北の盾たる己が身を 作:黒頭巾
「敵、張邈隊一万の軍勢は、辰の刻方向からこちらに向かって一路南下しつつ有り。敵中陣までの距離は二十里、接触予定は二刻後になると思われます」
「ご苦労様、明命。あとは休んでおくように」
「はっ」
僅直に頭を下げ、明命と呼ばれた黒髪の少女はその場を辞そうと試みる。
実戦となると何もできないのが歯痒くはあったが、彼女も、彼女の父が姉と共に働きを幾度も第一の功として激賞されたこと知っている身。
不満はないが、無念があると言うのが本音だった。
「どうしたんだい?」
「私に兵を率いて―――いえ、一兵卒でも構いません。戦いに加わることをお赦しいただけませんか?」
天下無双の天然無口、戦術能力に秀でた酔狂な皮肉好き、職人のような寡黙さを持つ歩く地形図、虎か猪なのに借りてきた猫のようになってしまう突撃騎兵。
家族めいた緩さのある己の周りに集まった個性豊かな面々にはない、純粋なまでの生真面目さと竹を割ったようなハキハキとした溌剌さが彼女にはある。
呂布はおそらく本人としては真面目だが、時折とてつもなく抜けているような所があるので彼の中での真面目には該当していない。
(今回、親衛騎の出番はない予定なんだが……)
好意を無碍にするのも、よろしく無い。
ならば、答えを誤魔化して話題転換。それしかなかった。
「明命。君はもう少し私から学ぶべきだな」
「それは、何をでしょうか!」
聴き用によっては酷い言い草に聞こえるが、その持ち前のハキハキとした物言いから溢れる彼女の生真面目さと純粋さがそれを中和していた。
その純真さに眩しい物を感じつつ、彼は指を一本立てながら軽い語調を崩さずに言った。
「それは、適度に怠けるということさ」
「むむっ」
ぺたりと布一枚敷いただけの石で凸凹とした地面に正座で座るという地味に凄まじい芸当を見せている周泰の生真面目さを親の如き視線で慈しみつつ、李師は彼女の父である周安が聴いたら無言で娘の耳を塞ぐような、極めて余計なことを言い出している。
隠密にも気分転換による集中の精度の濃密化が必要だという論法からすれば、強ち間違っていないのだが。
「君の亡くなった父上―――灯命からは学ばなかっただろう?」
「はい、初耳です!」
亡父と四人の姉からただのその武勇伝めいた伝説を聞かされてきた年の離れた五女、末妹こと周泰は尊敬に目を輝かせながら全身を耳にするような拝聴ぶりで耳を傾けた。
因みに言うまでもないが、灯命とは彼女の父の真名である。
周家の真名には光と関係する一文字に、『いのち』であることは、彼の中では周知の事実だった。
国は違うが、周一族の真名に必ず付く命は通字のようなものなのだろう。
知ったからとて、許可されない限りは呼ぶことは許されないのだが。
「彼は極めて優秀な間諜だったが、根を詰め過ぎるきらいがあった。それは君にも受け継がれているようだが、時には休むことも仕事だよ」
「むむっ」
如何にも『悩んでます』とばかりに組まれた腕に、田予以上呂布以下の胸が乗る。
この場には『そう言ったことに興味の湧かない』李師と、『蝶の羽ばたきを目で追っている』呂布と、『戦の前は特に頭の中にあるデータを整合させる』田予しか居なかった為になにも起こらなかった。
しかし、長い黒髪と金メッキの張られた鉢金、薄紫の目に整った顔立ちという相当に見事な造形を持っている周泰が取るには、そのポーズは中々に危ういと言えるであろう。
「わかりました。周幼平、頑張って怠けます!」
「……頑張ったら、怠けてない」
何事にも全力で取り組む真面目さを持つその人格そのものが怠けるという事象には向いていないのか、周泰は三秒とかからずに墓穴を掘った。
そして、二秒とかからずに呂布に突っ込まれる。
彼女は自分が魔術めいた予測の正確さを持たず、陰影鮮やかな皮肉屋でもなく、隠密の如き特殊技能を持たないが故に常識的な範疇に類する人間だという自負があった。
その自負は、自然とツッコミに転嫁される訳である。
