ゼルダの伝説 虚無《ゼロ》の少女と時の勇者   作:すもーくまんじゅう

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決闘を覗く者
決闘を覗く者


 決闘の舞台として選ばれたヴェストリの広場は、食堂での騒動を知って駆けつけた観衆でかつてないほどに賑わっていた。決闘のため、観衆が十分に距離をとって円状に囲んだその中心で、ギーシュは自身の杖である造花の薔薇を手に持ち、佇んでいた。観衆からの声援に時折手を振って応えながらも、緑衣の剣士がやってくるのをじっと待つ。

 このまま逃げ出したのならば、奴は口先だけの臆病者だったということ。愚かにもここへ戦いに現われたのならば、主人に代わり、魔法の力と貴族の誇りをじっくりと教育してくれようではないか。

 そんなことを考えていると、一際大きな声が観衆の一角から上がり、段々とこちらへ近づいてきた。苛立たしげなその声は決闘相手のご主人様、ルイズのものだった。シエスタの必死な声も同時に聞こえる。

 

「ちょっと通して! ああ、もう邪魔よ! どいて! どきなさいったら! どかないとひっぱたくわよ!」

「す、すみません、通してください!」

 

 観衆を無理やりかきわけ、息を切らしながら二人はギーシュの前に立った。顔をひっぱたかれずとも、思いっきり足を踏みつけられて痛みに呻く幾人かの生徒のことは気にも留めず、ルイズはギーシュに向かって声を張り上げた。

 

「ギーシュ! 決闘なんて止めなさいよ!」

 

 睨みつけるようなルイズの強い視線に、ギーシュは冷笑で応えた。

 

「はっ! 何を言うかと思えば……いいかい、ルイズ? 彼は僕を、貴族の誇りを侮辱したんだぞ? 魔法を誇れる力でもなんでもないと! なによりも敬意の欠片も無いあの態度! 何の落とし前もつけずに済ませようなど、それこそ貴族の恥というものだ!」

 

 芝居がかったような動きをしながら、ギーシュはそう言った。表情をさらに険しくしてルイズは叫ぶ。

 

「なによ! 大体、規則で決闘は禁じられているはずでしょう!」

「それは貴族同士での話だろう。彼は貴族ではない。平民だ。その規則は当てはまらない」

「うっ……」

 

 決闘を止めさせる理由としてはこの上ない規則を持ち出したルイズだったが、それにギーシュは冷静にやり返す。ルイズは返答に詰まり、黙るしかなかった。貴族間での決闘は確かに禁じられている。しかし貴族と平民の決闘を禁じるとは規則に書かれていない。もちろんそれはそのような事態を想定していないからに他ならないのだが、書かれていない以上は規則上問題がないと言わざるを得なかった。

 

「あ、あの、ミスタ・グラモン! 悪いのは私です! 私ならばどんな罰でも受けます! ですから、どうかリンクさんのことはお許しください! お願いいたします!」

 

 シエスタは涙を一杯にためた悲痛な表情でそう言って頭を下げた。ギーシュはその姿を見てなんともばつの悪い思いを感じた。この少女が思いやりで落し物を拾ってくれたことも、自分の苛立ちを八つ当たりのようにぶつけてしまったのも事実だ。とはいえ、引き返せる地点はとうに過ぎてしまったことを、ギーシュは理解していた。

 

「……まあ、彼が誠心誠意、僕に対するあの侮辱を謝罪しようというのならば、僕も矛を収める気がないではない。もっとも、彼の顔を見る限り、そんな気はさらさらないようだが……」

 

 ギーシュの視線に、ルイズとシエスタは後ろを振り向いた。ざわざわと騒いでいた観衆の声がだんだんと収まっていく。ギーシュらを取り囲むようにしていたその一部が、ぱっと左右に分かれて道を開けた。

 その中央を緑衣の剣士が歩いてきた。誰も口を開かない。広場はしんと静まり返り、リンクが草を踏みしめる音だけが響く。空気がぴんと張り詰められたかのようだ。

 ある程度近づいたところで、リンクは立ち止まった。静寂のままに数秒が過ぎる。髪を揺らす柔らかな風が止んだその時、リンクが口を開いた。

 

「悪かったな。遅くなって」

 

 声は穏やかだが、その青い瞳はじっとギーシュを見据えていた。

 ──やる気だ。ギーシュは理解した。リンクが謝るなんて毛ほども思っていないことを。メイジの強さなど関係無く、立ち向かってくる気なのだ。

 それならそれでいい。痛い目に遭わせて、せいぜい無様な姿を晒してくれる。そう思った。

 

「逃げずに来たことは褒めようじゃないか! よく尻尾を巻いて逃げ出さなかったものだ!」

 

