■■■ PRELUDE 序曲
――西暦にして、2618年。アネックス1号が打ち上げられる、およそ2年前のことである。
ロシア連邦コーカサス山脈の中腹に非合法に設けられた、極秘研究施設。その内部では今まさに、映画のような攻防劇が繰り広げられていた。
極秘施設の防衛に当たっているのは、漆黒の人型ゴキブリ――火星産超生命体“テラフォーマー”である。
条件次第では自重の50倍近い重量をもけん引する筋力、一歩目からスポーツカー並の時速で走り出す脚力、人間が生み出した電子機器の操作方法を即座に理解するほどの知能。
この施設内にいるテラフォーマーたちは全てクローンであり、火星に生息している同種が持つこれらの能力は幾分劣化している。しかしそれでも、並の軍人を無傷で瞬殺する程度はやってのけるだけの戦闘力を持つ、一級の危険生物である。
――そのテラフォーマー達によって編成された防衛部隊は今、壊滅の危機に瀕していた。
「α班、掃射」
声の主は、戦闘服に身を包んだ褐色肌の女性である。
戦場には似つかわしくない冷静な――どこか事務的でさえある口調で命令を下すと同時、彼女の前に部下と思しき戦闘服の人物たちその手に構えた銃火器の引き金を引いた。
瞬間、鼓膜をビリビリと痺れさせるような轟音と共に、一斉に彼らが手に持つ凶器が火を噴き、鋼鉄の弾丸をばらまく。
――銃は基本的に、テラフォーマーに効果が薄い。
その主な理由が、昆虫に特有の頑丈な甲皮を有することと、彼らに痛覚がなく怯まないため。要は破壊力が足りず、足止めにもならないのである。
だが――
「じょッ!?」
「キィィ!!」
弾丸にさらされた端から、テラフォーマー達の胴体が面白いように破裂していく。
クローンだから、テラフォーマー達が脆かった? 違う。彼らが原種よりも脆いことは事実だが、その程度は誤差の範疇だ。
では、銃弾が特別だった? それも違う。放たれた弾はあくまで一般の軍用規格のもの。対テラフォーマー用に改良された特別製などということはない。
ただし――用いられている銃火器は全て、
戦車の分厚い装甲を撃ち抜くための対戦車ライフル、対航空機用に開発されたガトリング砲――あろうことかそれらを鼻唄混じりで取り回しながら、特殊部隊の隊員たちは引き金を引き続ける。
いかに超生物といえど、銃撃を通り越した砲火の嵐を浴びせられてはひとたまりもない。数十秒後、哀れなテラフォーマーたちは、肉飛沫となって無機質な通路の壁を彩っていた。
「こちらα班、地下4階Aフロア制圧完了。各班、状況を報告せよ」
それを特に感慨深くもなさそうに見つめながら、女性指揮官――ライラ・チャラビーは、襟元に取り付けたバッジ型の通信装置に話しかけた。
『こちらβ班、地下3階全フロア制圧完了! 死傷者ゼロ!』
『こちらγ班、地下4階Bフロアの敵も殲滅しました。軽傷者1名、戦闘継続には支障なし。間もなく合流します』
『地下2階δ班、現在追撃部隊と交戦中! 死者・負傷者共にゼロだが、今すぐ合流は無理だ!』
「状況了解、δ班以外は速やかに合流しろ」
ライラはちらりと、背後で武装の点検をしている隊員たちを一瞥しながら告げる。
「合流次第、この施設の最下層――地下5階に陣取っている『アダム・ベイリアル』を駆除する」
そういった彼女の胸には、鋭角で構成された猟犬を思わせる怪物を象った隊章があった。
――クロード・ヴァレンシュタイン直属、特務部隊『ティンダロス』。
