どうかご協力のほど、よろしくお願いします。
現実は、苦い。
どれだけ努力しようとも報われぬ者は報われない。
危機的状況において好敵手が手を差し伸べるようなことはない。
追い詰められて新たな力が覚醒することはない。
死ぬときにはあっさり死ぬ。
そして何より、奇跡などという都合のいい事象は起こり得ない。
それを知っていたがゆえに、リーとミンミンは迫りくる死を前にしても祈らなかった。
神などといういるかも分からぬ存在に、己の結末を委ねるつもりはない。例え行き着く先で、骨を折られ、肉を裂かれ、血反吐と断末魔を絞り出した末に、荒涼とした凶星にその命を散らすことになろうとも。彼らは最期の瞬間まで、自分の運命は己の手で切り開くと心に決め、抗い続けた。
――現実は、苦い。
結局のところ、リーとミンミンに奇跡が起こることはなかった。
神は、祈らぬ者に救いを与えない。彼らの奮戦に勝利の女神は、あるい運命の女神は、決して微笑まなかったのである。
――だから。
「下がってください、副艦長ッ!」
「下がれ、リー!」
――――――――――――――――――――
――――――――――
「下がってください、副艦長ッ!」
その声を聴いた瞬間、ミンミンは反射的に己の体を後方へと引き戻していた。
彼女の眼前で力士型のテラフォーマーが拳を大きく空振る。その無防備な脇腹に、轟音と共に何かが高速で激突したのを、彼女の目は捉えた。
「なッ……!」
ミンミンの目が大きく見開かれる。それは、先程まで自分達が乗っていた六輪車だったのだ。運転席にはジョーンが乗り込んでおり、後部の荷台には車体にしがみついているテジャスの姿も見られた。
いかに筋力が発達した力士型のテラフォーマーであっても、死角からの攻撃には即座に対応できなかった。車体の先頭部分を大きくゆがませながらも、六輪車は力士型の巨体を突き飛ばすことに成功する。
「うおおおおおおおおおおおお!」
ジョーンが雄叫びを上げ、更にアクセルを踏み込む。すると六輪車は、今にも壊れそうな音を発しながら、よろめいている力士型に向かって再び突進した。
「じッ!」
それを見た力士型は素早く態勢を立て直し、自らに突進してくる六輪車に向かって仁王立ちになった。直後、六輪車と力士型の巨体がぶつかり、大きな激突音が周囲に響き渡った。車体のフロントガラスが跡形もなく吹き飛び、力士型の逞しい腹筋を包む黒い甲皮にひびが刻まれる。さすがに力士型の怪力を押し切るには至らず、六輪車は力士型の巨体を数mばかり後方へと押しやったところで動きを止めた。
「副艦長、ご無事ですかっ!?」
その光景を呆然とした様子で見つめるミンミンに、背後からそんな声が掛けられた。ミンミンが振り向くと、必死の表情でジャイナが走ってくるのが目に入った。
※※※
「下がれ、リー!」
目の前で大きく腕を振りかぶった力士型の懐へとまさに飛び込もうとしたその時、リーの耳はそんな言葉を聞いた。
咄嗟に飛び退いたリーの横を、高速で何かが通過する。それはリーと入れ替わるようにして前に出ると、まるで力士型を挑発するように、彼の顔の周りを飛び回った。
「じょう……」
脅威ではない――だが、目障りだ。
予期せぬ乱入者にそう判断を下した力士型は狙いを変え、ブンブンと羽音をたてながら飛び回るそれ目掛けて、腕を振り下ろした。
剛腕が風を切り、その威力に地面がひび割れる。だが、大地を叩き割ったその腕に、獲物を仕留めた感覚はなかった。
「どこ狙ってんだ?」
背後にそんな声を聞いた力士型は、振り向きざま今度は左腕を大きく薙ぐ。常人ならば目で追うことすら難しい速さで迫ったその一撃をひらりと躱し、声の主はそのまま空中で静止した。
「どうしたどうした? そんなんじゃ
力士型の目の前で、トシオ・ブライトが口端を吊り上げながら言った。鮮やかな緑色をした彼の複眼が、太陽の光を照り返してギラリと光った。
「――おっと残念、また外れ」
三度振るわれたその腕を宙返りで難なくいなし、トシオが小馬鹿にするように言った。いかに力士型の一撃が速くとも、回避に専念した鬼蜻蜓にそれを当てるのは至難の業。そしてどれだけその一撃が重くとも、当たらなければ意味はない。
次々と繰り出される力士型の攻撃を、トシオは軽々と避けていく。力士型の意識は、すっかりリーから外れていた。
「リー! 無事か!?」
聞こえた足音にリーが肩越しに背後を見ると、自身に駆け寄るルドンの姿が見えた。自身のみを案じているのだろう、その顔には不安そうな表情が張り付いていた。
「まずいな、左肩が外れてやがる。それにその血の量、内臓もやられたか……!」
ぶらりと垂れて動かない左腕に、口から流れる血の筋。それを見て傷の深さを悟ったルドンの顔から、血の気が引いていく。そんな彼の様子に、リーは鼻を鳴らした。
「んなもんはどうだっていい、慣れっこだ。それよりもアメリカ人――こいつは何の真似だ? 加勢を頼んだ覚えはねえぞ」
どこか険しさの滲む口調でリーが問う。彼の言葉は言外に、“余計なことをするな”と告げていた。あの力士型の実力を、身をもって知ったが故に。彼は仲間が無駄死にするのを、みすみす見逃すわけにはいかなかった。
「そうだな……だが、仲間がやられそうなのを、黙って見てるわけにもいかないだろ?」
――しかしその想いは、
微かに見開かれたリーの目を、ルドンは真っすぐに見つめた。
「リー、副艦長と一緒にバグズ2号まで退却しろ。奴は俺達で仕留める」
※※※
「馬鹿なことを言うな!」
力士型の相手を自分達に任せ、バグズ2号まで撤退しろ。
ジャイナの口から告げられた言葉の意味を理解したその瞬間、無意識の内にミンミンは彼女のことを怒鳴りつけていた。その気迫に、思わずジャイナが身を竦ませる。
「奴らはお前たちが敵う相手じゃない! それに、ここで退いたら私達は何のために戦ったのか――」
「だッ、だからこそッ!」
――だが、この時ばかりはジャイナも頑として譲らなかった。
「だからこそなんです、副艦長!」
ミンミンの怒声にも負けない大きさで、ジャイナが叫んだ。普段の引っ込み思案で自信なさげな様子は影もなく、彼女の顔には凄烈な激情が浮かんでいた。初めて聞いた、同僚の叫び声。今度はミンミンが閉口する番だった。