 ギーシュは大仰な身振りで両手を広げると、リンクに向かって言い放った。

 

「戦うさ。そのために剣を背負ってる」

 

 リンクはギーシュを見据えて静かに言った。ギーシュはそんなリンクを鼻で笑った。

 

「はっ! 決闘が始まっても同じ口が叩けるかな?」

 

 この英雄気取りの大間抜けが。自分がどんな間違いを犯してしまったのか、すぐに知るといい。身の程知らずの代償をその身で払ってもらおう。ギーシュはそう決心すると、薔薇の造花を高く掲げ、固唾を呑んで見守る観衆に向かって高らかに宣言した。

 

「諸君! 決闘だ!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 歓声に包まれるヴェストリの広場から離れて、トリステイン魔法学院の学院長室。重厚な本棚が壁に並び、趣味のよい調度品がしつらえられたこの部屋の中で、一人の老人がぶつぶつと呟きながら、瞳をらんらんと妖しげに光らせていた。学院長であるオールド・オスマンその人だ。長く伸びた髭と白髪がまさに老練の魔法使いといった風だが、その興奮した様子を見るととてもそうとは思えない。老人は十分に広く大きな自分の執務机を押し潰さんとばかりに積み上げられた書類には目もくれず、ただひたすらに自身の使い魔へ指示を出していた。

 

「……そうじゃ、よいぞ! モートソグニル! そのまま気づかれんように近づくんじゃ! ターゲットの注意は逸れておる! 警戒をかいくぐり、あの秘境の中に潜り込め!」

 

 老人の目には学院の廊下を忍び足で進む、ネズミの使い魔の視界が映っていた。使い魔との感覚の共有を使っているのだ。

 視界の中央には美しい緑色の長髪を持った美女がいた。学院長の秘書のミス・ロングビルだ。困った顔をした教師の話を冷静な表情で聞いている。

 決闘やらなんやらといったことがオールド・オスマンにもモートソグニルを通して聞こえてくるが、その情報は一切省みられることなく、彼の脳内からは入った瞬間に消去された。今オールド・オスマンは自身の全てをかけて、使い魔をミス・ロングビルのスカートの中に潜入させるという困難なミッションに挑んでいた。

 彼女の今日の下着は何なのか。それ以外の情報にはぶっちゃけ何の興味もない。これを毎日繰り返しているものだから仕事はたまるばかりで、先送りされた書類の数々は机の上に巨大な山脈を築き上げている。全く持って悲しいことに、この人物がトリステイン魔法学院のトップなのである。

 

「よし! モートソグニル! 今こそ好機じゃ! 一気に距離を詰め、スカートという名の鉄壁の城塞を陥れるのじゃ!」

 

 オールド・オスマンの命令を聞いて、モートソグニルは、隠れていた物陰から飛び出し、一気に駆け出した。ミス・ロングビルはこちらに気づいている様子はない。いける。確信を持ったモートソグニルはさらに速度を上げ、彼女のスカート内部へと迫る。すらっとした長く白い、美しい足がどんどんと大きくなってくる。彼女の足に触れることが出来るなら、世の中の大半の男は靴の裏を舐めろと言われても喜んで這いつくばることだろう。あと少し、あとほんのちょっと。

 オールド・オスマンは目を血走らせて、その瞬間を待っていた。椅子から立ち上がり、両手を固く握り締めている。

 

「おおおっ! もう少しじゃ! 行け! 見え……」

 

 その瞬間、高速で動いていたはずの視界がぴたりと止まった。

 

「何じゃ!? 何故止まるのじゃ!?」

 

 ゆっくりと視界が上へと上がっていく。何故か、がたがたと揺れながらだ。ふくらはぎからタイトスカートに包まれた丸い尻、半身になってこちらから見える女性らしい曲線美を持つ背中と膨らんだ胸へと続き、顔が見えたところで視界の上昇は止まった。

 笑顔だ。にっこりと微笑む美しい笑顔。

 だが、それは好意を伝えるものでもなければ、嬉しさを表しているものでもなかった。

 

 ──殺意。彼女の笑顔が表しているのは、その身を引き裂いてやるという純然たる殺意。ミス・ロングビルはモートソグニルに体を向けると、恐ろしい笑顔を貼り付けたまま、その主人に向けて口を開いた。

 

「何度も何度も……懲りませんねぇ、貴方達は……」

 

 そう言いながら、ミス・ロングビルは何処に隠し持っていたのか、懐から黒革の鞭を取り出した。硬く、しなりを持ったその鞭は、紛うことなき武器であった。その気になれば、肉を裂き、骨をも砕くことが可能な代物である。ぱんっ、ぱんっと乾いた音を響かせながら手のひらで軽く叩く。世にも恐ろしいその笑顔を貼り付けたままに。

