贖罪のゼロ   作:KEROTA

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 長らくお待たせしました! 『贖罪のゼロ』第二部になります!




2nd MISSION 凶星の箱舟  ーANNEX 1ー
第26話 20YEARS LATER 20年後


 ――西暦2619年。

 

 タイ王国の首都部からやや離れた郊外に位置するコンサートホール。その地下に設置されたスタジアムは、異様な熱気で満たされていた。

 

『レディース・アンド・ジェントルメン! ようこそお越しくださいました、当コロシアムの決・勝・戦へ!!』

 

 マイクを持った司会が叫ぶと同時、観戦席から盛大な歓声が上がる。所狭しと席についてる観客たちは皆、高価そうなスーツやドレスに身を包んでおり、いずれも富裕層の人間であることが見て取れる。

 

『皆さまの固~いお口と巧妙な粉飾決算に支えられ、今宵! 長きに渡る男たちの戦いがついに決着するゥ! この試合の勝者こそ、地上最強の――いや、()()()()の男だァァァ!』

 

 司会の声に合わせ、観客たちは思い思いに昂ぶりを叫ぶ。視界の男は、異様なそんな興奮と熱狂の渦の外側で、その女性――ミッシェル・K・デイヴスは鬱陶しそうにため息を吐いた。

 

「驚いた。まさか現実でこんなことをやってる連中がいたとはな」

 

 ビジネススーツに身を包み、フレームのない眼鏡をかけたその姿は、いかにもできるキャリアウーマンといった印象を周囲に与える。もしも通行人を適当に十人捕まえて感想を聞けば、十人が十人とも「綺麗だ」と答えるであろうその顔はしかし、不愉快そうにしかめられている。

 

「格闘技の観戦は嫌いじゃないが……吐き気がするぜ。人殺しのショーを楽しむ感性はまるで理解できねぇ」

 

「俺も同感だ、ミッシェル」

 

 そんな彼女の言葉に、やはりスーツを着た男性――小町小吉が静かに口を開いた。日本人としては恵まれた身長と体格、それにサングラスが合わさり、どことなくいかつい雰囲気を纏っている。

 

「ただ――それが現実にできちまうって辺りが、なんともやるせねぇ話だよな」

 

 小吉はそう言うと、サングラスの奥の目を細めた。

 

「毎日汗水たらして働いて、やっとの思いで数十万の給料をもらってるサラリーマンの横で、株やら不動産やらで悠々と何千万、何億って稼ぐ奴がいる。そういう奴らが集まれば、イベントの一つや二つは簡単に開けるってわけだ。本当に――」

 

「――嫌な話、だよね」

 

 と、小吉の言葉に繋ぐようにして、その声は発せられた。その声は淡々と、しかし微かな不快さを語気に滲ませながら、更に続ける。

 

「こんなことにお金を使うくらいなら、もっと皆のためになることに使えばいいのに。募金でも、寄付でも」

 

「まったくだ」

 

 ミッシェルは特に驚いた様子もなく答えると、肩越しに背後を見やる。途端、彼女の視界には、奇妙な出で立ちの人物が映りこんだ。

 

 身長や声の高さから推定するに、その人物は20代の男性――なのだろうか? 屋内にも関わらず頭部を黒のフルフェイスヘルメットで覆っているため、外見から正確な年齢は読み取れない。細身ながらも引き締まった肉体には袖口にゆとりのある白の中国拳法服を纏っており、それが見た目のちぐはぐさに拍車を掛けている。

 

 これだけ見れば明らかな不審者なのだが、ミッシェルが彼を警戒するような様子はない。それどころか彼女は、どこか気を許したような調子で背後の人物に対して声をかける。

 

「あそこにいる連中の内、10人でもお前みたいなやつがいれば――この世界も少しはまともになるだろうにな、シモン」

 

「……どう、だろうね?」

 

 一瞬の間を置いてから、シモンはミッシェルの言葉に短く返した。それから彼は、「それよりも」と切り出すとその顔を小吉の方へと向ける。

 

「小吉さん――例の彼、まだ無事なんだよね?」

 

「ああ、それは大丈夫だ」

 

 やや緊張の滲む声で尋ねたシモンの問いに、小吉は首肯する。

 

「彼は丁度、この試合の出場者だからな。それに――」

 

 小吉がそう言いかけると同時、客席からの歓声が一際大きくなった。3人が視線を戻すと、丁度スタジアムの中央に設置されたリングの中へ1人の青年が入場するところだった。

 

