北の盾たる己が身を 作:黒頭巾
「先ず、敵はこちらの作戦を完全に読むことはできない」
「ほぉ、断言なされますか」
曹操軍は十万を越すが、工兵という情報収集・破壊工作・陣地建設の専門家は居ない。この時の諸侯にすべからく言えることだが、工兵という概念そのものに乏しい。
寧ろ、騎馬民族との戦いで設営と柵の構築の鈍さに危機感を覚えた彼が創設した新兵科であるため、どこからどこまでをやるのかという区画もちゃんと定まってはいなかった。
本来は定めるべきなのだろう。しかし、彼が戦いの最中に工兵という概念を創ってそれを大いに使い、結果として野戦築城と守城戦の末に、敵の盟主である檀石槐が腹に折れた槍の穂先か矢かなんかを喰らって戦死。
残る六人の指揮官の内、個性的な面々の調整役を務めていた魁頭に全戦力を叩きつけた挙句に一点集中射撃で戦死に追い込み、その軍を四散させ、離間の策をバラ撒いて分裂させることでやっと終わった。
そして兵科を整理しようと思ったら宦官に『戦果を報告せよ』と言うことで都に出頭するようにと呼び出されて牢に叩き込まれたのである。
結果的に、彼は助かった。
副将として共に赴任していた司馬防が偽の襲撃を報ずることで釈放に追い込み、結果として官職を奪われた末に『都に近づくことを禁ずる』という有り難い褒美付きで、 一市民となった彼は娑婆に出れたのだ。
司馬防は彼の祖母と親交のあった―――と言うよりは一方的に李膺を慕っていた人物であり、その彼女の孫が利用された挙句にむざむざ殺されるなどという結末を迎えることを看過し得なかったのであろう。
尤もその善意の八割は、彼の挙げた業績が軍事面でも傑出した才能を示していた李膺を思わせるものだったからこそだった。
要は、祖母の威光である。そもそも彼が李膺と縁も何もない存在だったならば司馬防は洛陽令と言う重職を蹴ってまで副将として赴任しようとはしなかったろう。
司馬防はこの後、彼の目前の敵である曹操を北部尉に推挙。その名声を築く礎となったのだから、そこには少し面白味があった。
彼女は八人の子を遺したが、二年前に没している。
その死は李膺からはじまった旧時代の終わりを告げるようであった、らしい。
己の親の死をも文学的感受性に富んだ表現で捉えたのは、どこかの誰かに似通った気風を持つ次女だった。
他の姉妹たちが曹操のもとに出仕しても一人孤立を楽しむような風も、どこかの誰かに似ている。
まあ、即ち働かない、穀潰しの類いなのだ。
ともかく、彼の罷免と同時に工兵という兵科は解体され、彼が率いていた軍は再び編成し直されてから各地に飛ばされた。
その為の時間がある訳もなく、彼が使っていた工兵部隊の長の娘である周泰が馳せ参じた後も『諜報活動・破壊工作・情報工作・建設』など多岐に渡る使い方をされている。
つまりその改革を途上で叩き斬られた彼の工兵に対しての認識は『戦争の事前でとにかく役に立つ』というものでしかなかった。というよりも、そうでしかなかった。
尤も、彼の一口で言う工兵部隊も、既に諜報と建設の二つに管轄を分けているのだが。
「敵には正確な情報が無いんだ。これを得る為には、仕掛けてくるより他にない。
曹兗州殿が如何に戦に強くても、知りもしないことを何の証拠もなしに察知し、信ずることはできない。こればっかりは、言い切れる」
情報と言うものを天下の諸侯や将帥の中でも最も重視している将である李師には、一つの信条と言うものがあった。
『正確な判断は正確な情報と正確な分析の上にのみ成り立つ』というものである。
これは信条ではあるが、非現実的な存在を除けば極めて現実に近い信条だと言える。
つまるところ未来を知っていない限りは、情報の欠損が彼の策の全容を理解することを阻むことは疑いが無かった。
「では、こちらとしては最初の一撃で主導権を握り、そのまま渡すことなく二日目に持ち込む、と?」