「副艦長達は火星に来てからずっと、私達を守ってくれた! 艦長もイヴ君も、他の皆も……誰も、戦闘では足手まといな私達を見捨てようとしなかった!」
ジャイナは興奮で涙ぐんだ目をぐいとぬぐい、呼吸を整えてから言葉を続けた。
「だから、今度は私達が副艦長達を守るんです。副艦長やリーが殺されそうになっているのを黙って見ているなんて、できません」
それが、
泣き笑いを浮かべてそう言ったジャイナを、ミンミンは愕然とした様子で見つめた。
「本気で、言っているのか?」
「はい」
「私達でも勝てなかった相手だ」
「知っています」
「……死ぬぞ?」
「覚悟の上です」
ジャイナが凛とした口調でミンミンに応える。一体いつから、彼女はこんなにも強くなったのだろうか。ミンミンの脳裏に、そんな場違いな考えがよぎった。
「それに、大丈夫です」
そう言って、ジャイナは何かを確信したような笑みを浮かべた。
「私達はただでやられるつもりなんて、これっぽちもありませんから」
その時、背後でミシミシと何かが軋むような音が鳴ったのを、ミンミンは聞いた。嫌な予感に胸がざわつき、彼女は思わず後方へと振り返った。
彼女の背後では変わらず、六輪車と力士型の膠着状態が続いていた。だがほとんど変わらないその光景にはたった一ヶ所だけ、ミンミンが最後に見た時とは決定的に違っている点があった。
力士型の丸太のような両腕。それに支えられた六輪車の前輪が、地面から明らかに浮いていたのだ。
「じょうっ……!」
ビキッ、と力士型の腕に血管が浮き上がった。すると車体の前輪が更に地面から引き離され、空中で虚しくタイヤが空回る音が響く。どうやら力士型は、六輪車を真っ向から投げ飛ばそうとしているらしかった。
「ぐっ……!」
ジョーンが更にアクセルを踏み込む。タイヤの回転速度は最高潮に達し、後輪が砂利を巻き上げながら回転する。しかし、既に地面から数十cmばかり前輪を持ち上げられた六輪車はもはや万全の力を掛けることは叶わず、それを押さえる力士型の巨体もビクともしなかった。
「ッ、まずい! お前たち、逃げろ!」
その様子を見ていたミンミンが、車を操縦するジョーンに向かって叫んだ。このまま膠着状態が続けば、いずれ六輪車が引っ繰り返されてしまうのは明らか。そうなれば、乗っている2人はただではすまないだろう。
しかしジョーンは、その声を聞いてもなお逃げ出す様子を見せなかった。彼は目の前の力士型から頑として視線をそらさず、ありったけの声で叫んだ。
「テジャス! やれッ!」
「任せろ!」
ジョーンの呼びかけにテジャスは応えると、大きく息を吸い込んだ。まるで火星中の大気を吸い尽くさんとするかのように、彼はありったけの空気を吸い込むと一瞬だけ息を止め――それを、全力で吐き出した。
彼の口から吹き出されたのは、まさしく暴風だった。
突風は砂塵を巻き上げ、彼らを取り囲む炎の壁すらも消し飛ばす。凄まじい風圧を背負った六輪車を止めきれずに、力士型の体は目に見えて後方へと押され始めた。ざりざりという音と共に力士型の足の周りの土が抉れ、それが長い線となって大地に刻まれる。既に、力の均衡は完全に崩れていた。
「じ、じィィ!」
さすがに不味い、と思ったのだろう。力士型は悲鳴のような声を上げると、六輪車を持ち上げようとしていたその両腕にありったけの力を込め、車体の軌道を大きく逸らした。
無理やり進路を曲げられた六輪車は力士型の脇を高速で走り抜け、勢い余って横転した。投げ出されたテジャスとジョーンが地面に転がり、全身を強かに打ち付けた2人の口から苦悶のうめき声が漏れる。
「じょう、じじ」
ジロリ、と力士型は2人を見つめながら鳴いた。相変わらずの無表情だが、その様子はどこか勝ち誇っているように見えた。
「っぐ、あの野郎、見下しやがって……」
地面に腹這いになったテジャスが、力士型を睨みながら吐き捨てた。衝撃で負った怪我から血が溢れ、彼の顔をべったりと濡らしている。そんな彼の横に倒れ込んでいるジョーンも同意の声を上げた。
「ああ、まったくだ。けど、これで――」
だが彼はそこで一旦言葉を切ると、ジョーンはその生傷だらけの顔に、満足げな笑みを浮かべた。
「あのマッチョ野郎に、一泡吹かせれる」
――その瞬間。
ジョーンがその言葉を言い終わるか終わらないか、というタイミングで、力士型の鋭敏な聴覚は、自らの足元で何かがひび割れるような音を拾った。違和感を覚えた力士型が視線を下に向けようとしたその瞬間、突如として
「じっ……!?」
予想だにしていなかったその現象に、力士型の反応はコンマ数秒遅れる。力士型の体が、足元にできた穴に吸い込まれる。穴の口がさほど広くなかったために胸骨がつかえ、そのまま落下してしまう事態は避けられたものの、結果的に力士型はその上半身を、無防備に地上へと晒すこととなってしまった。
「じょうッ……!?」
穴を抜け出そうと、力士型は四肢を動かしてじたばたともがく。そんな彼の両足を、何かが掴んだ。その感覚に、微かに力士型の目が見開かれる。もしも彼が仮に、地中の音を聞くことができたのならば、おそらく彼はこんな声を聴いていただろう。
「そう簡単に、逃がすかよッ……!」
人間大のケラに変異したフワンは地中――己が用意した落とし穴の中で、決死の思いで呟く。ミット状に変化したその両手には、力士型の太い両足が握られていた。
掘削能力を持つ昆虫の腕力は、総じてかなり強い。ケラもその例外ではなく、ただでさえ身動きがとり辛く狭い空間内ということもあって、力士型は両足に組み付いたフワンの腕を振り払うことができなかった。
「ジャイナ、今の内に!」
ジョーンはふらつきながら立ち上がると、ジャイナに叫んだ。その声にジャイナは頷き、傍らのミンミンへと顔を向けた。
「行きましょう、副艦長。肩をお貸しします」
そう言ってジャイナは、大鎌に変化したミンミンの左腕を手に取った。
※※※
「チッ、やっぱりかっ……!」
空中を飛び回っていたトシオは、この時初めて苦々しい表情を浮かべた。その原因は、目の前の力士型の行動があからさまに変化したことにあった。
(こいつ、俺が陽動だってことに気付きやがった――!)
