北の盾たる己が身を   作:黒頭巾

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権利

夢を、見ていた。

 

赤毛というよりも紫に近い髪をした父と、時々姿を見せる燃えるような紅髪をした母。その二人と複数の召使いと一つの大きな家に住んでいる。

 

ぼんやりと思い出される、自分が血の色を瞳に写さないまでの記憶。父に関しては記憶というものが欠落しているし、母に関しても怯えるような視線と線の細い顔の輪郭が思い出されるだけでしかない。

 

だが、彼女には一つだけはっきりとしている感覚と記憶があった。

 

あの時には、戻りたくない。それだけは、確信を持って言える。

 

「……」

 

傍らが、冷たい。

本人的にはロクでもない夢を見て半ば無理矢理に自分自身を覚醒させた呂布は無造作に張り巡らせた意識の網を引き上げ、傍らに右腕を垂らした。

 

三年前まで隣にあった温もりは無いが、伸ばした指先にそれが触れる。

 

「恋、変な夢でも見たのかい?」

 

「……ん」

 

呂布が十五歳までは同衾していた。しかし、彼女がむくむくと成長していることに、更には李師がそれに対して全くの無頓着であったことに危機感を覚えた隣人が間違いが起こらないようにと隔離を勧めた。

この結果、李師には特になんの感傷もなく、呂布には半身が欠落したような寂しさとともに有事以外の同衾禁止を受け入れている。

 

だが、こういう時は別だった。

 

「……いい?」

 

「いいよ。おいで」

 

無頓着さを巧みに利用する形で、呂布は幕舎の中とはいっても久しぶりの同衾をするべくモゾモゾと動いて李師の布団に潜り込む。

朝の光が見え始める程度には時の経った時刻。二度寝するには遅すぎる時間であるにもかかわらず、李師の全細胞は貪欲なまでの睡眠による沈黙を求めていた。

 

しかし李師は、これまでの結果からして己の欲求よりも呂布のメンタルケアを優先させる傾向に有る。

この時も、その姿勢はつらぬかれていた。

 

「どうした?」

 

「……恋の我儘だから、寝てていい」

 

「予想されうる原因が私にあるかもしれないなら、そういうわけにも行かないさ」

 

単純な持ちやすさの都合上、一番腕を回し易い腰に手を回し、赤紫と深い紅を足して二で割ったような髪の上に顎を乗せる。

機嫌に合わせてピコピコと角度を変える触覚めいた二房の髪はご機嫌と不安の間を行き来していた。

 

恋が保持しているあの頃の記憶での精密で詳細な記憶といえば、初めて会った李師に『私は君の両親と、その仲間たちの仇にあたる。仇を取ろうと思うかい?』と、鞘ぐるみの剣を渡された後に問われたことくらいなものである。

 

霞がかかったような、昏い瞳が彼女の心奥深くに未だ残っていた。

 

「今は、恋は幸せ」

 

「今は、ね。過去も相当に大事だと思うけど」

 

「過去の積み重ねが、今」

 

だから己は復讐というものを考えない。復讐というものを考えるまでもなく、この戦術能力において狂っている男を殺せば、この世に自分と同類が居なくなる。

 

そういう存在を見つけた時に殺意と言うものが消し飛んでしまったように、その瞳に親以上の親近感を抱いてしまったように。

それを喪うのは、彼女にとって耐え難い苦痛だった。

 

呂布は実の親に、それほどの親近感を憶えていない。母は愛の代わりに怯えと恐れを注いだし、父は常に家に居ない。

不器用な、だが怯えも恐れもない、愛を側に居ることで注いでくれた李師は、親以上の存在なのであろう。

 

「皆は、恋を怖いって言う」

 

狂った強さ。

そう、彼女は齢を二桁にする前に評された。

 

凄まじい、ではない。有り得ない、でもない。

狂った、と言うところに彼女の武の本質がある。

 

凡人というものの武における限界が、百だとする。英雄と呼ばれる人種の限界が、二百。

百五十程度ならば、『凄まじい』で済む。

 

二百を超えれば『有り得ない』。

それを超えれば、それは何かが破綻していた。

 

「嬰は、恋より弱い。恋は、嬰より弱いやつ、見たこと無い」

 

「まあねぇ」

 

申し訳程度に持っていた将軍時代の剣も、呂布に渡してしまっている。

剣補正で十程度あった物も、補正を無くせば元に戻るのだ。

 

要は、彼は恐ろしく弱い。呂布が本気になれば赤子の手をひねる様に殺すことができる。

 

そのことを、李師は良く知っているはずだった。何せ一番彼女の狂った強さを目の当たりにしてきたのである。

勝てないということと、その異常性。それを理解した上で、李師は頭をポリポリと掻いた。

 

「……何で、怖くないの?」

 

「じゃあ。恋は、先ず武人なのかい?」

 

無言で、首を振る。

武人などと言うカテゴリーにカテゴライズされる類ではないと、彼女は周りの反応で理解していた。

故にどちらかと言えば猛獣か、怪物の類だという自覚がある。

 

何よりも、武人としても誇りも意志も、彼女は持ち合わせていなかった。

 

「恋は、先ず恋だ。そして私にとっては、腰までしかない小さな女の子さ。いつまでも、ね」

 

「……その時でも、恋は人をいっぱい殺せた。虎も、殺せた」

 