 

「お仕置きが足りなかったんですかね……? その腐った脳髄に直接叩き込まなきゃわかりませんか……?」

 

 モートソグニルは震えていた。目前の修羅に怯えてだ。このままでは彼女の怒りの一撃が自分の小さな体をミンチとトマトジュースにするのを待つばかりである。そんな不幸な彼に下されたのは、主の非情な命令であった。

 

「ぬうぅ! ばれおったか! 仕方がない! こうなったら強行突破じゃ! 恐れるな、モートソグニル! あんな鞭が何だというのじゃ! 勇気を持ってミス・ロングビルの下着を拝むのじゃ!」

 

 最低な勇気の使い方である。こんな主を持ってしまったことをモートソグニルは嘆きたかった。だが、そんな時間を与える気はミス・ロングビルにはなかったようだ。ぐっと鞭を握り締め、振りかぶった。

 

「オラァッ!」

 

 妙齢の淑女が決してしてはいけない鬼の形相に、聞いたものを震え上がらせる恐ろしい叫びを上げながら、ミス・ロングビルは鞭をモートソグニルめがけ全霊の力を持って振り下ろした。

 モートソグニルはすんでのところで横に飛び、辛くも死の一撃をかわした。体からわずか数センチの所に鞭が落ちる。爆発のごとき轟音と共に、革の鞭が石を砕いて床を抉る。飛び散り、巻き上がった破片がカンと乾いた音を立てて床に落ちた。

 

「……まずはてめぇからだ! クソネズミ!」

 

 明確な殺意をこめた彼女の宣告に、モートソグニルは弾かれたように逃げ出した。そのすぐ後ろを修羅の振る鞭が通り過ぎる。わずかにかすった床に、びしりと地割れのようなひびが走った。

 

 ──殺される。逃げ切れなければ自分は真っ二つにされた後、ひき肉どころか床の赤い染みと化すまで砕かれてしまうに違いない。モートソグニルは小さな体にあらん限りの力を込めて走った。だが、聞こえてきたのはまたしても主の声──。

 

「モートソグニル! 何を逃げておる! 敵前逃亡は重大な反逆行為じゃぞ! そのまま帰ってきてみろ! 飢えた猫の檻に放り込んで餌にしてやるぞ!」

 

 進めば地獄、戻っても地獄、立ち止まっても地獄。モートソグニルは己の運命を嘆いた。そして、覚悟を決めた。

 助かる道はただ一つ。あの修羅の振り下ろす鞭をかいくぐり、敵本拠地(ぱんつ)を陥れた上で、ミス・ロングビルが気の済むまで主をめためたに叩きのめす間、姿をくらますことだ。

 これならば主からの命令は果たした上、怒りを吐き出したミス・ロングビルに殺されるのは免れることが出来る。

 そうと決まれば立ち向かうのみ。モートソグニルは足を止め、ミス・ロングビルに相対した。怒りに震えるその両眼は、確かに自分を捉えている。鞭を持った右手は、既に天高く振り上げられていた。この一撃をかわさなければ命はない。

 

 大丈夫だ。モートソグニルは自分に言い聞かせた。ネズミの体は小さい分、その瞬発力は高い。さらに、全力を込めて振り下ろされる鞭では細かい軌道の修正も難しいはずだ。ぎりぎりまで攻撃をひきつけ、飛びのくことさえ出来ればかわせるはずだ。そう、この体が恐怖に竦みさえしなければ……。モートソグニルは勇気を振り絞り、その瞬間をじっと待った。

 

「死にやがれぇー!」

 

 今だ! 鞭が振り下ろされるその瞬間、モートソグニルは右に跳ねた。己の意志の通りに体が動いてくれた。そのことを理解すると同時に、轟音と共に自分の立っていた場所が粉々に粉砕された。かわせた! 

 ここから攻めるのはこちらの番である。モートソグニルは再び全身に力を込めて宙へ跳ねると、ミス・ロングビルの振り下ろされた鞭に飛び乗り、そのまま右腕へと飛び移った。ただ足元へと床を走って近づいた場合、飛び退かれた上に致命の一撃が降ってくる恐れがある。その点、ミス・ロングビルの体に乗ってしまえば、振り落とされない限り、一気に距離をとられることはない上、鞭のような強力な攻撃手段をとられることはない。

 

「なっ!?」

 

 ミス・ロングビルはモートソグニルのとった行動に驚き、一瞬の隙が生まれた。その隙を逃すモートソグニルではない。四肢に力をみなぎらせると、そのままの勢いで飛んだ。目的は襟首の隙間、すなわち服の中に入り込むことであった。鞭を振り下ろすために前傾姿勢をとっていたミス・ロングビルの胸元には、体の小さいモートソグニルが入り込むのには十分な隙間があった。モートソグニルはそこから服の中に潜り込む──。

