北の盾たる己が身を 作:黒頭巾
駐屯軍二万七千の内一万二千を率いる李傕は北に異民族の迎撃に向かい、同じく一万二千を率いる郭汜は迅速に報告が上げられた曹操軍の侵攻の迎撃に。
長安は、残る三千足らずの兵が守っているだけに過ぎなかった。
言うまでもないが、これは李師の策略である。
八割の誠、二割の嘘。
敵を騙すにはこの配分が重要であり、現にこの場合も異民族の侵攻も、曹操軍の侵攻も真実だった。
故に、その進撃速度と規模に、嘘を混ぜる。
三方向から攻め寄せ、一路旧都洛陽へと向かっている曹操軍の規模を水増しし、その進撃速度をわざと鈍らせた。
そのことによって郭汜に対応させる時間的余裕を―――錯覚とは言え―――与え、的確な手を打たせる。
この場合の的確な手とは、後方都市の防衛部隊を再編成し、前線の後詰めとすることだった。
その後詰めが出発したという報告を受け、李師は子午谷を一気に駆け上る。
友軍を可能な限り利用しきり、個人プレーによって戦局を一気に引き寄せるのが李師の得意とするところであるが、この場合はただ利用した訳ではなかった。
第一に、長安が獲られたとあらば敵は本貫地である涼州への道を断たれたことになり、士気が低下する。
第二に、後方都市であり兵站基地である長安を獲れば、兵站線の元手を断つこととなる。
第三に、敵情報線を分断することができ、それによって敵の連携を崩すことができる。
李師の一手によって、この侵攻戦は既に残党狩りの様相を呈し始めてきていた。
一つの戦術で、味方の戦略を完璧なものとする。
味方を利用したが、利用された以上の利益を全体に与えることができるのが、戦略的に優位を得た『戦術家』李瓔の真骨頂だった。
「……まともに戦う気は、なかったのですかな?」
「ない。その意義も意味もない。だから、楽に勝たせてもらう」
嘗て激闘を繰り広げた汜水関も陥とすこと無く越えてしまい、守ろうとした洛陽すら越え、長安にまで来てしまったことに何らかの感慨も見せず、李師は一言だけ命令を下す。
「かかれ」
極めてやる気のない李師号令一下、四日で子午谷に着き、そこから一日で辿り着いた長安は三刻の戦闘の後に陥落した。
子午谷の奇謀と言われた李師の急襲作戦は、百人に足らない被害と五日という時間を生贄に、李傕・郭汜連合の首都である長安と言う情報線と兵站線の中心地を得ることで完結したのである。
趙雲・華雄ら武闘派はこの『取れる物を取った』という手応えも歯応えもない戦いに肩透かしを喰らったが、彼女もひたすら流血と闘争を望むものではない。
本当の戦は、荒れに荒れまくった長安内ではじまった。
「賈主簿、商業区画の割り振りが終わりました」
「賈主簿、宮廷の復興費に関して董車騎将軍殿が相談をしたいと……」
「賈主簿、山賊が長陵近郊に潜んでいるとのことです」
「賈主簿、灌漑用路が破壊されております。復興を」
「商業区画の割り振りが終わったら馬鈞の弟子たちの工業を中心に拡充、宮廷の復興費は劉曄に任せてあるからそちらに、山賊に関して周泰に精密な場所を調査させて華雄に叩かせて。灌漑用路は韓浩に。街道の整備は?」
殆ど一息に連弩の如く浴びせかけられる報告に、賈駆は極めて冷静に対処する。
それは血を一滴も流さないが、精神力と体力を搾り取っていくような耐久性を試す戦い。
何故、ここまで長安近郊は廃墟めいているのか。
それは李傕と郭汜は、一枚岩ではなかったから。この一言に尽きた。
このことを聴いた賈駆は、より一層その警戒心と慎重さを厳とした。李傕と郭汜は嘗て董卓配下の一将軍であったこともあって、その性格も仲の良さも知っている。
涼州人らしい蛮性を残した性格と、貪欲な物欲。共通項の多い性格的な類似と、幼い頃よりの友人同士という深い繋がり。
その二人が争うとは、権力というものは、どうにも独占したくなるものらしい。