『まずは青コーナー! 若干二十歳にしてこのくらい地下闘技場に舞い降りた、期待の超新星! 国籍・日本! 使用武術・空手! その名もォ……!』

 

 司会の声に合わせてスポットライトが照射され、鍛え上げられた青年の肉体が照らし出される。青年が右腕を高く突き上げると同時に、司会は高らかに青年の名を読み上げた。

 

 

 

膝丸 燈(ひざまる あかり)だァアアア!』

 

 

 

 会場内に響き渡る喝采。それをBGMに、司会の男は青年、膝丸燈のプロフィールを読み上げていく。

 

 ――曰く、彼は日本の児童養護施設で1人の少女と出会い、共に育ってきた。

 

 ――曰く、17歳の時にその少女は難病に侵され、助けるためには臓器移植が必要である。

 

 ――曰く、膝丸燈はその少女を救う金を用意するため、この大会に臨んだ。

 

「……クズ共め」

 

 ミッシェルはリングを見つめながら、静かに吐き捨てる。表面上は冷静なものの、その胸中には怒りの感情が煮えたぎっていた。

 

 ――許せなかったのだ。膝丸燈という青年の切実な願いが、現在進行形で踏み躙られていることが。ただ一人の少女を救いたいという想いが、あんな下卑た連中の娯楽モドキに利用されていることが。

 

 小吉もおそらく同じ気持ちなのだろう。リングを見つめる彼の表情は険しく、その手は血が滲むほどに固く握りしめられていた。

 

 

 

 ――そんな中。

 

 

 

(……何だろう?)

 

 シモンだけは、気が付いた。フルフェイス越しに見える観客たちの表情が、どこかおかしいことに。

 

(――ただ興奮してるわけじゃない。あれは嘲笑と哀れみ……?)

 

 それは異変という程劇的なものではなく、違和感の範囲にとどまる程度のもの。だが、妙だ。なぜ観客たちは、この二つの感情を膝丸燈に向けているのか。

 

 金がない故に地下(ここ)まで転落してきた彼への侮蔑からか? あるいは、彼の悲惨な境遇に対する同情からか?

 

 どちらも間違いではないのだろう。だが、それだけというわけでもなさそうだ。この大会には恐らく、()()()()()()()()

 

「……2人共、何か――」

 

 そう結論付けたシモンが口を開きかけたその時だった。まるで彼の言葉を遮るかのように、司会の男が声を張り上げたのは。

 

『では続いて、赤コーナーより――この大会無敗のチャンピオンの登場だァ!』

 

 青年が入ってきたのとは反対側、赤い入場ゲートが開く。その中から姿を見せたのは、()()()()()()()()()

 

「なっ!?」

 

 思わずフルフェイスヘルメットの中で目を見開いたシモンの鼓膜を、司会の声が揺らす。

 

『ブライアン・チャオミーくん! 国籍・アメリカ! 生物種・ヒグマ! 使用武術は特になし、大自然が生んだ究極のファイターだ! 長いこと人間の肉しか食べていないブライアンくん、さっそく膝丸選手を今日の晩御飯にロックオンだァ!』

 

 高い網状のフェンス囲まれたリングの中、棒立ちになった燈にヒグマが猛然と前脚を振り下ろす。我に返った燈は紙一重でその一撃をかわすものの、鋭利な熊の爪は彼の額をぱっくりと切り裂いた。

 

「ッ!」

 

「待て、シモン」

 

 思わず駆け出そうとしたシモンの肩を、小吉がつかんで引き止める。シモンは自らを引き留めた小吉に対して抗議の声を上げた。

 

「でも、小吉さん! このままじゃ、彼が……!」

 

 リングの中では既に、決死の反撃もむなしく燈が地面に引き倒されており、ヒグマがその脇腹に喰らいついている。会場は彼のむごたらしい死を期待する、歓喜とも悲鳴ともつかない客たちの声に満ちていた。

 

「シモンの言う通りだ、艦長。こんなの、普通じゃねー」

 

 ミッシェルもまた、どこか非難するような視線を小吉へ向ける。

 

「こんなイカれた物を見るために、私たちはわざわざここへ来たわけじゃないだろ?」

 

「……ああ。正直、ここまでとは思っていなかった。ただ、クロード博士からの報告が正しければ――」

 

 そう言って小吉はリングへと目線を向けた。

 

 

 

「この場で一番普通じゃないのは()()()()

 

 

 

 ――小吉がそう言った、次の瞬間。

 

 まるで彼の言葉をその身で証明するかのように、ヒグマに貪られていた燈が突如として、()()()()()()()()()()()()()()

