今回も、摩耶様の葛藤編です
食後のお風呂を出た榊原の目に、ふと休憩スペースの冷蔵庫に入っていたコーヒー牛乳がとまった。頭を拭いていたタオルを首にかけ、冷蔵庫の方へと歩み寄る。懐かしい形のビンを中から取り出して、休憩スペースに据えられたベンチに腰掛けた。
最近多いプラスチックの蓋ではなく、紙でされた蓋なところに、コーヒー牛乳を発注している食堂部のこだわりを感じる。その蓋を器用に取り外して、榊原はビンを傾けた。ほろ苦い液体が、冷たく風呂上がりの体を駆け抜ける。
一息にあおった榊原は、大きく息を吐いて中身を全て飲み干した。
「いい飲みっぷり」
口元を拭った榊原の後ろから、聞きなれた声がした。ホカホカと湯気を立て、寝間着に身を包んでいるのは、我らがパラオ泊地秘書艦の曙だ。風呂上がりの髪は結ばずに流したままで、肩にタオルをかけている。切れ長の目元が、少し下がっていた。
「うまかった。風呂上がりは、やっぱりこれに限るな」
「あっそ」
そう言った曙は、おもむろに冷蔵庫を開け、中からコーヒー牛乳のビンを一つ取り出す。それから、榊原の隣に腰を下ろした。
細い指で器用に蓋を取ると、曙もビンを傾け、風呂上がりの一杯をあおる。ピンクに染まった喉がゆっくり動いていた。口を離すと、微かな吐息が出る。
「ん、おいしい」
そう感想を漏らしてから、半分ほど残った中身を一気に飲み干した。榊原と同じように、口元を拭う。
「いい飲みっぷりだ」
笑った榊原から、曙はツイッと視線を外してしまった。その頬が若干赤いのは、風呂のせいだろうか。
「誰かと一緒じゃなかったのか」
「一人よ。風呂場まで、あんなうるさい連中と付き合ってらんないっての」
ぶっきらぼうに言った曙に、榊原は苦笑する。そんな憎まれ口を叩きつつも、面倒見のいい初期艦なのである。
「湯船の中ぐらい、一人でのんびり、星でも眺めてたいの」
「・・・それ、できるか?」
「無理ね」
「そうだよなあ」
二人して諦めに近い溜め息を吐き、次いで笑ってしまった。
パラオ泊地艦娘たちの威勢の良さは折り紙付きだ。それは風呂場でも変わりない。女湯の隣にある男湯にまで声が聞こえてくるほどだ。
「たく、あいつら、一体いつ休んでんのよ」
「元気なのはいいことじゃないか?」
「限度ってもんがあるの」
その時、背後の風呂場―――女湯の暖簾の向こうから、何か恐ろしげな声が聞こえた。続いて、爆発するような笑い声。間違いなく、今パラオ泊地の風呂場は、戦場と化していた。
「・・・水雷戦でもやってるのか?」
「はぐれ深海棲艦でも入ってきたんじゃない」
秘書艦殿の溜め息は、益々深くなるばかりだった。
「俺もさ。一人で星を眺めてるんだけど。隣から声が聞こえてきて、何て言うか・・・全くもって、一人で風呂に入っている気がしない」
でも、嫌なうるささじゃない。そこの認識は、榊原も曙も同じだった。星空の下で、湯気に紛れて木霊する声が、パラオ泊地そのものだ。
「・・・まあ、風呂自体はちゃんと入ってるし。一通り騒いだら、大人しくなるし」
大人しくなるまでが大変だけど。そう呟く曙は、どこからどう見てもお母さんだ。だから榊原は、思わずポロッと、こんなことを口走ってしまった。
「なんだか、曙はお母さんみたいだな」
言われた曙の反応は劇的だった。物凄い反応速度で榊原の方を見た彼女の頬は、熟れた林檎のように赤い。
「な、何わけわかんないこと言ってんのよ、このクソ提督!」
目を怒らせた曙が反論するが、それが照れ隠しに近いものだと、榊原にはわかった。
「周りをよく見てて、優しくて、世話焼きで」