先程までトシオを振り払おうと躍起になっていた力士型だったが、今はもう彼に対する行動を一切取っていなかったのだ。もはやその目は完全にトシオを映していなかった。
「このッ、こっち見やがれ!」
何とか注意を引き付けようと力士型の後頭部を蹴り飛ばすも、無反応。どうやら、トシオが自らを傷つける手段を持たないことも見抜いているらしい。力士型はトシオの行動の一切を無視して、リーに向かって歩き始めていた。
「もう少し引きつけたかったが……潮時か」
トシオは呟くと一気に力士型から僅かに距離を取り、そして叫んだ。
「今だ、やれッ!」
トシオの声が響く。それと同時に、バツンッ! という、何かが千切れたような、あるいは破裂したかのような音が周囲に響き渡った。そして次の瞬間、力士型は思い切り前のめりに倒れ込んだ。
「じょうッ……!?」
力士型は慌てて立ち上がろうとし――そしてふと、違和感に気付いた。
両足が動かないのだ。つい一瞬前まで自らの体を支えていたはずの足が、今はまるで自分の体ではないかのように、どれだけ力もうとも全く動かない。
その原因は、すぐに分かった。力士型の両足にナイフが深々と突き刺さっていたのだ。人間達が持ち込んだのであろうメタリックな刃が自らの両足を貫いていたのを、力士型の目は映した。
加えて力士型にとって不幸なことに、彼の脚に突き立てられたナイフにはとある劇薬が塗りこまれていた。
“マイマイカブリの消化液”。
体外消化によって獲物を捕食するマイマイカブリの分泌液は、たんぱく質を分解する性質がある。これにより力士型の足は断たれながらにして消化されており、その損傷をよりひどいものとしていた。
そしてとどめとばかりに、ナイフが突き刺さっている場所は、『アキレス腱』と呼ばれる部位。ギリシア神話の大英雄であるアキレウスの名を由来とするこの腱は、疾走や跳躍などの運動の際に爪先や踵の動きを制御する役割を持っている。
そのためこの部位を損傷した場合――歩行に重大な障害をきたすことは、避けられない。
「ギ、ギィイィイ!」
余裕をなくして悲鳴を上げながら、力士型は考える。一体、自分はいつの間に刺されたのだ? あの目障りな人間も、目の前の死にかけの人間も、そしてそれを支える人間も、何かを仕掛けた様子はなかった。では、一体なぜ?
「っし、回収して即撤退っと!」
そんな力士型の前を、何かを抱えたような姿勢でトシオが飛んでいく。彼はリー達の下まで一気に後退すると、彼は腕に抱えたものを慎重に降ろすようなしぐさを見せた。それを見たルドンがトシオの隣、
「ナイスだ、マリア! これで奴はもう動けない!」
その時、力士型は彼の横の空間が揺らいだのを見た。そしてその直後、今まで何もなかったその場所に、突如として女性が現れたのも、やはり力士型の目は捉えていた。
金色の髪と、柔らかな曲線で象られた華奢な肉体。一糸まとわぬ体を覆う美しい甲皮は燃え盛る炎の光りを美しく乱反射し、その体の輪郭をひどく曖昧にしていた。
「やってみてよかった……まさか、炎とニジイロクワガタの甲皮がここまで相性がいいなんて」
疲れと、驚きと、達成感。それらが入り混じったような表情で、その女性――マリア・ビレンは呟いた。
役目を果たし、衣類を身に纏い始めたマリアの姿を目にし、力士型はやっと自分の足を潰したのが彼女であることに気が付いた。
おそらく彼女は、自分の注意が完全に逸れたその隙を突いたのだろう。通常ならばたとえ視覚を欺かれようとも、尾葉や触角である程度は補足が可能だ。しかし、度重なるリーの高熱ガスの噴射が、それらの機能を大幅に低下させていた。だからこそ、力士型は致命的なその一打を受けてしまった。
「さて、ここからは俺達が受け持とう」
「マリアは今の内に、リーをバグズ2号へ!」
そう言ってルドンとトシオは、それぞれ腰を落として構えをとった。事前に打ち合わせてあったのか、マリアはためらう様子を見せずに頷くと、すぐさまリーへと向き直った。
「肩を貸すよ、リー。辛いと思うけど、何とかバグズ2号まで歩いて――」
「いや、肩は必要ねえ。その代り、腕を貸してくれ」
「……え?」
その言葉の意味が分からずに顔を見合わせた3人に、リーが言った。
「外れた左肩を元に戻してぇ。多少荒療治になっても構わん、左腕が動く様になればそれでいい」
「り、リー? あなた何を……?」
おそるおそる、といった様子でマリアが言うと、リーはその口元に笑みを浮かべて彼女の問いに答えた。
「『何を?』 んなもん、ゴキブリ退治に決まってんだろうが」
その目にぎらついた戦意の光を灯し、リーは言葉を続けた。
「生憎、やられっぱなしってのは性に合わなくてな――あのデカブツは、俺がやる」
※※※
「……いや、その必要はない」
自らの左腕を握ったジャイナの手を、ミンミンは静かに払うとそう言った。「なっ……!」と反論の声を上げようとしたジャイナを手で制して、ミンミンは続ける。
「お前たちの覚悟はよくわかった。だが、このまま艦内に逃げ込んでも、追って来られればどのみち戦闘は避けられない。だから、今ここでヤツは仕留める」
そう言ったミンミンから、鋭く研ぎ澄まされた、底冷えするような殺意が放たれる。それは、さながら獲物に狙いを定めた蟷螂が如く。ジャイナは自らの傍らに立つミンミンの様子の変化に、思わず息を呑んだ。
「ジャイナ・エイゼンシュテイン」
「は、はいっ!」
