北の盾たる己が身を 作:黒頭巾
「無心は、一つです。私が今回の遠征で上げた功全てを以って、悪名を着せられた董仲頴と賈文和両名の汚名が偽りのものであったと、帝に述べていただきたい。その為の助力と政治工作を、お願い致します」
李師の無心に、思わずその場は静まり返った。
その内容の難しさも去ることながら、特殊性が目を引かせていたのである。
帝に奏上し、その間違いを認めさせ、糾す。
彼は弾劾者、と言うべきであろう。
帝の言葉は絶対であり、一度発せられた言葉は何があろうが覆されないのがこの世の常識というものだった。
その常識を『人は間違いをする』という常識と『虚偽は暴かれるべき』という常識によって打ち崩そうという無自覚な弾劾者に対して、曹操は内心舌を巻く。
李師の発言には一面からのものとは言え、理と義がある。
彼の言動からするに政治的な効果を考えてのものか、どうか。
つまり、帝に義と理で彩られた間違いを認めさせることによって、曹操は公然とその治世を批判できる。
今はその程度の物だが、自分が成り代わる時にはこの弾劾は切り札になり得た。
帝に明確な失政があり、各地では乱が起きている。
これだけでは―――否、これほどまでしても漢王朝は倒れない。
だが更に忠臣を己の身の可愛さに敵に売り渡した、とくればどうか。
徳がない、ということになる。
となれば、成り代わることもだった。
「それは、あなたと言う人間が持つ価値や意味を加味しての無心、ということでいいの?」
「何の功も名もない個人の言うことが、嘘を暴ける時代ではありません」
李師はこの問いを、己の名声や功績を擲ってでも、弾劾を続ける気かと言う問いであると見た。
曹操はその答えを、自分の天下統一事業においての至難の課題を今まで彼が積み上げてきた物を崩してまでも解く覚悟であると見た。
当初の問答では認識に僅かなすれ違いがあったものの、この期に及んで互いが互いの考えに気づいたため、致命ではない。
李師は自分が無い知恵を振りしぼって約一ヶ月かけて考えついた『曹操に結果的に損にならない、弾劾の仕方』という物を、ほんの数瞬で読み取ってきた曹操の卓抜とした政治センスに思わず納得してしまった。
政治音痴とは言え、誰が、何を考え、何を求めているか、という事柄を読むのは李師の得意とするところである。
その方面から政治にアクセスし、それなりに時間を掛けて考えた案を完璧に看破されたのは、それなりに驚いていた。
「わかった。やり遂げましょう」
「有り難く」
曹操の興味深げなど視線に何故か寒気を感じつつ、李師は一先ずその場を去った。
ここで『私は政治は門外漢です』と布石を打って置くのも良いが、そこまでやれば周りの顰蹙を買うことになろう。
だが、ここで無心した以上は大して変わりはしないのかもしれない。
李師が振り向こうとした瞬間、緑の閃光が彼の片袖を引いた。
賈駆である。
「ちょっと来なさい」
「えぇ?」
走らない程度に速く、賈駆はこれ以上問題を起こさない内に李師を回収したかった。
これ以上放置していれば、碌でもないことになるなと思ったのである。
「あんた、馬鹿なの!?」
「いや、自覚はあるけどね」
舞台で言う袖、会場の隅に連行し、賈駆はまずは問い詰めた。
嬉しい、という感情はある。しかし、その嬉しさと同等かそれ以上のリスクを李師が負うことを考えれば、そう悠長に喜んでいるわけにもいかなかった。
先ず、敵勢力に良いように言われる可能性がある。
最初に情報戦術でこちらを嵌めてきたのは向こうだ、というのは正しい。が、劉焉勢力には情報その正論を捻じ伏せるだけの力があった。
「まだこっちは情報の拡散では遅れを取ってるのよ。そうやすやすと正論を通せる状況じゃないわ。漢にとって、逆賊の汚名を着させられる日も近くなったの。わかる?」