危機管理能力に定評のある賈駆としては、その決裂の呼び水となった権力という魔物に戦慄を禁じ得なかった。
より一層、周りを見て身を慎まねばならない。
そのことを身に沁ませつつ、賈駆は次々に『最低限の生活を維持する程度の』設備を整える。
何故最低限かと言えば、勿論理由があった。
出費を抑えつつ曹操軍の官僚たちの出る幕を増やし、潜在的な李家軍の支持者を増やす。
渇いていた時に得た水と、ある程度余裕のある時に得た水。
同質量の水であるが、有り難いと思うのは圧倒的に前者なのだ。
これによって支持層を増やし、潜在的な味方を増やす。更には曹操軍の官僚たちにはまっさらに整えた状態で渡すことであくまでもこちらは外様としての身の程を知った『準備の為の下請け』であることを示す。
実に巧妙に隠蔽しつつ、賈駆は精力的に働いていた。
「街道の整備は三割ほど出来ております。しかし、李傕らの内戦で殆ど壊滅的な被害を受けておりまして……」
「軍用道路ではなく、民間の商業用のものを優先。工兵隊千人を回して復興に当たらせて。元手が少ないんだから、増やさなきゃはじまらないわ」
「はっ」
一通り指示を終えて、賈駆は休まず歩いて軍事的な中枢である城外の幕舎へと向かう。
そこには、珍しく前線に出ていないが故に暇している李師と、護衛の呂布が詰めていた。
各将はそれぞれ千人ほどを率いて賊を討伐、ないしは帰順させている。
この長安に居る常備兵は、李傕時代と変わらずに三千人ほどだった。
もっとも、城内には高順率いる赤備えの憲兵隊百人しか居らず、残りは城外に駐屯している。
これは李師が現皇帝たる劉宏に『司隷郡に入ることを禁ず』と勅を下された為であった。
司隷郡にはもう入ってしまったから仕方ないとして、せめて都には入らないよ、と言うのが李師の精一杯の誠意だったのである。
「やぁ」
「単刀直入に言うけど、董承があなたを恐れてるわよ」
挨拶すら返さず、賈駆はズバッと切り出した。
彼女は危機管理の為に基本的には直言を避け、それとなく悟らせるような言い方を好む。
だが、李師の政治権力を求めず、粛清をできないような人格をある意味で信頼しているが故に、彼女は李師に対しては容赦がなかった。
「……え、私は何もしてない筈なんだけど?」
「動かないってだけで不気味なのよ。現皇帝には引け目もあるし。
ボクからすればまあ、自業自得といったところだけどね」
李師は漢で将軍してる時に馬車馬のように働かされ、檀石槐にやっとのことで勝った瞬間に都に呼び出されて投獄。
司馬家を中心に固まった清流派の残党がそれを痛烈に非難した為、辛くも生命は拾ったものの、恩賞も貰えず都を叩き出され、それどころか司隷郡からすらも叩き出されている。
彼は『恩賞は別にどうでもいいと言い。牢獄も殺人犯にとっては寧ろ当然』と言う、ある種脱俗的すぎる感想を持っていた。
これは、彼があくまでも思想書として呼んだ墨家の『一人殺せば罰せられるのに、将が万人を殺して功を誇るのはおかしい』と言う一文を痛烈に実感したからであるが、墨家ではない宦官や濁流派に所属する武将には理解ができないことだったのである。
更には彼は、恨みを長時間持続させる天性に欠けているが故に、理不尽な扱いを受けたということを忘却の彼方に葬り去ってしまった。
だが、政争を専らにしている都の政治家からすれば、恨みは死んでも忘れないものである。
彼女等は李師が長安を占領してすぐにその勅を撤回、と言うよりは上書きしようとしたが、李師がそれを断った。
彼としては、皇帝の命令は史書に記されるべきものであり、それは撤回したりすべきものではない、と言った正論を吐いてこれを断ったのであるが、本心が『都になど近づきたくもない』と言う政治嫌いから出たことは間違いがない。
「君は嘘を付いている」
「……な、何を根拠に?」
呂布と囲碁を打ちつつ、李師は賈駆をチラリと見てその言葉に混ざった虚偽を看破する。