 

『は――?』

 

 司会を始め、会場内の観客たちは事態が飲み込めずに、歓声を上げることも忘れてリングを凝視する。それはミッシェルとシモンも例外ではなかった。瞠目する彼らの横で、唯一事情を把握していた小吉が口を開く。

 

「ミッシェル。彼は――膝丸燈は、()()()()()()

 

「っ! まさか……!」

 

 何かに思い至ったように呟いたミッシェルに、小吉が頷く。

 

 

 

()()()()()()()()()()()()()()()()。まさか、もう一人いたとはな」

 

 

 

 そう漏らした小吉の視線の先、リングに立つ青年の姿は、数秒前とは明らかに異なるものへと変貌していた。

 

 額からは昆虫を思わせる触角が出現、指先の爪は鋭く研ぎ澄まされており、その全身には人為変態時に特有の筋が走っている。

 

 目を凝らさなければ気付けないが、その姿は明らかに通常の人間のそれではない。

 

「正直、俺もこの目で見るまでは半信半疑だったが――報告は正しかったらしい」

 

 確信する小吉の前で、燈はヒグマの腕を押さえると、重心を利用してその巨体を投げ飛ばした。

 

 ――『旧式一本背負い』。

 

 鮮やかな体さばきでヒグマを地面に叩きつけた燈はすかさず跳躍し、ヒグマの顔面を蹴り潰す。頭蓋がひしゃげる音と共に熊はその体を大きく震わせ、それっきり動かなくなった。

 

『し、信じられなーい! 膝丸選手、あの状態からまさかの逆転勝利ィー!』

 

 興奮するように司会が叫ぶ。燈の勝利を見届けた小吉は、「やはりな」と呟いて踵を返した。

 

「行こう、2人とも。彼には伝えなければならないことがある」

 

 興奮が最高潮に達したスタジアムに背を向け、小吉が出口へと向かう。それを見たミッシェルとシモンも立ち見席を後にしようとして――

 

 

 

 

 

 

『おぉっと!? たった今、スタッフから情報が入りました! なんとこの決勝戦に、乱入者が現れた模様ですッ!!』

 

 

 

 

 

 

「「「――ッ!?」」」

 

 

 ――耳を疑う発言に、全員が足を止めた。

 

 彼らが慌てて立ち見席へと戻ると、丁度リングに繋がる三つのゲートが開き切り、赤、黄、緑のそれぞれのゲートから、新たな三匹の猛獣が姿を見せたところだった。盛り上がる会場に負けじと、司会は声を張り上げる。

 

 

『第一ゲートから悠然と現れたのは、クリスティーナ・チャオミーちゃん! 国籍・アメリカ! 使用武術・特になし! 生物種・ヒグマ! 苗字からも分かる通り、先程のブライアン・チャオミー君の妹だ! なおチャオミー兄妹、兄弟喧嘩はクリスティーナちゃんの全戦全勝だったようです! 果たして兄の仇をとることはできるのか!?』

 

 

 

『おっと、第二ゲートからは本大会きってのパワーファイター、ゴンザレスくんの登場だァ! 国籍・グランメキシコ! 使用武術・特になし! 生物種・ワニ! 大きな口から繰り出される噛みつき攻撃は、これまで数々の強敵を粉砕してきた! これは日本武術の完封も期待できそうだ!』

 

 

 

『出たァァァァ! 皆様、第三ゲートにご注目ください! 圧倒的王者の風格を纏って姿を見せたのは、キング・ヘリー君! 国籍・マダガスカル! 使用武術・特になし! 生物種・ライオン! 容姿・実力ともにチャンピオンとして申し分ない実力を兼ね備えたヘリー君! ここ数日何も食べてない彼は、いつにも増して凶暴だぞ! 疲弊した膝丸選手に捌き切れるのか!?』

 

 

 三匹の猛獣は喝采と共にリングの中に入ると、互いに威嚇しあいながらも、その視線を燈へと向けた。手負いの人間(エサ)を前にした猛獣たちの口から粘ついた涎が溢れだし、リングの床を濡らす。

 

「クソッたれが……! どこまでクズなんだこいつら!?」

 

 その顔を怒りで歪ませ、ミッシェルが吠えた。

 

 司会の男は乱入などと言っていたが、それを真実だと捉えている者などこの場には誰もいないだろう。観客たちは内からこみ上げる興奮に狂いながら、スタッフたちは意地汚い笑みを浮かべながら、リングの中で呆然と立ち尽くす燈を見つめている。

 