 

「いっ! いやっ──ー!」

 

 たまらないのはミス・ロングビルである。もぞもぞとした毛深い何かが体中を這い回るおぞましい感覚に悲鳴を上げ、体をよじらせてモートソグニルを掴み出そうとした。

 だがモートソグニルも必死である。ここで捕まってしまえば、厨房からありがたく頂戴した、寝床に大切に隠し持っているスモークチーズへ永遠の別れを告げる他無くなってしまう。掴み、ひっかけ、這い回り、目的のスカートの中へと迫っていった。そして、軍配はモートソグニルに上がる──。

 

「ああっ! っつ!」

 

 身を激しく捩じらせていたミス・ロングビルは足がもつれて盛大に転んでしまったのだ。おまけに体をひねっていたために満足に受身も取れず、結構な勢いで尻餅をついてしまった。モートソグニルはこの時服の隙間から弾き出された。

 

「いっつ! アイタタタ……」

 

 したたかに打ち付けてしまった痛みに思わず尻をさするミス・ロングビル。立ち上がろうと目を開けた瞬間、自分の置かれた状況を理解した。

 転んだ拍子に大股開きになってしまい、スカートの中身を盛大にご開帳してしまっている自分。そして何の因果か、それを観察するのにベストアングルの場所に投げ出されていたモートソグニル──。

 

「……」

 

 何とも言えない、妙に気まずい時間が数秒流れた後、まだ動けずにいたミス・ロングビルを尻目に、モートソグニルは脱兎のごとく駆け出し、どこかへと消えてしまった。しばらくはどこかに隠れるつもりなのだろう。ミス・ロングビルはそのままモートソグニルを見送ることしか出来なかった。

 

「……殺す」

 

 ぽつり。一人きりになった廊下に、その声が響いた。

 

「ぶっ殺す! 待ってろよ、あの腐れセクハラ爺が! 毎日毎日毎日! アタシにセクハラばっかりしやがって! 今まで何年生きてきたか知らねぇが、今日をてめぇの命日にしてやる!」

 

 魅力あふれる普段の知的な雰囲気は既に無し。今この場にいるのは修羅のみである。殺意をみなぎらせ、怒りに震えるミス・ロングビルは叫びながら立ち上がった。

 ああ、知的な彼女に密かに心惹かれているコルベールが、今の彼女の姿を見てしまったらどうなっていた事だろう。百年の恋も冷めるどころか、悪夢となって毎日うなされることになるのはきっと間違いない。

 ゆらりと彼女は向きを変えると、ゆっくりと歩き始めた。向かう先は学院長室。オールド・オスマンの居室である。

 

「あは♪ あははははははははははは」

 

 乾いた笑い声が響く。ゆっくりと、ゆっくりとそれは彼に近づいていった。オールド・オスマンに鉄槌が振り下ろされるのはそう遠くはない未来──そう、きっと数分後──。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「でかしたぞ! モートソグニル! 今日は大人の魅力あふれるセクシーな黒のレース! おまけに服の中に潜入して上の情報まで! これまた下とマッチした繊細な黒のブラ! 最高じゃわい! 全く人生を楽しむとはこうでなくてはいかんのう! これでまた今日を生きる活力が沸いてくるというものじゃ! えーい、書類仕事なぞできるかー!」

 

 自分がついに極限の怒りのスイッチを入れてしまったことにも気づかず、最低なことを大声でわめき散らしているオールド・オスマンは机の上に山となっている書類をばさっと散らかすと立ち上がり、踊りだした。もはや彼の高揚した気分は留まるところを知らなかった。

 

「オールド・オスマン、失礼しま……」

「ああ! わしのこの歓びを世界中の人々に分け与えたい! いまわしは心から叫ぼう! 幸せだと! パンツよ! 今日もありがとう!」

 

 コルベールが学院長室に入ってきたのは、オールド・オスマンがパンツに全身全霊で感謝を捧げたのと同時だった。コルベールは目の前に広がる変態の所業に絶句していたが、はっと我に返ると害虫を見るよりも冷たい目をしてオールド・オスマンに言い放った。

 

「ああ、いつもの病気ですか……全く、こんな変態が由緒正しきトリステイン魔法学院の学院長だなんて、なんて嘆かわしい……正直に話してください。一体いくら賄賂を渡してその椅子を手に入れたんです?」

「何を言うのだ! ツルベール君!」

「私はコルベールです! 断じて、ツルベールでも! ハゲベールでもありません!」

 

