「おおおおおおおッ!」
猛々しい雄叫びと共に、ドナテロの岩のような腕から繰り出されるラリアットが、『―・―』のテラフォーマーの脳天に迫る。
ベースとなった昆虫の特性である『怪力』が上乗せされたことで、ドナテロの攻撃は破壊力が格段に上昇している。『―・―』のテラフォーマーですら、直撃すれば即死は必至だろう。
「じ」
――ただし、それはあくまでも『直撃すれば』の話。
目の前に迫る丸太のような腕を見た『―・―』のテラフォーマーは,ドナテロの腕に自らの手を添えると押し上げるようにして軌道を強引に捻じ曲げた。結果、彼の攻撃は大きく逸れ、ブンという空気を切る音だけが響く。
――ドナテロが多用するプロレスの技は本来、他の格闘技のような『確実に相手を倒す』ためのものではなく、『観客を魅せる』ためのものである。
故にプロレスの技は他の格闘技に比べて見た目が派手で、破壊力があるという特徴があるのだが、その一方で『隙が大きい』という弱点がある。
無論、優れた知能を持つ『―・―』のテラフォーマーがそれに気付かないはずもない。彼はドナテロの体から次々と繰り出される渾身の攻撃を、最小の動きで次々と受け流していく。そして特に大ぶりの攻撃を逸らした直後、ドナテロの態勢が不安定になったのを見計らうと、『―・―』のテラフォーマーは彼の胴体へと強烈な拳撃を叩きこんだ。
「がッ……!?」
ドナテロの口から苦悶の声と共に血と涎が漏れ、思わずドナテロが膝を折る。
『クロカタゾウムシ』や『ニジイロクワガタ』には及ばないまでも、その体を頑丈な『昆虫の甲皮』に覆われているはずのドナテロ。並の攻撃ならばものともしない彼が、ただの一撃で膝をついてしまったのは、攻撃の被弾部位に原因があった。
――人体の正中線上、腹部の上方中央に位置する『みぞおち』。
飲んだ水が落ちるところという意味の『水落ち』が変化して名づけられたこの部位は、東洋医学の経絡論においては『
「ぐ、おぉ……!」
いかにドナテロが屈強であろうとも、こればかりはどうしようもない。人体の危険信号たる痛みは運動能力を鈍らせ、酸素の不足は運動能力を低下させる。根性論でどうにかなるものではないのだ。
「……じょう」
――恐るべきは、ただの一瞬で人体の弱点を見抜き、それを的確について見せた『―・―』のテラフォーマー。筋力では遠く及ばない
昆虫としてのゴキブリが持つ最大の特性は、『貪欲なまでの生存能力』。
敏捷性や反射神経、一匹見かけたら三十匹は潜んでいるといわれる繁殖力など、これまでにあげてきたこれらのゴキブリの特徴は全て、この特性の副産物に過ぎない。
彼らは過酷な自然界で生き残るために、時に速さを、時に鋭敏な感覚を、時に繁殖力を取り込んできた。他の生物が長い進化の過程でやっと一つ掴み取れるかどうかという、稀有な能力の数々を。
そして今、彼は人間にも匹敵する『知恵』と『技術』を手に入れた。
「じょじょうじ、じょうじぎ。ぎじじょう」
――人間ごとき、何するものぞ。最後に勝つのは――
そう言わんばかりに、『―・―』のテラフォーマーは目の前のドナテロを見下ろした。
「ぐっ……!」
ドナテロが態勢を立て直そうとするも、既に『―・―』のテラフォーマーは次の攻撃に写っていた。まるで選手宣誓のようにテラフォーマーは高々と己の右腕を掲げ、それを目の前に這いつくばる人間へと振り下ろす。
『―・―』のテラフォーマーの鋭い手刀が、ドナテロの首を捉えた――
「やあッ!」
――かと思われたその時、鋭い掛け声と共に、『―・―』のテラフォーマーの死角からイヴが飛びかかった。イヴはその腕に宿る『ヂムグリツチカメムシ』の力で、『―・―』のテラフォーマー目掛けて警杖を振り下ろす。
「じょうじぎ」
人間ならば完全に不意をつけたであろう、物陰からの奇襲。しかしすぐさま『―・―』のテラフォーマーはそれに対応した。彼はドナテロへの攻撃を中断すると、後方へと飛び退くことでイヴから距離を置く。その様子は、いかにも電撃を警戒しているようであった。
(やっぱり触らない――!)
