贖罪のゼロ   作:KEROTA

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第15話 STARVING OVATION 飢餓

「ぜりゃあ!」

 

 小吉の正拳突きをもろに頭部に食らい、テラフォーマーの顔面が陥没する。小吉が拳を引き戻せば、そのテラフォーマーは数歩ほどフラフラと後退し、バランスを崩してそのまま地面に倒れ込んだ。二、三度ほど痙攣して、その個体はすぐに動かなくなった。

 

「これで全部……か?」

 

 肩で息をしながら、小吉が辺りを見渡す。テラフォーマーの死体で一面が黒く染まった平原の中、付近に立っているものは小吉達6人だけだ。他に立っている者は――というよりも、そもそも他に動いている者が、周囲にはいなかった。

 

「そうらしいな」

 

 同じように周囲を確認していたティンが言うと、小吉は気が抜けたように大きくため息をついた。途端に全身にドッと疲れが押し寄せ、小吉はそのまま地面に座り込んだ。

 

「っはー! やっと一息つけるぜ……」

 

「フン、だらしねェ……」

 

 呆れたようにそう言ったリーだったが、かく言う彼もその顔には疲労を色濃く滲ませていた。

 彼らだけではない。ティンやミンミン、ルドンやトシオも同様に息を荒げ、額からは汗が滝のように流れていた。当然であろう。彼らは最終的に200匹にも及ぶテラフォーマーを相手に奮戦したのだから。

 

 と、その時。

 外での戦闘音が静まったことに気付いたのか、生糸の蓋をパカッと開けて、シェルターの中からテジャスが顔を覗かせた。

 

「トシオ、終わったか?」

 

「ああ。もう出てきても大丈夫だ」

 

 トシオが返事を帰すと、テジャスは完全に蓋を開いて穴の中から這い出した。他の乗組員たちも、次々とその後に続く。

 

「ん? どうしたんだ、イヴ?」

 

 ふと小吉が目を向ければ、穴の中から出てきたイヴが頬を膨らませていた。不思議そうに首を傾げる小吉に、マリアが苦笑いを浮かべながら答えた。

 

「さっき、イヴ君が外に飛び出して戦おうとしたのをアタシ達が無理やり止めちゃったから、拗ねてるのよ」

 

「……拗ねてないもん」

 

 マリアの言葉に、イヴが不機嫌そうに呟く。その子供っぽい振る舞いは、危機の連続で精神が削れつつあった乗組員たちに対する、清涼剤としての役割を果たしたらしい。乗組員たちが思わず笑いを溢した。

 

「まったく、緊張感のない……」

 

 先ほどまでの殺伐とした戦闘の雰囲気から一転、和やかな空気になりつつある一同にミンミンが呆れ混じりのため息をつきながら、彼女は後方の車を見た。

 

「ルドン、地球(U-NASA)との通信は繋がったか?」

 

 ミンミンの言葉に、車の運転席で無線機をいじっていたルドンが首を横に振った。

 

「駄目です。うんともすんとも言いません」

 

「……そうか」

 

 報告を受けたミンミンは、考え込むように指を唇に押し当てた。電波の障害か、あるいはそもそも向こうに通信を受け取る気がないのか。

 

――いずれにしても、すぐに動く必要がある。

 

 そう決断し、ミンミンは一同に向かって口を開いた。

 

「皆、ここを今すぐに離れるぞ」

 

 手を叩きながらそう言ったミンミンに、ジャイナが意外そうな顔を向けた。

 

「い、いいんですか? まだバグズ1号も調べ切ってないのに……」

 

「ああ。このままここに留まれば、またテラフォーマー達に襲われかねない」

 

 ミンミンが厳しい表情で言った。

 

 先程と同規模の襲撃をもう一度受けた場合、再び全員が生き残れる保証はない。むしろ、誰かしらが命を落とす危険性の方が高いだろう。全滅も十分にあり得る以上、ここに留まるのは悪手だった。

 

「生きてさえいれば、調査なんていくらでもできるからな。あとは――」

 

「おい」

 

 ミンミンの言葉を遮るように、リーが短く声を上げた。

 怪訝そうにミンミンがリーに顔を向けると、声を上げた張本人であるはずのリーは、ミンミンの方を向きながらも、彼女のことを見ていなかった。

 

「何だ、ありゃあ」

 

 なぜならば、彼の目が捉えていたのはミンミンではなく、()()()()()()()()()()()()()()

