ゼルダの伝説 虚無《ゼロ》の少女と時の勇者   作:すもーくまんじゅう

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騎士の託したもの② 老翁の語りし過去

 オールド・オスマンにとって、その日もいつもと変わらぬ散策──放浪、といった方が適切かもしれないが──だった。気が進まないからと机の上に山積みとなった書類と、ちくちくと小言を続けては仕事へ駆り立ててくる小太りの神経質な秘書、そして決まって面倒ごとばかりを持ってくる、嫌な笑顔を貼り付けた王宮からの使いに別れを告げ、自由と杖だけを供にして誰もいない場所へと旅立つのが彼の悪癖だった。

 行先を告げることもなくふらりと姿を消し、風に吹かれる綿毛のように、ただ気の向くままに行きたい場所へ向かう。そして、うるさい秘書の詰る声を聞き流しながらも、あの学院長室の椅子に身体を沈めたいと心から思えた時に、再び学院へと足を向けるのだった。

 オールド・オスマンが学院を旅立ってから帰る気が起きないまま、早くも十日が過ぎていた。既に街は遠く離れて、深い森の木立の中、道と呼んでいいかも憚られるような場所を、彼は歩いていた。

 何とも運のいいことに打ち捨てられた廃村を見つけることが出来たため、風雨に打たれながらの野宿は二日で済んだ。まだ状態がよく残されていた家屋の一軒に失礼ながら潜り込み、仮初の宿を得られた分、思うままに森の中を歩き回ることが出来た。

 清々しい空気が流れる、雲一つない快晴の朝だった。日の出と共に目を覚ましたオールド・オスマンは簡素な朝食をとって腹ごしらえをした後に、ここ数日の日課となっている木立の中の散歩へと出かけていた。深い森の中でもその日のように晴れ渡った日には木漏れ陽の温もりを感じることが出来た。小鳥のさえずりと風に揺れる木々以外には、落ち葉を擦り減らす自分の足音と呼吸の音だけしかしない静寂の中、穏やかな心でオールド・オスマンはゆっくりと歩いていた。

 半刻はそうして過ごした頃だった。ぽつりと頬に冷たいものが当たった。拭ってみると、それは水滴だった。不思議に思っていたのもほんの束の間、突然雨混じりの強風が正面から顔に叩きつけるように吹き付けてきた。思わず腕で顔を覆っていると、見る見るうちに辺りが暗くなっていく。快晴だったはずの空には俄かに黒雲が広がり、身を竦ませるような雷鳴が轟いた。吹き付けてくる風は既に痛みを感じるほどの暴風になっていた。

 嵐の中に放り込まれてしまったようでそれまでの穏やかな気分はすぐに消し飛び、代わりに恐怖にも似た不安が広がった。不穏を予感させるには十分すぎる天候の変化だった。身体を濡らす雨は冷たく、ぶるりと震えた。

 早く戻ろう。そう思い立ったオールド・オスマンだったが、次の瞬間、凍りついたように立ち尽くしてしまった。

 視界の隅に映ったもの。木立の合間に蠢く影。一瞬の雷光に照らされたその姿はまさしく怪物だった。

 一つは人を模した竜と呼ぶのが相応しいように思えた。全身を鱗で覆われ、裂けた大きな口から鋭い牙を覗かせるその竜は、二本の足で直立し、胸当てのような鎧を着け、剣を握っていた。雨に濡れる鱗はぬめつくように不気味な質感を帯びていて、それが吐き気を催すような嫌悪感を抱かせた。

 何よりも悍ましく、怖気を走らせるのはその瞳だった。ナイフで入れた切れ込みのように鋭く細長いその瞳孔は、獲物を前にして興奮と喜悦に塗れて邪悪に歪んでいた。剣と牙とで引き裂いた血肉の味でも思い出したのか、二股に裂けた紅い舌が牙の間を這うようになめずるように動いていた。

 もう一つの怪物は生ける骸骨とでも呼ぶのが相応しいだろうか。稲妻のように折れ曲がった歪な剣と、太鼓のようにも見える、中心が盛り上がった盾を握るその剣士には、一切の肉がついていなかった。肉の無い骸でもずり落ちずに装備出来るわずかばかりの防具を着けた、その骸骨剣士の肋骨の隙間からは、向こうの暗がりが透けて覗いていた。

