北の盾たる己が身を 作:黒頭巾
「これは、壮観ですなぁ」
「できれば二度と見たくは無かったけどね」
眼下に広がる人の群れ。易京道に収まりきらないほどの軍が、整然と陣を整え始めていた。
趙雲はこれほどの数の人を見るのは初めてであり、李師はかれこれこれで三回目。
一回目は易京要塞司令官兼征北将軍として、二回目は援軍の将として。
そして三回目の今は、再び易京要塞司令官としてである。
「今度は潰す、と言う確固たる意志が感じられるの思いますが、主は如何です?」
「奇遇だね。私もそう見えるよ」
公孫瓚を見捨てることはできない。部下を見捨てて俗世の生活に逃げることもできない。
己の引退願望と周りのしがらみが恐ろしい程に噛み合っていない彼は、静かにため息をついた。
「今まで私は往生際悪く敗けなかったが、今度こそ不敗の名を返上することになりそうだ」
自覚のある
往生際の悪さほど質の悪いものはない。
どこかの誰かがそう言っていたな、と思いつつ、趙雲は頭に載せた純白の帽子を外す。
普段は全体を現すことのない青色の頭髪が日に照らされ、サファイアのようにつややかに光った。
流石は自他共に認める美人、といったところであろう。戦争などという身体に悪いことしかしていないのに、その美貌は衰えることを知らない。
「まあ、それはともかくとして。私は思うのですが、ここで勝ってしまえば、敵は求心力を失うのではありませんか?
そこに吾らが乗り込み、占領してしまえば天下を狙うことも叶いましょう」
「戦に敗けたからと言って離反するのは豪族であって民ではない。民が権力者に反抗するには身近で別な権力者が必要なんだ。現に袁紹は敗けたが、離反したのは豪族であって民ではなかっただろう?」
現に一部の民は未だに袁家の治世を懐かしんでいた。尤もそれは、袁家直轄領の民のみと言う、面積にすれば僅かな者達だが。
「……なるほど、そういった報告が上がっておりましたな」
「要は、民は利に聡くないのさ。どこかの誰か等と違ってね」
敵のほうが味方よりはるかにマシという異常事態を毛程も異常と思わない李師の発言に頷きを返し、趙雲はパタパタと帽子で胸元を扇ぎながら口を開く。
「となると、公孫伯圭殿は果たして無事で居られますかな?」
「正直、そこまで面倒は見切れない。私は超人ではないし神ではないから、この局面をどうにかするだけで精一杯なのさ」
戦の巧さと予測建ての巧みさを見ると勘違いしてしまいがちだが、彼はこれでも人間だった。
これまで起こしてきた『異常なこと』は自分よりも相手が多くミスを犯してくれたからこそ為せたことであり、自分の力などそのミスを可能な限り無くし、相手のミスを誘う程度のものでしかない。
そのことを、彼は誰よりも知っている。
「それにしても、隠居をしにお逃げにならないので?」
明らかにからかいの色を含んだ問いに眉一つ動かさず、李師は手に持っていた己の帽子で城壁を三度叩いた。
何かを祓ったような、そうでもないような。意味があるのかないのかわからない動作である。
「俗世に出るとしがらみがあっていけない。ここ何年かで私を頼り、命を預けてくれる人間が何人もできた。私が望んだことではないにせよ、私としては一旦これを背負った以上は軽々と投げ出す訳にはいかないんでね」
「部下と、上司。見捨てて逃げることができるほど、目的にひたすら邁進することのできる、まことに素晴らしい人格者ではなかったわけですか」
恥も外聞もなく目的にひたすら邁進することのできる人間を素晴らしい人格者と言う辺り、趙雲の奇妙な心情が伺えた。
元々彼女も根っこでは善人であるから、この在り方は好ましい。しかし、だからこそ後手後手に回るのだろうという気もする。
何にせよ、趙雲としては『責任と義務の人』と化した彼を支えるのが仕事であった。
例えその頭に『必要最低限な』が付くとは言えども。
「可能な限りで最善を尽くすのが私の人格さ。逃げればいいと人は言うが、後悔の種をばら撒きながら逃げるようなことはしたくはない」
「わかっておりますとも」
右手で帽子を持ったまま恭しく一礼し、趙雲はさらさらとその場を辞す。
彼女も暇してるわけではない。いつもにしても今にしても、どうにか暇を作って皮肉を叩きに来ただけなのだ。
「どうにかして攻城兵器を破壊し、予め伏せておいた二隊を使って射程内に引きずり込んで出血を強い、陥ちないという印象を決定づける。その後に別働隊を撃破し、六対四の硬直状態に持ち込み、条件を呑ませる。言うだけなら簡単なもんだよ、全く……」