 

 

 

 朝霧のベールが、夜が明けたことによる気温の上昇で生まれた風に押し流され、晴れていく。

 

 その向こう側から顔を出したのは、四角錘状の石造りの建造物――地球において、ピラミッドと呼ばれる建造物に酷似した建物だった。

 

 

 

「な、に……あれ?」

 

 それを見たイヴは、動揺を隠しきれない様子で言葉を続けた。

 

「い、いくらなんでも、おかしい……! 何であんな物が、火星に? いや、バグズ1号のモニターに表示されていた文章だって……何で、何でこんな……」

 

 呆然として、イヴがうわ言のように言う。彼同様、他の乗組員たちもまた、目の前に現れた、明らかに異質な人工物に目を見開いて驚愕し、その存在感にただただ圧倒されていた。

 

「クソッ、どうなっていやがるんだ、この星は……!」

 

 やっとのことで、小吉が絞り出すようにそう言った。テラフォーミング計画のことだけではない、色々と不自然な点が多すぎるのだ。それらはまるで蛇のようにひそやかに、それでいてねっとりと彼らに絡みつき、異様な不快感を与えていた。

 

「それだけじゃねぇ……見てみろ」

 

 小吉の横で、リーがピラミッドの中腹辺りを指さした。

 

「何やら、妙なのがいるぜ」

 

 彼の指の先にいたのは、数匹のテラフォーマー。しかし、リーが『妙なの』という表現で言い表した通り、通常のテラフォーマーとはある一点において大きく異なっていた。

 

 

「体格が、普通の個体より大きい……?」

 

 

 ピラミッドの中腹にいるテラフォーマー達は、一匹を除いて全員が筋骨隆々とした体つきをしていた。通常のテラフォーマーに比べて四肢や胴回りが太く、身長が高くがっしりとした体つきだ。

 その姿は、さながら力士のごとし。あまりの異様さに、乗組員たちが思わず息を呑む。

 

 

 だがこの時、その中でも『ある個体』がとりわけ危険であると瞬時に気付けた者は、この場にいる乗組員たちの中でも少数だけだった。

 

「何だ……あいつ」

 

 その数少ない一人であるティンは、その個体を見ると、薄気味悪さを感じながらそんな感想を口にした。

 

 

 

 その個体も体格が通常の個体よりも遥かに大きい、という点では先に挙げた力士型と共通した特徴である。決定的に違っていたのは、頭髪が一切見受けられない事と、額に刻まれた『÷』の模様。そして何より、力士型と比べてあまりに『締まりがない』その体つきだった。

 その腹部はまるで空気を入れすぎたボールのように前へとせり出し、ぶよぶよとした肉感を放っている。仮に他の個体たちを力士型と呼ぶのならば、こちらは肥満型が相応しかろうという容姿である。

 

「……じょう」

 

 石造りの神輿の様なものに腰掛け、肥満型が億劫そうに鳴く。するとその背後から普通の体躯のテラフォーマーが現れて、手にした何かを彼に献上した。

 

「げっ」

 

 それが何なのかを悟った小吉が、思わずそんな声を漏らした。

 

 それは、テラフォーマーの生首だった。首から下はなく、額から上もまた水平に切り開かれている。

 

 肥満型はそれを受け取ると、手にスプーン型の石器を持ち――()()()()()()()()()()()()()()

 

「食っ……!?」

 

 絶句する彼らを見下ろしながら、肥満型は咀嚼音を響かせて、美味そうにテラフォーマーの脳を平らげていく。彼の背後では、力士型のテラフォーマー達が仲間の手足を、まるでフライドチキンか何かのようにボリボリと貪っている。

 

 ――テラフォーマーが、テラフォーマーを喰う。

 

 その光景はとにかくおぞましく、身の毛のよだつ光景であった。

 

「うっ……」

 

 吐き気をこらえきれず、ジャイナがうずくまった。えづく彼女の背中をさすりつつ、マリアは青ざめた表情でテラフォーマー達を見つめた。

 

「共食い……な、何で、あんなことを――!?」

 

 マリアの言葉を聞き、イヴは何かに気が付いたかのように勢いよく顔を上げた。

 

「――まさか……いや、でも、それ以外に考えられない……!」

 

 何かに気付いたような彼の口ぶりに、乗組員たちが一斉に彼を見やる。皆の視線にさらされながら、イヴは脳裏に浮かんだおぞましく、忌わしい予測を口にした。

 