続く二撃、三撃も、軽やかなステップで躱され、虚しく空を切った。警杖から放たれる電撃の危険性は、黒焦げになって床に転がるテラフォーマー達の末路を見れば一目瞭然。桁外れの頭脳を持つ『―・―』のテラフォーマーが警杖にわざわざ触れるはずもない。
「それなら――ッ!」
だが、イヴとてここで引き下がるつもりは毛頭なかった。今のままでは攻撃がかすりもしないことを悟ると、彼は即座に次の一手に移る。
脚部の歯車を調整し、両脚に力を溜めこんでいく。そして歯車が噛みあったその瞬間、イヴは溜めこんだ力を爆発させた。
「えいッ!」
跳躍の速度、それはさながら放たれた弾丸のごとし。目にもとまらぬ速さで『―・―』のテラフォーマーに肉薄したイヴは、すれ違いざま大きく警杖を薙いだ。
「――」
だが、それでもなお『―・―』のテラフォーマーには届かない。例え目にもとまらぬ速さであろうと、『―・―』のテラフォーマーには空気の流れを感じ取るセンサー『尾葉』が存在する。
視覚では捉えきれぬ情報を正確に把握し、『―・―』のテラフォーマーは飛び込んできたイヴの体と、薙ぎ払われた警杖を躱した。
――はずだった。
「――?」
――バチバチという嫌な音が、『―・―』のテラフォーマーの鼓膜を叩く。同時に彼は、熱と鋭い刺激が左腕から全身へと流れ込み、己の肉体を突き刺したのを感じた。
「ギッ……!?」
その顔から、初めて余裕の表情が消え失せる。
確かに攻撃は見切ったはずだ。なのになぜ、自分は攻撃を受けている――!?
『―・―』のテラフォーマーが即座に左腕を見やる。その瞳に写りこんだ己の黒く屈強な彼の腕には、
「――U-NASA備品、対人組立式
不意に、背後から聞こえたその声。電撃に身を焼かれながら『―・―』のテラフォーマーが振り返れば、そこには本来よりも3分の1程短くなった電気警杖と、それを握りしめて立っているイヴの姿があった。
「さすがに、
そう言って、イヴは自らを見つめる『―・―』のテラフォーマーに得意げな笑みを浮かべて見せた。
――イヴがやったことは極めてシンプルだ。
まずは組み立て式である
当然、直線的な『杖』による攻撃軌道を予想していた『―・―』のテラフォーマーでは、曲線的な『鞭』による攻撃軌道を回避することはできない。
イヴの得物に対する『先入観』、そして高い知能こそあるものの、生まれたてであったからこそ不足している『経験』。この二つが、明暗を分けた。
「ギ、ぎぃいぃいッ……!」
『―・―』のテラフォーマーの口から、苦悶の声が零れる。テラフォーマーの体に痛覚はないため、人間の様な苦痛を感じることはないのだが――しかし、依然として自らの全身を走る電撃に、『―・―』のテラフォーマーは己の命の危機を感じとっていた。
彼らは、死を恐れない。しかしその根拠は、全体の利益のために個の損失を許容するという合理的な思考にある。このまま何もせず無駄死にするなどと言う非合理的な選択肢は、『―・―』のテラフォーマーの中には存在しない。
――そう、非合理的。彼にとってここで自らが命を落とすということは『割に合わない』ことであった。
だからこそ『―・―』のテラフォーマーは、自らの脳裏に走った一瞬の閃きを、即座に行動へと移すことができた。
――ブチリ、という嫌な音が響く。
「なっ……!?」
警杖越しに加わる負荷が軽減し、イヴが驚きの声を上げる。その目の前で、テラフォーマーの左腕がボトリと地面に落ちて転がった。
――
それが、『―・―』のテラフォーマーが下した決断。これが人間ならば、腕を切り離した際に生じる「痛み」や、今後被るであろう「不便さ」などが枷となっただろう。だが彼らには痛覚がなく、己の肉体に対する執着もなく、その頭は今この瞬間を生き延びることのみを考えている。だからこそ、身の安全と引き換えに腕を捨てるという思い切った行動を起こすこともできたのだ。
そしてその予想外の行動は、図らずもイヴの隙へとつながっていた。
(しまった!)