「副艦長として命令を下す。心して聞いてくれ」
呼びかけられて、我に返ったジャイナ。そんな彼女にミンミンは、淡々とした口調で告げた。
「
「ッ!? で、できません、そんなこと! いくら副艦長の命令でも……!」
ミンミンの言葉を聞いたジャイナは、すぐさま反論の言葉を口にしていた。その声には、聞いているものの胸を刺すような悲痛さが滲んでいた。
「
――
今まさにミンミンが行おうとしているそれは、バグズ手術被験者に許された最後の切り札だ。
その内容は文字通り、『バグズ手術の変態薬を大量に接種し、体をよりベース生物に近づける』ことで、ベースとなった昆虫の力を更に引き出すいうもの。いわば、バグズ手術限定のドーピングのようなものである。
成程、これならば確かに、力士型にも勝機を見いだせるかもしれない。
だが――
「そんなことをしたら、副艦長が!」
――そのリスクは、非常に大きい。
それは投薬による人体各所の異常であったり、多大な寿命の消費であったりと数多く挙げられるが……その中で最も危険なのが『人間に戻れなくなること』だ。
細胞のバランスを大きく崩し、その体を昆虫へと近づける。その原理ゆえに、過剰接種による特性の解放は
最後の切り札にして、諸刃の剣。
ミンミンがジャイナに下したのは、その起動であった。
「ジャイナ」
ミンミンはジャイナに向かって微笑むと、今にも泣きだしそうな彼女にただ一言こう言った。
「――頼む」
だがその一言は、ジャイナが反論の言葉を飲み込むには十分すぎた。自らの敬愛するミンミンが、どんな思いでその決断を下したのか。それが理解できないジャイナではない。そして理解できてしまったからこそ――ジャイナは、ミンミンの覚悟を無下にすることができなかった。
「っ……! わかり、ました……」
唇を噛みしめながらそう言って、ジャイナは二本の注射器を取り出すとミンミンに歩み寄る。そして絞り出すように言った。
「副艦長……どうか、ご無事で」
「――ああ」
力強くミンミンが頷く。そしてジャイナは、眼前にさらされた無防備な首筋に、二本の注射器を突き立てた。
※※※
ガコッ、という骨が擦れる音が響く。左肩に走った鈍い痛みに、リーは思わず顔をしかめた。
「こ、これでいいの?」
「……ああ、上出来だぜ」
左手の指を二、三度動かして調子を確かめてから、リーは緊張した面持ちのマリアに言った。
「リー……本当に、やるつもりなのか?」
トシオの言葉に、リーは「たりめーだ」と返す。
「てめーらが命を懸けて作った好機。これを逃す手はねぇだろうが」
「そ、それはそうだけどよ……」
なおも食い下がるトシオに、リーは淡々と告げる。
「このまま奴を見逃せば、こっちの手札が向こうの頭に伝えられちまう危険性がある。加えて、負傷しているとはいえ奴の怪力は紛れもない脅威……だからこそ、今叩かなくちゃならねぇ」
そう言って、リーはベルトから二本の変態薬を取り出した。人差し指と中指、中指と薬指の間にそれを挟み込んで、針を首筋に差し込む。掌をそれぞれのピストンに押し当てると、リーは不安げな表情を浮かべる3人に笑って見せた。
「ひでぇ顔してんな、おい……まぁ、安心しとけ」
そう言ってリーは――自らの体に、大量の変態薬を投与した。
「すぐに終わるからよ」
※※※
――その瞬間、ミンミンとリーの全身を破壊と再生が駆け抜けた。
「――ぐ、うゥぅ……」
過剰に投与された変態薬は血流にのって全身に運ばれ、人間としての彼らの細胞を破壊し、その身に新たなる命を吹き込む。肉体が作り直される過程で欠損した右腕は間をおかずに塞がれ、折れた肋骨が再び癒着していく。
そして。
「ぎ、がァッ……!」
生まれ変わる肉体の悲鳴を呼び水として――。
「きゅるるるるるるるるる!」
「ぐぉおオおォおオおおお!」
――
2人の口から、人ならざるモノの咆哮が飛び出す。その声の凄まじさたるや、地上でそれを聞いていた乗組員達はおろか、何とか自由になろうともがく2体の力士型や、それを地中で押さえつけていたフワンすらも思わず動きを止めたほどだった。
人類対ゴキブリ。
決着の時は、すぐそこまで迫ってきていた。
※※※
「フゥゥゥ……」
リーの口から、そんな音と共に息が吐き出された。その体は先程までよりも広い範囲が黄褐色の甲皮で覆われ、マントの下には巨大な翅が現れていた。リーは己の体の変化を確かめるように見渡すと、「こうなんのか」と呟いた。
「成程、本格的にゴミムシに近づいたってわけだ……まぁ、どうでもいいが」
そう言って、リーは視線を己の体から目の前の力士型へと移した。彼の視線の先では、おぼつかない足取りながら力士型が立ち上がったところだった。
「し、信じられねぇ……」
「両足の腱を切られてるのに、立ち上がるなんて……!」
その光景に、ルドンとマリアが息を呑む。一方、驚く彼らの隣で、リーは感心したような声を上げた。
「その傷で立ち上がんのか。よっぽど俺らを殺したいらしいな……大した執念だ」
アキレス腱の断裂は歩行に支障をきたすものの、必ずしもそれは『歩行が不可能』であることを指すものではない。力士型は早くもそれに対応して、眼前の人間を駆除すべく、再び歩みを進めようとしているのだった。
「手負いにとどめを刺す形でちっとばかり気が引けるが……悪く思うなよ?」