「……あいつら、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 

 

 

 

 “カニバリズム”――いわゆる人間同士による共食い行為は今日に至るまで、様々な学問分野からの解釈がなされている。

 

 例えば地理学的には、大型の家畜などがいない地域においてタンパク質が不足することからその傾向が強まるとされ、また文化人類学においてはしばしば『被食者の力を自身に取り込む』という一種の儀式的な意味を持つとされる。

 

 テラフォーマー達の共食い行為も、まさしくそれらの要素が絡み合った結果であった。

 

 

 もしも仮に、一匹のテラフォーマーが興味本位で同胞の肉を食べたとする。

 片や、苔から得られる貧弱な栄養素のみを取り続けた個体。片や、仲間の亡骸から豊富なタンパク質を取り続けた個体。

 同じ条件下で育った場合にどちらの方が強くなるかなど、言うまでもないだろう。

 

 同胞を食らい、『動物性蛋白質』という『力』を取り込むことで、その個体はより頑強に、より強靭に育っていく。自らを高めるための絶好の手段を、彼らが見逃すものだろうか?

 

 答えは――否。

 

 結果として、共食いという行為は慣習、あるいは伝統として、彼らの社会に根差していく。

 無秩序に行えば絶滅の引き金となりかねないために、共食いは一部の者の特権となる。するとその社会の中には、食事の質を基準とした階級が生まれる。

 

 例えば、苔以外を口にすることが許されない『一般層』、同胞の肉体を食らい、強くなることを許された『戦士層』、そして体の中でもとりわけ高い栄養価を持つ“臓器”を、嗜好品として貪ることを許された『王』といったように。

 

 

 

 

 

「動物性蛋白質……! そうか、それなら奴らの体が異様に大きいのも納得できる!」

 

 イヴの言葉に、ティンが納得したように言った。

 

 タンパク質や脂質などの豊富な栄養を含むため宇宙食として導入されているカイコガであるが、実はゴキブリもそれに勝るとも劣らない栄養価を秘めている。

 特に含有されているタンパク質については優秀の一言につき、実に同じカロリーの豚肉と比較すると、その1.5倍もの量を含んでいる。

 

 ただのテラフォーマーでもあれだけ筋肉質な体つきになるのだ、きちんとした栄養を取っている彼らの肉体があそこまで練り上げられるのも当然と言えよう。

 

「――それにしても、妙だ」

 

 ミンミンがピラミッドに座すテラフォーマーたちを油断なく見据えながら、そんな言葉を口にした。

 

「奴ら……なぜ、私たちを襲ってこない?」

 

 ――それは、決定的な違和感。

 

 テラフォーマー達は明らかにこちらの存在に気付いている。それにも関わらず、彼らが攻勢を仕掛けてくる気配が全くないのである。

 

(私たちを殺すのを、諦めたか?)

 

 そんな考えがミンミンの頭をよぎるが、そんなはずはないことを彼女は十分に理解していた。先程の戦闘、バグズ2号での戦闘、昨日の調査での戦闘、どれにおいても、テラフォーマーは容赦なく襲ってきた。

 何より彼らの目は、さながら獲物を狩らんとする虎のように、乗組員たちを見つめていた。彼らが諦めたとは、到底思えない。

 

(奴ら、何かを待って――?)

 

 ミンミンの思考がそこまで達したその時、彼女の背後で何かの物音がした。

 

「ッ!? 新手か!?」

 

 ミンミンは鎌状に変化した両腕を構えながら、弾かれたように背後を振り返った。

 

 今の今まで、彼女の視界にはイヴを含めた乗組員たち全員の姿が入っていた。この事実が意味しているのは、『ミンミンの背後から聞こえた音は、仲間によって引き起こされたものではない』ということである。

 

 では、一体誰が音を立てたのか。必然、それは自分たち以外の何者か――即ちテラフォーマーによるものである可能性が高い。

それを瞬時に理解したからこそミンミンはすぐに行動に移すことができ――理解していたからこそ、飛び込んできた光景に、己の目を疑った。

 

 

 

 

 

 彼女の予想で当たっていたのは、先程の音がテラフォーマーによって立てられたものだったということ。ミンミンの背後には確かに、テラフォーマーがいた。音を立てた正体も、そのテラフォーマーで間違いはない。

 

 

 

 

 

 

 ――そして外れていたのは。

 そこにいたテラフォーマーが新手などではなく、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 

 

 

 