「恋は、常識人。だから、自然に怠けてる」
「いや、君は働く時と働かない時の差が極端なだけだろう」
「あぅぁぅ……難しいです」
殆どの発言がブーメランとお前が言うなであるというツッコミ不在の恐怖の―――更には全員がその恐怖を認識もしていない中、その全員にちゃっかり含まれている田予が静かにツッコミを入れた。
「皆さん、非凡から程遠い私から見れば常識人とは別な存在であると思いますが」
「そんなことありません!」
「いや、それはないな」
「……ない」
忍者、魔術師、天下無双、そして人間GPS。
この四人の内の誰が一番常識人であり、一般人に近いのか。
それは、後世の歴史家たちも意見を分かれさせるところであろう。
しかしながら、全員常識人とも一般人とも似つかないという点においては、後世の歴史家たちも意見を一致させるところだったことは明記しておく。
そしてまた、この男一人と女三人の中で蔓延していた共通認識が、『この軍の幹部は皆どこかおかしい。自分以外は』と言うものであったこともまた、触れておく。
一方その頃、残りの緩さのある李師軍団の新旧幹部の二人はと言うと、ブーメランとお前が言うなを頻発、というよりは連発させるような世紀末を現出させることもなく、至って真面目にこれからの展望を話し合っていた。
「結局のところ、私たちは勝てるのか?」
短く纏められたとは言え、やはり目を惹く銀髪に、軽装の鎧。両手でやっと抱えられるような槍に大斧を付けたような重武器を地面に突き刺し、華雄は左手を内側から外側に振って隣に居る趙雲に問う。
「ほぉ、貴官が李師殿の敗北の心配をするとは思いませんでしたな」
「からかうな。そりゃあ私だって李師様の戦の巧さを疑っているわけではない。しかし、あの方も無敵ではあるまい。
なにせ、前と後ろに鷹の目が付いているが、それを足元に向けることを知らないような方だからな」
過去を認識し、未来を見て歩いているが、現在に仕掛けられた罠や窪みであっさりと転ぶ。
華雄の言葉は、非常に的を射たものだと言えた。
「どうやら貴官は騎兵だけではなく、弓を扱っても一流のようで」
「戯言はいい。で、貴様はどう思う」
迂遠な会話と皮肉を交えたやり取りを好まないこともあり、軽く貧乏揺すりをしながら華雄は更に詰めて問う。
彼女の気性を呑み込んだのか、趙雲は流石に皮肉と迂遠な話術の矛を収めて直線的な考察と言論に切り替えた。
常に場を引っ掻き回しているような印象を持たれ、実情としてそれが正しいのが彼女という人間だが、なにも相手と引き際を見極められないということではないのである。
「まあ、戦術的にはまず負けないでしょう。戦略的にも、自由な裁量が許される限りは負けないでしょう。しかし、彼は政略に疎い。政略から戦略を崩され、戦略の崩壊が戦術的勝利の価値を無為にすることはあり得るかと」
一つの綻びが全軍の綻びを招く。戦史に多く見られる事例であり、純軍事的な勝利の結晶が全体的な勝利と完全に等号で結べない要因だった。
「正直なところ、な。私はこの戦線の勝利は疑っていない。勝つまではいかなくとも、負けないだろうさ。だが、西南の劉焉と西北の馬騰に負けることはある。だろう?」
「自軍の力を信用しておられぬので?」
「所詮奴らは亀のように城に籠もるしか能のない将だ。果断さにも機敏さにも欠けているし、内応しないとも限らない」
公孫瓚と同レベルかそれ以上の人材欠乏の病を抱える董卓軍からすれば、『戦意においても戦術能力に関しても二流以下』な将をその場所に降りかかるであろう危機に応じて振り分けなければならなかったわけである。
公孫瓚とは毛並みが違うとはいえ、董卓は明るい赤毛をした彼女と立場では等号。
賈駆も同じく内政面・謀略面に偏っており、やる気において李師とは天と地ほどの差があるとは言え等号。
趙雲と張遼は守勢と攻勢の、巧緻と速攻の違いはあれど、能力的にはほぼ同一。
華雄と呂布とは、突撃における戦力集中の巧さと個人的な武勇という違いはあるが『優秀な戦闘督励者』ということで類を同じくし、いずれも良い指揮官の下では良く働く。