そう言うと、リーはより太く変異した自らの両腕を、力士型へ向けて突き出すように構えた。それを見た力士型は、すぐにそれが高熱ガス噴射の構えであることに気が付いた。
「じ……!」
力士型はそう鳴くと、胴体を守るように体の前で両腕を交差した。今までの攻撃から、リーのガス攻撃が自らの甲皮に傷をつけることができないことは理解していた。触角や尾葉のような器官はこの限りではないが、純粋な破壊力という点から考えれば、力士型にとっては脅威たり得ない。それにも関わらず、彼は防御の姿勢をとっていた。
「気付いたか――
ぼそりと呟いたリーの掌に、熱が収束していく。彼の腕の中へありったけの焦熱が溜まりこみ、行き場を求めて荒れ狂う。
「
そしてその熱が最高潮に達したその瞬間、リーは掌の孔を一気に開放した。
「
刹那、リーの掌から最大出力のベンゾキノンが放たれた。極限まで高められた圧によって外へと撃ち出されたそれは、一見すると炎か光の槍のようだ。
それもそのはず、
ゴキブリはオーブンで焼かれても死なない――が、溶岩を浴びれば死ぬ。
リーの腕から放たれた炎槍の穂先が、力士型の胴体を貫いた。ベンゾキノンは交差された腕を容易く焼き尽くし、分厚い胸部の甲皮と筋肉を熔かし、背面の甲皮を燃やし尽くしてなお止まらず、力士型の背後へと眩い閃光を伴って伸びていく。
「――――」
力士型の口から悲鳴は上がらなかった。空気を吐き出すべき肺も、空気を震わせて声にする声帯も、声に意味を持たせ言葉とする舌も、体内を蹂躙するベンゾキノンによって既に焼失していたのだ。
そして数秒が経過し、リーの手から伸びる閃光と灼熱の奔流が収まった時、既に力士型はこと切れていた。
円状に焼け落ちた胸部の穴と口から黒い煙を立ち昇らせながら、ゆっくりと力士型が崩れ落ちる。倒れ込んだ力士型はそれっきり、二度と起き上がらなかった。
「言っただろうが、『ゴキブリは高熱に弱い』ってな」
絶句するトシオ達の視線にさらされながら、リーはもはや動くことのない力士型へと、自戒の意味も込めた言葉を静かに告げた。
「覚えとけ、ゴキブリ……自分の力を過信すると、こうなる」
――害虫の王、死す。
※※※
「……さて」
二回りほど大きくなった左腕の大鎌に、蘭を思わせる美しい彩りの翅。完全に変態を終えたミンミンは、スッと目を細めて力士型を見据えると、彼に向かってゆっくりと歩み始める。
その瞬間、力士型の肉体がまるで鉛のように重くなった。ミンミンが一歩ずつ近づいてくるごとに、冷たい重圧は増していく。
それは恐怖ではなく、予感。このままここに留まれば、自分は必ず
「待たせたな」
その言葉は、果たして誰に向けたものだったのか。気が付くと、死神は力士型の目の前に立っていた。
「じょッ……!」
力士型は咄嗟に、岩のような拳を振るった。直撃すれば瞬時に肉塊と化すだろう一撃を、ミンミンは体の軸を僅かにずらすことで完全に躱す。そして力士型がその腕を引き戻すまでの僅かな間に、彼女はハナカマキリの大鎌を振り上げた。
「――!」
――再攻撃は、間に合わない。
それを悟った力士型は、瞬時に両腕を動かしていた。その動きは、自らに振り下ろされた刃の側面を両掌で押さえることで斬撃を防ぐ、『白刃取り』と呼ばれる技によく似ていた。
――人間が『見て』『反応し』『動く』までの時間は、MAXで0.1秒。
無論多くの人間はこの値には遠く及ばず、普通は『1つの刺激を待ち構えている』状態で0.2秒が限界であるとされている。
そしてこの理論は、肉体の構造が人間のそれに酷似したテラフォーマーにも当てはめることができる。
いかに幼少時から訓練を続けていた力士型と言えども、その反応速度は0.1秒にはわずかに届かない。だが『火事場の馬鹿力』という言葉があるように、死を直感した力士型の肉体は限界を超え、この瞬間だけは0.1秒で『動く』ことができた。
瞬き程の間も空けずに、力士型の頭上で両掌が打ち合わされ、パァン! という乾いた音が響く。その目は確かに、迫りくるミンミンの大鎌を捉えていた。既に一度は見切った攻撃、そして一度は返り討ちにした相手である。彼がタイミングを見誤るはずもない。力士型は防御が成功したことを確信する。
そしてその直後――
「――――」
さながら斧で割られた薪のように、その黒くたくましい肉体の中心に亀裂がはしり、そこから白い体液が漏れ出した。そのまま力士型は己が死んだことにすら気が付かぬまま、ゆっくりと左右に倒れる。割れた体は地面にぶつかるとべちゃり、という水音とたてて、断面からゴキブリの体液を飛び散らせた。
――繰り返すようだが、力士型は決してタイミングを見誤ってなどいなかった。
見誤っていたのは、『速さ』。
ハナカマキリは擬態によって花に化け、獲物が来るのを待ち伏せて狩りをする昆虫だが、その方式は自ら動き回ることで獲物を探すタイプの仮に比べて、どうしても効率が落ちてしまう。
ゆえにハナカマキリは、“好機を決して逃さない”。何千、何万年という気が遠くなるような進化の歴史の中で、彼女たちはそのための技術を研鑽し、遺伝子という名の秘伝書にそれを刻み続けてきた。
それこそが、カマキリの最大の武器である『速さ』だ。
ハナカマキリが鎌を振り上げ、そして振り下ろすまでの時間は、昆虫大の時点で僅かに0.05秒。それが人間大ともなれば、振り下ろす際の腕力は3トンにも及ぶと言われている。
過剰接種によってそれを再現したミンミンの一撃は当然ながら、何も知らずに――否、