「なん、だ……?」

 

 

 彼女が見たモノを端的に表現しよう。それは、不気味に膨張と収縮を繰り返すテラフォーマーの死骸だった。

 

 まるで、空気を吹き込んでは吸い出すという行為を繰り返されている風船のように。そのテラフォーマーは既に息絶えていながら、その体の形を絶え間なく変え続けていた。

 

「お、おい……見ろ」

 

 他の乗組員たちも異常に気付き、不気味そうにあたりを見渡した。

 

 同じような怪現象は、他の死骸にも見受けられた。緑の地面に倒れ伏すテラフォーマーの死骸の一部が、ミンミンの背後のテラフォーマーと同じように、膨らんでは萎む。彼らは共通して、膨張と収縮に合わせるようにして、全身の体表を蓮の実のような粒状に変化させていた。

 

 明らかに、普通ではない。

 

「み、皆ッ! 急いで車に!」

 

 咄嗟にイヴはそう叫ぶと、車に向かって走り出していた。

この現象が一体何なのか、イヴにも理解できていなかった。だが、彼の脳内では本能の警鐘がけたたましく鳴り響いていた。

 

 

 ――何が起こるのかは分からないが、絶対に碌なことにはならない。

 

 

 直感がそう告げたからこそ、イヴは躊躇いなく逃げることを選んだ。今ならまだ、間に合うかもしれないから。

 

 イヴがいち早く動き出したことで、我に返った他の乗組員たちもすぐに行動に移った。元々、彼らと車との距離はそう離れてはいない。十秒とかからずに、全員が車に乗り込む。

 

「テジャス! エンジンが懸かったらガスを全力で噴射しろ!」

 

 ミンミンが荷台に向かって怒鳴るように言った。未だに、テラフォーマーたちの死体は変化をし続けている。運転席のルドンがパネルを操作し、エンジンをかけるまでの僅か数秒がひどく長く感じられ、もどかしかった。

 

「かかったぞ!」

 

 ルドンの声と同時にエンジンの駆動音が響き、振動で小刻みに車体が震える。すぐさま、テジャスが思い切り息を吸い込んだ。それを見た乗組員たちはすぐさま荷台に掴まり、自分の体を固定する。

 

 そしてテジャスがガスを噴射したその瞬間――イヴは、見た。

 

 はちきれんばかりに膨張したテラフォーマーの体が、バスンッという空気が抜けるような音と共に〈破裂〉したのを。そしてテラフォーマーの体を突き破るようにして、中から無数の黒い粒が飛び出したのを。

 

 

 黒い物体の動きは、あまりにも速かった。

 

 イヴの感覚と思考だけが、黒い粒の動きを辛うじて捉えることができていた。時間すら置き去りにされたような、やけにゆっくりと感じられる刹那の中で、イヴの脳はその黒い粒の姿をはっきりと認識した。

 

 

 

 

 それは、無数の蟲だった。

 

 

 

 

 長い触角と翅を持った小さな虫。全身を光沢のある黒で塗られたその姿は、地球のゴキブリに瓜二つ。何の変哲もない、いたって普通の見た目をしている。

 

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「――!」

 

 イヴが声にならない悲鳴を上げた。まるで黒い霧のようなそれがゆっくりと、しかし確実にイヴへと向かって近づいていく。目を凝らしてよく見れば、黒虫たちの顎には肉片が、体表には白い脂身と体液がこびりついているのが見て取れる。

 それらの要素は、彼らがテラフォーマーたちの体を食い破ってきたのだと言うことをイヴに気付かせるのには十分すぎた。

恐怖が彼の全身に走る。既に黒虫は、イヴの目と鼻の先まで迫ってきていた。

 

 ――早く、早く、早く!

 

 イヴが心の中で叫ぶ。彼の願いが届いたのか、黒虫がイヴの顔面に食らいつこうとしたまさにその時、寸でのところで時間が彼らに追いついた。

 

 ふわり、という浮遊感を感じると共に、黒虫との距離が一気に離される。直後、凄まじい衝撃と共にイヴの体が浮かび上がった。振り落とされまいと、イヴは必死で車にしがみつく。

 

 地面に降り立った車は一瞬だけ蛇行しながらもすぐに安定した走行に入り、見る間にバグズ1号を地平線の彼方へと追いやった。

 

「ふ、振り切った……」

 