力の均衡が崩れたことで、イヴの態勢が大きく崩れてしまったのだ。『―・―』のテラフォーマーはそれを見るや否や、すぐさまイヴに向かって大きく足を踏み込んだ。
「こ、のッ!」
咄嗟にイヴが、手中の警杖を振り上げる。だがそれを見た『―・―』のテラフォーマーは、すぐさま足元に転がっていた
直後、イヴの警杖は壁代わりにされた死体の脳天を穿ち、バチバチと火花を散らす。
イヴのカウンターをあざ笑うかのようにすり抜けた『―・―』のテラフォーマーは懐に飛び込むと、無事な右手でイヴの細首を乱雑に絞め掴んだ。
「が、ひゅ――!」
身長差ゆえに小さな体が宙に浮き、イヴの口から空気が抜ける音が漏れた。首を握りしめる手にかかる力は徐々に強まり、気道を圧迫していく。何とか抜け出そうと、イヴはツチカメムシの特性を発揮した両腕で抵抗するも、襲い来る息苦しさと痛みに徐々に力は抜けていき、その目には悔しさか、はたまた生理現象か、涙が滲んだ。
「ぐ、ぁ……」
奇しくもこの状況は、かつて自分が夢で見た光景に似ていた。首の骨が嫌な音を立てて軋んでいく。
薄れゆく意識の中、イヴが己の死を予感した――その時。
バキッ! という何かが潰れたような音と共に、不意に『―・―』のテラフォーマーがイヴの首から手を離す。直後、テラフォーマーは体を『く』の字に曲げて真横へと吹き飛ぶと、派手な音と共に壁にクレーターを刻んだ。
「無事か、イヴ!?」
えづくようにむせているイヴに、攻撃の姿勢を解いたドナテロが駆け寄る。それを見たイヴが、顔に笑みを浮かべて見せた。
「ケホッ、ケホッ……なんとかね。ありがとう、ドナテロさん」
未だ喉に残る違和感に咳き込みながらも、イヴは疲弊した体に鞭打って立ち上がる。その双眸は力無く壁にもたれかかる『―・―』のテラフォーマーを見つめた。
「少し入りが浅かったような気がしたが……やったか?」
「……」
ドナテロの言葉にイヴは無言で首を横に振ると、『―・―』のテラフォーマー目掛けて床に落ちていた大きめの瓦礫を蹴り飛ばした。
子供とはいえ、ウンカの脚力で蹴り飛ばされた瓦礫の威力は決して馬鹿にできるものではない。瓦礫はイヴの狙い通りに動かないテラフォーマーの頭部目掛けて真っすぐに飛んでいき――そして、黒い腕の一振りで弾き飛ばされた。
「――やっぱり」
ある意味では、予想通り。再び身構えた2人の前で、死んだふりを止めた『―・―』のテラフォーマーが立ち上がった。
「頑丈だな。おまけに、普通の個体よりも頭が回るらしい」
ドナテロが難しい表情で呟く。形勢は拮抗しているように見えて、その実ドナテロとイヴにとって不利な方向に傾きつつあった。
イヴとドナテロの2人がかりでも、現状『―・―』のテラフォーマーには決定打を与えることはできていない。無論、『―・―』のテラフォーマーも左腕の欠損と言う大きな痛手は被っているが、手負いなのは2人も同じこと。加えて、あの個体の学習能力の高さから考えれば、一度使用した攻撃は全て見切られる可能性が高い。
即ち、戦いが長引けば長引くほど、2人は追い詰められていくのだ。
(どこかで決定打を打ち込む必要があるが――)
眼前のテラフォーマーを油断なく見据えながら、ドナテロは思考する。戦況の泥沼化を避けるためには、一撃で『―・―』のテラフォーマーを仕留めなければならない。同時に、彼は自分の特性と技術ならばそれが可能であることにも気がついていた。
問題なのは、どうやってその一撃を『打ち込む』段階まで持ち込むか、という点。現時点で届いたのは、イヴを助ける際の不意打ちのみ。破壊力がある大技を当てるだけ隙を目の前の敵が見せることはないだろう。
――どうする?
刹那の逡巡。その後、ドナテロはゆっくりと口を開いた。
「イヴ」
名前を呼んだ途端、イヴの意識が自分自身に向いたのを感じながら、ドナテロは続けた。
「あのゴキブリに一撃打ち込める状況まで持ち込みたい。何か方法はないか?」
その言葉が予想外だったのだろうか。イヴの口から思わずと言った様子で、呆けたような声が漏れ出る。そしてその直後、イヴは自らの顔が綻んでいくのを感じた。ドナテロがこの土壇場で自分を頼ってくれたという嬉しさが、彼の心を満たしていく。
「……イヴ?」
「あ、ううん! 何でもないっ!」
――いけない、緊張感を持たないと。
自戒するようにイヴは胸中で呟き、大きく深呼吸をする。戦いはまだ続いている。気のゆるみは即、死へと繋がるのだ。
イヴは己の心を落ち着かせてから、ドナテロの問いに対する返事を口にした。
「丁度、ボクも考え付いたところだったんだ。あのテラフォーマーに、ドナテロさんの攻撃を当てるための方法」
そう言ってイヴはその口元に笑みを浮かべた。
それは先程までの緩みきった笑みではなく――幾手も先の未来に、勝利を垣間見たかのような、不敵な笑みであった。
※※※
『―・―』のテラフォーマーは対峙していた2人の人間の内、大柄な人間が再び自らに向かって突進してくるのを見た。
「フンッ!」
その人間――ドナテロは間合いを詰めると、大きく手を振り上げた。先程の打ち合いで、既に何度も目にした攻撃だ。万全でないとはいえ、『―・―』のテラフォーマーに躱せないはずもない。
