贖罪のゼロ   作:KEROTA

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第17話 MARIONETTE 意志なき意志

 ――その少女は今から19年前、南アフリカのある農村に生を受けた。

 

 そこはひどく貧しい村であった。

 土地は痩せており、農村であるにも関わらず満足に作物が収穫できない。加えて内戦の影響で村民たちの暮らしは貧しく、日々を生きるために犯罪行為に手を染めるなど日常茶飯事。とどめに衛生状態も最悪の一言に尽き、子供はおろか大人であっても5人に1人が感染症で命を落とす有様。少女の父親も、当時の先進国であれば治せたはずの感染症『ストーン熱』に罹り、この世を去った。

 

 13歳にして親を亡くした少女であったが、それもそこではさして珍しいことでもない。その国では毎日、数え消えれない程の人間が病気や、飢えや、紛争で死んでいるのだ。親を亡くした孤児など、掃いて捨てるほどにいる。少女は父の死を悲しむ前に、明日を生きながらえるための手段を考えなくてはならなかった。

 

 古い慣習によって施された女性器切除手術(FGM)のせいで売春すらできなかった少女は、何人かの親戚の間を転々とした後、死体を盗むことでその生計を立て始めた。

 ゴミを漁り、泥水をすすり、死体から剥いだ物品や、あるいは死体そのものを売り、戦火に怯えながらその日の飢えを凌ぐ。そんな生活を送りながら、少女はいつも考えていた。

 

 ――なぜ、自分がこんな惨めな思いをしなければならないのか? 

 

 日本やアメリカなどの先進国では、自分と同じくらいの年齢の少女は皆学校へ行き、友人と遊び、綺麗な服に身を包んで、毎日を笑って過ごしているではないか。

 なぜ、自分にはそれが許されない? なぜ、何もしていないのに全てを奪われる? 金がないということは、そんな当たり前の幸せを掴むことすら許されないということなのか?

 

 少女は自らの境遇を嘆き、恵まれた者たちを呪い、そして心の底から渇望した。

 

 全てを支配する力、力ある者が自らにしたように、文字通り『全て』を奪い取るための力を。

 

 あらゆる人間を等しく跪かせ、侍らせ、傅かせるだけの、強大にして無慈悲な力を。

 

 

 

 

 

――――――――――――――――――――

 

 

 

――――――――――

 

 

 

 

 

「ふざけんな! 誰がお前の言うことなんて聞くか!」

 

『今すぐにこの船を降りろ』。

 

 ウッドが言い放ったその言葉に、小吉が声を荒げた。奈々緒やティンも言葉にはしなかったものの、その顔には強い反抗の意志が浮かんでいた。

 

 もしも彼女の要求を飲んだ場合にどうなるのかなど、考えるまでもない。おそらくウッドはイヴを連れ、バグズ2号に乗って火星を去るだろう。それは即ち、自分達はこの星から脱出するための術を失い、2億匹ものテラフォーマーが跋扈する惑星に物資もないままに取り残されてしまうということに他ならない。そうなれば、バグズ2号の乗組員たちは確実に死ぬ。

 

 ゆえに、小吉達はこの要求を飲むつもりはなく、また飲むわけにはいかなかった。自分達だけではない、今こうしている間にも、外ではリーやミンミンを始めとした仲間たちが戦っているのだ。自分達がここで要求を飲めば全員が死に、これまでの戦い、これまでの思いがすべて無駄になるのだから。

 だが――。

 

「あ、別に下りなくてもいいよ? そん時はあたしがイヴ君をけしかけて、君たちを殺すだけだしね」

 

 ――要求を飲まなければ、彼らはイヴと戦わなくてはならない。それも、密航者と戦った時とはわけが違う、明らかに正常な状態ではないイヴと、である。

 

「ウッド……あんた、イヴ君に何をしたの?」

 

 小吉とは違ってあからさまに態度に出すようなことはせず、しかし彼と同じだけの怒気を滲ませながら、奈々緒がウッドに問う。そんな奈々緒にウッドは「んー?」という気のない返事をすると、自らの右手を突き付けるように構え、その指の間に挟み込んだ注射器を振って見せた。