「やった、か……」
もはや永遠に動かない力士型の死体に深い安堵の息を吐くと同時に、彼女の変態が解け始めた。どうやら過剰接種の際に噴き出した血と共に、変態薬もいくらか外へと排出されていたらしい。特に異常な兆しも表れないまま、ミンミンの体は人間のそれへと戻った。
その途端、極度の緊張から解放された彼女全身を耐え難い疲労が襲った。彼女の喉が凄まじい灼熱感に水を求め、まぶたが鉛のように重くなる。一挙に押し寄せるその感覚に、ミンミンは思わず意識を手放しそうになる。
「副艦長っ!」
だが耳に響いた声が、遠のきつつあったミンミンの意識を辛うじて呼び戻した。ハッと我に返ったミンミンが振り向くと、彼女は駆け寄ってきたジャイナにその体を抱きしめられた。
「じゃ、ジャイナ?」
「よ、よかった……! 副艦長が、ご無事で、本当に……っ!!」
戸惑うミンミンの胸の中で、ジャイナが子供のように泣きじゃくる。。
命令とはいえ、危険性を知りながら大量の薬をミンミンに打ち込んだ罪悪感、結局ミンミンと力士型を戦わせてしまった無力感、そして彼女が無事だったという安心感。今の今まで彼女の中にせめぎあっていたそれらの感情が、ここにきて堰を切ったようにあふれ出したのだった。
「大げさだな、ジャイナは……でも、ありがとう」
そう言ってジャイナの頭髪を左腕で撫でながら、ミンミンは顔を上げた。彼女の目には地中から這い出したフワンと、そんな彼に肩を貸されながらよたよたとこちらに向かって歩いてくるジョーン、テジャスの姿が映っていた。
「お前たちもだ。本当なら命令違反で説教をするところだが……お前たちのおかげで、命を捨てずに済んだ」
「言いっこなしですって、副艦長」
いつになく柔らかい面持ちのミンミンにテジャスが笑うと、フワンが頷いた。
「俺達、ずっと助けられっぱなしでしたから……こんな時くらい、体張らせてください」
どこかすっきりしたような面持ちでそう言ったフワンの脇腹を、彼に支えられながらジョーンが小突いた。
「言うようになったな、フワン! つい数時間前まで、テラフォーマー相手に震え上がってたのはどこの誰だったっけ?」
「うっ、いや、それは……」
痛いところを突かれてしどろもどろになるフワンに、ジョーンとテジャスが快活な笑い声を上げる。そんな彼らに思わず笑みを溢したミンミンの耳に、不機嫌そうな男の声が響いた。
「ったく……和んでる場合じゃねえだろうがよ」
声のした方に目をやれば、そこには彼女の予想通り、満身創痍のリーが立っていた。今にも倒れそうなその体を、両側からルドンとトシオが支えている。
「リー! 無事だったか!」
「ああ……こいつらのおかげで、どうにかな」
リーはぶっきらぼうにそう言って、ぐいと顎で付き添う三人を指して見せた。未だ変態は解けていないが、幸いなことにリーにも昆虫化の兆候は見られない。直に、元の人間の姿へと戻るだろう。
「おっと、リー。感謝するなら俺らもだけど、ジャイナにも頼むぞ」
「そうそう。副艦長とリーの救出作戦、考えたのは一から十まで全部ジャイナだからね」
「いや、私なんてそんな!」
トシオとマリアがそう言うと、ジャイナは慌てたようにぱたぱたと両手を振った。
「あまりいい作戦が思いつかなくて、皆に危ない役目を押し付けちゃったし……ジョーンとテジャスには怪我をさせちゃった……」
尻すぼみにそう言うと、ジョーンとテジャスは「何言ってんだ」と不思議そうに言った。
「ジャイナの作戦が無かったら、2人を助けるどころか俺らも殺されてたかもしれないんだ。そう考えれば、安い安い」
「そうそう。それにお前は、本当にヤバくなったら副艦長達の盾になるっていう、一番危険なポジションだっただろ?」
「う、でも結局、私は何も……」
2人の言葉になおも反論するジャイナに、マリアが優しく微笑んだ。
「それを言うなら、『結局私たちは、貴方のおかげで誰も死ななかった』。私たちがお礼を言うには、それで十分でしょ?」
マリアの言葉に、ジャイナがうっと言葉を詰まらせた。反論の言葉が見つからなかったのだ。そんな彼女に、リーとミンミンは口々に感謝の言葉を口にした。
「重ね重ね、ありがとうジャイナ。お前のおかげで、私は死なずに済んだ」
「ああ、それに関しちゃ礼を言うぜ……ありがとよ」
2人の言葉にジャイナは恥ずかしそうに、「どういたしまして」と返して俯いた。一瞬だけ穏やかな空気が流れるが、「それよりも」と話を切り出したリーによって、それはすぐに霧散した。
「あれ、どうするつもりだ?」
そう言ったリーの視線の先にあるのはバグズ2号と、その側面に張り付いた無数のテラフォーマー達。その場にいる全員が、すぐさま彼の言わんとしていることを察した。
「決まりきったことを聞くな、リー……助けるぞ、全員」
リーの言葉に、ミンミンが即答する。彼女がチラリと周囲を見やれば、全員が頷いた。表情を強張らせている者もいれば、顔を青ざめさせている者もいる。だが、誰一人として逃げようとする者はいなかった。
「そうか。なら、急ぐぞ」
リーはそう言うと、悪魔に包囲されているバグズ2号を睨んだ。
「早くしねえと、手遅れになる」
――――――――――――――――――――
――――――――――
――バグズ2号、艦内。
目の前に立ちはだかった『―・―』のテラフォーマーに、イヴは死の影を見た。
「ぐっ……!」
――まだだ、まだ死ねない!
