パラオの曙   作:瑞穂国

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久しぶりに砲撃戦が生起しそうですね

猛将角田は、果たしてどうするつもりなのか

摩耶様の戦いにも注目です


海ヲ走ル救援

埠頭を離れた内火艇が沖に停泊する艦に近づくにつれて、心臓の鼓動は明らかに早く、大きなものとなった。前から吹き付けてくる風が、凍えるように寒く感じられる。制服の内側に、すでに汗をかいていることも、摩耶は気づいていた。

 

大きく深呼吸をする。内火艇を操る妖精が、不安げに摩耶を見ていた。そんな彼に、摩耶は笑って見せた。それから後ろを振り返り、そこに立つ将校を呼ぶ。

 

「もう着くぞ。準備してくれ」

 

「わかった」

 

白の第二種軍装が随分と様になっている。スラリとした立ち姿は、海風に当たってさらに理知的な印象を抱かせる。

 

今から、彼が、“摩耶”に乗る。“摩耶”に乗って、そこで作戦の指揮を執る。

 

ドクン。

 

―――鳴るな・・・!

 

再び跳ね上がった心臓を感じながらも、摩耶はそれを無視して、目の前の艦体を見つめる。“高雄”型重巡の象徴とも言うべきどっしりとした艦橋。その前方に二基の高角砲が増設されていることが、“摩耶”の特徴だ。

 

自らの、苦い思い出、その象徴でもある。

 

内火艇が、舷側に出されたラッタルに横づける。摩耶がまず飛び移り、数段を上って、後に続く清水を待った。

 

艇のへりにやってきた清水が、ラッタルに飛び移る手前で立ち止まり、チラリと摩耶の方を窺った。その目が問いかけようとしていることを、摩耶も知っている。だから何も言わず、ただジッと、清水がラッタルに飛び移るのを待つ。

 

摩耶の艦へと、乗艦する瞬間を待つ。

 

艇を蹴った清水は、難なくラッタルに飛び乗った。その瞬間、それまでと比べ物にならないほどの悪寒が、摩耶の背筋を走る。

 

―――そんなに。

 

そんなに、嫌なのか。否、怖いのか。自分はそれほど、自らに人間が乗ることを、恐れていたのか。

 

一瞬すくみそうになった足を悟られまいと、摩耶はラッタルを駆け上る。何度か足を絡めそうになるのを堪えて、“摩耶”の甲板に出た。ハリネズミのように、至る所に施された対空兵装の数々が、彼女を迎える。

 

清水がついて来ていることを確認して、摩耶は艦上構造物を上り続ける。艤装が置かれている、最上部の艦橋に辿り着くまで、二人とも無口なままだった。ただ淡々と、ラッタルを打つ足音だけが響く。

 

ガランとした艦橋に足を踏み入れた時、摩耶の制服も髪も、汗でぐっしょりだった。二、三度足をもつれさせて、膝を打っている。けれども、その鈍痛すら忘れるほど、今の摩耶に余裕はなかった。

 

しばらくして、清水が艦橋に入ってきた時、その緊張は最大に達する。

 

その姿をあえて見ないように。艦橋の天井からぶら下がっている艤装の前に立ち、目を閉じて深呼吸を一回、二回。

 

そんな摩耶の様子を知ってか知らずか、隣に立った清水は、こちらを窺うことも、何か口を開くこともなく、ただ正面の艦首を見つめていた。冷淡なほどのこの提督の立ち居振る舞いが、今は逆にありがたくすらある。

 

呼吸を整えた摩耶は、カッと目を開き、厳かに声を発した。

 

「摩耶、精神同調に入る」

 

艤装に接続し、精神同調の準備が完了した。

 

「・・・ブレイン・ハンドシェイク」

 

途端、記憶の奔流が摩耶の精神を飲み込み、押し流した。それは、“摩耶”の記憶。そして、摩耶の記憶。

 

人間と同じ体では、直に体感することはない。ふとした瞬間に頭をよぎり、あるいは夢に見るくらいで済む。

 

だが、艤装と接続したとき。精神同調を行い、“摩耶”と一つになるとき。記憶はただの過去ではなく、まるで実体験しているかのように、鮮烈な感覚を伴って摩耶を襲う。

 

あの時の痛み。それはただの痛みだけではない。肉体の痛みと共に、心の痛みを思い出す。感じた絶望を、悲壮な叫びを思い出す。

 

視界が霞む。目の前の艦橋の光景に、何かが重なる。

 

抉れた隔壁。

 

割れた窓ガラス。

 