 

「さっきイヴ君に打ち込んだのは、これに溜めといた“エメラルドゴキブリバチの毒液”さ。昨日、テラフォーマーの捕獲を一緒にやった奈々緒ちゃんなら知ってるだろ?」

 

 そう言ってウッドが蠱惑的な笑みを浮かべた。そんな彼女の背後に、奈々緒はエメラルド色の小さな蜂の幻影を見たような気がした。

 

 

 

 

 ――エメラルドゴキブリバチの毒液。

 

 それは、ウッドのベースとなったエメラルドゴキブリバチが持つ最強の武器にして、害虫の王(ゴキブリ)をも無条件に従わせる悪魔の妙薬。

 

 エメラルドゴキブリバチの毒針から分泌されるこの物質は、獲物の神経節へと打ち込むことで神経伝達物質の受容体の活動を阻害し、対象から自由意思を奪い去る。

 こうして操られたゴキブリ達は72時間の間、遊泳能力や侵害反射を始めとした生存本能が著しく低下する一方、飛翔や反転と言った運動能力はほとんど損なわれないことが研究によって知られている。

 

 

 もしも仮に、その毒液によって人間が操られてしまったとしたら。

 

 その人間は、女王たるウッドにその全て――思考能力や命すらも差し出す、生ける傀儡と成り果てるだろう。

 

 

 

 

「まぁ要するに、今のイヴ君は人質であると同時に、自分の死も恐れない番犬も兼ねてるってワケ。ペットか家畜みたいに、どんな命令でも従っちゃうのさ――こんな風にね」

 

 ウッドはそこでイヴの方を向くと、まるで犬に命じるかのように「お座り」と言った。するとイヴはその言葉に従うようにゆっくりと膝を折ると、鋼鉄の床の上に正座した。「いい子、いい子~」などと言いながら、ウッドは目からハイライトの消えたイヴの頭をくしゃくしゃと撫でる。

 

「てめぇ……!」

 

 その異常な光景を目の当たりにしながら、小吉は怒りの形相を浮かべることしかできない。

 

 ――今ここで動けば、ウッドは確実にイヴをぶつけてくる。

 

 それを理解していたからこそ、小吉は動くことができなかった。

 

 密航者として戦った時と違い、イヴがどんな人間であるのかを知っている――否、()()()()()()()()()。だからこそ彼らは、操られているとはいえ、今の小吉達がイヴを相手に全力で戦うことはできなかった。なぜなら、大雀蜂(小吉)砂漠飛蝗(ティン)が全力を出せば、脆い亀虫(イヴ)を殺してしまいかねないから。

 

 だが、操られているイヴにとってそんなことは関係がない。彼は一言ウッドに命じられれば、躊躇なく小吉達に襲い掛かるだろう。密航者として戦った時とは違い、彼らを『殺す』ために。

 そんなイヴにとって、小吉達の優しさはただの隙でしかない。そしてそれは、文字通りの小吉達にとっては命取り。テラフォーマーをも殺す雷撃は、いかに小吉やティンであっても耐えられるものではない。故にイヴと戦うのであれば必ず全力で戦わなければならない。

 

 イヴを切り捨てるという選択はできず、しかし仲間を見捨てるという選択もできずに、彼らは立ち尽くす。そんな自分をニタニタとした笑みを浮かべながら見つめるウッドへの怒りで、小吉の硬く握りしめた拳にはなおも力が加わっていった。

 

「――秋田さん」

 

 そんな小吉の背後で、ティンはウッドに見えないよう、隣の奈々緒に何事かを耳打ちした。その内容に奈々緒が小さく頷いたのを確認すると、ティンは小吉の横に並ぶように足を踏み出した。

 

「……ウッド、なぜこんなことをするんだ?」

 

 ――相手のペースに飲まれるな。

 

 視線で小吉にそう伝えながら、ティンが言葉を続ける。

 

「お前が皆を裏切る理由が、俺には分からない。俺達が死ぬだけじゃない、お前自身が死ぬ可能性だって高くなるはずだ。なぜこんなことをする?」

 