後頭部をポリポリと掻きながら、眼下に広がる敵を見据える。
今居る城壁の一画には所謂司令部はなく、ここに来たのはただの趣味だった。
敵軍を、間近で見たかったのである。
「……帰るか」
そう言って身を翻した瞬間、身を凭れかけていた城壁の出っ張りに矢が突き立った。
誰のものであるかは言うまでもない。
「こんなことを出来るのは天下にも五人と居ないんだろうしねぇ……」
それにしても、この辛うじて旗と幕舎が見える程度の距離から目標を寸分違わず射抜くなど大したものだと思う。
「恋と、黄漢升と、黄公覆と、あとは妙才と。この世には人材が溢れていることだ」
矢に籠められた意味をチラリとそちらに目をやった後に判断し、李師は少し笑った。
お互い死ぬことなど考えていないのか、或いは死に場所を他に定めているのか。
戦う前に『迂闊な行動をするな』とは。
(殺す気はないが、流れ矢での戦死ということも有り得る、か)
できるならば生け捕りにしたいが、それは行き過ぎというものだろう。
できるとも、思えない。
最善を尽くしても最善の結果には届かないとなると、次善で留めるより他にはない。
「さぁ、やるとしようか」
望楼に登り、李師はいつもの如く姿勢悪く座った。
最善を尽くすならば、拘っている余裕もない。
「作戦を一部変更。一日で膠着状態に持ち込む」
「では、一日目から既に西門より華雄・呂布の両将を出撃させますか?」
破壊力抜群の二人を組ませて、一局面の優位を得る。一局面の優位から全戦線の優位を得て、戦いをこちらのペースにのせる。それが彼の大雑把な作戦構想だった。
「いや。華雄と淳于仲簡を西に回し、張儁乂を左翼、張文遠を右翼に」
「では、やはり右翼方面から崩すおつもりですか?」
両張と呼ばれ、双璧とでも言うべき張郃と張遼。どちらも万能に攻防そつなくこなせる名将だが、前者が防御寄りであり、後者が攻撃寄りだと言える。
作戦構想の細部のみを変え、外枠は変えない。それが今回の戦闘における彼のスタンスであることを、田予は静かに問い質した。
答えとしては、彼の茶目っ気たっぷりなウインクと少し笑うような一言が返ってくる。
「そういう体を取る」
「わかりました。配置を組み直します」
「頼むよ」
さらさらと小刀と毛筆で竹簡に何事かを書き、周囲に待機している伝令に伝えた。
この一動作で正確に機能する管理システムを維持し、運用できるのがこの田予という高級軍人を思わせる名人芸の持ち主の名人たる所以であろう。
極めて有能ながらどこか地味だが、決して欠かすことはできない存在だった。
「さて、どうくる」
一つの長方形の机の左側面に田予、趙雲、呂布。右側面に張郃、張遼、麴義が並んで座っている。
その左側面と右側面に挟まれた狭い一辺に面するように置かれた椅子に、李師は姿勢悪く座りながらそうこぼした。
そこに周泰が駆け込んできたのは、西暦189年5月13日のことである。
「報告。敵、衝車と雲梯を後方より持ち出して来ました。恐らくは攻城にかかるものと思われます」
「ほぉ、手早いな」
着陣して二日目。早々に攻城戦を開始するというところに、敵の意気の上がりようが伺えた。
「どうなさいますか?」
「引き付けて撃つ。今回の戦いの前半は、これに尽きる」
「では、一点集中射撃の用意を致しますが、よろしいでしょうか?」
「ああ、頼む」
司令官と副司令官、立案者と実行者。頭と脚。
「やけに会話が弾んでおりますなぁ、あの二人は」
そういう関係である二人の会話が常よりも多いことを目敏く察知した趙雲が、正面の麴義に話し掛ける。
麴義もまた、無用な緊張とは無縁な人物である。すぐさまそれに気づき、誰かが反応するのを待っていた。
「副司令官は張り切っておられる。ワタシなどの持ち場の入れ替えにしろ、常に無い精度と迅速さだったからな」
「そこの二人」
呂布の後方に控えていた高順にピシッと釘を刺され、趙雲と麴義は押し黙る。
どうにもやりにくい相手というのが誰にでもいるものだが、この二人にとっては高順がそれだった。
「えー、吾々は戦略的には既に敗けている。更には常に受け身であり、城に篭ってしまった以上は主導権はあちらにある。何もかも負けているという認識を持っている将らも、居るだろう。しかし、勝っている点もある」
「それは?」
「情報、さ」
易京要塞攻防戦と言われる戦いは、この一言から始まった。