黒煙を噴き上げる第三砲塔。

 

煤汚れた床に広がる、どす黒い血の海。

 

その記憶は、いつもよりも鮮明なものとして、摩耶の前に広がる。

 

けれども、追いかけてはならない。精神同調において、記憶を追いかけることはしてはいけない。

 

摩耶の居場所は記憶の中の過去ではなく、たった今目の前に広がる艦橋にあるのだから。

 

霞んだ視界が、次第に回復してくる。しかしそれとは別に、何かの液体が右目に入り、思わず目を瞬く。それが、額から滝のように流れ出ている汗であることには、少ししてから気づいた。

 

髪がべったりと額に張り付いている。

 

握りしめた拳のグローブが気持ち悪い。

 

背中を伝う水滴に鳥肌が立つ。

 

「・・・摩耶」

 

呼びかけられた声にハッとした。“摩耶”に乗艦して初めて、清水が言葉を発した。

 

こちらを覗き込む瞳に、摩耶は笑ってみせる。思えば、初めて清水の前で笑ったかもしれない。

 

清水は黙って摩耶を見つめ、何も言わずに前を―――摩耶と同じ方向を見た。

 

「最大戦速で飛ばせるな」

 

「・・・ああ」

 

通常艦船に比べて燃費がいいBOBは、ことに最大戦速付近においてその効率が最もよくなる。燃料槽の小さい駆逐艦でも、パラオとマリアナの往復程度なら、最大戦速で飛ばして何ら問題ない。

 

それでも、マリアナ到達までは一日近くがかかる。急げるだけ、急がなければ。

 

艦首甲板の揚錨機が作動し、“摩耶”を泊地に留めていた錨が巻き上げられていく。錨鎖がガコガコと海底から引き揚げられ、やがて錨本体が海面から姿を現した。

 

清水がマイクを取る。呼び出し相手は、第二陣の旗艦“大和”、そこに乗艦する榊原だ。

 

「第一陣各艦、出撃準備完了。マリアナに向けて、先行します」

 

『了解。こちらもすぐに追いつく。貴艦らの健闘を祈る』

 

通信が終わると同時に、“摩耶”の錨が定位置に固定された。始動した機関が主機と接続され、スクリューが回転を始める。微速から半速、やがて原速。泊地を離れたところで、一気に速力を上げるつもりだ。

 

第一陣参加の駆逐艦が続行する。今回は、これに加えて第二陣の“木曾”が加わっていた。“摩耶”を先頭に、“曙”、“霞”、“長波”、“卯月”、“木曾”の順で単縦陣を組む。

 

「艦隊速力を三四ノットとする。針路〇六〇」

 

パラオ泊地艦隊が動き出した。マリアナ諸島で待つ味方艦隊を救援するため。襲いかかる深海棲艦を叩くため。

 

―――それだけじゃない。

 

まだ、時折ズキリと痛みが襲う。

 

これは摩耶自身の戦いでもある。摩耶自身が乗り越えなければならないことでもある。

 

それでも不思議と、辛さはない。清水とならば、やれる気がする。なぜだかはわからない。

 

疾走する風の中を、六隻の高速艦が行く。いつしか汗は乾いていた。

 

 

「どうかな、比叡ちゃん」

 

闇夜が訪れたマリアナ沖。双眼鏡を覗き込んだ角田は、隣に立つ比叡に問いかけた。角田の双眼鏡では何も見えなかったため、“比叡”搭載の電探の結果を聞きたかったのだ。

 

「・・・感、ありました。まだ解像度的にギリギリですけど」

 

比叡が声を潜めて報告した。

 

角田座上の“比叡”以下、横須賀所属の水上部隊は、小笠原沖で大規模な艦隊演習を行っていた。今回の目的は、新兵装の慣熟訓練、特に電探を用いた間接観測射撃を中心としている。

 

―――まさか、こんな形で、実戦投入することになるなんてね。

 

角田は暗闇の中で苦笑いを浮かべるしかなかった。

 

マリアナ急襲の報を受けた角田は真っ先に転進し、戦場へと急行した。結果、第二次空襲にギリギリ間に合い、襲来した敵編隊迎撃に参加している。何とか一日目は、凌ぎ切ることができたという感じだ。

 

状況がさらにかき回されたのは、索敵隊が夕方に発見した敵艦隊の影によるものだ。機動部隊とは別に確認されたのは、戦艦二、重巡二を伴った火力部隊であった。夜間のうちにマリアナ諸島に接近し、艦砲射撃をもって飛行場を破壊せんとするものと判断された。

 