 荷台の縁にもたれながらほっとイヴが息を吐いた。おそらく、あと1秒でも逃げるのが遅れていれば、今頃イヴは顔面から虫に食われてしまっていただろう。そんなことを考えると、全身からは嫌な汗が噴き出した。

 

しかしそんな束の間の安心も、小吉が発した警告によってあえなく瓦解する。

 

「気をつけろ! 何か来てるぞ!」

 

 ぎょっとしてイヴが目を向ければ、後から黒い霧のようなものが迫ってきていた。まるで蜂の大群のようなそれは、風を切るように車を追いかけている。

 

「ゴキブリ!? 進化していない個体も生息していたのか!?」

 

 ティンが驚いたように言う。既に目視でゴキブリと判別できるほどに近い距離にまで、黒虫たちは迫っていた。

 

「追いつかれる! テジャス、もう一回ガスを……!」

 

「む、無理だ……」

 

 慌てたようにそう言ったマリアに、テジャスが震える声で言った。

 

「俺のガス噴射は、全力で使ったらしばらくは使えない! 次に使えるようになるまでは、まだ時間がかかるんだ!」

 

「なっ……」

 

 乗組員たちが、動揺の色を顔に浮かべた。

 

 テジャスによる車体の加速が使えない以上、速度で虫たちを振り切るのは不可能。しかしこのまま逃げ続けていたところで、いずれ追いつかれるのは目に見えている。

 

 となれば、彼らに残された手段は迎撃のみ。しかしそれは、あまりにも非現実的であろう。あの量、あの小ささを相手取るのは、いかにバグズ2号の戦闘員であっても至難の業だ。

 

「こ、こんなの、どうすれば――」

 

 乗組員たちが浮足立ったその時、一発の爆音が響いた。

 

 灼熱を帯びた一筋の光線が迫りくる黒い霧を穿ち、爆炎を巻き起こす。突然の反撃に驚いたのか、黒虫たちは滅茶苦茶な軌道を飛び回って熱から逃れようとしていた。

 

 突発的な事態を乗組員たちは飲み込めずに、大きく目を見開いた。

 

「これしきのことで一々騒ぐんじゃねェよ」

 

 声のした方を見れば、そこには仁王立ちになったリーがいた。車の後方に向かって両腕を突き出し、その掌からは一筋の煙を立ち昇らせている。

 

「戦えねェ奴らは下がってろ――()()()()

 

 鋭い目で徐々に統率を取り戻しつつある黒い霧を射殺さんばかりに見つめながら、リーが一歩踏み出した。それをみたフワンが慌てて彼を止める。

 

「ま、待て、リー! 虫の数が多すぎる! いくらお前でも――」

 

「それがどうした? 今大事なのはできるかできないかじゃねえ、()()()()()()()()だ」

 

 そう言って、リーはフワンの言葉を一蹴した。

 

「どのみち、このままじゃ全員奴らに食われて終わりだ。なら、何もしないで喚いてるより、少しでも生き延びる目がある方に賭けるほう建設的だろ? それに――」

 

そこでリーは言葉を切り、肩越しに乗組員たちを振り返った。

 

「――俺達の任務はゴキブリの駆除だろうが。人型だろうと人食いだろうと、やることは変わらねぇ。ゴキブリがいるんならブチ殺すだけだ」

 

 リーの言葉に、全員が息を呑む。その様子にリーは微かに笑みを浮かべると、再び車の後方へと向き直った。

 

「時間は俺が稼いでやる。その間に、何か考えとけ」

 

 そう言うとリーは、ベンゾキノンを黒虫たちに向けて続けざまに撃ちこんだ。テラフォーマー程頑丈ではないのか、はたまた熱耐性に乏しいのか、高圧ガスが打ち込まれるたびに黒虫たち体は壊れ、残骸が空に舞う。

 

「……リーのいう通りだ。今、俺達でやれることを考えよう」

 

 ティンが呟くと、全員が頷いた。既に全員が落ち着きを取り戻し、取り乱している者はいない。

 

「とはいえ、どうやって倒す? ただでさえ小さいうえに、あの数だぞ。普通の方法じゃ無理だ」

 

 乗組員たちにとっての最大の問題点は、黒虫たちがあまりにも小さく、そしてあまりにも多いことだ。ある程度の大きさがあればいくらでも戦いようはあるのだが、精々数cmの虫たちの大群は攻めるに難く、守るに難い。一匹一匹を相手取るのは、土台無理な話である。

 

 となれば、まとめて倒すしか道はないのだが――。

 

