北の盾たる己が身を   作:黒頭巾

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易京の戦い・前哨戦(参)

「報告が遅いな」

 

「そうですね」

 

武将としての仕事よりも、督軍として全軍の管理や調整を担当するようになった典韋が相槌を打つ。

典韋としては、鍾会を常日頃から懐疑的な眼で見ていた。

 

確かに優れた能力を持っているが、欲が深い。更にはその欲を元にして道を誤りかねないところがある。

 

尤も彼女は能力的にも人格的にも批判を受けることが極めて稀という一流の武将だった為、未だ一軍の指揮を副官としてしか執っていない彼女はその辺りついて夏侯淵に話してはいなかった。

 

自分から見て可能性があるからと疑って掛かるのは、冤罪と何ら変わらない。

更にはそれを元に上官に注意を喚起しようものならば、それは誣告や讒言そのものではないかと、思う。

 

「仕事熱心な方ですから、兵の訓練に専念しすぎているのでは?」

 

「それにしても、だ。一日中訓練するわけにも、いくまい。これは何かあったと考えるべきではないか」

 

「李家軍が仕掛けてきたという可能性は、こと立地的には考慮に入れられますが……」

 

李師は無言で殴り掛かるほど好戦的ではない。一発殴ろうとして拳を振りかぶれば、それより遥かに重い一発を顎に喰らうことは覚悟せねばならないが、それもこちらが死んだり再起不能になるほどのものではなく、その場から逃げなければならない程度な威力でしかない。

 

つまるところ敵は、攻撃的な性格ではなかった。

 

「あっても、逆だろう」

 

「逆、とは?」

 

「あの魔術師殿が鍾士季の前に、小勢で現れたら奴は辛抱が利くかということだ。奴ならば、その不敗神話に己が終止符を打とうと、するのではないか」

 

容易に想像がつきかねない光景に頷こうとした己を掣肘し、典韋は敢えて敬愛する上官に異を唱える。

何でもはいはいと頷くだけでなく、異なる視線を提供することが必要だと、典韋は李師と夏侯淵の会話を耳に挟んで身に刻んだ。

 

「ですが向こうは豪族の連合体。誰かが偶然出会し、結果的に戦闘になったとも、考えることができるのではないでしょうか?」

 

「それもそうだ。しかし吾々としてはどちらにせよ、やることは一つしかないわけだ」

 

「敵との戦闘が開始されたことが杞憂であれ、定期連絡の遅延についての詰問に来たということで名目も立ちます。秋蘭様が直々に赴かれますか?」

 

「覇を行かせる手もあるが、対抗心を燃やしている相手に対抗心を燃やしている相手を説得役としてぶつける程、人事的な失態はあるまい。私が行くしかないだろうな」

 

軽く首を回して身体をほぐし、夏侯淵は都督となって以来お世話になりっぱなしの椅子から腰を上げる。

 

「供回りの二百騎を私が率い、後続として覇と威の一万。それでいい」

 

「ですがそれでは、即応的な援軍としては不適当なのではありませんか?」

 

「功を焦って突撃してくるような思慮の浅い豪族ならば、鍾士季の敵ではない。そして、李師が相手ならば引きずり込まれて敗けている。私の役割は一刻も速く『夏侯淵が来た』という報を仲珞の耳に届けて追撃を断念させることであって、大軍を以って決戦を行うことではない」

 

保身には無関心だし、平和に溶けて埋もれてしまいそうな性格をした男だが、確実にこちらに対して諜報の網を張っている。恐らくはこの武遂付近に、周泰自身が居るのではないか。

 

「出陣の場面だけを見せ、十里程一万と二百を率いて進む。敵の諜報員は必ず、一刻も速く伝えようとするはずだ」

 

情報は鮮度が命。より速く届ければ届けるほどその正確さは減衰することがなく、対策も立てやすい。

周泰率いる隠密はおそらく天下で一二を争う情報収集能力を持っていた。

 

「一人で進むより、大軍であった方が行軍速度は鈍い。確実に十里も進めば、吾々は越される。あとは、二百騎を率いて救援に赴く。正しかった報せを偽情報に変えてやれば、仲珞とて察知できんさ。

何せ、人間らしいからな」

 

「李師殿が察知でき、対抗してきたらどうなります?」

 

言い出したらキリがない。しかし、そう軽々と笑い飛ばすこともできない。

心理戦にかけては他の追随を許さない敵と読み合いをするとは、無明の闇を探り、複数の扉から正解のものを探し当てるほどの困難さを伴う。

 

だが、李師は言っていた。『正しい判断は正しい情報と、正しい分析の上にのみ成り立つ』、と。

 

彼はその情報を周泰という人材を駆使して収集し、断片から全容を復元してのける優れた分析力で以って常に隙のない正確な判断をする。

 

「人間の前に自称を付けてやるさ」

 

そう言い切ったものの、内心ではやはり不安があった。

彼は異常な先読みの深さを持つくせに、『知っている範囲しか知らないさ』と言っていたが、それは人間である以上は当然のことである。

 