 彼らは期待しているのだろう、惨劇を。

 

 大切な人を守るために這いあがってきた勇者がむごたらしく蹂躙されるのを、彼らは心待ちにしているのだ。

 

「冗談じゃねえ! 艦長ッ!」

 

「分かってる!」

 

 2人はスーツの懐から注射器を取り出すと同時に、床を蹴って走り出した。

 

 ――いかに膝丸燈が人間離れした力を持っているといっても、狭いリング内で三体もの猛獣を一度に相手取るのは不可能に近い。まして今の彼は戦闘直後で疲弊し、深い傷を負っている状態。常識的に考えて、先程よりも絶望的なこの状況を引っ繰り返せるわけがない。

 

 だが自分達が割って入れば話は別だ。試合自体は無効になるだろうが、根本的な話をすれば、()()()()()()()()()()()()()()()()()()――もっともそれは、当人が知る由もないことであるが。

 

 何にせよ、これ以上勝たせる気のない試合に彼を突き合わせ、みすみす死なせてしまうことはミッシェルにとって本意ではなく――そもそも、人間として見過ごすわけにはいかなかった。

 

「その試合、待っ――」

 

 ミッシェルが叫ぼうとした、その時だった。

 

 まるで彼女の言葉を遮るかのように、ミッシェルと小吉の間を、一陣の風が吹き抜けた。

 

「ッ!」

 

 本来なら、屋内に吹くはずのない突風。思わず2人が足を止めたその直後、ガシャン! という金属を揺らすような音を彼らの耳は捉えた。次いで聞こえたのは、観客たちのどよめきの声。

 

 周囲に視線を走らせた2人は、観客やスタッフたちがある一点を見つめていることに気が付き――。

 

「あー、こりゃ……」

 

 先程までの緊迫した状態から一転、小吉は気の抜けたような様子で頭をかいた。

 

「俺らの出る幕はないっぽいぞ」

 

「……らしいな」

 

 どこか不満げに相槌を打ったミッシェルは注射器をしまい直すと、多くの観客たちが見つめる場所へ自らの視線を向ける。

 

 

 

 リングを取り囲む柵の頂上、いつの間にかそこに立っていた、フルフェイスヘルメットの人物へと。

 

 

 

 ※※※

 

 

 

 距離にして観客席からおよそ7メートル、床からおよそ8メートル。

 

 試合から選手が逃れられぬように設けられた柵の上に、シモンは立っていた。当然ながら、いきなり現れた謎の人物が注目の的にならないはずがなく、ほとんどの観客たちはざわめきながら、柵上に立つシモンを凝視していた。

 彼らだけではない。予定にはない人物が登場した運営側や、畳みかけるような予想外に硬直した燈、果ては何かを感じ取ったのか一斉に威嚇を始める猛獣まで。

 

 シモンは今、このスタジアム内にいる全ての人々の視線を釘付けにしていた。

 

「おーい、司会者さーん!」

 

 それをさして気にした様子もなく、シモンは声を張り上げて司会者に呼びかけた。ざわめくスタジアムの中、シモンの澄んだその声はよく響く。いきなり名指しされたことで我に返った司会者が慌てて返事をすると、シモンは何でもないかのような口調で彼にこう尋ねた。

 

 

「この試合、乱入が有りなら()()()()()()()()()()()()()()!?」

 

 

『――え?』

 

 シモンの口から紡がれた言葉に、司会が呆けた声を漏らす。正気の沙汰とは思えないその言葉に、スタジアム内には一瞬、完全な沈黙が訪れ――数秒経ってから、爆笑の渦が巻き起こる。

 

『こ、これは驚きぃ! なんと、命知らずの乱入者がもう1人、空から登場だァ! ミスターフルフェイス、とでも呼びましょうか!? なおあらかじめ言っておきますが、これは私たちが打ち合わせたものではございません! つまり、彼は正真正銘のチャレンジャー! 世紀の命知らずですッ!』

 

「……いいんだね?」

 

 まくしたてる司会者に、シモンが念を押す。司会者は興奮したように『勿論!』と叫んだ。

 

『当試合は無差別級、ルール無用のデスマッチ! 挑戦者、乱入者はいつでも受け付けます! もしもまだ会場内に「我こそは!」という猛者がいるのなら、どうぞ遠慮なくリングの中へ!』

 

 司会の冗談交じりの言葉に、会場内の笑い声が一層高まった。このスタジアム内にいる者の大半は奇妙な挑戦者を囃し立て、嘲笑混じりにシモンを眺めた。

 