アネックス計画の支援を目的として、極秘裏にクロード・ヴァレンシュタインが進める『アーク計画』。その円滑な遂行するために設立された、彼直属の4つの特務部隊。その中で唯一、大がかりな武装・兵装の使用を許されているのが、遊撃を司る特務部隊『ティンダロス』である。
その主な任務はアーク計画に関わる人員の護衛や敵対組織への破壊工作活動、そして何より、
アダム・ベイリアル――それは、とある科学者の名前を自称する
その戦果、実にこれまで10戦10勝。負傷者こそ何度か出しているものの、未だに彼らは死者を出していない。
異常な改造を施され、原型をなくしたテラフォーマーを操る老科学者。SF映画を思わせる近未来兵器をこれでもかと叩きつける中年科学者。未知のウイルスを駆使する女科学者。それら全てを、彼らは処分してきた。
無論この結果は、隊員たちが優秀だからこそのものではあるのだが、それ以外にも理由がある。
ティンダロスの隊員たちは素体の戦闘能力が優秀ながら、適合ベースに恵まれなかった者たち。しかし彼らは、累乗ベースとしてとある生物の特性を得たことで、極めて優秀な特殊戦闘部隊として、アーク計画において徴用されている。
――ライラ・チャラビー以下、隊員総勢12名。
ツノゼミ累乗術式『Hyde』 “昆虫型” グンタイアリ
アマゾンにおける危険生物として、真っ先に挙げられることも多い蟻の一種。その特性は蟻由来の強靭な筋力、優れた嗅覚、そして常に群れで行動する彼らに特有の“同種間での連携能力”。
前者二つは、特別珍しい特性でもない。また最後の特性も、人によって適合する生物が違うMO手術戦では、本来何の意味もないものだ。だが、同種の生物による手術を受けた人員で部隊を編成することで、クロードはグンタイアリの強さを最大限まで引き出した。
強靭な筋力によるシンプルな戦力増強、嗅覚による索敵、そして緊密な連携による錬度上昇。これらの特性を兼ね備えた彼らは、部隊名となった怪物「ティンダロスの猟犬」と同様に、禁忌を犯した者を地の果てまで追いかけ、追い詰め、そして無残に殺す。
暗殺と戦闘のスペシャリストにして、駆除業者――それこそが、特務部隊『ティンダロス』なのである。
※※※
“手筈通りに、やれ”
ライラのハンドサインと共に、巨大なホールのような構造になっている地下5階へ、数個のフラッシュバンが投げ込まれた。
耳をつんざく音とともに、目もくらむような閃光が空間を満たす。それと同時に、ティンダロスの他員たちが一斉に空間へとなだれこみ、それぞれが手に持つ重火器を構えた。
その空間は照明が落とされ真っ暗であったが、ティンダロスの隊員たちは暗視ゴーグルとグンタイアリの特性により視覚と嗅覚が確保されているため、同士討ちはありえない。そして同時に、敵の位置を見つけるのも容易である。
先手必勝にして、火力主義。
こと戦闘経験においてアークの火星派遣部隊をも上回るという自負がある(事実その通りである)彼らの相手は、白衣を着た魑魅魍魎“アダム・ベイリアル”である。
わざわざ相手の土俵で、それも得体の知れないマッドサイエンティストどもが用意した土俵の上で戦ってやる道理などない。ゆえに圧倒的な火力でもって、敵が何かする前にさっさと殺す。それが『ティンダロス』の必勝戦法。
故に、そこからの彼らの行動は迅速だった。
ティンダロスの隊員のうちの一人が、アダム・ベイリアルと思しき人物の座標を認識するのにかかった時間は、0.3秒。そこから彼が重火器の照準を微調整するのにかかった時間が0.5秒、引き金に指をかけ引くのにかかる時間が、0.1秒――。