『―・―』のテラフォーマーが真横に飛び退く。その直後、振り下ろされたドナテロの腕がバグズ2号の床を強く殴りつけ、小規模の地震を思わせる振動を引き起こした。すかさずドナテロは上体を起こすと、なおも無謀にも見える攻撃を『―・―』のテラフォーマーに仕掛ける。『―・―』のテラフォーマーはそれら全てを受け流しながら、目の前の人間の特徴を分析した。
――この人間の攻撃は、破壊力こそあるが鈍重。戦法は発達した筋力に物を言わせた力押し。再三受け流されているにも関わらず、それを止めようともしない。
『―・―』のテラフォーマーはこの戦いにおいて、今まで受動に徹してきていた。こちらからの攻撃はカウンター程度に控え、敵の行動を観察することでその知識と技術を学習し、奪おうとしていたのだ。その成果もあって、生後間もないこの個体は生まれてから現在に至るまでの時点で既に、通常のテラフォーマーを凌ぐ戦闘能力を身に着けていた。
――だが、もはや
それが、『―・―』のテラフォーマーの見解だった。おそらくは学習能力も低いのだろう。馬鹿の一つ覚えの如く突っ込んでくるこの人間にはもはや、『教材』としての価値は見出せない。
これ以上、この人間を生かしておく必要はないだろう。
そう結論を下した『―・―』のテラフォーマーは壁際まで後退。偶然近くに転がっていた通常型のテラフォーマーの死体に近づくと、いきなりその頭部を鷲掴みにした。
「じょう」
一声そう鳴いて、『―・―』のテラフォーマーが腕にぐっと力を込める。するとそう間をおかずに、ずるりという音を立てながら、死体からテラフォーマーの頭部が背骨ごと引き抜かれた。
「!?」
その異常とも言える行動に、ドナテロは思わず追撃の手を止める。『―・―』のテラフォーマーはその視線を意にも介さず、背骨の先端にある同族の頭部をねじ切って雑に放り投げると、プルリとしなるそれを
「これは――!」
ドナテロは、その構えを知っていた。ドナテロは『―・―』のテラフォーマーの背後に、同じ構えをとるイヴの姿を幻視する。
直後、『―・―』のテラフォーマーはドナテロに向かい、数歩分の距離を一気に詰めた。
(杖術だと――!?)
驚くドナテロの喉元に、おぞましき槍の穂先が体液と脂肪を撒き散らしながら迫る。咄嗟にドナテロが体を大きく仰け反らせると、果たして背骨の槍は彼の喉に届く数cm手前でピタリと止まった。回避行動をとらなければ、今頃ドナテロの喉は串刺しになっていただろう。
息を吐く間も与えず、『―・―』のテラフォーマーはさらに一歩踏み込むと、攻撃を続けざまに放つ。時に突き、時に振り下ろし、時に薙ぎ払い。次々に繰り出されていくその技は、見れば見るほどにイヴの杖術に似ていた。
「ぐッ……!」
押され続ける戦況を仕切り直すべく、ドナテロが後方へ跳躍して『―・―』のテラフォーマーとの距離をとる。相手が詰め寄ってくるまでの間に態勢を立て直そうとするドナテロだったが、彼が距離をとると有無を言わず、『―・―』のテラフォーマーは槍投げの要領で背骨を投擲した。
「ッ!?」
反射的にドナテロが体をひねると同時に、一瞬前まで自らの頭部があった場所を背骨は猛スピードで通過し、背後の壁に突き刺さる。
ゾッとドナテロの背を悪寒が走ったのとほぼ同時に、拳を振りかぶった『―・―』のテラフォーマーが彼の懐に飛び込む。一拍の間も置かずにテラフォーマーの腕が振り抜かれ、ドナテロの屈強な体を衝撃が貫いた。勝利を確信し、『―・―』のテラフォーマーが鬼の首を取ったような笑みを浮かべた。
――その直後、『―・―』のテラフォーマーの耳が拾ったのは、ドナテロの腹に突き立てた自らの拳から上がる、メキメキという嫌な音だった。
「!?」
異変に気付いた『―・―』のテラフォーマーが腕を引こうとするが、どれだけ力を込めても腕は固定されたかのように動かない。その理由は至って簡単。なぜならば、彼の拳は受け止められていたからだ。
――地球上で最も『力持ち』であるとされる、とある昆虫の筋肉で以て。
「嘗めるなよ、ゴキブリが……!」
鼓膜を叩いたその声に、『―・―』のテラフォーマーが顔を上げる。テラフォーマーの視界に映ったのは左腕で己の拳を受け止め、空いている右腕を振り上げるドナテロの姿だった。
「ぜァ!」
ドナテロの右腕が振り下ろされ、『―・―』のテラフォーマーの体が宙を舞った。これによりドナテロの拘束からは逃れたものの、『―・―』のテラフォーマーは床に叩きつけられて転がり、満足に受け身も取れないまま地に這うこととなった。
「ぎ、ギ……」
飛び起きた『―・―』のテラフォーマーはすぐさま、己の体の損傷を確認する。どうやら、咄嗟に体の軸をずらしたのが功を奏したらしい。テラフォーマー最大の弱点である食道下頸椎や気道に大きな傷はなく、代わりに左肩部の骨が完全に粉砕されていた。
「じょう」
その顔から一切の表情を消し、『―・―』のテラフォーマーはおぼつかない足取りで立ち上がった。幸い、未だ戦闘に支障のある傷は負っていない。ならば、彼は立ち上がり、目の前の
それから、ふと感じた違和感に足を止めた。
「……?」
違和感の正体はすぐに分かった。それは、今まで『―・―』のテラフォーマーが体験したことのない『悪臭』だ。
先程まで、火災の残り香で微かに焦げ臭かった程度の管制室内が、今は青臭くツンとするような刺激臭で満たされている。
――何だこれは?