彼の真に異常なところ、その根幹は知っている範囲に対する読みと解析の深みが誰よりも深く、そして細やかなこと。

別にわからないことを何もない状態から予想できる超能力を持っているわけでは、ない。

 

「ですが……」

 

しかし、出陣の場面だけを見せると言っても情報の断片を見せることに変わりはなかった。

もし万が一、行軍速度や夏侯淵の気性からそう読んだとしたら。

 

殺しはすまいが、捕虜にはする。いや、捕虜にするなどと言う不名誉を夏侯淵が望むまいと正確な分析をした李師は、それを大兵で以って討ち滅ぼすだろう。

 

典韋のともすれば疑心暗鬼めいた心配はそこにあった。

 

「流琉」

 

「は、はい!」

 

典韋が補佐官として着任した時は鋭利な刃の如き智性に彩られていた柘榴石の瞳には、嘗てとは幾分か違った丸みを帯びた智性が宿っている。

人は変わるの具体例のような眼差しが、典韋に向けられていた。

 

不器用ながら包み込むような優しさは変わらないが、その温度が変わっている。

 

「確かに私は武将として戦う分には間違っている。しかし、奴は武将ではない。特有の誇りも元から持ち合わせていない、当代きっての心理戦の巧者だ」

 

「だから秋蘭様も一個人として相対する、と言うことですか?」

 

「武将は戦う時、将の思考とそれに従って為される動きをこそ見ている。向こうは敵味方の将兵の心理的変貌を見ている。つまりは土俵が違うと言えるだろう」

 

それに気づかなければ土俵に上がれず向こうに不戦勝をくれてやることになるし、土俵に上がっても新米と巧者の戦いとなることは明白だった。

 

「まぁ、こんなことは二度とやらないさ。こんな戦い方は所謂邪道で、彼はともかく私が二度やるべきことではない」

 

やれるとも、思えない。

弱気を見せるわけにはいかない以上は発声するわけにはいかなかった言葉を飲み込む。

これは奇を衒っただけで、一度やれば二度は使えない。向こうも二度目は計算に入れてくることは間違いは無かった。

 

「それに、鍾士季殿が勝っていないとも、限りませんし」

 

「仲珞が小才子に敗けるほどには有り得ることだな。どちらがより有り得るか、賭けてみてもいいぞ?」

 

別段悪意はないが、当人が居れば顔を紅潮させて怒る程の辛辣な皮肉を漏らし、夏侯淵は総勢一万二百の軍を率いて出陣する。

一万というのが、一日中で高陽の鍾会に辿り着くことができるかできないかを彷徨うギリギリの数だった。

 

尤も、途中からは二百騎で向かうから半日ほどは短縮することは可能だろう。

 

この頃鍾会は軽騎兵で李師が指揮を執る趙雲隊を捕捉、未完成の機動防御に悩まされようとしていた。

つまり、夏侯淵が如何に速かろうが高陽に到着することができるのは半日後。即ち、張郃と淳于瓊と華雄から、李師を討ち取れるとウキウキしていた横っ面を殴られ、鄚より南方五十二里の辺りで潰走している時である。

 

そんな具体的なことは神ではない夏侯淵には知りようがないが、彼女には確信があった。

鍾会は敗けているという、確信が。

 

 

一方。半日後。

本来ならば高陽に居るべき鍾会が居らず、夏侯淵が舌打ちをしながら足跡を辿って急進していた頃。

 

鍾会隊は追撃、優勢からいきなり三方から挟まれて数の差を覆され、劣勢から壊滅へ急落しつつある。

 

「どこまでやりますか?」

 

「さあね。手を出してきたら死ぬとわからせることも有りだし、逃がしてやるのも有りといえば有りだ。取り敢えず、今のところ私という窮鼠は猫を噛むことにするさ」

 

右翼は極端な近接戦闘に付随する乱戦によって戦況の優位化を得意とする張郃の手によって乱戦状態となり、鍾会の手からは離れてしまっていた。

左翼は豪胆且つ粘り強い用兵を持つ淳于瓊に面で圧され、点で貫かれている。

 

中央部は遠距離から弩を撃つに留まっているが、これが中々に曲者だった。

要は、態と退却できるようにしてやっていたのである。

 

無論、退いたら後ろから類稀なる破壊力を有す華雄隊が嬉々として猛追することは疑いがない。

 

「あくまでも敵には物理的な圧迫を与えることを避け、心理的に壊滅か全滅かの二択を強いる。更には心理的圧迫を加えて判断能力を低下させ、敵の抗戦能力を削ぐ。敵の優秀さはその敏活な指揮ぶりにあるわけだから、それを封じてしまえばいい」

 

「自由選択権が却って、向こうに対する威圧と敵指揮官の混乱を生むということでしょうか?」

 