「……駄目だ。リーのガスは効いてるが、敵が多すぎて処理が追いついてない」

 

 バグズ2号の乗組員たちの中で最も広い範囲を攻撃することができるリーですら、黒虫が車に追いつくのを妨害するので手一杯。自分たちが手術の力を使ったところで、焼け石に水となるかさえも怪しいところだ。

 

「これが地球だったら、スプレーでも罠でも、やりようはいくらでもあるってのに……」

 

 自らの生死を懸けてまで受けた対ゴキブリ用の手術が、イレギュラーであるテラフォーマーに有効で、元来のゴキブリに近い黒虫には効果が薄いなど皮肉にも程がある。言っても仕方ないこととは知りつつも、奈々緒はそんな愚痴をこぼさずにはいられなかった。

 

 だが、彼女のそんな何気ない発言は、奇しくもこの危機的状況を脱するための切片となる。

 

「「それだ!」」

 

 ジャイナとイヴのそんな声が聞こえたのは、ほとんど同時だった。

 

 突然の大声に驚いた乗組員たちが目を向ければ、そこでは声を上げた本人たちが「閃いた」と言わんばかりの表情を浮かべていた。

 

「何か思いついたのか、2人とも!?」

 

 小吉が詰め寄るように聞くと、ジャイナが頷いた。

 

「ひょっとしたらだけど……『マーズレッド』、効くんじゃないかな」

 

 ジャイナの言葉に、荷台の上にいた全員が「あっ!」と声を上げた。

 

 

 

 

 大容量ゴキブリ駆除剤『マーズレッドPRO』。

 それはバグズ2号に積み込まれた備品であり、”本来の”バグズ計画において使われる予定だった薬品だ。

 

 テラフォーミング計画のためによりしぶとく、より強く品種改良されたゴキブリを駆除するためにU-NASAが大手の製薬メーカーに特注で作らせたそれは、おそらく現存する殺虫剤の中では最強の毒性を持つであろう一品だ。

 

 残念ながら予想以上に人間へと近づいていたテラフォーマー達には効果がないことが昨日の調査で分かり、あえなく備品庫へとしまわれてしまったそれだが――。

 

「テラフォーマーには効かなくても、()()()()()()()()()あの虫には、効くかもしれない」

 

 イヴがジャイナの言葉に補足するように付け加えた。

 

「そうか、その手があったか!」

 

「成程、試す価値はありそうだな……」

 

 乗組員たちからも、口々に賛同の声が上がった。どのみち、それ以外の妙案も思いつかない。ならば一か八かでも賭けてみる他ないだろう。

 

 そう決まってからの、彼らの行動は早かった。

 

「よし! それなら俺が、一足先に2号まで戻って準備してくる! ジョーン、悪いが手伝ってくれ!」

 

 立ち上がってそう言ったトシオにジョーンが頷く。彼を脇に抱きかかえると、トシオは背中から生えた翅を動かしながら、彼らに振り向いて言った。

 

「少しだけ持ち堪えてくれ! すぐに最大範囲でマーズレッドを散布する!」

 

 そう言い残すと、彼はギュンという風切り音を立てて、荷台から目にもとまらぬ速さで飛び立った。

 

「……あとの問題は、マーズレッドの散布までどうやって時間を稼ぐかだな」

 

 ティンが努めて冷静に言いながら、後方でガスを撃ち続けているリーへと目を向けた。一見して先ほどと何ら変わりないように見えるが、その額には大量の汗が浮かんでいる。

 

 ベンゾキノンの材料となる過酸化水素とハイドロキノンは、リーが自らの血液を消費することで作り出すものだ。先程までの戦闘に加えて、ここにきてのガスの連射。疲弊しないわけがない。

 今の彼を襲っているのは、強い灼熱感と軽度の脱水症状。肉体の限界は近かった。

 

「リー、大丈夫か!?」

 

「……どうにかな」

 

 小吉の声に、リーは疲労の滲む声でそう返した。普段なら憎まれ口が飛んでくる所だが、そんな余裕すらも今の彼にはないらしい。逆にリーだからこそ、返事を返すだけの余裕があった、ともいえるが。

 

「それよりもお前ら、戦闘態勢に移っとけ。あと数発で、俺もガスが切れる」

 

 リーの口から告げられた言葉に、乗組員たちに戦慄が走った。

 

 ――ミイデラゴミムシのベンゾキノンの最大連射回数は、ある研究によれば29回であると言われている。

 