「お、何々? 交渉人の真似事かい、ティン君?」

 

 関心を小吉からティンへと切り替えたウッドが愉快気にそう言うと、ティンが「違う」と首を横に振った。

 

「仲間である俺達を切り捨ててまで、お前がバグズ2号を確保したい理由を知りたいだけだ。教えてくれないか、ウッド。お前は、何が目的でこんなことをしている?」

 

 自らを射抜く様に見つめるティンに、ウッドが「んー……」と考え込むように手を顎に当てた。

 

「別に言う義理もないんだけど……まあいっか。特別に教えてやるよ」

 

 軽い口調でそう言って、ウッドは人差し指を立てた。

 

「あたしはある人から依頼を受けててね。その一環として、君たちには死んでもらわないといけないってワケ」

 

「……俺達を殺すように依頼されたのか?」

 

 ティンの疑問の声に、ウッドは「いや、単に邪魔なだけ」と首を振った。

 

「だから君らを殺すために、色々とお膳立てをしてたんだけど……正直、計算外だったよ。まさか1人も脱落しないなんてな。恐るべきはイヴ君、ってとこか? 判断仰ごうにもさっきから依頼人と連絡がつかないし、メンドくさいったらありゃしない」

 

 やれやれ、といった様子でウッドは肩をすくめて見せる。それから彼女は「まぁ、それは置いておいて」と言って話しを元に戻すと、手にした注射器を弄びながら更に言葉を続けた。

 

「さっきのティン君の質問に答えよっか。ズバリあたしの目的は、火星からある物を持ち帰ることにある」

 

「……ある物だと?」

 

 ティンが繰り返すように口にしたその言葉に、ウッドは「そうそう」と言って頷いた。ティンの脳裏で生存本能が警鐘を鳴らし、言い表しようのない恐怖に心臓が早鐘を打つ。そんな彼の前で、ウッドはゆっくりと口を開く、含み聞かせるかのようにその言葉を口にした。

 

 

 

 

「あたしの依頼者(クライアント)がご所望の代物は、テラフォーマーの卵鞘(たまご)さ」

 

 

 

 

「ッ……!?」

 

 彼女の口から告げられたその言葉に、ティンや奈々緒はおろか、小吉ですら怒りを忘れ、その顔からさっと血の気を引かせた。

 

 ウッドの言う依頼者というのが一体どんな人物なのかは不明だが、その依頼人がテラフォーマーの卵鞘をどのように使おうとしているか、概ね察しがついたのだ。

 

 おそらく、その人物はテラフォーマーを兵器として活用しようとしているのだろう。あるいは、人間の言うことを聞く様に品種改良して新たな家畜にでもするつもりなのかもしれない。

 いずれにしても、テラフォーマーという生物を知ったうえでその卵を欲しがっているのなら、碌でもないことに利用しようとしているのは間違いない。

 

「正気か、ウッド!? もしもその卵が孵って地球に奴らが解き放たれたりしたら、地球がどうなるか分かって――」

 

「そんなのは、あたしの知ったことじゃない。そもそもあたしはただの使いっ走りだし、文句があるんなら雇い主の方に言いなよ」

 

 声を荒げるティンを遮って、ウッドはそう言った。まるで、なぜ自分が叱られているのかを理解できていない子供のような様子で、キョトンと首を傾げながら、彼女は言葉を続ける。

 

「つーかさ、未来の地球がどうこうよりも、あたしらみたいな貧乏人にしてみればまず明日を生きるための金が必要なわけじゃん? というか、バグズ2号ってそういう連中の集まりじゃん? 今更何を怒って――」

 

 ウッドがそこまで言った時、バガンッ! という、何かがぶつかったような、あるいはひしゃげるような音が管制室内に鳴り響いた。思わず口をつぐんだウッドが音のした方を見やれば、そこには壁に拳を叩きつけた小吉の姿があった。

 

 

 

「……黙れよ」

 

 その声は静かに、しかし燃えるような激しい怒りを込めて発せられた。

 

 先程打ち付けた衝撃のせいであろう、彼の拳から一筋の紅が壁を伝って流れる。だが、小吉はそんなことを気にする様子もなく、言葉を続ける。

 