「
しかし、その男が部隊の突入から手中のスイッチを押すまでにかかった時間は0.4秒、その装置が作動するのにかかった時間は0.4秒であった。
「なッ!?」
――僅かに0.1秒の差が、明暗を分ける。
隊員が照準を合わせたその瞬間、
視覚と嗅覚によって、この空間に伏兵や火薬やガスなどの兵器がないことが確認済みだったが、今回はそれが裏目に出て一瞬だけ対応が遅れた。その一瞬の間に、彼らの主兵装たるガトリング砲や一直線に四方へと飛んでいき、
「やられたな……磁力誘導装置か」
「ご名答、しかし気付くのがいささか遅かったな」
暗闇の向こうから聞こえてくるのは、落ち着いた声。しかしその口調には、あざけりの色が見え隠れしていた。
「初めまして、勇ましくも無謀な『ティンダロス』の諸君。初めまして、元同胞たるクロード・ヴァレンシュタインの犬たち。私はアダム・ベイリアル……アダム・ベイリアル・ハルトマンだ。好きな物は――」
苦々しい表情でライラが呟いた瞬間、やけに明るい声と共に空間内の照明に光が灯る。スポットライトのような光が照射された、台座の上。そこに立っていたのは――。
「下ッ! 半ッ! 身ッッ!」
――変態であった。
年齢はおよそ50代にさしかかる頃だろうか? 口ひげを生やした紳士然とした男は、その上半身に白衣を羽織っており……しかし下半身には、何の衣類も纏っていない。そのまま街をうろつけば、まず間違いなく警察に連行されるだろう格好である。
「そして、嫌いな物は上半身だ。まぁ、よろしく頼むよ」
「黙れ変態」
アダム・ベイリアルことハルトマンがにこやかに笑いかけるが、ライラは虫唾が走るとばかりに吐き捨てた。
「その汚物を、私たちに見せつけるな」
「はいはい。そんなことより貴方、いい下半身してますねェ」
――話が通じない、か。
ライラの頬を、冷や汗が一筋となって伝った。
経験上、彼女は知っている。そう、狂人集団“アダム・ベイリアル”から読み取ることのできる、数少ない傾向として――
そして目の前のコイツは、これまで見てきた奴の中でもトップクラスにヤバい奴だと、彼女は悟った。
「おい、聞こえなかったのか?」
ライラは言いながら、隊員たちにだけ見えるようにハンドサインを送る。
「その汚物を――」
彼女は左手を、あえて見せつけるようにベルトへと伸ばす。
「――私たちに、見せるなッ!」
そして腰から非磁性の軍用ナイフを引き抜くや否や、それをハルトマンの喉を狙って投擲した。眉をひそめたハルトマンは、ひょいと首を傾けてそれを回避するが、それはライラの思うつぼ。
同時にティンダロスの隊員3名は、両腕に『グンタイアリの大牙』を武器として発現させると、一斉に床を蹴って駆け出した。仮にどれか1撃でも被弾を許せば、ハルトマンは致命傷を避けられないだろう。常識的に考えれば、何らかの防御か回避行動をとらなければならない場面である。
だが……。
「~♪」
ハルトマンは、逃げもしなければ防ぎもしない。かといって決して何もしないわけでもなく、鼻唄混じりで懐から軟膏をとり出すと――。
「美脚変態――」
それを、露出した己の脚へと塗りつけた。
「――“
それと同時、躍りかかった3名の隊員たちは、全員がその体を『く』の字に折り曲げ、吹き飛ばされた。ハルトマンによって、