イヴは胸中で叫びながら、手足の筋肉に必死で力を込めた。
「動、け……!」
イヴがかすれる声で、己の体を叱咤する。だが焦る感情とは裏腹に、激痛の抜けきらないその体は思うように動かない。
「……」
そんなイヴを『―・―』のテラフォーマーはじっと見つめていた。その顔に感情のようなものは浮かんでおらず、ただ淡々とした無表情だけが張り付いている。
まるで、目障りな羽虫を叩き潰そうとする人間のように。
その顔には、何の感慨も浮かんでいない。
「う……くッ……!」
呻きながら、イヴは必死に思考を回転させ、打開策を練る。
だが無情にも、その思考がはじき出した答えは『打つ手なし』であった。
小吉は『・|・』のテラフォーマーから手が離せず、奈々緒たちはテラフォーマーの濁流にのまれて生死不明、ティンもとてもではないが動けるような傷ではなかった。
どう足掻こうとも、生き残る術はない。その事実に、イヴは悔し気に顔を歪めた。
「こんな、ところで……!」
『―・―』のテラフォーマーがゆっくりと右手を振り上げる。それをイヴは、ただ見ていることしかできなかった。
「じょうじ」
それは手向けの言葉だった、それともただの鳴き声だったのか。
ただ一言だけそう鳴いて、『―・―』のテラフォーマーは、高く振り上げた腕を、ピタリと止めた。
そして――。
それを振り下ろそうとしたまさにその時、背後から何者かが、『―・―』のテラフォーマーの腕を掴んだ。
――誰かが邪魔をした。
即座にそう察した『―・―』のテラフォーマーは、下手人を確かめるべく、背後を振り返った。
その途端、視界一杯に肌色が広がったかと思えば、『―・―』のテラフォーマーの顔面を強い衝撃が襲った。気が付くと『―・―』のテラフォーマーは、固い床の上に仰向けで転がっていた。
「……じ」
慌てる素振りも見せずに、『―・―』のテラフォーマーが上体を起こす。
彼の視界に映ったのは、驚いたように目を開いたイヴともう1人、自分を殴ったと思われる別の人物だった。
それは、男性だった。
だが、小町小吉ではない。かといってティンでもなく、そして蛭間一郎でもなかった。『―・―』のテラフォーマーには、見覚えのない人物だ。
それも当然だろう。なぜなら彼は、
その肉体は、ともすればテラフォーマー以上に筋骨隆々としていた。上半身には一切の衣類を纏っておらず、所々に生傷がある。
「俺の友人に――」
巌のように太く逞しいその腕を引き戻すと、その男は凄まじい形相で『―・―』のテラフォーマーを睨みつけた。
「手を出すな、ゴキブリ野郎ッ!!」
そして、大地を揺るがし、大気を震えさせるような声量で彼――ドナテロ・K・デイヴスが咆哮した。
――ドナテロ・K・デイヴス、
――――――――――――――――――――
――――――――――
――U-NASA日本支局、とある研究室にて。
「クソッ!」
そう言って白衣の男――本多晃は、苛立たし気に通信機を放った。机の上を転がる通信機のパネルには、『通信エラー』の文字が表示されている。ここ数時間の内に何度目にしたか分からないその文字を睨みつけながら、本多はパイプ椅子に腰かけた。
落ち着きなく人差し指で机を叩く彼の胸中を占めているのは、自らがバグズ2号の内部に滑り込ませた、2人の人物――ヴィクトリア・ウッドに蛭間一郎と連絡がつかないことに対する焦燥であった。
「どうなっている……なぜウッドたちと通信が繋がらない?」
ざわめく心を少しでも鎮めようと冷めきったコーヒーを喉に流し込んで、本多は呟く。
単純に彼らが通信に応じない、というのであれば話は簡単だ。おそらく一郎たちがテラフォーマーか、さもなくばバグズ2号の乗組員の誰かと交戦しているのだろうという予想がつく。
だが、通信機に表示されているメッセージは『通信エラー』。それが意味するのは“向こうが出ない”のではなく、“そもそも通信が繋がらない”という事実。
――妙だ。
本多の背中を、薄ら寒い何かが走る。
火星との通信が妨害されているとなると、その要因は数えるほどしか挙げられない。
例えば太陽から突発的に発せられるフレアであれば、その膨大なエネルギーによって火星との通信が途絶えてしまうことは考えられる。
あるいは、事前に火星の地へと電波塔を設置して妨害電波を発すれば、地球との通信は妨害できるだろう。
これらの要因があるのであれば、通信エラーが表示されていることにも納得がいくのだが――。
「なぜだ……
幾度か目を通した資料を今一度見直しながら、本多は思わず叫んでいた。何か見落としがあるはず、と彼は書類をめくっていくが、そこに並んでいる記録やデータには何の異常も記されていなかった。
天体の観測データは至って正常。今のところ、太陽からフレアが発せられたという報告は上がっていない。
バグズ2号の記録にも、電波塔が積み込まれたという記録はない。
通信機事態の落ち度も全くなし。
この状況が、本多の混乱に拍車を掛けていた。普通の研究者ならば――否、平時の彼ならば安堵を浮かべるはずの文字列が、殊更に不気味に見えてならない。
「やはり……」
胸の中で鎌首をもたげつつあった感情を、彼は知らず知らずのうちに口にしていた。
『「何かがおかしい」……かね、本多博士?』
突如、自らのその言葉に重なるようにして室内に響いたその声に、本多がギョッとしたように顔を上げた。そんな彼の目の前に、ホログラムで構成された老人と、その傍らに寄り添い立つ青年が姿を現す。
「ニュートン博士に、クロード博士……! U-NASAか……!」