榊原が一言発する度に、曙の頬の赤みが増し、プルプルと震えだす。悶えるような表情は、どこか艶っぽくもあった。
「っ!そ、そんなこと言ったら!クソ提督だって、お父さんみたいなもんでしょうがっ!」
彼女にとっては、それが精一杯の反撃だったらしい。榊原は苦笑する。
「せめてお兄さんって言ってほしかった」
「それ言ったら、あたしのこともお姉さんって言いなさいよ」
「それはそうか」
そんな、他愛もない会話。気づくと、榊原も曙も、口元が緩んでしまっている。やがて耐え切れずに、決壊した。腹を抱えるほどに笑ってしまう。
「ほんっと、どうでもいいじゃない」
「ああ、まったくだ」
本当に、下らない話だ。
「もう部屋に戻るわ。クソ提督も、早く寝なさい」
「ああ、そうするよ」
二人は共に立ち上がり、飲み干したコーヒー牛乳のビンを回収ボックスに入れる。蛍光灯の光を中に封じ込める二つのビンは、仲良く並んで回収ボックスに収まった。
「さ、戻るわよ」
榊原を見上げた曙が、満足げにそう言った。
執務室の隣にある自室に戻った榊原は、すぐには眠らず、自作の艦型識別表を見つめていた。もちろん、収められているのは「謎の艦隊」の艦型だ。
ハルゼーから譲り受けた写真や推定諸元をもとに、その艦型を割り出したこの艦型識別表を、榊原は時折眺めていた。見れば見るほど、不思議な艦たちだ。
と、その時。榊原の部屋の扉がノックされた。小刻みなリズムは、どこか柔らかい。
この時間帯に、来客というのも珍しかった。
「提督、いるか?」
さらに榊原を驚かせたのが、ノックの主が摩耶だったことだ。
「どうぞ」
珍しいこともあったものだと思いながら、榊原は入室を促す。一応、榊原の私室には、小さな机と椅子が二脚、置かれていた。
ゆっくりと扉を開けた摩耶は、片手で詫びながら部屋に入ってきた。
「わりい、こんな遅くに」
「気にするな。もう少し起きているつもりだった」
椅子を勧めると、迷ったような素振りの後、遠慮がちに腰掛けた。摩耶には珍しいなと思いながら、榊原は尋ねる。
「何か飲むか?お茶かコーヒーぐらいしかないが」
「いや、いいよ。あたしも、ちょっとしたら寝るから。ほら、カフェイン入ると、眠れなくなるし」
「そうか」
電気ケトルに伸ばしかけた手を引っ込め、榊原は机を挟んで摩耶と向かい合う椅子に座った。
「それで、どうかしたのか?」
「あ、ああ。えっと」
言い淀むような間があった。榊原は急かすことなく、彼女が言葉を探している時間を待つ。やがて視線を彷徨わせながら、摩耶は話を始めた。
「その、さ。変なこと訊いてるって思うかもしれねえけど」
こちらを窺うような目線に、榊原は小さく頷くことで応える。
「あいつは・・・清水ってのは、どんな奴なんだ」
尋ねた摩耶に、榊原はわずかながら目を見開いた。
何があったのかはわからない。ただ、摩耶が清水のことを知ろうと思った、そんなことがあったのは間違いない。
それがなんであるか、関知するつもりはない。ただ榊原の中で、願望が少しずつ確信に変わりつつあった。やはり、摩耶が彼女の中の“何か”を乗り越えるのには、清水の存在が欠かせないのだ。
「そうだな・・・」
言葉を選びながら、榊原は考え込む。だがやがて、そうして考え込むこと自体が無駄なことだと思い至り、苦笑を浮かべてしまった。
「よくわからん奴だ」
「・・・え?」
砕けた調子で言った榊原に、摩耶は理解できないような顔をした。
正直なところ、榊原とて清水という提督を理解していない。確かに、同期の中では相模と同じくらいには清水のことを知っているつもりだが、それはあくまで彼らの思っていることに過ぎない。提督としての清水が、いかな信念に従ってここにいるのかを、榊原は知らない。