訝しげに周囲を見渡し、それから『―・―』のテラフォーマーは更に気が付く。その視界は靄がかかったかのようにぼやけ、その呼吸は荒く苦しくなってきていることに。
「――そろそろ、効果が出てきたかな?」
背後から聞こえた声に、『―・―』のテラフォーマーが振り返る。彼から少し離れた壁際に小柄な人間――イヴが立っていた。両腕をテラフォーマーに向かって突き出すかのような奇妙な姿勢のまま、イヴは呟く。
「“カメムシの毒霧”」
――カメムシが発する悪臭の原因である分泌液、その主成分であるヘキサナールと呼ばれる化学物質には、強い毒性がある。吸入や皮膚との接触によって生物の体内に吸収されることで、この化学物質は呼吸器や目、皮膚などに刺激性の悪影響を及ぼすのだ。
その毒の強さは放出したカメムシ自身も例外なく対象となるほどで、実際に密閉された空間でこの液体を分泌したカメムシが死んでしまったという報告もなされている。
「自分の臭いで死ぬ虫がいる」などと笑い話にできるのは、それが昆虫大であった場合の話。もし密閉された空間で、人間大のカメムシが分泌液を多量に放出したのなら――その空間は瞬く間にガス室となり果てるだろう。
「――」
イヴが発した言葉の意味を『―・―』のテラフォーマーが理解することはない。だが彼の鋭敏な感覚は瞬時に理解していた――あの人間が、己を襲っている奇怪な現象の根源なのだと。
駆除の優先度はドナテロよりもイヴの方が上だと判断したらしい。『―・―』のテラフォーマーがイヴへと向きを変えると、彼目掛けて一直線に駆け出した。
「イヴッ!」
「ボクは大丈夫!」
口元を布きれで覆いながら声を張り上げたドナテロに、イヴが叫び返す。
「それよりも準備を!」
イヴは言いながら自らの傍らに置いてあった警杖を手に取ると、躊躇なく放電のボタンを押す。途端、基部から発信された電気信号が送信され、『―・―』のテラフォーマーの左腕ごと放置されていた末端部がそれを受信、その先端から青い火花を散らした。
ところで、先の文章でその毒性の強さについて解説したヘキサナールであるが、実はこの化学物質は消防法の定める危険物に指定されている。だが、これは毒性の強さが原因で指定されているわけではない。
――消防法第一章 第二条の九より『危険物とは、別表第一の品名欄に掲げる物品で、同表に定める区分に応じ同表の性質欄に掲げる性状を有するものをいう』。
この法律の定める基準に従った場合、ヘキサナールは『第4類危険物 第2石油類』に該当する。私たちが良く知る物質でこの分類に指定されているものとしては灯油や軽油などを挙げることができ――。
その特徴を端的に述べるのならば、『引火性』である。
警杖の先端から迸った青い火花は、すぐさま酸素と空気中を漂うヘキサナールを餌にして爆発的に膨れ上がる。炎となった火花は閃光と高熱の奔流を生みながら暴発、強い爆風を巻き起こした。
爆発のただ中にいた『―・―』のテラフォーマーが、爆風に煽られて後方へと吹き飛ぶ。テラフォーマーの体は熱に強いため炎による損傷こそないが、爆風の威力自体は殺しきることができなかったのだ。
空中に放り出された『―・―』のテラフォーマーの体は、錐もみになりながら落下。受け身をとろうとしたその時、彼の体は落下地点にいたドナテロによって受け止められた。
「捕まえたぞ、テラフォーマー……!」
低く響いたその声に、『―・―』のテラフォーマーが拘束を逃れようともがく。だが、ドナテロは『―・―』のテラフォーマーの逃亡を許さず、その胴体を抱え込むようにしてグイと逆さに持ち上げた。
『―・―』のテラフォーマーの表情が焦燥に歪む。彼は手足を振り回し、身をよじり、翅を開いて暴れるが、何をしようともドナテロはその手に込めた力を緩めない。
「ぎ、ギィイイィイイイ!」
『―・―』のテラフォーマーの口から、断末魔の悲鳴が上がる。それと同時に、ドナテロは高く振り上げた両腕を、