眠たげな目を僅かに開きながら、張郃は問う。
大軍相手に、それも曹操軍相手に主導権を握ることの困難さと、それを維持する苦難を、彼女は身に沁みて知っていた。
「いや、一撃を加えた後は貸してしまう。要塞が動くならばともかくとして、今のところは唯一の手札である華雄・淳于瓊の両隊をそう軽々に、つまるところは主導権の維持の為に使う訳にはいかない」
「ほな、一日目は後手後手に回るんか?」
後の先を取ってひたすら敵を翻弄する李師の戦のスタイルが気に入りつつある彼女としては、それは些か面白くない。
しかし、面白くないからといって異論を述べるほど近視眼でもなく、放置するほど諦めは良くない。
結果として、このような問いかけにとどまったのである。
「いや、そう決まったわけではない。一日目に食い止め、二日目に攻める。そして膠着状態に持ち込み、防衛出来るだけの守備隊を残して敵の別働隊を待ち構える。これが基本構想だけど、必要になったらまた借りる。戦は生き物だし、思わぬ好機があるかもしれないからね」
「簡単に仰るものですなぁ……」
趙雲の言い草には、額面通りの呆れとその呆れ以上の高揚が含まれていた。
何だかんだで、この男も不敵である。そのような見ていて面白いところ認識するのが、彼女の楽しみだった。
「実際のところ、主導権を握ることに固執すれば攻め手に柔軟性を欠くんだ。私にしても、主導権を握り続けているのではなく、こう……」
夏侯淵からなんとなく貰ってから愛用の品になりつつある硝子の杯を持ち上げ、李師は静かに卓上に置く。
李師自身の手が届くか届かないかの範囲に置かれた硝子の杯は、横から差す日光に照らされてキラキラと燦めいていた。
「私が手を伸ばせばギリギリ届き、敵は無理して手を伸ばさなければならないところに置いているのさ。
迎撃が主なこちらとしては、一度取ってしまえば取ろうとして近づいてくる相手を見つけることが出来るし、対処もできる。無理して手を伸ばしたならば、その手を斬ってやることもできるわけだ」
「まぁた、心理的な罠ですか」
「そうだね。まあ兎に角、継続しなければ即座に崩壊する防衛側と違い、敵は攻撃側だ。一息つくこともあるし、息をつかずに攻めると言っても攻撃部隊と後備えとの入れ替えもある。いくらでも取り返すことは出来るさ」
机の方から外の光景を見る姿勢に切り替え、それと時を同じくして彼はすぐさま頭を戦闘用に切り替える。
易京要塞攻防戦は、李師の目の前で開始されようとしていた。
「攻城兵器は重い。人と人とが足並みを揃えて進むようにはいかないものだが……見事なものだな。殆ど直線に進んできている」
「……敵、床弩及び強弩群の射程内に入りました!」
のんきな感想を呟く彼を追い立てる様に、伝令が望楼へと敵の行動の経過を伝える。
一つ頷いた彼が指定したのは、地を揺らして進む五機の雲梯の内の右から三番目の一機と五番目の一機。
僅かに突出してしまっていることが、彼の目には映っていた。
「敵の最東の雲梯から数えて三番目と、五番目の雲梯に床弩を撃ち込んでくれ」
「南門に備え付けられた床弩は二門です。それを同時に使用なされるのですか?」
「威嚇には丁度いいさ」
その一言で、要塞はようやくその機能を発動し始めた。
床弩が動き、狙いを定める。
後は司令官の命令を待つだけというところで、李師は語気を荒らげずに命令を下した。
「撃て」
床弩から放たれた二本の矢が雲梯の折り畳まれた梯子部分を貫き止まり、その機能を停止させる。
これに驚いたのはその三番目と五番目の雲梯を護衛していた兵たちであろう。
彼等彼女等は一先ず突き立った矢の重みで中程から圧し折れそうになっている雲梯から避難せねばならなかった。
「この床弩など、本当によく作れたものだな」