「それはそうだけど、そうなれば漢を潰せばいいだけじゃないかな」
「……漢を?」
賈駆は、愕然とした。
漢とは彼女にとって―――と言うより、名士層にとって絶対的な存在である。
高祖劉邦によって建てられ、一旦徳を失って王莽に滅ぼされるも、光武帝劉秀が再興した奇跡の王朝。
四百年もの永きに渡って、続いている。
それを滅ぼすなど、賈駆の着想にはなかった。
「うん。そもそも、民を安んじられない王朝はその存在価値がない。元々、民に支えられた者が『徳』を得て王朝を建てたんだから、これは当然の帰結だと思うよ」
「……でも、それは、こう」
正しい。
が、常識を簡単に破壊されて素直かつ迅速にその新たな常識を受け入れることが出来るほど、賈駆は先進的な思想の持ち主では無かった。
「まあ、皆あらかたそういう反応をする。妙才も戸惑った」
「逆に、受け入れたのは誰なの?」
「恋と曹兗州―――じゃ、ないか。曹司空様だよ」
恋こと呂布は、李師の教育が脳髄にまで染み込んでいるような風がある。
既存概念というものを知らないし、漢にこだわりもない。むしろ『李師を幽閉した国』という恨みしかなかった。
ただの武神だった存在が、素の聡明さと優れた智性、視野の広さを備えようとしている。
そんな存在に羽化しようとしているだけに、呂布が恨み最優先で動いたら、手が付けられなくなるのだ。
物理的に頭を抑えることができる人間がそもそも片手に余るし、制御装置である李師も『無関係な人を巻き込むな』くらいな言葉を投げるだけで止める気が薄いとなると、本格的に決戦兵器が勝手に動き回るということになりかねない。
実際のところ、呂布は恨み最優先で動くことはないのはわかっている。
が、最悪を予想するのが賈駆の仕事だった。
「……永さは、尊いことではない?」
「永さは尊いことだ。質が伴えば、ね。例えばだが、天候が荒れ狂った時に生贄を差し出すと言う慣習が四百年続いたとして、それは尊い慣習だといえるのかい?」
「…………言えないわ」
「詭弁だが、そういうことさ。永さに質が伴えば尊ばれる。永さばかりで質が最低だから、私は壊してしまったほうが良いと思っているんだ」
「じゃあ、支えるのは?」
「徳がない帝を、徳がある臣下が、かな?」
歪だろう。
李師の言いたいところはそこだった。
それは曹操一代においてはいいかもしれない。彼女ならば支えられるだろうし、王朝の弊害を除けるだろう。
しかし、それは一代限りなのだ。
屋台骨までが腐った王朝に曹操と言う新たな屋台骨を献上しようとも、その屋台骨が朽ちると共に再び腐る。
李師は別に今すぐ潰せというような過激派ではないが、王朝という権威を無条件で信じられるほど質朴でもない。
どちらかと言うと、実害を受けているだけに漢王朝の治政というものを懐疑の目で見続けていた。
その辺りが周りの『尊い』という感情と噛み合わず、相対的に過激派のように見えるのである。
「……まあ、いいわ。ボクも使うだけ使われて見捨てられたクチだし、それほど拘る理由もないもの」
李師は黙っていた。
賈駆のその言葉がむしろ内に向かっての決別として放たれた言葉であり、自分に対しての決意表明ではないと、この男は察している。
読んで欲しい時にも、読んで欲しくない時にも人の心を目敏く読み取ってしまうのが李師という人物なだけに、この辺りの反応は名人と言ってよかった。
暫しの沈黙にも疑問を呈することなく、賈駆の心中整理に時間をくれてやったのである。
賈駆は心中整理を終えた後にこのことに気づいたが、それは李師が人心を読み取ることに長けているとわかっているからであって、その沈黙の不自然さからではなかった。
李師はその心中整理が終わる頃合いを見計らい、その場をふらりと後にしようとしている。
話が終わったからだと言わんばかりの、それは違和感のない挙措であった。