 オールド・オスマンのあんまりな間違いように、コルベールは叫んだ。これまでにもう何回同じことを言ったのか覚えていない。

 

「おっとそうじゃったか。すまんのコルベール君よ。じゃが、わしは賄賂なぞ断じてやっておらんぞ。王宮の者どもが偉大なメイジであるこのわしを、どうしても学院長に迎え入れたいと何度断っても頼んでくるものだから、仕方なくわしはここにおるのじゃぞ」

「毎日あなたがやっておられることを知ったら絶対に学院長にだなんて思わないでしょうがね。請合いますよ。書類もこんなにためて……仕事をする気はあるんですか?」

「パンツを覗かなければ仕事なぞする気にもなれんわい!」

 

 鼻歌交じりに両手を頭の後ろで組んだオールド・オスマンの様子はとても威厳ある老魔法使いの態度ではない。あまりに堂々と言い放つものだからコルベールはあきれて頭を抱えてしまった。

 

「何を言っているんですか、あなたは……全く、いい加減にしてくれないとミス・ロングビルが可哀相ですよ……あっ、これ昨日が締め切りの書類じゃないですか!」

「知らんのうー! ミス・ロングビルがパンツを見せてくれないのが悪いんじゃ!」

「あら……そんなことでお仕事をさぼっていらしたのですか……?」

 

 背筋をぞっとさせるほどのあまりに冷たい声に、オールド・オスマンとコルベールは扉に向かって振り返った。そこに立っていたのは、いつものように柔らかな微笑を浮かべたミス・ロングビルだった。

 だが、今彼女が放っている強烈な雰囲気は彼らに恐怖を抱かせ、体を震わせるには十分すぎた。その手に握られた凶器──無骨な漆黒の硬鞭──が、びしびしと彼女の怒りを伝えてくる。

 

「オールド・オスマン……私、今怒っています……何故だか、お分かりになりまして……?」

「えっ! い、いやー、な、何故かのう!? あ、ああ、わかったぞ! さては昼飯に嫌いなものが出たんじゃろ! いかんぞぉ、いい大人が好き嫌いなぞしては!」

 

 オールド・オスマンの現実逃避に、コルベールは彼の胸倉に掴みかかり、ミス・ロングビルを刺激しないように小声で叫んだ。

 

「ちょ、ちょっと何言ってるんですか! どう考えたってあんたがなんかしたんでしょ! 早く謝ってください! とばっちりで私まで殺される!」

「いやいやいや! 簡単に謝ってみろ! あの鞭で磨り潰されてひき肉になるまで打たれ続ける羽目になるぞ! ここは誤魔化して突破口を見つけるのが上策というもの……」

「無駄ですよ? もうそんな段階は通り越してますから……」

 

 絶望を告げる言葉が静かに耳に届く。ひぇっ、という間抜けな声が男二人の口から漏れた。

 ミス・ロングビルはもう笑っていなかった。まるで能面のような表情は徐々に憤怒を込めた鬼の顔へと変わっていく。その怒りを止める手段がある筈も無い。無情にも、男たちはただぶるぶると小刻みに体を震わせることしか出来なかった。

 

「……堪忍袋の緒は切れてんだ……ぶっ殺してやる! このクソ爺がああァァァ!」

「ぎゃああああああああぁぁぁぁ!」

 

 ──それから、オールド・オスマンに対して始まった暴虐の嵐を、コルベールは部屋の隅で縮こまり、震えながら過ぎ去るのをただ見守っていた。

 コルベールは心に誓った。今後何が起こったとしても、ミス・ロングビルを怒らせることだけは決してしないようにしよう、と。彼にとって幸いだったのは、ミス・ロングビルがその憤怒の標的にしていたのはオールド・オスマンただ一人だったことだ。

 

 哀れな学院長は振り下ろされる鞭の痛みに悲鳴を上げつづけていたが、ついには声も上げずに、ぴくぴくと小刻みに震えるだけのぼろ雑巾のような物体になっていた。

 部屋もひどい有様だ。今日まで磨き上げられていた床は振り下ろされる鞭の衝撃にあちこちがひび割れ、オールド・オスマンの血があちこちに飛び散っている。彼が散らかしていた書類にも、血は容赦なくついていて、いくつも作り直さなければいけなさそうだ。過去の偉大なメイジを模した石造りの彫刻の顔にも鮮血は飛んでいて、持ち主同様の痛ましい姿になっている。

 ただ、オールド・オスマンが途中で『よく考えたら美女にお仕置きされるなんてご褒美かもしれん!』と変態じみた発言をして、ミス・ロングビルの鞭の勢いがさらに激しくなったのはここだけの話だ。