「まあ、春秋戦国時代の末期には魏で攻城兵器として使われていたとか。その事実を踏まえれば、あながちおかしくはありますまい」
「それを吾々は魏一帯を本拠とする敵に、守城兵器として使っているわけだ。この世には鮮やかな皮肉が多いものだね」
少し後ろを向きながら話す彼を、再び伝令が急かすように飛び込んできて中断させる。
「次発装填、完了!」
「目標は二番目、四番目。撃て」
敵のそれが一般的な雲梯の二倍の速度を持っていようが、七機までなら取り付くまでに確実に破壊できるという理論値が出ているが、やはり実戦となると遅れが出ていた。
実際に敵の雲梯は二倍には達していなくとも速かったし、守り側は僅かな焦りもあって遅かったのである。
「はぁ、費用が……」
発射される度に一機が破壊され、兵たちが下で歓声を上げる中で賈駆はそう呟いた。
一発ごとに消費される矢にかかる費用を考えれば、彼女は無邪気に喜んでいる気にもなれなかったのである。
「あと何発残っています?」
五機を完全に破壊した後に、李師は溜息を五回ほどついた賈駆を呼び出して、何故か敬語でそう問うた。
戦いが始まる前の期間、即ち補給やら装備の更新や補填やらで奔走していた時ならばともかく、今となっては補給を総括しているの彼女を呼び出しても問題はないと考えたのである。
「ここにはあと四発。東西北の床弩のものを含めれば、二十七発残ってる。北門の物は運搬してきているから、まだ焦らないでいいわ」
「費用的には、どうでしょうか」
「赤字よ。当たり前じゃない。だけど、この床弩は維持費も使用費も馬鹿にならないんだから、この機に大いに使いなさいよ。遠慮してもどうせどこかに消費期限がきて、廃棄することになるんだから」
現に一本が消費期限が来て廃棄、そこから学んで消費期限が近い計十七本を試射として試させているから、彼女の言は極めて真っ当だった。
維持費も馬鹿にならないくせに役に立たないより、維持費も使用費も馬鹿にならないが役に立つ方が運営者としてはいくらか気が楽なのである。
経営は楽にならないが。
「まあ、敵のほうが赤字であることだけは確かでしょう。何せ改良されたらしい雲梯の第一陣が全滅したのですからな」
「あのね。運営は赤字競争じゃないの。黒字競争なのよ。わかる?」
「ごもっともで」
カツカツの運営をしている彼女からすれば、低税率で一国と戦うということ自体が馬鹿げている。
経済規模も違うし、税率もあちらの方が高い。故に得られる税収などは天と地ほどの差があり、その限られた中で国境守備という広い地域の軍備と経済を回さねばならない。
経済から見ても勝ち目が無いのが、曹操の戦略が壮大さと緻密さとを共存させている良い証左だった。
「敵、雲梯の残骸を自軍の脇に寄せて梯子を持ち出してきました。正攻法に切り替える模様」
「数は?」
「凡そ五万。旗は諸葛、毌丘、李、于。左翼部隊・右翼部隊から二軍団を差し向けたものと思われます!」
「射程内に入ったのは?」
「毌丘の旗の将があと僅かで射程内に入ります」
先程とは違う伝令の報告を聴き、李師は田予の方へと振り向く。
一つ頷いた田予に頷きを返し、彼は再び前を向いた。
「副司令官、強弩群に連絡。毌丘の旗に、射線を集中せよ」
「報告が入ってきた時からはじめ、既に終えております」
「では、初使用だ。どこまで使えるかはわからないが、やってみようか」
城側から見て右側、即ち西側から攻めかかり、順次攻め上げて数で押す。
攻城戦というものが基本的に無機物を有機物で突破する形を取る以上は、この手法が一般的なものだった。
「狙点、固定」
「撃て!」
城壁上部に開いた総数一万に登る僅かな孔の内、最東に設置された二千の孔以外の八千の孔から、八千の矢が弩から撃ち下ろされる。
それは、恐らくと言う言葉をつけなくとも、この時代の最大の効率的な殺傷力を持った強弩群が、その力を発揮した瞬間だった。