「自分のことは、あまり喋りたがらない性質でな」
「それは・・・確かにそうかもしれないな」
摩耶にも、何か思い当たることがあったのだろう。
「確かに、俺と相模が、清水との付き合いは同期たちの中で一番深い。それでも、お互いのことを話し合うような仲じゃなかった。清水が提督志望だっていうのも、つい最近知ったことだ」
榊原が慎重に言葉を選んで喋っているのを、摩耶はジッと聞いていた。
「けど、これだけは言える。清水も、俺たちと同じだ。艦娘と共に戦うことを選んだ、覚悟と信念ある提督だ。摩耶たちと戦うことには、何の躊躇いもない」
候補生時代からそういう奴だった。いい奴かどうかは別にして、実直で、そして自分を信じている。提督にこれほど適任な人物はいないと、榊原も思っている。
榊原の言葉を聞き届けた摩耶は、その真意を測るように、両目を閉じて黙考していた。やがて、迷いの色を帯びた両の瞳が、伏し目がちに机を見つめる。
「・・・あいつに言われたんだ。どうして、旗艦指定を断るのか、って」
どのタイミングの話をしているのか、榊原にも見当が付いた。ルソンから帰還してきたとき、旗艦を任せた摩耶ではなく、祥鳳が旗艦を務めていた。摩耶たちと清水の初顔合わせの際に何かがあったことは、想像に難しくない。
「今のあたしには、それに答える覚悟がなかった。お前にも、あいつにも、ずっと黙ったままだ」
机の下で、摩耶の両拳が、強く、強く握られた気がした。
「正直、責められても文句の言えないことだとはわかってる。だからこそあたしは、もしかしたらこのことを、ずっと黙ったままでいるかもしれない」
なのに。掠れたような声を、摩耶の心の呟きを、榊原は静かに聞いているしかなかった。
「あいつは、お前と同じように、待ってくれるって言った。それだけじゃない。ルソンで一方的にあたしを責めたことを、『子どもっぽくムキになっていた』って、頭まで下げて」
噛み締めた唇。摩耶は戦っているのだ。清水によって突き付けられた、自分の中の“何か”と。彼女自身、乗り越えなければならないとわかっている壁と。
「・・・子どもっぽいのは、どっちだよ・・・」
絞り出すような言葉を最後に、摩耶は口を閉ざした。
「・・・摩耶」
そんな摩耶に、榊原はできるだけ声音を柔らかく、言葉をかける。
「清水は、絶対に嘘はつかない」
そんな、非合理的なことを好んでする奴じゃない。
「待っててくれる。摩耶が戦う覚悟を決めているからだ」
何と戦うかなんて、言わなくても摩耶には伝わったようだった。
「あいつも俺も、頑固だからな。待つと言ったら、とことん、いつまででも待つぞ」
榊原の言葉に、目の端を湿らせた摩耶が薄く笑った。
「何だよ、それ」
「相模にはよく呆れられたもんだ。あいつも大概だと思うが」
候補生時代、三人で我慢比べをして、サウナからなかなか出てこず、教官に怒られたことがあった。
「だから、摩耶。もしも摩耶が、理由を話してくれるつもりになったら、まず清水に話してやってくれ。きっと、どうしたらいいか、あいつも考えてくれる」
「・・・わかった。そうする」
摩耶は小刻みに、何度も頷いた。その頭に、榊原はいつものように手を乗せて、ポンポンと叩く。それが、精一杯の励ましになるように、と。
最初の方の、ぼのちゃんのくだりは必要だったか?
必要です。・・・多分
次回以降は、おそらくルソンの“あの提督”のお話になるかと
秋津洲先輩大活躍の予定です!楽しみにしてるがいいかも!