正直なところ、彼は基本的に面と向かっては騙されない。第三者を介せば騙されることはあるが、少なくとも騙そうとしている人間を視認している内は確実に看破することができた。
「皇帝は引け目なんて感じないよ。私に行ったことに対して引け目を感じる様な殊勝な性格だったら、天下がこの惨状になった今、とっくに自殺しているだろうしね」
「……お、温和な顔して、過激なこと言うわね」
有効な政策を打てなかったことに対して、李師は批判したわけではない。自分ができないことを、批判する気に彼はなれない。
ただ、国を憂うる人間は居たのに、それを用いなかったことに対して義憤を感じていたのである。
清流派の弾圧も良い。濁流派にもまともな政略眼を持った人間はいただろうから、その人物を用いればよかった。
だが、耳触りの良いことしか言わない臣下のみを近づけようとしなかったことに対して、李師は批判をしている。
「民の貧困を尻目に売官で稼ぐ。反乱未遂が何回か報告されている中でこんなことをするということは、悪いけどまともな神経をしてないね。大方心配していたり引け目を感じているのは側近だろうし、それも保身の為だろう。
そもそも今の惨状を見て宮廷の復興費を要求する辺り、度し難い。私はどうにも、慕う気にはなれないな。正直に言って会いたくもない。誰かの保身の為に、なんで私が利用されなきゃならないんだ?」
「あのね。漢は腐っても鯛なのよ。利用価値があるし、好んで反感を買いたくはないでしょう?」
政略嫌い、政治嫌い。その癖自分が利用されそうだということは割りと敏感に気づく。
半ば説得を諦めながら、賈駆は別方面から攻めた。
「嫌だ。政略なんぞに利用されるのはまっぴらごめんだ。それに君の理論に当てはめれば、曹兗州様よりも先に謁見するのは臣下の分を越えたことじゃあないのかな?」
「……まあ、それも一理あるわ。でも、相手の心象を良くするのも臣下の務めなの。と言うより、誰もがあなたみたいに先が読める訳じゃないのよ。腐敗してても続いているのだからいいや、と思うのが貴門の人間。わかってるでしょ?」
「わかってるけどね。絶対こうなると予想した人間は居たし、それを遠ざけたのは確実に帝だ。私は嫌だ。会いたくない」
と言いつつ、賈駆は思った。
この男、わざわざ慣れないことに智恵を絞り、『皇帝は命令を覆すべきではない』というまともな反論の陣を築いてから感情を表に出す辺り、手に負えないわけではない、と。
恐らく個人の好き嫌いで他人に迷惑がかかることを知っているからこそ、このような陣を築いたのだろうが、そこら辺が致命的に甘い。
上に立つ者は、普段がマトモならば一部において我儘でも許容されるということを、知らないのだろう。
だからわざわざ断る理由も作ってしまっていて、それが結果的に政略的な一手に踏み込んだという結果になってしまっていた。
となれば、賈駆がすべきことは擦り合わせ。要はいつものことである。
「……あなた本っ当に、漢への忠誠心とか帰属心、ないのね」
「民があっての国だ。民に塗炭の苦しみ味合わせる国に、存続すべき価値はない」
李師の人格における致命的にして最大の弱点、政治嫌い。
基本的には優秀な指導者である李師のこの穴を埋めるのは、たぶん自分の仕事だろう。
幸いにも断る理由に悩む必要は無いのだから、後のやることと言えば言い方と言い回しに気を使うくらいな物だった。
「わかった。じゃあ、ボクが何とかする」
「……言い過ぎた。参内した方がいいのかな?」
こちらが折れると思わず折れてしまう辺り、人がいい。
だが、良く良く考えてみると、この儒教的礼儀における素養が皆無、と言うよりも絶無と言ったほうが適切な男が参内するのは、殆ど確実に反感の嵐を買うことになる。
「ボクが、何とか、するの。いい?」
「あ、はい」
十三歳ほど歳下の少女に凄まれる奇策縦横の将、三十三歳。
宮廷政治家、賈駆の胃は中々に丈夫に出来ているようだった。