「かもね。でも、自分の裾を掴んで離さないような子を、怖がるのは少し心情的に無理があると、私は思うな」

 

他人は先ず自分の狂った強さに目をやり、三つの反応を示した。

 

恐れる。

怯える。

利用する。

 

これらいずれも、最終的には彼女の元を去った。単純な強さというものが突き詰めると異様な恐ろしさを放つものだという事を、関われば関わるほどに理解してしまったのだろう。

 

「それに、だ。他人の手を汚させることを職業にしている私のほうが、ざっと千倍もおぞましい。そうは思わないかい?」

 

半ば予想していた答えに頷きもせず、否定もせず、呂布は無言で李師の胸元に自分の頭をこすりつけた。

こんなことは訊かなくてもわかっている。李師は自分を恐れない。

 

『君には誰よりも私を殺す権利がある』、と。李師は時々思い出したように言った。

出会った時。年齢が二桁の台に載せた時。十六を超えて一人前になった時。決まって、呂布と言う狂った強さを持った娘の頭を下手に撫でながら。

 

思わず苦笑しそうになったのを、憶えている。

殺されそうになったから、殺した。他人にはそれを認めるくせに、自分には認めない。殺す権利などという物騒な物を、自分を対象とする時のみに認めている。

 

半分のおかしみと哀しみを込めて、彼と会ってからの呂布は全く抵抗する素振りすら見せない彼に代わって敵を殺し続けていた。

李師は、やめろとは言わない。やれとも、言わない。

 

ただ、見られないようにと細心の注意を払っても、それをした後には見透かしたように悲しい目で自分を見て、一つ頭を撫でる。それだけだった。

 

「巧くいかないな」

 

「……嬰、下手」

 

寝癖の付いた髪をどうにかしようとして、更に悪化させた李師を呆れと嬉しみを込めた複雑な声色で制止し、自分で直す。

 

自分を見る為の鏡などある訳がない。明るさと闇が七と三くらいの値で同居している幕舎の中で、無論手探りな直し方である。

それでもなお、李師よりはマシな仕上がりだった。

 

「恋がくっきりと見えるということは、これは起きなきゃ駄目かな」

 

「……少なくとも。寝てていい時間とは、言えない」

 

はぁ、と溜息を付き、李師は呂布を身体から離して伸びをする。

あぐらをかきながらするそれには、怠惰と厭戦気分が蔓延していた。

 

「あぁ、今日も元気に人を殺す稼業に勤しまねばならないわけか。特に今日はどちらにしても万の台に載せることになるだろう。憂鬱なことだ」

 

「……とんだ厄日」

 

「毎日が、かな?」

 

「そう思えば、そう」

 

人を殺すことは一般的な倫理観から見れば悪行であるが、悪行であることとやりたくないことであるということはイコールではない。

 

要は人の性格の差、気の持ちようであることを、呂布は不器用ながら示そうと頑張っていた。

 

「私はそうとしか思えない」

 

「……そう言うと思ってた」

 

「別に私の倫理観を押し付ける気はないが、恋はそうは思わないのかい?」

 

「恋の厄日は嬰の命日。だから、今日は厄日になるかもしれない。けど、他の奴が死んでも、どうでもいい」

 

「恋、人の生命に軽重はないんだよ?」

 

もっともらしい親らしく、李師はよっぽど理論的常識と心情的常識を完備している娘に講釈を垂れる。

そんなことはわかり切った末に呂布が結論を出していることはわかっているが、親としてはそうやすやすとその認識を認めるわけにもいかなかった。

 

「なら、嬰は単経を救う為に恋が犠牲になっても、いい?」

 

「いや、それは、ほら。そう言うことではなくてだね」

 

「……生命に軽重はないのは、一般論。でも、一般論は矛盾する。

嬰は間違ってない。だけど、恋も間違ってない」

 

人は生命に軽重はないと言う。だが、私人レベルから見ても見ず知らずの他人よりも己の友や妻の生命を優先させるだろう。

さらに、彼の生きている戦争という現実においては有用な指揮官の生命は一斤の黄金よりも貴重であり、兵の命は石ころほどの価値しかない。

 

認めたくないそれを理解しているからこその言葉だが、平時は理想を、戦争では現実をと言うように理想と現実の狭間で悩みながら生きている李師とは違い、呂布は本質と現実に生きていた。

李師の理想家、と言うよりは現実を見過ぎた為に理想に傾きがちな思考を呂布は好ましく思っていたが、時としてその齟齬を突く。

 

意地が悪いというより、理想は現実にならないから理想だ、と言うことを理解した方がいっそのこと楽であることをわかっていたからこその親切だと言えた。

 

「嬰。現実を見て、厭という程に認識しながら理想を夢見るのは、生き難い」

 

「……娘にまでそれを言われる私は何なんだろうね」

 

「……夢想家。それか、矛盾人」

 

「ご尤も」

 

自分の背もたれになりながらも天に聳える二本の触覚を潰しては手を離し、元に戻った触覚を潰しては手を離し、ということを繰り返している男に『楽な生き方』ということを勧める娘は、半ば諦めていた。

 

この男、何故か口では楽をしたいといいながら茨の道に突っ込んでいくような性格をしている。

 

方向音痴もここに極まれり、だった。


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