これを受けて、角田は麾下の艦隊での邀撃を決意した。

 

参加するのは、角田直率の砲戦部隊、“比叡”、“金剛”、“高雄”、“愛宕”。そして、橋本慎一郎中佐指揮の“川内”以下“吹雪”型駆逐艦で構成された水雷戦隊。

 

“川内”率いる水雷戦隊は、普段吹石少佐―――吹雪が指揮しているが、今回の演習に際しては、橋本中佐に指揮権が渡されていた。

 

現在角田たちは、マリアナ東方で敵艦隊の来襲に備えている。

 

「方位〇八七、距離二〇〇」

 

「逆探は?」

 

「感あります。間違いなく見つかってますね」

 

「まあ、そうだよねえ」

 

深海棲艦の戦艦にとって、レーダーは基本装備だ。

 

「無線封止解除。全艦合戦準備」

 

角田の指示は、比叡によってすぐに各艦に伝えられた。

 

「っ!敵艦隊見ゆ!」

 

見張り妖精が、接近する敵艦隊を発見した。この時点での距離は一万八千メートル。

 

「一二〇より砲撃開始。電探と測距儀を併用するよ」

 

「了解」

 

単縦陣で接近する敵艦隊に対して、角田たちは丁字を描くことに成功している。一万二千メートルの距離は、戦艦同士の夜間砲戦距離としてはまずまずといったところだろうか。

 

「二救艦(第二救援艦隊。“川内”以下の水雷戦隊の呼称)は突撃。“高雄”、“愛宕”は二救艦の援護。敵戦艦は“比叡”と“金剛”で迎え撃つ」

 

角田の指示に呼応して、二隻の重巡洋艦と水雷戦隊が舵を切る。三四ノットの最高速力を発揮する韋駄天たちが、敵艦隊へ挑むべく、その艦首に真っ白い波を立てて突き進んでいった。

 

「敵戦艦面舵。本艦と同航するようです」

 

「やる気だねえ。本艦目標一番艦、“金剛”目標二番艦」

 

“比叡”の三三号対水上電探と測距儀が旋回し、目標となる敵一番艦を補足する。距離はすでに一万三千メートル。八の字を描いて同航する敵戦艦部隊が一万二千メートルの距離を割るのはもう間もなくだ。

 

だが、その前に敵艦隊が動いた。

 

海上の闇夜を消し去るようなまくるめく閃光が生じた。思わず目を細めてしまうほどの光量を発したのは、敵戦艦一番艦であった。先に撃ち始めたのは、深海棲艦の方であった。

 

「司令!」

 

「まだまだ!もう少し待つ!」

 

比叡の問いかけに角田が答えて数秒、“比叡”の上空に淡い光が現れた。敵一番艦が放ったのは、こちらを照らし出すための星弾であったらしかった。

 

次からは、本射が来る。

 

角田の予想通り、すぐに一番艦の本射が始まった。三連装砲塔の中砲が鎌首をもたげ、真っ赤な火炎を吐き出す。その光が、艦上構造物をくっきりと映し出す。

 

「観測機に吊光弾投下を打電」

 

すでに飛び立っていた零観に電文が飛び、すぐに吊光弾が投下された。マグネシウムの発する淡い光が、敵艦隊を闇夜に浮かび上がらせる。

 

「見張りより、敵艦はル級と認む」

 

「種別は?」

 

「・・・改flagshipと思われます」

 

「っ!!」

 

第一射弾着の衝撃を感じながら、角田は声にならない呻き声を上げた。

 

ル級改flagship。flagshipすらも凌駕する性能を持つと言われる戦艦だ。

 

しかしながら、本来はハワイ沖に展開する深海棲艦であったはずだ。それがなぜ、マリアナを襲撃する。

 

―――考えるのは後。

 

いよいよ、敵艦との距離が一万二千メートルを切ろうとしているのだ。

 

「撃ち方用意」

 

“比叡”の艦上に、主砲発射を告げるブザーが鳴る。それが治まった時、ついに彼我の距離は一万二千メートルになった。

 

「撃ち方始め!」

 

「てーっ!」

 

敵一番艦の第二射弾着の衝撃をものともせず、“比叡”の主砲が咆哮する。四基が据えられた四一サンチ連装砲。その右砲から、弾着修正用の砲撃が放たれた。その反動に、艦が震える。

 

ビリビリと轟音に揉みしだかれる艦橋に足を踏ん張り、角田は第一射の成果を待ち続けた。




さて、ようやく動き始めました、ハワイの深海棲艦

鬼姫は、トラックの戦いにも関わってきそうです

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