「お前が裏切った理由は分かった。この際それについては、とやかく言わねぇ。けどな――」

 

 そこで言葉を切ると、小吉は目の前のウッドを睨みつけた。

 

 

 

「あいつらの『生きようとする意志』とお前の『自分勝手』を一緒にするな! あいつらが生きる理由を、戦う理由を、お前の無責任なんかと混同するんじゃねえ!」

 

 

 

「……」

 

 何か思うところがあったのだろうか。彼の言葉に、ウッドは一瞬だけその表情を微かに曇らせた。だがそれも一瞬のこと。すぐに彼女の顔は、普段通りのへらへらとした締まりのない表情を浮かべた。

 

「……さ、無駄話はおしまいだ。そろそろ返事を聞かせてもらおうか。大人しくこの船を降りるか、それとも――」

 

 ウッドはぼうっと立ち尽くすイヴの肩に手を置くと、獲物をつけ狙う猫のように目を細めた。

 

「ここでイヴ君と殺し合うのかを、さ」

 

 その言葉に、再び小吉がたじろぐ。その動揺を読み取ったウッドは勝利を確信した。人質としてイヴを支配下に置いている以上、ウッドの優位性は揺るがない。そして彼らはどこまでも優しい(なまぬるい)、となればイヴを切り捨てるという選択肢をとれるはずがない。

 

――さぁ、要求を飲むと言え。それ以外に、お前たちに道はない。

 

 胸中でそう呟き、ヴィクトリア・ウッドはほくそ笑む。そんな彼女の目の前で、ゆっくりとティンが口を開いた。

 

 

 

 

 

「――いや、お前の要求は飲まない」

 

 

 

 

 

「……何?」

 

 ティンの口から発せられたその返答にウッドが眉をひそめる。隣では小吉がギョッとしたように見開いた目をティンへと向けるが、当人はただ真っすぐにウッドを見つめていた。

 

「……おいおい、存外冷たい奴だな、ティン君」

 

 驚きを表に出さないように取り繕いつつ、ウッドが言った。

 

「あたしの要求を飲まなきゃ、イヴ君を助ける手段はないぜ? 見捨てるつもりもないだろうに、一体どういうつもり――」

 

 真意を探るべくウッドが言葉を投げかけた、その時。唐突にティンが、流れるかのような動きでその場に屈みこんだ。

 

 ――もしもそれが攻撃行動であったのなら、ウッドはすぐに反応していただろう。盗みで生計を立てる中で磨き上げた危険察知の能力は伊達ではない。

 

 だがティンの行動には、彼女に対する殺意や敵意が全く含まれていなかった。そんなものとは縁のない、ただの屈むというだけの行為。そしてだからこそ、彼女はその直後の事態への反応が遅れた。

 

 彼の行動の意味が理解できないウッドが浮かべた訝しげな表情は、その直後に驚きの表情へと変わる。

 

 

 

 ティンの背後から()()()()()()()()()()奈々緒が飛び出したのだ。

 

 

 

 奈々緒はすかさず、ウッドをめがけて左右の指から紡ぎ出した糸を伸ばす。それはウッドの両側へを通って彼女の背後で交差し、彼女を糸の檻の中に閉じ込めた。

 

 ――しまった、と思った時にはもう遅い。

 

 鋼鉄をも凌ぐ強靭な糸によって、ウッドの退路は完全に失われていた。

 

「こ、のっ!」

 

 ウッドは咄嗟に懐から拳銃を取り出して応戦しようとするが、彼女が射撃体勢に移るよりも、奈々緒が拘束を完了させる方が速かった。

 

 ぐい、と奈々緒が腕を引くと、糸の包囲網が一気に狭まる。それは銃口の狙いを定めようとしていたウッドの全身をたちどころに絡み取り、彼女の体から一切の自由を奪った。バランスを崩し、成す術なく床へと倒れ込んだ彼女の手から拳銃が離れて床の上を滑っていく。

 

「……よし!」

 

 トンッ、という音と共に床へと降り立った奈々緒が思わずそんな声を漏らした。彼女がチラと視線を動かせば、そこではサバクトビバッタの脚力で間合いを詰めたティンが、操られたイヴを床へと押さえつけている。