意外と冷静なところもある突撃専門の戦略予備隊の将帥の言葉に頷きつつ、李師は姿勢悪く座ったままに戦局を見た。

 

「まぁ、そうだね。人は得てして単一の決断を強いられるより、複数から選択する方が困難なものさ。それが、人の命がかかった物ならば尚更だ」

 

「李師様はどちらをお望みでしょうか?」

 

「私は三番目かな」

 

聴いた中には無かった選択肢に頭を傾げ、華雄は反射的に疑問を投げる。

 

「三番目?」

 

「敵の降伏だよ。そうすればこれ以上戦わずに済むし、第一、楽でいい」

 

左翼は圧され、右翼はコントロール不能。中央部は最悪の二者択一。

 

鍾会の頭は、処理落ち寸前になっていた。

 

「退けば右翼が取り残され、左翼は反転した瞬間に頭を叩かれて壊滅。中央部は華雄に潰される。かと言って、進めば全滅……」

 

完全に敵将の管制下に置かれた戦況を見やり、鍾会はあまりにも悪辣な心理攻撃にぼそりと呟く。

 

「卑劣な……」

 

「それには同意致しますが、そんなことを言っている場合ではありません。どうなさいますか?」

 

「援軍の宛もない。退却を選ぶしかない、が」

 

目前の敵は守勢に巧みな趙雲ではなく、攻勢に苛烈で守勢に粘りがない華雄。

ここは後退しての退却を選ぶよりも中央部を突破し、前進して敵から逃れるべきではないか。

 

絶妙としか言えない李師の『華雄隊は射撃に徹すること』という守勢、或いは消極的攻勢に類する命令が鍾会の判断能力を更に低下させていた。

 

(これは寧ろ好機なのではないか。前進して中央部を突破し、この追撃の目的を貫徹すれば勝利を得られるかも、しれん。少なくとも後退するよりは勝ち目がある)

 

伏兵に脅かされて守勢となってしまったが、再び攻勢に転じれば勝てる。

いや、可能性がある。

 

「……総員、後退」

 

「はっ」

 

だが、彼女はこの可能性を蹴った。この可能性という名の悪魔に踊らされ続けて追撃させられた結果が、これではないか。そういう気持ちが、彼女にはあったのである。

 

この判断は、すぐさま敵たる李師にも伝わった。

 

「敵、後退します。如何なされますか?」

 

「儁乂と淳于仲簡にはそのまま両翼を討つようにと。華雄は追撃して敵の背後を討て」

 

「はっ」

 

僅直に命令を受領し、この一年の平和の中で幾分か理性的になった彼の腹心たる将帥は瞬く間に目の前の敵に喰らいつく。

そのまま蹴散らすように猛追していく華雄と入れ替わりに、僅かも息を切らしていない周泰が駆け込んだ。

 

百里近くを走破してきたとは思えない程の整然とした調子に驚く李師を視界に入れて少し首を傾げ、彼女はさっと跪いて頭を垂れる。

 

報告時の定形であった。

 

「北方都督夏侯淵が武遂より出陣しました。数、およそ一万」

 

「流石妙才、機敏だ。敵は援軍を頼んでいるようには見えなかったが……擬態だったのかな?」

 

「いえ、連絡がないことに不審を抱いたからこその征旅であると思われます」

 

少し考え、李師はすぐさま決断する。

迷っている必要などないし、威嚇に注力する必要もない。だが、疑問点が一つあった。

 

それを問い質そうとした瞬間、さらなる急報が李師の元へと舞い込む。

 

砂塵を見ただけであるらしいから信憑性をもつ具体的な数はないが、所属不明の五千ほどの一軍が前方五里にまで迫ってきているという報であった。

 

「明命、敵はどの兵科が中心だった?」

 

「弩兵と歩兵です」

 

「……よし、退こう。華雄隊にも伝達を」

 

おそらく妙才は少数の騎兵を以って迅速に到来。援軍の存在を敵に告げ、背後にある大兵力を以ってこちらを威嚇。己が情報からの推理の最悪に備える癖を利用し、撤退させようと考えていることだろう。

 

見事なものだと素直に思った。

 

(無用な犠牲を好まない私では、希望的観測で攻撃を続行しないと見たか)

 

この騎兵と後続との切り離しも、証拠なき予想に過ぎない。夏侯淵の心理を把握するには、それなりの用意と精密な情報が要る。

そして、今手元にある情報では『妙才ならばギリギリできなくもない』と判断できてしまった。

 

更には、このまま雪崩込むように夏侯淵と戦ってしまっては易京の二万近くという膨大な遊兵を作ったまま戦うことになる。

それは用兵上、非常によろしくないことだった。

 

「華雄隊を収容し次第、易京へ帰城することでよろしいでしょうか」

 

「副司令官のよろしいように」

 

最後の最後で一杯食わされたような気分になりつつ、李師は帽子を顔に乗せて日光を遮る。

これからはそう簡単に勝ちをつかめないであろうことを、彼は肌身に感じていた。

 


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