火炎放射にも匹敵する高熱ガス29発分と考えれば凄まじいが、裏を返せば29発分のガスを撃ち尽くした場合、リーが次に特性を使えるのはある程度のインターバルを挟む必要があるということでもある。

 

 

 これが通常の戦闘ならば、数秒のインターバルなどどうということはない。だが、今の彼らにとっては数秒の隙すらも致命的。

 

 一手間違ったその先に待ち受けているのは、死だ。

 

「……トシオとジョーンがマーズレッドの散布を始めるまでの時間は、ざっと2分といったところか」

 

 黙り込んでしまった一同の中で、ティンが口を開いた。

 

トシオの速度なら、ここからバグズ2号までは1分程で移動できるだろう。そこから更に装置を準備し、マーズレッドの散布を行うまでに1分。何の妨害もなければ、2分後に散布自体は完了するだろうというのが、彼の見立てだった。

 

「……それまで、リーのガスがもてばいいんだが」

 

祈るような彼の呟きはしかし、その1分後に悪い意味で裏切られることとなる。

 

 

「チッ、ガス欠だ」

 

 ――ついに、リーのベンゾキノンが切れたのだ。

 

「……!」

 

 リーの言葉に、全員が凍り付いた。

 彼の掌の孔から噴射されるガスは既に小火(ボヤ)の規模にまで弱まり、僅かばかりの煙を吐き出す程度になっている。それは即ち、黒虫に対する防波堤がなくなったことを意味する。

 

「どうする!? このままじゃ追いつかれるぞ!」

 

 フワンが悲鳴を上げた。車の後方からは、邪魔な攻撃が止んだことで勢いづいた黒虫の大群が羽音と共に追い上げてきている。追いつかれるのは時間の問題だった。

 

「おい、あれを見ろ!」

 

 その時、車の運転をしていたルドンが前方を指さして叫んだ。荷台の乗組員たちがそちらに目を向けると、緑の平原の向こう側から、白い煙のようなモノが漂ってきているのが見えた。

 

「マーズレッド! トシオとジョーンがやったのね!」

 

 マリアが歓声を上げる。リーのガス切れという絶望的な状況下の中、それはまさしく希望の光だった。

 

「テジャス! ガスはあとどれくらいで溜まりきる!?」

 

「40秒です、副艦長!」

 

 助手席からミンミンが訊くと、テジャスがそう答えた。

 

 

 

 ――40秒。

 

 

 

 それが、彼ら全員の生死を分かつライン。実際の時間にすれば極々僅かな時間だが、今の彼らにとってはたったの40秒が、果てしなく永く感じられた。

 

「何が何でも、奴らを止めるぞ!」

 

 小吉が己を振るい立たせるようにそう言うと、足元に転がっていた防犯用の銃を拾い上げ、荷台から身を乗り出して構えるとその引き金を引いた。

 

銃火器の扱いは素人だったが、空中が黒くなるほどの数の群れが標的ならば、狙いも何もあったものではない。小吉が適当に放った弾丸達はいずれかの個体には命中し、僅かばかり黒虫たちの速度を緩めた。

 

 

 

 ――あと、29秒。

 

 

 

 バラバラと騒々しい音と共に弾をばらまいていた銃が、突如沈黙した。小吉が引き金を引き直すも、聞こえるのはカチッ、カチッという音ばかり。

 

「クソッ、弾切れだ!」

 

 小吉は、無用の長物と化した銃身を、苛立たし気に床に投げ捨てた。他に、遠距離攻撃が可能な武器は残されていない。ここに至って彼らは、遠距離から虫たちに対処するための手段の一切を失った。

 

 

 

 ――あと、21秒。

 

 

 

 その場凌ぎの弾幕も途絶えいよいよ無防備になった車に、黒虫の大群の先頭が迫る。それを見守ることしかできない乗組員たちの間をかき分けるようにして、荷台の最後尾の小吉の下へと駆けだした者がいた。

 

「アキ!?」

 

 目を見開いた小吉を無視し、奈々緒が雄叫びを上げた。

 

「来るんじゃ、ないっての!」

 

 そんな声と共に、黒虫たちに向けて何かが投げられる。

 

 ――それは、網だった。

 

 クモイトカイコガの糸を材料に編み上げられた、即席の対虫投網。急な障害物に対処すること叶わず、車に追いつきそうになっていた黒虫がそれに巻き込まれた。目が細かい網に捕らわれた黒虫たちは、逃れようと必死でもがきながらも、抵抗むなしく地面へと落ちた。