幸いにして蟻の筋肉という鎧の上から、軍用繊維で編み込まれた戦闘服に身を包んでいた彼らには致命傷ではない。しかし、立ち上がった隊員たちの唇からはどろりと血が滴っていた。それもそのはず、先程彼らの受けた一撃は、常人ならばその場で破裂してもおかしくない威力だったのだから。
「やれやれ、アブラモヴィッチがやられたと聞いて、如何ほどのものかと思っていたが……」
そう呟いた彼の下半身が、完全な異形へと変態を終えた。人間の脚は消え去り、代わりに生えていたのは8本の異形の脚。赤い甲殻に覆われたその足は一見甲殻類のそれにも見えるが、爪先には蹄、脛の辺りには奇妙な毛が生えている。更には――あまり描写はしたくないのだが、露出した彼の生殖器もまた、赤い甲殻に覆われ頑強の様相を呈している。
「存外、大したことはないな」
アダム・ベイリアル・ハルトマン
MO手術ver『
タカアシガニ + ノミ + チビミズムシ + バギーラ・キプリンギ etc……
「ふふ……美しいだろう、このフォルムは」
ハルトマンは己の下半身を見せつけるながら、笑みを浮かべた。
「この究極のバランスを整えるために、
そう言って彼が指を鳴らすと同時に、ホールの照明が完全に点灯する。浮かび上がるのは、壁際に並べられた巨大なビーカーと、それを満たす謎の溶液。そしてその中に浮いている
「ケンタウロス、サテュロス、マーメイド! 古今東西、美しき者の下半身は異形だ! ああ、美しきかな我が下半身! 今や私は、幻獣すらも超越した美を手に入れた!」
明らかに異常な光景、異常な行動。それに対して、ティンダロスの隊員たちは反応を示さない。アダム・ベイリアルが狂っているのは最初から分かりきっていることであり、彼らの言動に付き合うのは無駄である。故に彼らは、支離滅裂な彼の言葉に耳を傾けるのを止め、既に次の攻撃に移っていた。
形状から察するに、恐らく攻撃手段は直接攻撃。考えられる特性としては、強力な脚力と高速移動、甲殻類に由来する強度と再生能力あたりだろうか?
そこまで分析して、ライラは指示を出す。同時に、9匹のグンタイアリが一斉に牙を剥いた。
――足は全部で8本、しかしこちらはスリーマンセルの班が3つで計9人の戦闘員がいる。つまり全く同じタイミングで攻撃すれば、理論上1人への対処は追いつかない。しかも体を支えるために軸足は残す必要があるため、実際には2人以上への対応がおろそかになる。
であれば、この一撃でハルトマンを殺すことができる。
「……と、思ってるのだろう?」
しかし、その考えを見透かした彼は、嫌らしい笑みを口元に張り付けた。
「それを『浅はか』というんだ」
そう言うと同時に彼の股間にぶら下がる“それ”が、
傍から見ればそれは、ふざけているようにしか見えないだろう。ともすれば、手の込んだ悪趣味な挑発と思うかもしれない。だがそれを見た瞬間、ライラは即座に指示を下す。
「全員、耳を――」
――しかし、警告を発するには遅すぎた。
爆音が轟き、強烈な空気振動が隊員たちを襲う。タッチの差で対応が間に合わなかった隊員たちの耳から血が噴き出し、バランス感覚を崩した彼らは床に崩れ落ちた。忌々し気に己を睨みつけるライラに向け、ハルトマンは余裕の笑みを浮かべた。
昆虫が発する音――いわゆる“虫の声”と呼ばれるそれは、多くの場合『求愛』を目的として発せられる。
多くの昆虫のオスたちは、その独特の声音でメスを魅了すべく、命ある間は日々愛の歌を奏で続けているわけである。その方法は種によって異なるため一概に『こう』ということはできないが、メジャーどころを上げれば次の2通りだ。