 ――どうやら自分の参戦に否を唱える者はいないらしい。

 

 それを確認したシモンは1人頷くと、ぼそりと呟いた。

 

「それじゃあ、遠慮なく」

 

 

 

 

 そして次の瞬間。

 

 

 

 シモンは足場にしていた柵を蹴り飛ばすと、矢の如き勢いで眼下のワニの頭へと着地した。頭上からの強い衝撃はワニの脳を揺らし、脳震盪を引き起こす。一度だけ大きく体を痙攣させ、ワニはそのまま気を失った。

 

『……え?』

 

 水を打ったように、しんとスタジアム内が静まり返る。異様な静寂の中、淡々とした口調でシモンは言った。

 

「――次」

 

 その声に応えるように、彼の真横からライオンが飛び掛かった。ネコ科に特有の瞬発力から繰り出されるのは、前脚による拳撃。その一撃は小型の草食動物を即死させ、キリンやゾウなどの大型動物にすら致命傷を負わせるほどの威力を誇る。

 

 無論、人間離れした力を持つシモンといえども、直撃すればただでは済まない。

 

「当たれば、だけどね」

 

 しかしシモンは人間では考えられない脚力で跳躍し、それをあっさりと回避した。これまで食い殺してきた獲物の中に、このような動きをするものなどいなかったのだろう。得物の予想だにしない動きに戸惑ったライオンの体が微かに硬直する。

 

 ――その一瞬を、シモンは見逃さない。

 

 彼はそのまま無防備に晒された背に飛び乗ると、たてがみごとライオンの首を絞め上げた。

 

「ゴ、アッ……!?」

 

 突如自らを襲った窒息に混乱し、その口から苦悶の声が零れる。ライオンは元凶を振りほどこうと暴れまわるが、シモンは拘束を緩めず、それどころかむしろ腕に加える力を強めていく。

 

 締め付けと、激しい運動。この二つの要素が重なったことで、ライオンの体内から急速に酸素が失われていく。数秒後、ついに力尽きた百獣の王は、口端から泡を吹きながらリングにぐったりと倒れ込んだ。

 

「次」

 

 シモンは腕を外してライオンの背から飛び降りると、目の前で立ち上がったヒグマを見上げた。雄々しい咆哮がスタジアム内に響き渡り、毛むくじゃらの頑強な腕がシモンに迫る。

 

 それを見たシモンは、左腕をぐいと突き出した。その様子はまるで、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

『なっ……!?』

 

 司会者は目を眼前の光景に目を見開き、シモンの正気を疑った。

 

 人間が熊の筋力を押さえるなど、土台からして無茶な話。ヒグマのそれに比べ、人間の腕はあまりにも華奢すぎる。多少鍛えた所でどうにかなる問題ではない、根本からして人間の腕力は熊に及ばないのである。丸太と小枝が打ち合えば後者がひしゃげるのは自明の理というもの。だからこそ、この場にいるほとんどの人間は、次の瞬間には腕ごと頭を抉られたシモンが床に崩れ落ちることを予感した。

 

 

 ――だが。

 

 

 

「う、嘘だろ……!?」

 

 どよめく会場の中で、誰かが言った。

 

「あいつ、クマの腕を受け止めたぞ!?」

 

 

 

 

 ――シモンは多くの観衆たちの予想を裏切り、その細腕一本でヒグマの腕を確かに受け止めていた。

 

 先程の試合では燈もヒグマの攻撃を止めてみせたが、彼とシモンでは結果が同じでも、その原理が違っていた。

 燈は『技』によってヒグマの腕力を受け流したのに対し、シモンは素の『筋力』によってその攻撃を受け止めたのだ。

 どちらも人間離れした行為であることに変わりはない。だが――常軌を逸している、という点においては、間違いなくシモンに軍配が上がることだろう。

 

「やァッ!」

 

 掛け声と共に、シモンはがら空きになったヒグマの胴体を蹴り穿つ。風切り音と共に彼の足はヒグマの腹部へと突き立てられ、その直後、()()()()()()()()()()()()()()()()()()。ノックバックした熊の体はそのまま金網に激突し、柵の形を歪めて止まった。既に意識はないようで、半開きになった口からは舌がだらしなく垂れている。

 

 ――三匹の猛獣が一瞬のうちに、たった一人の男の手で、成す術なく無力化された。

 

 観客たちがそれを理解した時、スタジアムをかつてないほどの歓声が揺るがした。

 

「こんなところかな……さて」

 

 そう言ってシモンは、背後で攻撃の構えをとった燈へと向き直った。

 