凄まじい風圧と共に『―・―』のテラフォーマーの視界一杯にバグズ2号の床が広がる。次の瞬間、『―・―』のテラフォーマーの頭部をこれまでにない強い衝撃と、何かが砕けるような音が襲い――彼の意識は、永遠に闇の奥底へと沈んでいった。
※※※
「終わった、か」
動かなくなった『―・―』のテラフォーマーを一瞥して呟くと、ドナテロは半ば倒れ込むようにしてその場に座り込んだ。
かなり無謀な戦いだった。進化を遂げたらしいテラフォーマーを、2人がかりとはいえ片や7歳の少年、片や手負いの乗組員で相手取ったのだ。一歩間違えば、2人揃って返り討ちになっていただろう。
「ドナテロさん! 大丈夫!?」
休に座り込んだことに慌てたのだろうか、イヴが駆け寄ってくる。顔を上げたドナテロは、小さな友人を安心させるように、その顔に笑みを浮かべて見せた。
「ああ、問題ない……少し疲れただけだ」
ほっと安堵の息を吐いたイヴに、ドナテロが「それよりも」と言葉を続けた。
「毒霧に火炎放射……プロレスなら反則技のオンパレードだぞ、イヴ? どこの
「うえっ!?」
ドナテロからの予想だにしなかった指摘に、狼狽したイヴが視線を泳がせた。
「だ、だって、その……あれ以外に、いい方法が思い浮かばなくて……」
しどろもどろになって弁解するイヴ。その姿が面白かったのか、ドナテロは「冗談だ」と笑い声を上げた。からかわれたことに気が付き、思わず頬を膨らませたイヴの頭に、ドナテロがポンと手をのせる。
「こいつに勝てたのは、お前のおかげだ。ありがとうな、イヴ」
「……っ、うんっ!」
ドナテロの役に立てたことが相当嬉しかったのだろう。先程までのむくれっ面から一転、感極まったイヴの瞳は熱く潤んでいた。
「艦長、イヴ! 無事か!?」
ドナテロの手の温かさをイヴが感じていると、背後からそんな小吉の声が聞こえた。その声にドナテロが顔を上げると、穏やかな笑みを浮かべる。
「ああ、こっちは大丈夫だ。お前らもよく無事でいてくれた」
ドナテロの言葉にイヴが振り返る。そこには小吉のみならず、管制室や外で戦っていた他の乗組員の姿もあった。
無傷の者は1人もいない。特に奈々緒とティンは消耗が激しく、それぞれ小吉と一郎に肩を借りてどうにか歩けるような状態だ。だが、欠けている者もまた誰もいなかった。
「みんな! あのテラフォーマーに勝ったんだね!?」
パッと顔を輝かせたイヴに小吉が「おう!」と強く頷き、それから決まり悪げに頬を掻いた。
「って言っても、俺はあと一歩ってとこで逃げられちまったんだけどな。一郎とやり合ってた奴ならあそこだ」
小吉が親指で指したのは、管制室の奥。イヴとドナテロが視線を向けると、そこには首をねじ切られて絶命している『\・/』のテラフォーマーの姿が目に入った。
「す、すごい……あれ、一郎さんが?」
「いや――」
「とどめはあたしが刺したよ」
驚くイヴに一郎が答えようと口を開くが、それを遮るようにウッドが言った。
「一郎君が首チョンパしても、まだ活動を止めなくてね。偶然あたしの方に近づいてきたから、憂さ晴らしに鉛玉をブチ込んでやったのさ! ん~、いい気分っ!」
ウッドは満面の笑みを浮かべ、得意げに手中の拳銃をくるくると回して見せた。よくよく死体に目を凝らしてみればなるほど、胸部に弾痕と思しき傷があるのも確認できた。
「――っていうのは建前。本当はウッドがね、動けないアタシのことを守ってくれたんだよ」
「ちょ!?」
小吉に寄りかかりながら奈々緒がさらりと告げた言葉に、ウッドがギョッとしたように目を剥く。
「『奈々緒ちゃんに近づくな、ゴキブリ野郎』だっけ? ありがとね、ウッド」
「ま、まさか起きて……っていや、違うし! それ奈々緒ちゃんの空耳だから、空耳!」
頬を赤らめて叫ぶウッドに、奈々緒が悪戯っぽく笑う。その2人を横から微笑まし気に一瞥してから、一郎に支えられるティンが口を開いた。
「他のテラフォーマーは、俺が全て仕留めた。艦内に残っているゴキブリもいないはずだ」
「あ、あの数を1人で?」
聞き返したイヴの声が、思わず震える。仮に外にいたテラフォーマーが全て入ってきたのだとしたら、その数は十や二十では効かない。それら全てを殲滅するなど、一体どれだけの負担を体に強いたのだろうか。