 作戦の成功を確信した奈々緒は、深く安堵の息を吐いた。

 

 

 

「……えっと、あれ? 何これ、どういう状況?」

 

 

 

 そしてただ1人、事態に置いてきぼりにされた小吉は、目の前に広がる光景の意味が理解できずに、思わずそう呟いていた。先程までの怒りはどこへやら、戸惑いの色を隠しきれていないその口調は、彼の素のものに近い。直前までの緊迫した空気との落差もあって、小吉の言動は妙に間の抜けたものに聞こえた。

 

「落ち着いて、小吉。これはティンの作戦だから」

 

 キョトンとした表情で目を瞬かせている小吉に、奈々緒が手にした糸を緩めずにそう言った。「作戦?」と小吉が聞き返すと、イヴを押さえつけているティンがその詳細を明かす。

 

「ウッドがお前に気を取られている間に、俺が秋田さんに頼んでおいたんだ。『何とか隙を作るから、変態してウッドを縛り上げてくれ』って」

 

 ――どうやら、自分がウッドに対してブチ切れている間に、ティンが対策を練ってくれていたらしい。

 

 それを理解した小吉が『合点がいった』と言わんばかりに手を打ったと同時に、ティンが対照的にその顔を曇らせた。

 

「すまない、2人とも。勝手に危険な役割を押し付けてしまって……」

 

「いや、いいって。そもそもあの状況じゃそれ以外にやりようがなかっただろ?」

 

 小吉が全く気にしていないように言う。

 実際、ティンの作戦が無ければ、今頃自分達は火星に取り残されているか、さもなければ操られたイヴと戦わされているはずだ。それを考えれば、陽動をやらされたくらいどうということもない。

 

「そうそう。それに作戦も、結果的には上手くいったしね」

 

 そう言って奈々緒が手にした糸を引くと、縛られたウッドの位置が僅かにずれた。ウッドは先程までの饒舌が嘘だったかのように押し黙り、顔を伏せている。その様子に、小吉は小さな違和感のようなものを感じた。

 

「……なぁ。何か、おかしくないか?」

 

「何かって?」

 

 首を傾げる奈々緒に、小吉が続けた。

 

「いや……さっきまでこいつ、すげー喋ってたのに今は黙ってるな、と思ってさ。というか、捕まったのにもがきもしないなんて、いくら何でもおかし――」

 

 そう言いながらウッドの顔を覗き込んだ小吉は、見た。

 

 

 

 その身を拘束され、身体の自由を奪われて、完全に目論見を破壊されたはずのウッドが、血も凍るような笑みを浮かべていたのを。そしてその瞳に、未だぎらついた欲望の光を灯しているのを。

 

 

 

 

 

「動くな」

 

 

 

 

 

 ――その声が聞こえたのは突然だった。

 

 3人の背後から聞こえた低く、太いその声は、奈々緒、ウッド、小吉、ティンの誰のものでもなく、しかしそれでいて聞き覚えのあるものであった。

 

 一瞬の思考停止。その直後、奈々緒は声の主の正体に思い至った。

 

 驚いて振り向こうとした彼女の耳にチャキッ、という金属の擦れる音が届き、同時に何か硬いものが背中に押し当てられる感覚。思わず動きを止めた奈々緒の瞳には、愕然とした表情で目を見開いている小吉とティンの顔が映った。

 

「……何でだよ」

 

 小吉の口から漏れたその言葉は、まるで何か悪い夢でも見ているかのようで。それを見た奈々緒は、彼のその様子から自らの予想が的中してしまったことを悟った。

 

 

 

 

 

「何でお前がそんなことしてんだよ、一郎ォ!」

 

 

 

 

 

 ――咆哮する小吉の視線の先。

 

 そこには、ウッドが取り落とした拳銃の銃口を奈々緒の背へと押し当てる、蛭間一郎の姿があった。

 

 

 

 

 

――――――――――――――――――――

 

 

 

――――――――――

 

 

 

 

 

 