よりにもよってこのタイミングで、と歯を食いしばる本多。そんな彼とは対照的に、ニュートンは笑いながら言った。
『まさか君がここまで手を回しているとは思わなかったよ、本多博士。エメラルドゴキブリバチにネムリユスリカ……成程、良い発想だ。まさかテラフォーマーを持ち帰って操ろうなどと考えるとは。大方君は――』
『そこまでです、ニュートン博士』
だが、ニュートンが続けようとしたその言葉を、脇に控える青年――クロード・ヴァレンシュタインは強引に断ち切った。その顔は一見していつも通りの生真面目そうな表情が浮かんでいるが、本多にはどこか、彼が焦っているようにも見えた。
彼のそんな予測は、果たして次にクロードが告げたその言葉で確実なものとなった。
『今の我々には時間がありません、早急に本題に入るべきです』
『……ああ、それもそうだな』
クロードのその言葉に、ニュートンはどこか不服そうな様子を見せながらも、肯定の言葉を口にした。クロードは彼の言葉に頷くと、視線をホログラム越しに本多へと向けた。
『――本多博士。一つだけ、貴方に聞いておきたいことがある』
来たか、と本多は身を固くした。ニュートンと違い、クロードは露骨かつ迂遠な言い回しで相手を手玉に取るような会話は好まない。彼は自らの一連の計画と、その行動について、単刀直入に切り込んでくるだろう。
そんな本多の考えはしかし、良くも悪くも裏切られることとなる。
『貴方は『■■■■■■■■■』か?』
「……は?」
本多は彼の告げられた言葉の意味を理解できなかった。あまりに不可解なその質問に、思わず彼の口から間の抜けた声が漏れる。ふざけているのか、とクロードの顔を窺い見るが、彼の浮かべる表情は至って真剣なものだった。
『答えてください、博士。返答次第では……私たちは、貴方を殺さなくてはならない』
クロードが有無をも言わせぬ強い口調で言い切った。本多を睨むその目には、明確な殺意の光が籠っている。普段は見せることのないクロードの並々ならぬ迫力に気圧され、思わず本多は口を開いていた。
「ち、違う! あなたが言ったそれが何を意味しているのかは分からないが……私はそんなものは知らない!」
『ではなぜ、こんなことを? なぜ、バグズ2号に内通者などをまぎれこませた?』
未だに疑惑の色を浮かべたままそう言ったクロードに、本多は思わず叫んでいた。
「日本を、より強くするために!」
その言葉に、鉄鋼仮面のようだったクロードの表情が微かに変化した。そこに畳みかけるかのように、本多は感情をむき出しにして続ける。
「核を持てない
それは避けなければならない、と本多が血を吐くような顔で言う。
「だから私は、ウッドと一郎に命じてテラフォーマーを連れ帰って操ろうとした! 核をも凌ぐ抑止力として彼らを使役し、諸外国と対等の位置に、我が国がのし上がるためにッ!」
一息に言い切った本多は、息を荒げながらギッとクロードを睨み返す。言うべきことは言った、あとはどうにでもなれとばかりに。
しばらく思案顔でそんな彼を見つめていたクロードだったが、やがてふっと表情を和らげると口を開いた。
『……そうか。疑ってすまなかった、本多博士』
クロードの口から紡がれたのは、意外なことに謝罪の言葉だった。呆気にとられる本多をよそに、クロードは更に続けた。
『先に言っておこう、本多博士。
「なんっ……!?」
本多が驚愕に目を見開いた。当然だろう、バグズ計画を根本から潰しかねない計画を実行した張本人に、事実上の“お咎めなし”を宣言したのだ。余りにも不可解な処遇に理解が追いついていない本多だったが、その直後、クロードの口から信じがたい言葉が飛び出した。
『なぜなら、事態は既に
その言葉に、本多は冷や水を浴びせられたかのような感覚を覚えた。人類の未来を左右するテラフォーミング計画を破綻させ、国際情勢の勢力図すらも塗り替えかねない本多の計画を、クロードは『些事』と言い切ったのだ。
『本多博士、今から私が言うことをよく聞いてほしい。突然のことで混乱していると思うが、君には知っておいてもらわなければならない。1人でも、こちら側の人間が欲しい』
絶句する本多に、クロードが言い含ませるように言葉を紡ぐ。その横で黙って椅子に腰かけているニュートンは茶々を入れるでもなく、いつになく真剣な面持ちで本多を見据えていた。
――自分はこれから、何を聞かされるのか。
無罪放免、全ての罪が事実上許されているにもかかわらず、本多の心にはむしろ先程以上の恐怖がはびこっていた。
U-NASAの総帥たるアレクサンドル・グスタフ・ニュートンと、彼の片腕にしてU-NASAに所属する全科学者の頂点に立つクロード・ヴァレンシュタイン。
この両者が揃って自らの凶行を些事と断じ、深刻に受け止める事態など、想像もつかない。
今、火星で何が起こっている? 自分は何に巻き込まれようとしている?
戦々恐々とする本多の前で、クロードの姿を象ったホログラムは口を開いた。
『単刀直入に言おう。今この時も火星で行われている、人類とゴキブリの生存戦争。そこに――』
そしてクロードの口から告げられたその言葉に、本多は目を剥くこととなった。
『――“何者か”が介入している』
オマケ 『贖罪のゼロ』第一章のヒロインまとめ
・イヴ(言わずもがな)
・秋田奈々緒(原作ヒロイン)
・ジャイナ・エイゼンシュタイン ←NEW!
トシオ「馬鹿な、ジャイナのヒロイン力が22000、24000……ぐわああああ!?」ボンッ!
ルドン「トシオのヒロイン力スカウター(眼鏡)が壊れたぞォ!?」
ミンミン「ジャイナマジ天使」
ジャイナ「!?」