 ミス・ロングビルは肩で息をしていたが、床に倒れ伏すオールド・オスマンを一瞥すると苦々しげにため息をついた。

 

「はぁ……こんだけやってもまだ死にやがらねぇのか……いいでしょう、オールド・オスマン。私も殺す気でやりましたから、これに耐えたということで許して差し上げます。ただし! 次に同じことをして助かる保障はありませんよ!」

「……は、はいぃ……肝に、銘じて、おきます……」

 

 オールド・オスマンはうつぶせに倒れたまま弱々しげに言った。返事を聞くとミス・ロングビルはまた深いため息をつくと、凶器を懐にしまい、腕を組んだ。修羅の如き怒りを納め、いつもの知的な雰囲気に戻ったのを見て取って、コルベールはおずおずと彼女達の元に戻ってきた。

 

「はは……あなたも大変ですな、ミス・ロングビル……この変態の秘書だなんて……」

「全くですわ! 何度お仕置きしてもまるで懲りませんのよ! ああ、私の苦労をわかってくださるのはあなただけですわ、ミスタ・コルベール!」

 

 感極まったようにそういう彼女に、いかに自分達が同じ境遇にいるかをアピールすれば、彼女にお近づきになれるかも、と思ったコルベールはオールド・オスマンについ先日された無茶振りの話を始めようとした。いくら怒ったら怖いといっても、彼女が魅力的な女性だということはコルベールには変わらない事実だった。

 

「ええ、わかりますとも! 私も彼には苦労をかけられっぱなしでして! この間もですね……」

「あっ、お仕置き以外でオールド・オスマンに伝えなければいけないことがあったのをすっかり忘れておりました!」

 

 が、少なからず下心を含んだその目論見は、慌てたような彼女の声に遮られてしまう。コルベールはとほほ、と肩を落としながらも、その声のトーンに緊急性を感じ、面倒くさそうにむくりと起き上がったオールド・オスマンと共に続く言葉を待った。

 

「オールド・オスマン、学院の教師達が『眠りの鐘』の使用許可を求めています」

「『眠りの鐘』? なんでまたそんなものを使う必要があるんじゃ?」

 

 オールド・オスマンは乱れた髭を撫で付けながら、怪訝そうに眉根を寄せて聞き返した。『眠りの鐘』とは魔法学院が所蔵する秘宝の一つで、その鐘の音を聴いたものを眠りに誘うというマジックアイテムである。

 

「それがどうやら決闘がヴェストリの広場で行われているそうでして……ご存知だと思いますが決闘は規則で禁じられていますから、教師達が止めに入ろうとしたのですが、もう既に野次馬の生徒達が大勢集まっているせいで近づけないそうなんです。そこで『眠りの鐘』を使って、決闘を止めようと……」

「はんっ! 馬鹿馬鹿しい! そんなガキどもの喧嘩如きに学院の秘宝を持ち出せるわけがなかろう! 勝手にやらせておけばよいわ! むしろ実戦のいい訓練になるじゃろうて!」

「オールド・オスマン! 無責任なことを言わないでください! 彼らが怪我をしたらどうするのです! もし取り返しのつかないことがおきてしまったら……」

 

 コルベールの非難にオールド・オスマンはひらひらと手を振って答える。

 

「学生同士の決闘なんぞ、死人が出るようなものではないよ、コルベール君。骨が二、三本飛び出るくらいがせいぜいじゃ。金はかかるが十分治せる。それに、ほんの十数年前までは学生間の決闘なんていい見世物代わりじゃったろうに……」

「それでも可能性はゼロではないでしょう! 危険は避けるべきだ!」

 

 普段は穏やかな態度を崩さないコルベールが珍しく語気を荒げるのに、ミス・ロングビルは若干驚きながらも再び口を開く。

 

「それが……今回の決闘は学生同士ではないそうなんですよ」

「何じゃと?」

「どういうことですか? ミス・ロングビル?」

 

 二人の訝しげな視線にミス・ロングビルは答える。

 

「なんでも、メイジと平民の決闘らしいんですよ」

「平民と!? そんなもの勝負になるわけがない!」

「一体何処の馬鹿もんがそんなことをしたんじゃ?」

 

 慌てて大声を出すコルベールと、あきれたように言ったオールド・オスマンに、ミス・ロングビルは困ったような表情になりながら続ける。

 

「決闘を申し入れたのはギーシュ・ド・グラモンです。何でも昼食時にトラブルがあったそうで……」

「ああ、グラモンとこの馬鹿息子か……あそこは揃いも揃って女好きじゃからのう……大方それが原因か?」

 

 オールド・オスマンは頭をふりながら、脳裏にグラモン元帥の顔を思い浮かべて言った。

 

