――そこにいるとも知らず人間が下ろした足に、猛毒の槍を突き立てるという形で。
ルイス・ペドロ・ゲガルド
国籍:スペイン
25歳 ♂
182cm 82kg
αMO手術 “魚類型”
―――――――――――― オニダルマオコゼ ――――――――――――
専用武器:体色連動式極薄リキッドアーマー 『
「永久楽土の礎となるがいい、凡愚。我が槍を、貴様の墓標にしてやろう」
――
【オマケ】
ルイス「ちなみに私の槍は“対生物コーティング式西洋槍試作機 『インヌメルム・ロンギヌス(無数の聖槍)』”、恐れ多くもオリヴィエ様の御下がりを使わせていただいている」
希维「御下がりと言うより、オリヴィエ様の専用武器の失敗作っすね。エコロジー思考のオリヴィエ様が「捨てるのは勿体ない」ってことで押し付けた代物、言うなればバレンタインに、本命チョコの失敗作を意中の相手から渡されたようなもんっす……ルイス兄、義理チョコ以下のバレンタインチョコを見せびらかして恥ずかしくないんすか?」
ルイス「黙れ愚図め。そもそも貴様、その義理チョコ以下すらオリヴィエ様から賜ってないだろうが」
希维「うぐっ、ルイス兄の癖に正論を……!? べ、別にいいっすもーん! 私はそもそも槍使わないし、全然羨ましくなんかないっす!」