 ――消耗こそしているものの、これまで数々の強豪を打ち破ってきた燈。

 

 ――瞬き程の時間で猛獣たちを一蹴したシモン。

 

 両者は静かに対峙し、一切の油断なくにらみ合う。

 

 数秒後に起こるだろう、後にも先にも見られない強者たちの激突。それに胸を高鳴らせ、観客たちは食い入るようにリングを見つめた。

 

 静まり返るスタジアム内。その沈黙はしかし、嵐の前の静けさ。その静謐の下で興奮が高まり、高まり、高まって――最高潮に達した、その瞬間。

 

 シモンは大きく踏み込んで、燈に向かって自らの体を打ち出した。

 

 会場内を満たした歓声を置き去りに、シモンの体はぐんぐんと燈に迫っていき、そして――()()()()()()()()()()

 

「よっ、と」

 

 シモンは燈には見向きもせずに再び跳躍、そのままクルリと宙回転すると、再び柵の上へと飛び乗った。彼は観客席でぽかんとした表情を浮かべる人々を見下ろしながら高らかに、そしてどこか得意げな口調で告げた。

 

 

 

 

 

 

 

 

()()()()()()()()()()!」

 

 

 

 

 

 

「……え?」

 

 それは、誰の声だったのだろうか。

 

 どこかから間の抜けたようなその声が上がると同時、スタジアムを満たしていた熱狂が急速にしぼんでいく。

 

『い、いやいやいやいや! ミスターフルフェイス! この試合はデスマッチですので、棄権や降参は、ルール上一切認められません! ちゃんと最後まで戦ってください!』

 

 運営側の人間として、このままではマズいと思ったのだろう。司会者が慌てて制止の声を上げる。しかしそれは、シモンを引き留めるという意味ではむしろ逆効果。

 

「あ、そうなんだ。()()()()()()()()()()()()

 

『なッ!?』

 

 絶句した司会者に向け「じゃあね」とばかりに手を振り、シモンは真上に大きく跳躍した。彼の姿を追おうと観客たちは天井を見上げ、目に飛び込んできた照明の光で視界が白く塗りつぶされる。やがて彼らの視界が元に戻った時、既にそこにシモンの姿はなかった。

 

『え、えー……』

 

 スタジアム内に残されたのは、白け切った空気。それを無理やりにでも取り払おうと、司会者は半ばやけくそ気味に叫んだ。

 

『そ、そんなわけで勝者は、膝丸選手だァ! これで愛しのあの子の病気も治るぞ! よかったね!』

 

 

 直後、スタジアム内には大会始まって以来のブーイングの嵐が吹き荒れた。

 

 

 

 ※※※

 

 

 

「……で、何か言うことは?」

 

「け、結果的に燈くんは助けられたし、ちょっと多めに見てほしいかな、なんて……」

 

「あ゛?」

 

「すみません」

 

 ――空き缶やら紙ごみやらが飛び交い始めたスタジアムから、やや離れた通路にて。

 

 スタジアムを見事に沸かせ、そして怒り狂わせたシモンは、青筋を立てて腕を組むミッシェルの前で絶賛正座中だった。

 

「い、いや、でも! ちゃんとMO手術の秘密が流出しないように注意はしたから大丈夫だよ! ほら、戦ってる時も拳法服の袖と裾で手足は見えなかっ……ごめんなさい!」

 

 何とかミッシェルをなだめようとシモンが声を上げるも、その直後、彼女の額に走る青筋が一本増えたのを見てそれを撤回する。ミッシェルの背後には蟻の幻影が浮かび上がっており、それが殊更にシモンを震え上がらせる。

 

「まぁまぁ、いいじゃねーか」

 

 完全に委縮しきったシモンを庇うように、ミッシェルと彼の間に小吉が割って入った。

 

「どのみち、イ……い感じにシモンが乱入してなかったら、俺らが代わりに止めてたわけだし。膝丸燈の救出も間に合って、あそこにいた連中に一泡吹かせた。結果オーライだろ?」

 

「それは、そうだが……」

 

 ミッシェルの額から青筋が数本消え、その表情は怒りから不満へとシフトする。

 

 ――好機。

 

 小吉は彼女の怒りの火を完全に鎮火すべく、さらに口を開いた。

 

「な? シモンも反省してるし、許してやってくれ()()()()()()()()!」

 

「舐めんなヒゲ。カワイイ方で呼ぶんじゃねえ」

 

「ごめんなさい」

 

 かえって火に油を注いだようだ。

 