 

 

 

 ――あと、18秒。

 

 

 

「どんなもんよ!」

 

 半分やけくそ気味に奈々緒が叫ぶ。男らしすぎるその姿に、小吉が思わず引きつった笑みを浮かべた。

 

「さ、さすがね、アキちゃん」

 

「当たり前だ!」

 

 フフン、と得意げに鼻を鳴らす奈々緒の横で、ティンが警告の声を発した。

 

「次が来るぞ! 秋田さん、下がって!」

 

 

 

 ――あと、10秒。

 

 

 

 ティンの言葉通り、車に黒虫たちの第二陣が迫る。さすがに二個目は用意していなかったようで、奈々緒はティンの言う通り素直に後方へと下がった。

 

「シュッ!」

 

 そんな掛け声と共に、ティンはついに荷台に到達した黒い霧に向かって鋭い蹴りを放つ。ビシュッ、という何かが潰れるような音が鳴ると同時に黒い霧が二つに割れ、白い肉片が飛び散った。

 

 だが、所詮それは焼け石に水。到底全ての黒虫を殺しきるには至らなかった。

 

 ――あと、7秒。

 

(くそっ! 万策尽きたか!?)

 

 ティンは胸中でそんな言葉を漏らした。彼らに打てる手は、もう残されていない。いよいよもって、状況は詰みであった。

 

 彼の蹴りを逃れた黒虫が、耳障りな羽音と共に乗組員たち目掛けて飛び込んできた。

 

(せめて、7秒だけいい! 何か、何か方法を――)

 

 ティンが思索を巡らせた、その時だった。

 

 突如として、周囲に青臭さを濃縮したような悪臭が立ち込めたのは。

 

 

 

 ――例え相手がどんな生物であっても、感覚を持っている限り必ず通じる防衛手段が存在する。

 

 それは『臭い』。

 数多くの生物に対して普遍的に通用するこれを武器とする生物は、数えていけばきりがないほどに存在する。

 

 イヴのベースとなっているカメムシ類の生物も、そんな臭いを武器とする生物の一種。彼らは外敵に襲われるなどして身の危険を感じると、腹部の臭腺からカメムシ酸と呼ばれる独自の物質を放出し、敵と周囲の仲間に警告のシグナルを送るのである。

 

 しばしば『コリアンダーや青りんごを数倍にしたような青臭さ』と表現されるカメムシ酸だがその臭気は凄まじく、種によってはその悪臭によって一つの部屋が使えない程にひどい状態になった事例さえあるという。

 

 

 

――あと、5秒。

 

 

 

「どうだ……ッ!」

 

 絞り出すようにそう言ったイヴの両腕からは、気化させたカメムシ酸が放出されていた。それらが発する臭気を黒虫たちの鋭敏な触角は確かに捉え、嗅ぎ慣れないその臭いに警戒して一瞬だけその動きを止めた。

 

 それは、本当に一瞬の事。瞬きにも満たない、本当に僅かな時間のこと。だが――彼らにとってはその一瞬さえあれば十分だった。

 

 

 

 ――あと、0秒。

 

 

 

「充填完了! いつでもいけます!」

 

「よし、発射しろ!」

 

 ミンミンの声で、テジャスは大きく息を吸い込む。それを見た乗組員たちが、慌てて近くにある物に掴まった。

 

 

 その直後。

 

 

 テジャスが噴射したガスを推進力に、乗組員たちを乗せた車は、前方から迫りくる白煙の中へと高速で飛び込んだ。

 

 

 




U-NASA予備ファイル2『人食いゴキブリ(仮称)』 【生物】
《『LOST MISSIONⅡ 悲母への帰還』より》

 バグズ2号の乗組員たちが火星で遭遇した、ゴキブリにそっくりな昆虫。テラフォーマーとはまた違った進化を遂げているらしい。

 対象の肉体を捕食して脳を乗っ取り、その個体に成りすますという生態を持っている。その特性上かなり特殊な擬態能力を持っており、人体を容易く貫く硬さと皮膚に見せかけるだけの柔らかさを自在に再現できる。

 作中でバグズ2号の乗組員たちが遭遇するおよそ数時間前に、別の惑星である船団がこの昆虫に遭遇している。結果、たった1人の少女を除いてその船団は壊滅した。


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