まず、翅をこすり合わせて鳴くもの。こちらはコオロギや鈴虫を例に挙げることができる。
そして、専用の発声器官を持つもの。こちらの例としては、セミが該当する
しかし、だ。ハルトマンが手術ベースとして組み込んだその虫は、そのどちらでもない方法で鳴く。そう、我々人間の感性で考えれば、思わず吹き出してしまうような方法で。
チビミズムシ、通称“歌うペニス”。
そのまますぎる異名と先程のハルトマンの描写から多くの方はお察しと思うが、彼らは『腹部に性器をこすりつけて』鳴くのである。
この説明を聞いて「何だその面白すぎる生態は」程度の感想しか抱かなかった者は、彼らの恐ろしさを分かっていない。字面のインパクトに騙されがちではあるが、彼らの特性はライラがしたように、最大限に警戒すべきものなのだから。
彼らの奏でる求愛の音は、昆虫大の時点で105デシベルである……察しのいい者ならばお気付きだろう、この音量はシモンが持つ中でも最強クラスの破壊力を誇る『クマゼミ』の咆哮をも凌ぐのである。
驚くのはまだ早い、チビミズムシは【チビ】の名が示す通り、非常に小さい。一般的な体長は2mm~3mmであり、米粒のように小さい。つまり体格比で考えた場合、この小さき益荒男の歌声は、いかなるセミよりも大きいことになる。
それが、人間大になって放たれればどうなるか。シモンと違い、専用武器による特性の増強がないのがせめてもの救いだが、その歌を間近で聞いた者の耳はまず無事では済まないだろう。
「ぐっ、ウ……ッ!」
倒れた隊員たちは何とか立ち上がろうとするも、その足取りはおぼつかない。鼓膜が破れて音が拾えず、平衡感覚を司る三半規管がやられているのである。今回の任務での戦線復帰は絶望的といえた。
倒れた隊員たちを見下しながら、ハルトマンは鼻を鳴らす。
「フン、これだから上半身に頼ってるやつは駄目なのだ! 生殖器を見ろ、種の繁栄を左右する器官は下半身についているだろう? 足を見ろ、己の生存を左右する部位は下半身にあるだろう!?
嫌らしい笑みを顔に浮かべ、彼は続けた。
「さぁ、どうした?
ハルトマンは心底愉快そうに嗜虐的な笑みを顔に浮かべ、ティンダロスの隊員たちへと侮蔑の表情を向ける。暴力で他者を蹂躙する愉悦。しかし、それに浸る彼は気付かない。
――より圧倒的な暴力が、その牙を剥かんとしていることに。
「
その飄々とした声は決して大きなものではなかったが、ハルトマンはなぜかはっきりと聞きとることができた。
そして次の瞬間――
「ぬ、おォッ!?」
ぐらりと傾く視界、しかしハルトマンは咄嗟に残った脚で転倒をこらえると、ノミの脚力で一気に後方へと跳び退いた。すぐさま全ての脚を再生させたハルトマンの額に、脂汗が浮かぶ。
「ほう、存外に冷静ですなぁ。しかも何やら、面妖なMO手術を己に施している……これはしたり。ティンダロスの皆さんに任せるには、いささか荷が重すぎましたか」
しわを湛えた顔に、白く染まった頭髪。一見すれば、どこにでもいそうな好々爺。だがしかし、ハルトマンの脳内記録と老人の顔が一致した瞬間、彼の額にぶわりと脂汗が浮かんだ。
「
――中国陸軍大将、龍百燐。
“現代の剣聖”、”100人斬り”と名高き生ける伝説が、彼の前にいた。
「なに、「上司のあんたが休まんと部下も休めんだろうが! 60連勤はさすがに見過ごせん!」と、凱坊ちゃんにどやされましてな。いやはや、定年間近に有給というのも心苦しくはあったのですが……せっかくなので長期休暇をいただき、ロシア世直し旅行と洒落込んでいる次第です」