「じゃあ、俺はあの子連れてくるから……2人は先に行っててね……」

 

 先程までに比べ、随分控えめな声でそう言うと、小吉はとぼとぼと通路の向こうに消えていく。その姿を見送ってから、ミッシェルは視線をシモンへと戻すと、深くため息を吐いた。

 

「シモン、私は別にお前が突っ込んだことに対して怒ってるんじゃない。なんで私を連れてかなかった?」

 

「え、何でって……」

 

 キョトンとするシモンに、不機嫌そうにミッシェルが続ける。

 

「お前の手術ベースになった『カマドウマ』の特性は強靭な脚力。本来、ライオンの首を絞めあげたり、ヒグマの攻撃を受け止めたりするような使い方をするベースじゃない。ロシアのジジイ(アシモフ)みたいな甲殻や再生能力があるわけでもない。一撃喰らっていれば、それだけで死んでた可能性もあった」

 

 シモンがきちんと話を聞いているのを確認して、ミッシェルは更に続ける。

 

「お前はお前で任務があるんだろ? わざわざこんな場所で無茶をする必要もない。だから『もっと周りを頼れ』……ったく、お前が私に言った言葉だろうが」

 

「……そうだったね、ごめん」

 

 シモンが改めて口にした謝罪に、ミッシェルは鼻を鳴らした。

 

「分かったんならいい。ほら、行くぞ」

 

 そう言って、ミッシェルはシモンの手を掴むと、そのまま彼を引っ張り起こした。

 

「よっと……ん? おい、シモン。お前、まだ変態を解いてなかったのか?」

 

 歩きながら、ミッシェルが不思議そうな表情でシモンに聞く。ミッシェルが握ったシモンの手は肌色ではなく、未だに黒い甲皮に覆われていた。ざらついたその感触も人肌のそれではなく、昆虫の質感に近い。

 

「ああ、うん。ボクは薬が効きやすい体質でね。普通の人より変態が解けるのが遅いんだ」

 

 シモンはそう言うと、自らの腕をさっと袖の中へと隠した。

 

「人には見られないように隠しておくから、気にしないで。それよりも、着いたんじゃない?」

 

「ん――ああ、ここか」

 

 シモンが指さしたのは、金属製の扉だった。先行していたミッシェルがドアノブをひねり、扉を開けると同時に、部屋の中からは怒声が飛び出してきた。

 

「――だとコラ!」

 

 直後、何かを叩きつけるような音と、男の悲鳴。2人が中に入ると、部屋の中では大会スタッフと思しき男の一人に、満身創痍の燈が押さえつけているところだった。

 

「ひッ! ゆ、許してくれ……」

 

 襟元を掴まれた男はその目に怯えの色を滲ませ、燈に許しを乞う。

 

「お、俺は、上の指示に従っただけでアガッ!?」

 

「黙れ! いいか、もう一回だけ聞くぞ……!」

 

 右手で男の顎を鷲掴みにし、燈は徐々に手に加える。男のあご骨がミシミシと嫌な音を立てた。

 

()()()()()()()()()()!? どこの、どいつにだ!?」

 

 燈が凄まじい剣幕で問いつめる。すると男は恐怖で涙目になりながら、人差し指で燈の背後――即ち、そこに立つシモンを指さした。

 

「ッ! テメェ、さっきの……!?」

 

 男の行動で初めて、背後に人がいたことに気が付いたらしい。瞠目した燈に、シモンは首をゆっくりと横に振った。

 

「厳密には買ったわけじゃない。君の幼馴染――源百合子さんは、5カ月前にボク達が保護した」

 

「保護、だと……!?」

 

 シモンの言葉が信じられないのか、燈はその場に男を投げ捨て、そのままシモンに掴みかかった。

 

「何が目的――いや、それよりも百合子は今どこにいる!? 無事なんだろうな!?」

 

 詰め寄る燈にシモンが答えようと口を開いたその時。キィ、という音を立てて、彼らの背後にあった扉が開く。

 

 

 

 カツ、カツ、と靴音が響いて。

 

 

 

 扉の向こうから姿を現したのは、1人の女性だった。およそこのような空間には相応しくない、良くも悪くも平凡なその女性。その姿を認めたその瞬間、燈の口は無意識のうちに、彼女の名前を呼んでいた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「――百合、子?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……久しぶり、燈君」

 

 そう言ってその女性――源百合子は、どこか照れくさそうに笑った。

 

 ――命を賭してまで救おうとした幼馴染が、病床に臥せっているはずの想い人が、そこにいる。

 