「大丈夫だ、大した怪我は――グッ、ゴホッ!」
安心させようとティンが口を開くが、そこから飛び出したのは言葉ではなく血。それを見た一郎は、どこか呆れたように深くため息を吐き、ティンに言葉を掛けた。
「無理に喋るな。ショック反応こそないが、お前は薬を打ちすぎだ。黙って休んでろ」
「……そうだな。そうさせてもらおう」
ぶっきらぼうだがどこか気遣いの色が見えるその言葉に頷くと、ティンは素直に口を閉ざした。
「重傷者もいるようだが……ひとまずは全員無事、か」
ドナテロがそう漏らしたその時、通路の方から何かの足音が聞こえた。その場にいた全員が思わず身構えるも、しかしそれは徒労に終わることとなる。
「あっ、いた!」
管制室を覗き込むや否やそんな声を上げたのは、マリアだった。一同の体から力が抜けると同時に、安堵の空気が流れる。
「マリア! よかった、そっちも切り抜けたのか!」
「何とかね。みんなー! イヴ君達、管制室にいるみたい!」
小吉の言葉に頷くと、マリアが通路の先に向かって呼びかけた。すると間もなく、外に残った他の乗組員たちが慌ただしく管制室へとなだれ込んできた。
「お前ら、無事か!?」
「イヴ君! よかった、大したけがはしてないみたいだね……」
「ティン、どうしたんだ! ボロボロじゃねえか!」
イヴたちへと駆け寄った彼らは、口々に無事を確認する言葉を投げかける。ドナテロはその光景を見守りながら足りない乗組員がいないことを確認し、強張った体から力を抜いた。
「ご無事で何よりです、艦長」
「ミンミンか」
ドナテロが顔を上げれば、右腕を失い全身傷だらけになったミンミンの姿が映った。立ち上がったドナテロに、ミンミンが凛とした声で報告する。
「乗組員13名、帰還しました!」
「ああ、よくやってくれた」
ドナテロはミンミンにねぎらいの言葉をかけてから、一瞬だけ窓の外へと視線を向け――それから、乗組員たちに向かって口を開いた。
「皆、聞いてくれ!」
途端、乗組員たちはピタリと口を閉ざし、ドナテロへと視線を向ける。全員が注目したのを確認し、ドナテロの言葉を待つ乗組員たちに彼は己の決定を告げた。
「火星に到着してから現在までの状況から、今の我々では全てのゴキブリの駆除は不可能であると判断した!」
小吉を始めとした数人が頷く。
イヴとクロードから伝えられた情報が正しければ、火星にいるテラフォーマーの数はおよそ2億。自分達が相手にしたのは、氷山の一角と呼ぶのもおこがましいような、ごくごく一部にすぎないのだ。ドナテロは一拍の間を置いてさらに続ける。
「よって、現時刻を以てバグズ2号は火星での任務の一切を中断! ただちに地球へと帰還する!」
「……!」
乗組員の誰かが息を呑んだ。それは、彼らが待ち望んでいたはずの言葉。それが意味するのは、一秒でも早く終わってくれと誰もが願った地獄の終わり。だが、いざそれを告げられてみると案外に実感がわかないもので、乗組員たちは誰も、何も言えずに立ち尽くす。
だがそんな中で、1人だけ声を上げた者がいた。
「ほ、本当に……?」
イヴだった。彼は青い瞳をキラキラと輝かせながら、ドナテロに聞き返す。
「本当に、地球に帰れるんだよね、ドナテロさん?」
その言葉にドナテロが頷くと、イヴの顔が喜色に染まっていく。
「~~~~ッ、やったぁー!」
イヴが無邪気な歓声を上げ、その場でピョンピョンと飛び跳ねながら全身で喜びを表す。全員での生還を誰よりも求めていた彼にとって、これほどの朗報はない。イヴが待ち望んだ瞬間が、ついに訪れたのだ。
「そうだ、帰れる……帰れるぞ、アキ!」
「お、おう?」
イヴの喜ぶ姿に実感がわいたのか、小吉が隣で立ち尽くす奈々緒に言った。
「何だよ、嬉しくないのか!? これで俺達、あの家で一緒に暮らせるんだぞ!?」
「あっ……」
小吉の言葉に、奈々緒がはっとしたような表情を浮かべた。
その脳裏によぎるのは、火星へと発つ前に小吉と見た一軒家の佇むのどかな田園風景と、春になれば桜が咲き乱れるという小道。