「まずいですよ、オールド・オスマン! 大変な惨事となってしまうかもしれません! 止めるべきだ!」

 

 コルベールは勢い込んでそう叫んだ。しかし、オールド・オスマンはつまらなそうに一瞥すると、頬杖を突いて言った。

 

「放って置け」

「はぁ?」

 

 コルベールは思っても見ない返答に、間の抜けた声を上げた。

 

「よろしいのですか?」

 

 ミス・ロングビルも、訝しげに眉をひそめて聞いた。

 

「よいよい。貴族同士の決闘に比べてむしろ怪我も軽くてすむじゃろ。魔法が使えない平民相手に、全力を出すなぞそれこそ貴族の恥じゃ。いくら頭に血が上ろうとも、そこまでグラモンの息子も馬鹿ではあるまい」

 

 平民相手に決闘を申し入れた時点でよっぽどじゃとわしは思うが、とオールド・オスマンは続けて呟いた。

 

「おっしゃっていることはわかりますが……」

 

 と、コルベールは不安げに言った。

 

「なに、取り返しのつかんことが起きそうになったら、きちんとわしが対応するわい」

 

 オールド・オスマンは、興味なさげに、しかしはっきりとそう答えた。

 

「……まあ、オールド・オスマンがそこまでおっしゃられるなら……それではそのようにします」

 

 ミス・ロングビルはそういうと、部屋の出口に向かって歩いていった。

 

「あっ、そうそう。そういえば、なんでもミスタ・グラモンの決闘のお相手は、耳がとがっているのにエルフじゃないとかいう、噂の召喚された人だそうですよ」

 

 部屋の扉を開けたミス・ロングビルは、つい思い出したことを、中にいる二人に向かって何の気なしにいった。それにしたって、エルフじゃないならどうして尖った耳なんでしょうね、と不思議そうに首を傾げると、扉をぱたんと閉めて去っていった。

 

「召喚された、人……? まさか、決闘の相手はミス・ヴァリエールの?」

「何じゃ? 知り合いか?」

 

 オールド・オスマンの問いかけに、コルベールが答える。

 

「ええ、といっても、少し話をしたくらいですが。昨日の使い魔召喚の儀で、前例のないことに人間の剣士が召喚されたのです。しかし、驚いたことに耳が見事に尖っていたんですよ! てっきり生徒がエルフを召喚してしまったんじゃないかと、私は肝を冷やしましたよ……」

「なんじゃと!? わしはそんな話知らんぞ!」

「あなたは昨日、一日中学院のどこにもいなかったそうじゃないですか……一体どこに隠れてたんですか? ミス・ロングビルが怒ってましたよ、学院中の何処を探しても見つからないって」

 

 コルベールは呆れた様子で言った。

 

「はて、そうじゃったかのう? 忘れてしまったよ、もう年なのでな」

 

 悪びれもしないオールド・オスマンの態度に、コルベールは頭を抱えてため息をついた。都合が悪くなるとこの男はいつもこうである。そのくせ人をいじるためのネタだけは絶対に忘れないから始末が悪い。

 

「……それにしても……エルフそっくりの剣士か……まさかとは思うがのぅ……」

 

 オールド・オスマンはその見事にたくわえられた髭に手をやりながら、小声で呟いた。コルベールには何も聞こえていなかったようで、彼は真剣な面持ちで考え込みながらいった。

 

「しかし、彼が相手となればそれこそ大変な結果となってしまうかもしれません! やはり止めに行かなければ……」

 

 コルベールは脳裏にリンクの姿を思い浮かべていった。かなり手練の剣士であることは容易に見てとれた。確かに彼は有象無象の平民よりはよっぽど強いだろう。

 しかし、逆にそれが事態を深刻なものにしてしまうかもしれないことをコルベールは恐れた。すなわち、決闘を仕掛けたメイジである貴族が手加減を忘れ、本気で戦いはしないだろうかということだ。

 それぞれの実家で訓練くらいはしたこともあるかもしれないが、戦いの機微もまだしらない生徒たちである。興奮に我を忘れてしまうようなことだって十分に考えられる。しかも、相手は同じメイジではない。そのような状況になった時、メイジ相手に剣士が自分の命を守ることが出来るか、コルベールには疑問だった。

 また、多対一の状況ならともかく、一対一で剣士がメイジに勝つことなどありえないのだ。お互いに剣の届く間合いで戦い続けると言うならば話は別だろうが、乱戦でもない決闘ならそれも無い。

 やはり私が止めなければ! コルベールがそう思い振り向いたところで、背後から強い声がかかった。

 

「わしは放っておけと言ったのだぞ! コルベール君!」

「オールド・オスマン、しかし大事になってしまっては……」

 