そんな旅行があるかと切り返す余裕は、今のハルトマンにはなかった。局所という制限はありながらも理論上無限にベースを付与することができるMO手術、『
そう、余裕こそなかったが……しかし、彼は沈着冷静ではあった。
「く、くく……なるほどなぁ。我が下半身に傷つけたことは褒めてやるとも。だが……
そう言うが早いか、ハルトマンは一瞬にして百燐の背後へと回り込んだ。ノミの脚力、及びハエトリグモの一種たるバギーラ・キプリンギの走力を合せた、まさしく瞬間移動とでもいうべき移動術。
「死に晒せ、老いぼれェ!」
勝ち誇ったハルトマンが、上段に構えた脚を百燐目掛けて振り下ろす。タカアシガニとノミの特性で大幅に増強されたその一撃は、人間など容易く踏みつぶす。ハルトマンは己の勝利を確信し――
「……あ?」
――そして、違和感。
脚を振り上げた、それはいい。だが、振り上げた脚が下ろせない――いや。
己の脚に1本の糸が絡みついていることにハルトマンが気付いたのと、百燐が呟いたのはほぼ同時だった。
「”
ミシリ、と細胞が軋む音。それと同時に、目の前の老人の額には人ならざる生物の眼が6つ現れ、顎には鋏角と呼ばれる節足動物類に特有の器官が生える。茶色や灰色の体毛に覆われる指先からは糸が伸び、いつの間にか己とティンダロスの隊員を守る結界のように張り巡らされていた。
「な、に……!?」
気が付けば己の足は蜘蛛糸によって厳重にからめとられており、微動だにすることさえ敵わない。加えてハルトマンは、息が苦しさや視界の狭窄、手足が少しずつ痺れていくことに気が付いた。
「ふむ、毒が効いてきたようですな」
そう呟く百燐の姿が――変態してなお枯れ枝のような体躯のその老人の姿が、ハルトマンの目にはまるで悪魔のように映っていた。
国籍:中華人民共和国
66歳 ♂
178cm 77kg
『アークランキング』8位 (マーズランキング5位相当)
専用武器:対虫毒素充填式コーティング苗刀 『
MO手術 “節足動物型”
――――――――――――ナルボンヌコモリグモ――――――――――――
人を死に至らしめる毒牙、頑丈な糸、極めて高い運動神経――これらは蜘蛛に見られる特性である。しかし一口に蜘蛛と言っても種類は千差万別、全ての要素を兼ね備えた蜘蛛はそう多くはない。
しかし、ナルボンヌコモリグモは違う。かの昆虫学者、ファーブルをも魅了したその小さな体躯には、一般的にイメージされる蜘蛛の特性を数多く備えている。
徘徊性の蜘蛛である彼らは、アシダカグモのように走って獲物を捕らえる。その身体能力は高く、狙った獲物は逃さない。
獰猛な捕食者である彼らの牙には、毒がある。昆虫類に強い毒性を発揮するこの物質は、確実に獲物を死に至らしめる。
そして子守蜘蛛の名の通り、彼らは子育てをする。地中の巣穴には、鉛筆大に束ねればジェット機すら繋ぎとめると評される蜘蛛糸が、マット代わりに敷き詰められている。
もし歴戦の兵士がナルボンヌコモリグモの特性を手に入れ、その力を戦場で振るえば――彼は白兵戦からゲリラ戦まであらゆる戦争に通用する、極めて優秀な『戦闘員』兼『工作員』として、戦場に名を馳せることになるだろう。
「そういえば先程、面白いことを仰っていましたな」
「あ、あ……」