内政官と情報面を担当してくれる人材が居ない分、董卓陣営の方が人材面では劣弱と言えた。
もっとも、公孫瓚陣営の内政官と情報面を担当してくれる人材、戦闘指揮官と督励官は一個人に忠誠を誓っているのであって陣営に忠誠の指向を向けているのではないのだが。
「まあ、袁紹を撃退すれば我らの勝ち。戦闘指揮官としてはそれでいいのではありませんかな?」
あくまでも戦略的見地を持たず、戦術能力に特化した指揮官でしかない趙雲らしい明確且つ単純な意見に頷きそうになりながらも、華雄はあくまで思考を止めない。
彼女は元来、馬鹿ではないのである。少し血の気が多くて粗忽なだけであり、天性の勘のようなものがあった。
「それはそうだ。しかしだな―――」
「趙子龍様、出撃のご用意はお済みですか!」
何事かを言おうとした華雄の言を意図的ではないにせよ遮り、伝騎の気張った声が敵の接近を告げる。
顔を見合わせ、軽く肩をすくめて立ち上がり、二人の指揮官は軽く身体を動かしながら幕舎を出た。
「出撃用意は既に完了していますぞ。指示は?」
「『敵が進軍中である道の出口で騎兵を以って此れを迎え撃ち、程々に戦って逃げよ。釣り終えれば濃緑の旗の内部に駆け込んで反転、待機せよ』とのことです」
「了解了解。精々派手に釣り上げるとしますかな」
先の張純の乱で血を吸い過ぎ、これまでのものとは異なる形に鍛え直した龍牙を肩に掛け、白馬に跨がって場を後にする。
指示を的確にこなす。それが己の役割であり、勝利への一番の貢献になるのだと、彼女は肌で理解していた。
「いいか諸君。いつも通り、適当なところまで叩いて、やられてやる。うまく逃げるように」
悪戯っぽい笑みを浮かべながら、趙雲はいつもの皮肉と諧謔を混ぜたような独特の口調で訓示をたれる。
二又から中央の一本に集うような三又に変化した長槍でもって行く先を指し示しながら、趙雲隊二千は進撃を開始した。
そしてその勇姿を見ながら、膝を抱えて蹲りそうな女性が一人。
「……あいつはいいよな、いつも先陣を切れて」
「はぁ」
己の副官であり、ブレーキ役である彼女を振り返りながら、華雄はポツリと呟く。
「私も先陣を切りたい」
「将軍は先陣を切るというより、終盤の優勢を決定づける―――切り札。李師殿にとっては、そのような位置づけなのでありませんか?」
「……むむむ」
彼女の気分が寧ろ良くなるような言葉を選んで宥めると言う口の巧さを持った副官の苦労は尽きないであろうが、彼女の副官が言ったことはだいたいあっていた。
彼は華雄の破壊力をピンポイントに集中させ、ないしは十全に発揮させる為に『大斧』の役割しか与えようとはしていない。
彼女の役割は他の部隊が入れた切れ込みを繕われる前に取り返しのつかないものになるまで引きちぎることであり、切れ込みの入れられた大樹を一撃で叩き斬ることである。
ならば普段から大斧を振るえと言えばそうだとも言えるが、大斧を常に振るっていては肝心の切断したい時に力が抜けてイマイチな切れ味しか持てないこともあり得た。というよりは、その公算は大だと言えた。
言うまでもなく、趙雲は槍である。突き、引き、また突く。
手数で敵の隙を作り、或いはその動きを誘引する。
そんなテクニカルな動きを、彼女は呼吸をするように部隊に適用することができた。
この時もまた、彼女の役割は変わらない。
突いてやり、隙を作る。
向こうが反撃したら慌てて引き、逃げて釣る。
攻めに執心して脇が甘くなった敵は、左右からの弓に撃たれるわけだった。
「何だ、勝算もないのに挑んできたのか?」
張邈は、少しの安堵を含んだ声で傍らに控える妹の張超に話しかける。
董卓軍への敵意はあるが、それは袁紹という親友に対しての義理を多分に含んだものでしかなく、張邈は自ら前線で槍を振るうほどの士気の高さは持ち合わせていなかった。
「所詮は田舎者でしょう。一万に二千そこいらで挑むなど愚の骨頂です」