 オールド・オスマンは決然とした表情で、きっぱりと言った。

 

「どんな事情があったにせよ、決闘を申し込み、そして受けたのならば、どんな結末であってもそれはそやつらの責任じゃ! メイジ相手に決闘を受けたのならば、その平民とて戦うことを選んだのじゃ。到底勝てる見込みのない相手を敵に回そうとしてもな!」

「それは……」

「ならばその意志を見届けてやろうではないか。互いに退けぬからこそ戦う。それこそ決闘というものじゃろう」

 

 オールド・オスマンはそこまで言うと立ち上がり、部屋の隅へと歩いていって、なにやらがさごそやり始めながら言った。

 

「なに、そう心配するでない。さっきも言ったが、取り返しのつかない事態になりそうだったら、わしがちゃんと止めてやるわい」

 

 コルベールはオールド・オスマンの言葉にしばし逡巡していたが、目を閉じて一つ、ふぅと息をつくと彼に任せることに決めた。確かにオールド・オスマンの言い分も分かる。学院の生徒と使い魔の剣士とはいえ、決闘ともなれば本人たちには退けない思いがあるのだろう。

 それに、オールド・オスマンだって決めるところはしっかり決めてくれる人物だ。だからこそコルベール自身、普段は人をからかい、ふざけてばかりで、挙句の果てにセクハラ三昧であっても、この老魔法使いを信用しているのである。

 

「……しかし、あれはどこじゃったかのう……なにせめったに使わんものじゃから……お、あったあった」

 

 オールド・オスマンは部屋の隅に家具やらなにやらに埋もれていた鏡を取り出すと、たまっていた書類をおりゃ、と豪快に薙ぎ払ってから、自分の机の上に置いた。

 杖で魔力を込めることにより、遠くの景色を見ることが出来る魔法の鏡──遠見の鏡だ。学院内程度の範囲ならば、自由に見ることが出来る。覗きには臨場感が足りないというあんまりな理由で、普段は部屋の片隅で眠っているアイテムである。決闘の様子を覗くためにわざわざ引っ張り出されたというわけだ。

 

「ま、それはともかくとして、お主はわしに何か用があったんじゃないのかの?」

 

椅子に腰を下ろしたオールド・オスマンは問いかける。

 

「ああ、そうでした! お聞きしたいことがあったのをすっかり忘れていました! 実は先ほどから話題に上がっている、その彼のことなんですよ。人が召喚されただけでも驚きなのですが、使い魔の証のルーンまで奇妙でして……契約をすると使い魔の体のどこかにルーンが刻まれるのはご存知でしょう。それが、彼の左手の甲に現れたルーンは、これまでのどのルーンとも異なっていたんです」

 

 コルベールは困惑した表情でそういった。

 

「全く新しいルーンが現れたと?」

 

 オールド・オスマンの問いかけに、コルベールは頷きながら答える。

 

「ええ、これまでに記録に残っているどのルーンとも似ても似つかないものです。図書館にある古文書まで調べたのですが……オールド・オスマンならば何かご存知ではないのかと思いまして」

 

 これがそのスケッチです、とコルベールが鏡に杖を振ろうとしたオールド・オスマンの前にスケッチを取り出した。

 それを一瞥した途端、オールド・オスマンの顔色が変わった。驚愕に目を見開き、ふるふると指先を震わせながらスケッチを受け取り、何かの間違いではないかとまじまじと見つめる。

 あまりの様子の変化にコルベールもにわかに緊張を覚えると、オールド・オスマンはがたりと椅子から立ち上がり、杖を振って食い入るように鏡を見つめた。

 まさか、本当に──、とオールド・オスマンは声を震わせながら小さく呟いている。

 

 しばらくすると、ぐにゃりとそれまで映り込んでいた学院長室の風景が歪み、薄くなっていく代わりに、上空から眺めたヴェストリの広場の様子が見えてきた。円状に集った大勢の生徒達に、その外側で相談をする教師達、そして観衆の中心に向かい合って立つ二人。

 オールド・オスマンは杖を握る手に力を込めた。手のひらにじっとりと浮かぶ汗を感じ、ごくりと喉を鳴らしながら、もどかしげに目的のものが鏡に映るのを待つ。だんだんと鏡に映る映像は中心に立つ二人の姿を大きくしていき、さらにそのうちの緑衣の人物だけを映すようになった。

 ハルケギニアでは見慣れぬ緑衣に、背負う長剣と鏡の盾、革のブーツと金色に輝くグローブ、そして長く尖った耳。リンクだ。

 オールド・オスマンはリンクの顔がはっきりと鏡に浮かぶと、思わずはっと息をのんだ。そして感極まった小さな声がその口から漏れ出た。

 

「──レバン」

 


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