命乞いを口にするも、もはやハルトマンの呂律は回っていない。MO手術によってツノゼミを上乗せし、更にチビミズムシという昆虫の特性までも取り込んでしまった彼の体に、ナルボンヌコモリグモの毒はあまりにも劇薬であった。
ガタガタと震えるハルトマンに、百燐は語り掛けた。
「確か……「
「――
「ヴ、アアアアアアアアアアアアアアアアアア!?」
ハルトマンは股間から爆音を放とうとするが、剣聖の絶技は末期の抵抗すらも許しはしない。絶妙の間合いから放たれるは、神速の居合。ハルトマンの股間が激震するよりも早く、百燐の刀身は彼の腰から上を斬って落とした。
ボトリと胴体が床に落ち、紅が床を浸す。すかさず百燐はハルトマンの心臓に刀を突き立て、死にゆく狂人への介錯とした。
「上下合わせて人間なのですよ、青二才。出直されるがよろしい。来世はケンタウルスにでも生まれ変われるといいですねぇ」
その言葉を辛うじて聞き取ると同時に、アダム・ベイリアル・ハルトマンの意識は完全に消失した。
――――――――――――――――――――
――――――――――
「……というのが、今回の任務のあらましですな」
「あらそう、反省の色が全く見られないわね。
「
「シモン、オスカルに連絡なさい。お爺ちゃんが第六団の皆さまに『お持ち帰り朝までコース』をお望みだそうよ」
「ハハハそれだけは勘弁願いたいハハハ」
実に満足げに笑う百燐に、基地で報告を聞いていたモニカはため息を吐いた。この人斬りジジイ、休暇中なのを良いことにティンダロスの任務に内緒で同行していたのである。
ティンダロスの窮地を救い、かつ政府関係者にばれなかったからよかったものの、これが露呈していたらとんでもないスキャンダルである。ロシアと中国の関係にひびを入れかねない。
「……とりあえず百燐さん。今回は結果的に好転したから重罰は課さないけど、次回以降の独断専行は厳罰だからね?」
「勿論です。この百燐、肝に銘じますとも」
胃が痛そうなシモンの様子に、百燐はいう。本当にわかってるのだろうか、この好々爺は?
「……とりあえず百燐さんには、リンファちゃんがアーク名義で使った食費の支払いを命じます」
「最近入団した彼女の、ですか? いいですとも。可愛らしいお嬢さんの肩代わりくらい、この老骨が務めましょう」
――優しくも締めるべきところは締めるシモンらしくもない。
そう内心で呟いていた百燐は、先程まで青筋を立てていたモニカから向けられる同情の視線に気付かない。数日後、百燐は送られてきた請求書の請求金額に貯金数割が吹き飛び、二度と独断専行はしまいと誓うことになるのだが、それはまた別の話である。
「……それで、肝心の用事というのは?」
そう言ったのは、先程まで事態を静観していたクロードである。彼の顔は険しいものになっている。
「君がわざわざ私たちに報告に来るくらいだ……おそらく、碌でもないことだと思うんだが」
「さすがですな、博士。アダム・ベイリアル・ハルトマンの基地内のデータ処理をしていた際、興味深い通信記録を見つけましてな――どうやらテロを企てているようで」
そう言うと百燐は刀を杖代わりに立ちあり、懐からとり出したタブレットをクロードへ渡した。
「多少無理をしてでも、特別対策室としてシモン団長を派遣するのがよろしいでしょう。単刀直入に申し上げますが――」
そして老兵はこともなげに、冗談のような台詞を本気で口にした。
「
――――――――――――――――――――
――――――――――
「……ありゃりゃ。ハルトマン君からの通信が途絶えちゃった」
――死んだかな、これは?