 燈はそれが信じられず、フラフラと彼女の下まで歩み寄ると、そっと彼女の体を抱きしめた。

 

 拒むことなく彼の腕の中に納まった百合子の体には、確かに体温の温もりが、息遣いの脈動が、そして鼓動の音があった。

 

 

 

 ――生きている。

 

 

 

 それを実感したその瞬間、燈の目から滂沱の涙が溢れだした。

 

「百合子、百合子……!」

 

 百合子の命を確かめるように、燈は何度も何度も彼女の名を呼んだ。そんな彼を安心させるように、百合子もまた彼の体を抱きしめる。

 

「大丈夫だよ、燈君。私はここにいるから……ちゃんと、生きてるから……っ!」

 

 百合子の瞳からも、ぽろぽろと涙の雫がこぼれ落ちる。やがて2人は互いを強く抱きしめ合いながら、堰を切ったように泣き出した。今まで抱えていた不安や恐怖、それらから解放された安堵。それらが混ざり合い、せめぎ合い、彼らは子供のように泣きじゃくる。

 

 

 

 

「一件落着、かな」

 

「馬鹿か、まだ始まってすらいねぇだろうが」

 

「いや、そうなんだけどさ……」

 

 それを少し離れた所から見守りながらシモンが漏らした安堵の言葉に、ミッシェルが釘を刺す。彼女らしい現実的な答えにシモンが苦笑すると、ミッシェルは「ただ……」と言葉を続けた。

 

「ひとまずでしかないが――めでたいな」

 

「……そうだね」

 

 微かに表情を和らげたミッシェルに頷いて、シモンは踵を返した。

 

「それじゃあ、ボクはまだやることがあるからこの辺で。小吉さん、ミッシェルさん、あとはよろしくね」

 

「おう、じゃあな」

 

「任ぜどげ……ぐすっ」

 

 ミッシェルといつの間にか戻り号泣していた小吉に見送られ、シモンは部屋を後にする。彼がそっと扉を閉めると同時、背後から野太い声がかかった。

 

「おう、団長。そっちの用事はもう済んだのか?」

 

 振り向いたシモンの目に映ったのは、ひげ面の大男だった。迷彩柄の軍服に身を包み、ぼさぼさの髪をヘアバンドでたくし上げたその風貌は、見るものに野性的な印象を与える。

 

「こっちはもう大丈夫。あとはミッシェルちゃんと小吉さんがやってくれるはずだよ」

 

「そいつは上々」

 

 しかしあれだな、と男は自らの顎髭を撫でながら、不思議そうに言う。

 

「あの嬢ちゃん、よく完治したよな。A(エイリアン)E(エンジン)ウイルス……だったか? 致死率はほぼ100%だったと思ったんだが」

 

「百合子ちゃんの場合、本当に運が良かったんだよ」

 

 首をひねる男に、シモンが続けた。

 

「あの子が感染してたのは、♀型A(エイリアン)E(エンジン)ウイルス。こっちのウイルスに関しては、試作型だけどクロード先生が一応ワクチンを作ったからね。手術自体を担当したのもクロード先生だったし、何より肉体の衰弱が致命的じゃない時期に保護できたのが大きい。多分、この中のどれか1つでも欠けてたら、あの子は助からなかったはずだよ」

 

「なるほどな。つまりあの嬢ちゃんは、相当なラッキーガールってわけだ」

 

「……まぁ、治ったこと自体は、間違いなく幸運だね。そこから先は……一概には何とも言えないけど」

 

 感心したように頷く男に、シモンはその目をチラリと向けた。

 

「他の皆は?」

 

「お嬢は予定通り、特性を使ってここの連中を尋問してる。んで、うちの団員半分がその警護、残り半分が大会の資金を回収してる」

 

「了解」

 

 頷いたシモンはぐっと伸びしてから、「それじゃあ、行こうか」と男に声をかけた。

 

「正直あんまり長居したい場所じゃないし、早く終わらせて拠点に戻ろう」

 

「ハハ、違いない」

 

 笑いながら男は同意すると、歩き出したシモンの後に続く。やがて2人の姿は、薄暗い通路の向こうへと消えていった。

 




【オマケ】

研究員A「ところで、培養できないウイルスからどうやってワクチン作ったんですか? 研究用のサンプルも、ワクチン制作用のサンプルも足りてないはずなのに」

クロード「? サンプルは足りないだけで、全く無いわけじゃないだろう? 数回分のサンプルで研究を成功させて、残りでワクチンを作ったんだよ」

研究員A「何言ってんだこいつ」



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