あの場所を――小吉と共に、歩める。
「――ううん。そんなこと、ない」
そんな呟きが口から漏れた直後、奈々緒は自分の目から涙が流れでていることに気付いた。一瞬遅れて、胸の奥底から生と幸福の感覚がこみ上げてくる。それは彼女の心をじんわりと温もりを与え、目からこぼれ出る涙の筋を増やした。
「そっか……これでアタシ、やっと……やっと……!」
泣きじゃくる奈々緒の肩に手を回すと、小吉は何も言わずに彼女を抱き寄せた。それを見ていた乗組員たちも次第に実感がわいたのか、彼らの間にざわめきが広がっていく。
「そ、そうだ、これで借金も返せる……!」
「俺は婆ちゃんを海外旅行に連れてけるぞ!」
「じ、実家との縁が切れれば……俺は、自由だ!」
「や、やった……帰れるんだ! 俺達の
それは、誰が口にした言葉だっただろうか。その言葉と同時に、管制室の中はワッという声で満たされた。
「ドナテロさん!」
歓声を上げる乗組員たちの合間を縫い、イヴがドナテロの足元へと駆け寄ると、弾んだ声でドナテロに言った。
「ボクね、帰ったらドナテロさんやバグズ2号の皆と一緒に、どこかに行ってみたいな!」
「そうか……それも、いいかもな」
ドナテロが頷くと、イヴは嬉しくてたまらないと言った様子で更に言葉を続けた。
「そうだ、ミッシェルちゃんと、ミッシェルちゃんのお母さんも誘っていい? それで、色んなお喋りをしよう! ミッシェルちゃんはドナテロさんのことが大好きだから、火星でのドナテロさんの話をしたら、絶対に喜ぶよ!」
「ああ――そうだな」
ドナテロはそう言ってしゃがみこみ、イヴの金髪をくしゃくしゃと撫でつけた。その手つきに、イヴはふと、地球で最後にドナテロと会ったときのことを思い出した。
「……ドナテロさん?」
口にしようとしていた言葉を飲み込み、イヴがドナテロを見上げた。透き通った水色の瞳にドナテロの顔が映りこむ。しかしドナテロはその呼びかけには答えず、イヴの頭から手を離すとゆっくりと立ち上がった。
――喧騒が、やけに遠く聞こえた。
まるでドナテロと自分だけが、世界から切り取られてしまったかのような。そんな奇妙な感覚を、イヴは覚えた。そんな切り取られた空間の中でドナテロは優しげに、しかし寂しげに、イヴに微笑みかけた。
――そして。
「ミンミン、リー。
次の瞬間イヴは、
ダン! という激しい音が鳴り、それまでざわついていた乗組員たちが水を打ったように静まり返る。
「……え?」
何が起きたのか分からず、イヴの口から呆けたような声が漏れる。そこから一瞬遅れて、自分の体が誰かに押さえつけられていることに気付くと、イヴは肩越しに自らの背後を振り返った。
「あ、れ……? ミンミンさん? リーさん?」
何してるの?
と、呆然と呟くイヴの視線の先にいたのは、ミンミンとリー。彼らは無表情で――否、まるで感情を押し殺しているかのような強張った表情で、イヴの小さい体にのしかかるようにして彼を押さえつけていた。
「お、おい! 何を――!?」
我に返った小吉が、突然の暴挙に及んだ2人に詰め寄ろうとする。だが、それを見たドナテロが手を上げ、彼の行動を制止した。
「よせ、小吉。これは、
「艦長!?」
小吉を始め、その言葉を聞いた乗組員たちの顔に動揺が浮かぶ。
なぜ、何のために、何の得があって、ドナテロはこんなことをミンミンとリーに頼んだのか。
疑念や混乱、困惑が混ざり合ったような視線をその身に集めたドナテロは、窓から差し込む青い朝日の光を浴びながら、静かに告げる。
「繰り返し通達する。バグズ2号の乗組員
――空気が、凍った。
彼の言葉の意味を、この場にいる全員が理解したからだ。重苦しい沈黙が立ち込める中――ドナテロは重々しくその言葉を口にした。
「――俺は、
ドナテロは再び窓を見つめた。
彼の目が映るのは、柄氏を隔てた向こう側に広がる朝日の『青』と大地の『緑』――そして、
――自らをニタニタと笑いながら見上げる、でっぷりと太ったテラフォーマーだった。