 不快な軋みを立てて、その頭蓋は、小刻みに、不穏に揺れている。闇を湛える眼窩の中心には不安を覚えさせるほどに真っ赤な光があった。歪に並んだ歯が打ち鳴らされて、けたけた、かちかちと甲高い音を立てる。それと同時に、どこから出しているのか全く分からないが、墓穴の底から這いあがるように気味の悪い、低い嘲笑う声が響いていた。

 ──あれは何だ。オールド・オスマンは目の前の光景に、動くことが出来なかった。熊のような野獣や廃墟にはびこるオーク鬼なら彼は見たことなど何度もあったし、その相手もしてきた。だが、今目の前に現れた奴らはこれまでの長い放浪の中でも見たことがなかった。

 何より彼をぞっとさせたのは、肌に突き刺さるように伝わってくる悪意と邪悪さだった。それは、これまで彼が相対したものの中で感じたことがないほどに強かった。

 その怪物たちはゆっくりと、這い寄るように近づいてきた。どうやっていたぶろうか、その算段を付けているかのように、時折不快な声を漏らしていた。

 近づいてきたことではっきり見えたことがあった。怪物たちが握る剣はくすんだようにオールド・オスマンには見えていた。汚れや錆に覆われているかと思ったが、それは違った。刃を覆ったそれは、どす黒く変色した血と脂だったのだ。どれほどの数の人を斬ったのか、雨に打たれてもそれが流れていくことは決してなかった。よく見れば怪物の身体のあちこちにはバケツをぶちまけでもしたかのように返り血がべったりと付着していた。

 竜人の興奮の叫びに、我に返ったオールド・オスマンは振り返って駆け出そうとする。しかし、それは出来なかった。いつの間に囲まれてしまっていたのか、振り向いた先にも何体もの怪物が待ち構えていたのだ。例外なく、鮮血を浴びている怪物たちはこちらに向かって剣を振り上げていた。

 近づいてきた、背筋を凍らせる気配に、オールド・オスマンは再び振り返った。そこには骸骨剣士がもう目の前に躍りかかってきていて、その歪な剣を振りかぶっていた。

 しかし、斬り裂こうと迫る歪な剣がその身に届くことはなかった。オールド・オスマンが咄嗟に唱えたルーンが生み出した土の槍が骸骨剣士を貫いたからだ。骸骨の身体は宙でばらばらとなって崩れ落ちた。

 段々と背後から距離を詰めてくる、牙を剥き出しにして甲高い叫び声をあげる竜人と、構えを解かず不穏な嘲笑を浮かべた骸骨剣士に振り向き、オールド・オスマンは杖を構えた。次に襲い掛かってきた奴のどてっぱらに、今度は風穴を開けてやるつもりだった。強力な魔法をそう連続で放つことは出来ない。だが、先に襲い掛かって返り討ちにあった骸骨剣士の姿に、警戒するように距離を詰めてこない怪物たちを見て、そうすべきだと判断した。ただ斬りつけに行くだけではやられる。そう思わせることが重要であり、怪物たちにはそれを判断するだけの知能があるようだった。

 数の差を頼まれ、遮二無二突っ込んでこられれば、捌き切れることなど出来ずにいずれ近づけてしまうことになるだろう。そうなってしまえば老体のオールド・オスマンに最早成す術はなかった。適度に距離を取らせさえすれば、逃げるにせよ、戦うにせよ、手の打ちようはいくらでもある。

 オールド・オスマンの判断は正しかった。足元でかたかたと音を鳴らして不気味に蠢く、ばらばらに崩れた骸骨剣士の残骸に気付くことが出来ていれば──で、あったが。

 だが、オールド・オスマンは周囲を取り囲む怪物たちに杖を突き付け、注意を払っていたために気付くことが出来なかった。

 オールド・オスマンは驚愕した。突如として自分の杖が掴まれたからだ。視線をやると、背後から伸びる白骨が、肉の無い指で杖を掴んでいる。首だけで振り向くと、そこには先ほど土の槍でばらばらにして足元に残骸となって転がっていたはずの骸骨剣士の元の姿──いや、それは正確ではない、なぜならそこには頭蓋がなかったからだ──がいた。