プライドの高い典型的な名士である張超の心強い返答を聴き、張邈はそうだな、と胸を撫で下ろす。
彼女は戦を好まない。巧くもないという、自覚もあった。これまで戦ってきたのは衛茲という優秀な、武将と軍師を足して二で割った様な有能な部下が居たからである。
「衛子許様より、伝令です」
「おお、勝ちつつあるのだろう?」
「敵の逃げっぷりが怪しいので、一旦退いて陣を立て直したい、と」
逃げる敵を見て追撃戦に移ろうとした兵を纏め、その本能とも言える行動を収めるのは如何に練達の指揮官であっても至難の技。
それを簡単なことのように提案できるあたりに、この衛茲という女性の才幹の見事さがわかった。
「何故衛子許殿はたかが二千の逃げる敵を恐れられるのか?」
「崩れるのには違和感がないが、周辺の地形に怪しさがある、と」
臼のような凹みがある地形に自分たちは進撃している。
高低差を表す壁となっている周囲は木々に阻まれて伏兵のありそうな森。
「もっともだろう。青藍の良きようにするように伝えてくれ」
血気盛んな妹が問い質してくれたことに感謝しつつ、張邈は重厚さを崩さずに現場の将に決断を委ねた。
その決断を委ねる旨を伝える伝騎が一往復し終えると共に、完全に追撃態勢に入っていた張邈軍が伸びた戦線を収集すべく後退を始める。
その進退の見事さは、流石というべきだった。
が。
「敵が逃げた。隊列を組み直せ」
逃げている軍の将とは思えない命令が飛び、敗走に移っていた兵がものの半刻(約十分)と掛からずに追撃態勢を整える。
「逃がすな、前進!」
それは衛茲が一万の軍の戦線の収集を完了より速く、逆撃態勢を組むのとは比べ物にならないほどに速かった。
騎兵の脚を活かした展開の速さと、中華でも相当に腕の立つ部類に入る将自らからが鋒矢の尖鋭に立つことによる破壊力の増加。
張邈軍の後退運動が敗走の色をその整然さに混ぜ始めるのは、そう遠いことではないであろう。
「落ち着きなさい。数では勝っているのですから、反転して迎撃。今まで我々は勝っていたことを、忘れてはなりません」
衛茲は指で一々指し示しながら命令を下し、全軍の補修を終えて張邈軍は逆撃に転じた。
この逆撃が決まれば敵の二千は壊滅的な打撃を受けるであろうと確信するほど連携の取れた各部隊の反撃に、今まで押しまくっていた趙雲率いる二千は脆くも崩れて潰走に入る。
(おかしい)
騎兵は、守勢に弱い。そんなことはわかっているが、完全に逆撃を決める前に、それも極微小な気を外されて流された。
そんな違和感が、彼女にはある。
「全軍、追撃速度を緩めなさい」
「また、ですか?」
何かがおかしいと思った。確信はないことがもどかしいが、彼女の将としての嗅覚には明確におかしいと感じる箇所がある。
何故ここで足止めをしようとしているのか。足止めにはぴったりな地形だし、敵の集結を遅らせれば敵の利するところが大きい。
ならば、何故利するところが大きいのか。何をすればもっとも、利するところを巨大に膨張させることができるのか。
それは、各個撃破。
つまり、他の四諸侯の部隊はすでに壊滅しているのでは―――
そう勘付いた瞬間、趙雲率いる二千は千九百に数を減らしながらも指定された旗を越して逃げ込んだ。
敵は険阻な道を歩み、疲労した脚を更に酷使している歩兵である。騎兵の逃げ足に敵うはずもない。
「斉射三連。一点に矢を集中し、敵の脚を止める」
数瞬遅れて前衛部隊が指定された旗から先を伸ばした先にできる一点に脚を踏み入れ、牙門旗と共に現れた濃緑の伏兵たちが一点に集中して放った無数の矢が彼等を文字通り薙ぎ倒した。
李師の指示に、田予の運用。二者の名人芸が噛み合い、敵前衛部隊の二千は三斉射の後にほとんど壊滅の憂き目に合う。
「後方におられる張太守に連絡。ここは私が防ぐ故、お退きください、と」
光を反射しない、のっぺりとした濃緑の色をした鎧を装備した弩兵隊が両脇から現れた。