 ――その虫が小さなその体に秘めた力は、他の昆虫には見られない特異なものだ。

 

 彼が誇るのは筋力の強さではなく、速度でも、脚力でも、猛毒でも、糸でもなく、『クリプトビオシス』と呼ばれる、防御状態。

 

 その特性は、一言で表すのなら次の言葉が最もふさわしい。

 

 

 

 

 

『  死  な  な  い  』

 

 

 

 

 

 この防御状態に入った昆虫は、ありとあらゆる災害から己の身を隔離し、死神の魔の手から逃れる、不死身の昆虫。

 

 

 200度の灼熱も。

 

 

-270度の極寒も。

 

 

 168時間のエタノール処理も。

 

 

 7000グレイの放射線も。

 

 

 真空状態も。

 

 

 

 ――例えどんな脅威にさらされたとしても、この虫は決して死なない。そして、ほんの僅かな『水』さえ摂取すれば、何事もなかったかのようにまた生命活動を営むのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

蛭間一郎

 

 

 

国籍:日本

 

 

 

18歳 ♂

 

 

 

170cm 87kg

 

 

 

バグズ手術ベース   

 

 

 

 

 

 

 

 

 

   ――――――――――――ネムリユスリカ――――――――――――

 

 

 

 

 

 眠れる不死王(ネムリユスリカ)覚醒(リバース)

 

 

 

 

 

――――――――――――――――――――

 

 

 

――――――――――

 

 

 

 

 

 ドクン、という胎動の音が暗闇の中に響き渡り、その生命はまどろみの中からその意識を浮上させた。始めの内は靄がかかっていたかのように全く働かなかった思考回路だったが、次第に意識がはっきりとし始めた。

 

 ――ここはどこなのか。

 

 ふと生命は、自分の置かれた状況に疑問を抱く。何も分からなかった。自らの背後には他にも二つの生命がいるようだが、彼らはまだ眠っている。何も教えてはくれまい。

 

 生命は周囲に目を凝らしてみた。だが、そこに広がるのは闇ばかり。どんなに目を凝らそうとも、その彼方に何かが見えることはなかった。

 

 ――ここから出なければ。

 

 なぜかは分からない。だがその生命は、そうしなければならないと感じていた。そこはとても居心地がよく、とても穏やかな場所であったけれど、何かが足りない。ここは真に自分がいるべき場所では無いのだと、自らの中の本能が告げるのだ。

 

 ――この閉塞された世界より、外の世界へ。

 

 ぐい、と手を広げると、ミシッという音と共に闇の中に亀裂が入った。するとそこから、何か眩しいものが入り込んできた。その輝きに一瞬だけ生命は怯み、そして同時に感嘆した。

 

 ――何だこれは。

 

 初めて感じた外界からの刺激に、生命は自らが高揚したのが分かった。

 

 今まで闇しか知らなかった自分に、新たな概念を与えた存在。暗闇の亀裂の向こうから、それは来た。

 これはいったい何なのか、なぜこんなにも眩しいのか。分からない、何も分からない。だから――

 

 

 

 ――知りたい。もっと知りたい。

 

 

 

 そんな衝動に突き動かされるように、その生命は大きくその体を動かす。いつのまにか彼の背後で眠っていた生命たちも目覚め、その動きに呼応するかのようにその体を動かしていた。そしてその度に、亀裂は少しずつ大きくなっていった。

 

 

 ミシッ、ミシッという音を立てて、暗闇に光の傷が刻み込まれていく。

 

 

 誕生の時は、すぐそこまで近づいていた。

 




U-NASA予備ファイル3『バグズ手術における特性強化について』 【技術】
《『テラフォーマーズ 公式キャラクター生物図鑑』P102参考》

 バグズ手術を受けた被験者は、ベースとなった昆虫との親和性次第で、本来の生物よりも強化された状態で、その特性を扱うことができる場合がある。例としては『ハナカマキリの大鎌』があり、張明明は本来捕獲用のための鎌を切断武器として扱っている。ウッドの『エメラルドゴキブリバチの毒液』も同様で毒の成分が微妙に本来の物と違うため、人間に対しても毒液の効果は発揮される。



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