「うん?」
ぐいっと礼服の後ろ裾を掴まれ、李師は止まる。
武芸の拙さでは他の追随を赦さない李師には到底及ばないにせよ、ある程度は武芸が駄目な賈駆が後ろから来ていることくらいは、彼にも何とか察知できた。
「……ありがと」
止められた、と言うよりも止まったと言うような李師の停止を受け、賈駆はその背中から目を逸らしつつボソリと呟く。
心配してくれているからこそ諌めが先に来たが、賈駆は普通に善良な人物なのだ。
素直ではないが礼も言うし、感謝も示す。
「まあ、約束したからね」
「約束?」
賈駆は、訝しんだ。彼女は反董卓連合軍との対戦の終盤で、捕虜交換で袁紹等と換えられるまで李師と顔を合わせたことはない。
董卓共々氐族に捕らえられそうになった時に己は李仲珞の身内だと偽り、『私たちを殺した後、手厚く葬ってくれれば、我が家が必ず遺体を手厚く引き取ることでしょうね』と氐族を脅したことはあるが、約束をしたような記憶はなかった。
その疑念を知ってか知らずか、李師は少し後ろに向いた。
「君には理不尽な謗りを受けている董卓を救ってくれと頼まれた。華雄と張遼には智慧を貸してくれと言われた。まあ、私はそれを引き受けたわけだ。頷いた以上時効にはできないし、引き受けた以上無碍にはできないさ。
もっとも君の頼みに関しては、文体から読み取っただけだけど……どうかな。これで、果たしたことになるかい?」
「――――」
賈駆は、口をつぐむ。
と言うより、噤まざるを得なかった。
無償の善意は疑うべきである。
それが自然に備わっていたのが権謀家としての賈駆の資質であったはずだが、この時ばかりはその善意を疑うことはできなかった。
疑うことなら、できる。旧董卓軍という勢力を取り込むべく、董卓と賈駆という勢力の二頭を懐柔しようとしているのだと、思える。
彼は冀州に根拠地がある。更に陰から勢力を伸ばそうとし、并州の元締めであり、涼州にも隠然たる影響力を持つ勢力を取り込むことで、その基盤は一層確かなものになるだろう。
そう読めることも、わかっていた。
「……あんたは充分、果たしてくれたわ。これ以上、月とボクを引き立てようとするのは、やめなさい」
「そう言うならば、そうする。一応、その為の発言力も貯めておいたんだけどね」
今まで全く栄達を望んでいなかった李師の発言力は、大きい。しかも賈駆も董卓も民政家として無能とは程遠い人物なのだから、曹操は聴き入れたことだろう。
「やめなさい。あんた、余計な誤解を買うわよ」
「…………そうかな」
掴んだ裾は離さず、賈駆は乱れた心を整え直す。
賈駆は、善意に慣れていない。今回もその特徴がよくよく出ていた。
「あんた、馬鹿ね」
照れ隠しではなく、これは割りと本音に近い。
馬鹿にしているのではないが、限りなく本音であることだけは確かである。
「まあね。でも、君が居るからこそ馬鹿であってもいいんだと思うけど」
卑怯だ、と。賈駆は権謀家にはあるまじき感想を抱いた。
そんな台詞を吐かれ、信頼を剥き出しにされるのは、殺し文句と言うものだろう。
無自覚だから、更に一層質が悪い。
「そうよ」
「うん?」
「馬鹿でもいいわ。好きにやりなさい。ボクが何とかしてあげるから」
この時点で、賈駆はもはや腹を括らざるを得なかった。
ここまで誠実に約束を履行してもらい、信頼されては応えるより他にない。
それに何より、嫌ではない。
「これからも苦労かけるね。文和」
「詠」
「?」
「詠で、いいわ」
詠か、と。
少し困ったような、少し驚いたようないつもの声が耳朶を打つ。
やはり、嫌ではなかった。
百話ですね。これからもこの作品と他の作品を読んでいただければ、幸いです。
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