アダム・ベイリアル――地球上に散らばった『アダム・ベイリアルを名乗る狂科学者の誰か』ではなく、彼らを束ねる首領たる本物のアダム・ベイリアルは、なんてことないようにそう言った。
「あー、死んだっぽいな彼。やっべ、これはクロード君達にばれたと見た方がよさそうか」
やばい、といいながら全く焦った様子も見せずにアダムが呟く。すると、通信モニターの向こう側――アダムと通話をしていた2人の男性のうち、壮年の男性が口を開いた。
「それがどうした、“黒幕気取り”?」
スーツを着こなす、壮年の男性である。その佇まいは非常に気品あふれるものではあるが、彼が纏う覇気は常人の――否、人間のそれではない。傲慢にして凶暴なそれは、ともすれば神の威容を思わせる程。
背後に
「この余が貴様如きの口車に乗ってやったのだ。愚民共が何を喚こうと、そのまま踏み潰せばよかろう? それとも貴様――」
そう言うと、壮年の男性はモニター越しにアダムへと殺気を向けた。
「まさか『部下が1人死んだので中止します』――などとほざくつもりはないだろうな?」
「いやいや、それこそまさかだよ。昨今、マッドサイエンティストってのは肩身が狭くてね。弾圧には屈さない雑草魂が求められているのさ」
モニター越しとはいえ、常人ならば失神してもおかしくない気をぶつけられ、しかしアダムは平然と返す。すると、壮年の男性とは逆のモニターから、若々しい声が響いた。
「それじゃあ、予定通り決行――ってことでいいのかな?」
貴公子然とした青年である。黄金比と言ってもいいほどにバランスの取れたその体に纏うのは、トーガと呼ばれる時代錯誤な衣装。その一挙一動は聖人の如く神々しいが、同時にひどく薄気味悪くもあった。
「いやなに、私もそれなりに準備を進めていたからね。せっかく真心を込めて用意した精兵たちも出番がないとなると、少しばかり切ないものがあるんだよ」
「ご心配なく! ボードも駒も用意したし、
その言葉に青年がのんびりと「それは楽しみだ」と笑う。対して壮年の男性は、無言。良いから話を進めろ、と言わんばかりだ。
「オーケィ、なんか早く始めろって空気がビシビシ伝わってきてるし、それじゃあ、代理戦争を始めよう。さてさて――」
そう言ってアダムは、モニターの向こう側の2人ににんまりと笑いかける。そして――
「
「愚問だ」
「私は、いつでも」
――
――――――――――――――――――――
――――――――――
――思うに、世界には歌に似ている。五線譜の上に敷かれた無数の
五線譜上の音符の位置がずれれば、それは別の歌になる。
奏でる楽器が違えば、それもまた別の歌である。
そして歌い手が変われば、やはりそれも別の歌。
そしてたった一つの違いで生まれた新たな歌は、まるっきり別の様相を呈するのである。それはまるで、少しの食い違いが転換点となって、歴史を動かす人類史のように。しかしそのどれも多少の差異はあるものの、歌として破綻はしない――で、あるならば。
これより奏でる歌は、全く異なる三つの
――故に、
これより唄われる歌は、全く異なる三人の
――故に、
そしてこれより紡がれる歌は、全く異なる三人の
故に――
【人造の堕天使】が奏でし音色に合わせ、【闇夜の海魔】が踊り狂う――虚ろの五線譜に刻まれし、【呪歌の残響】を聞け。
予告編 PRELUDE 序曲 ―――――― 了
贖罪のゼロ
THE EXTRA MISSION
CROSS OVER WITH 『深緑の火星の物語』 & 『インペリアルマーズ』
――
――開幕――
To be continued first song ―― 狂想讃歌 ADAM ――
……はい、ということで。
本編は少しお休みして、ここからしばらく他作者様の作品とのコラボをやらせていただきます!(宣言) 子無しししゃも様、逸環様には、この場を借りて申し出を受けていただいた感謝を!
詳細は後日活動報告に載せさせていただきますが、とりあえずざっくりとした概要を書かせていただきますね。
・拙作を含むいずれかの作品を知らずとも楽しんでいただけるよう、本文やあと書き、前書きなどで用語説明などは入れさせていただきます。
・コラボと言いつつ、キャラと設定をお借りした『贖罪のゼロ』の地球編やる、ぐらいのノリで執筆中です。両作の設定を混ぜ込んだオリジナルの敵がバンバン出ます。新ベースも盛りだくさんです。
・全三章構成(予定)。内訳は1章兼幕間が三つの世界が混線した狂言回し、2章が『深緑の火星の物語』とのコラボ、3章が『インペリアル・マーズ』とのコラボとなっております。
・どれかの作品を知らなくとも100%楽しめるお話を書かせていただく所存、ですが……コラボ先の設定を知っていると200%楽しめると思います! この機会にぜひ読んでみてください、マジで!(ダイマ)
以上です。少しばかり特殊な投稿が続きますが、今後とも拙作をよろしくお願いします!