即ち嵌められたことに気づいた衛茲にそう言い含められた伝騎が一礼してその場を後にしようとした瞬間、二騎の伝令が彼女の元へと息も絶え絶えに到着する。
「張旗を掲げた敵騎兵部隊、後方に来襲!完全に退路を絶たれました!」
「華旗を掲げた敵騎兵部隊、我らの中軍を完全に分断。我らは前後に分断されてしまいました!」
前方は死の射線交差地点。
後方は精鋭騎兵部隊。
最早戻ることも逃げることも不可能な状況で、前衛部隊を全滅させた矢地獄を見て潰走を始めた味方を徐々に追い込むように、濃緑色の弩兵隊は射線によって包囲の輪を縮めていく。
敵の総大将からの降伏勧告が大々的に叫ばれ、三々五々に武器を捨て、蹲って降伏する者も多い。
そして、目の前には総大将の所在を表す牙門旗。
(一か、八か)
傍らに控える親衛隊を、馬に乗りつつ振り返る。
彼女のとれる手の中で、逆転の目が残されているのはこれしかなかった。
「敵中突破によって敵の総大将を屠る。着いてきてくれるものだけ、着いてこい」
彼女に従ったのは、潰走している軍の中でも恐慌に呑まれることなく、また降伏勧告にも応じることなく沈着さを保っていた親衛隊の、ほぼ全員。
彼等彼女等は衛茲個人に熱烈な忠誠を誓っているが故に、この状態でも逃げるという考えを持っていないのであろう。
二百に満たない兵は死兵となり、前方に押し寄せる趙雲隊に喰らいついた。
この時、射線の管理と維持を命ぜられていた田予が弩兵隊の再編を命じている。
この所為で味方から放たれる矢が援護程度のものとなり、趙雲隊が前に出ても全く問題がないほど同士討ちの危険がなくなっていたのだ。
衛茲は、そこを衝く。
「どうなさいますか?」
「通してやれば良い。ご予約なされていたお客さんのご注文に対応できないほど、李師殿は愚鈍ではなかろうさ」
死兵を相手にする馬鹿らしさを知っている趙雲は、あっさりと陣を真っ二つに割らせながら、何かから逃げるようにそのまま前進した。
『敵は最後、将を中核に突撃してくるだろう。君たちは案内してくれるだけでいい』
彼の予想通りに推移した戦場で、彼の指示を無視するのは未来の啓示を無視するに等しい。
おかげで、被害は軽微。もっとも、死兵の突撃で五十人程は討たれただろうが―――
「敵一部隊、突出」
「予想通りだな。再編を終えた弩兵隊は、待機しているかい?」
「はい」
趙雲隊があっさりと突破されつつある光景を見て、呂布率いる親衛騎と側仕えのように控えている周泰が武器に手をかける。
臨戦態勢。しかし、彼は床几の上で右の膝を立て、左の脚で片胡座を掻いたまま動かない。
右手も立てた膝の上に顎を乗せる為のクッションとして置いたまま。左手はだらりと垂らしたまま。
「射撃用意」
戦の最中でも珍しい程の鋭い声色。
だらりと垂らされていた左手は天に向かって伸ばされ、振り下ろされるのを待っていた。
一秒。
二秒。
三秒。
射程に誘き寄せる為の速度計算、部隊の編成。そして、味方に矢が当たらぬ角度計算。全てを終えた男の腕が振り下ろされると共に下された命令が、機を逃さぬ激しさを垣間見せる。
「今だ!突出してきた敵部隊の先端部に一点射撃をかけろ!」
敵突出部隊の陣形は紡錘陣。将らしき女性が先頭に立ち、趙雲隊と本陣との何もない間隙を裂いて驀進していた。
死兵となった彼等彼女等は手強いとはいえ、所詮は二百の兵と一人の将。矢を受ければ死ぬし、左右合わせて千の弩兵が作り出す射撃の集中点に突っ込めば、逃れられぬ死が待っている。
精神が物量と理論を乗り越えることは敵わず、二百の勇者は屍となった。
この二百の全滅は即ち、酸棗諸侯の壊滅を示すものでもあったのである。
先頭切って戦った趙雲隊の被害は275。
敵を分断した華雄隊の被害は503。
後方を追い討った張遼隊の被害は102。
そして、弩兵隊と親衛騎の被害は零。
張邈軍の被害は10,000の内、9764。
全体での戦いで見ると、2,434の死傷者で38,234人を討ち、9,308人を捕らえた陽人の戦いは、この一斉射撃によって幕が下りた。