 それは骨だけの姿からはとても想像もつかない、万力のような力でオールド・オスマンの杖を掴んでいた。渾身の力でオールド・オスマンは杖を引くが、びくともしなかった。やがて、ひとりでに浮かび上がった頭蓋が元の位置にかちりとはまると、眼窩の紅い点がぎらつくように危険な光を放った。

 それはオールド・オスマンの杖をひねり上げた。オールド・オスマンは必死で抵抗したが、手首がねじ切られかねないほどの苦痛に、杖から手を離すしかなかった。骸骨剣士は杖を後方へ投げ捨てると、持っていた盾でオールド・オスマンの顔を思い切り殴りつけた。

 襲ってきた衝撃にオールド・オスマンは倒れ込んだ。音が遠くなり、視界は焦点も合わず、上下すらはっきりわからなかった。ようやく感覚が戻ってきた時には苦痛も同時にやってきていた。思わず苦悶の呻き声が漏れた。口の中で血の味がはっきりと感じられた。怪物たちは愉快そうに嘲笑を上げていた。

 ──杖だ。杖を取り戻さなくては。頭を振って起き上がったオールド・オスマンは視線を走らせて杖を探した。杖を奪った骸骨剣士と後ろにいた竜人との間に、それは落ちていた。だが、その竜人は杖を見つけたオールド・オスマンに向かい、確かに残酷に笑った。そして、竜人は息を吸い込むと、燃え盛る火炎を杖に向かって吐き出したのだ。

 希望は一瞬で潰え、代わりに絶望が空を覆う黒雲のように広がっていった。ばちばちと弾ける音と見る間に灰へと変わるその姿が非情な現実を突き付けてくるようだった。

 オールド・オスマンがスクウェア・クラスのメイジであっても、杖なしでは魔法を使うことは出来ない。最早、この怪物たちに抗う術はなく、逃げることも叶わない。残っているのはただ嬲り殺されるのを待つことだけだった。

 怪物たちの嘲笑の声はさらに大きくなった。だが、オールド・オスマンは燃える自分の杖を呆然と眺めるだけだった。段々と怪物たちは近づいてくる。ここで終わりか。前触れもなく、理由すらわからないまま突然訪れた最期に、ただそう思った。

 だが、その最期は訪れなかった。杖を焼き尽くした竜人の首が突如として宙を舞った。どす黒い血が噴き出し、首のないその身体が膝をついたその時には、オールド・オスマンを殴りつけた骸骨剣士が先ほどとは比べ物にならないほど粉々に叩き斬られていた。骸骨剣士のその破片はひとりでに燃え上がり消滅していった。竜人の首が地面に落ち、どうと音を立てたのはそれとほとんど同時だった。

 怪物を瞬く間に討ち果たし、オールド・オスマンを救ったのはメイジではなかった。目の前に現れたのは、大小の傷が走り、あちこちが刃こぼれしている剣と、灼熱の炎に溶かされたように表面がなだらかになった盾とを握った剣士だった。荒く息を吐き、肩を上下させ、鎧を着けていないその身体にはどくどくと血が流れる幾筋もの斬られた傷があった。背中には何本もの矢が深々と突き立っている。傍目にはとても動くことなどできないような重傷に思えた。だが、何よりもオールド・オスマンの目を奪ったのはその耳だった。自分のものとは到底似ても似つかない、長く、尖った耳。それは話に伝え聞くエルフの耳そのものだった。

 その剣士はちらりとだけオールド・オスマンの方を見やると、傷など負っていないかのように、すぐに残りの怪物たちへと向き直り、剣を構えた。興奮した怪物たちは叫び声をあげ、ついに襲い掛かってきた。

 オールド・オスマンはその光景が信じられなかった。瀕死の傷を負っているはずの、エルフの耳を持ったその剣士は凄まじい速さで瞬く間に怪物へ近づくと、空を走る雷のように鋭い剣閃を浴びせかけた。竜人の首を断ち、瞳を抉り穿ち、喉笛を貫き、骸骨剣士の骨を裂き砕いた。怪物たちも剣を振り下ろし、その度に剣士の身体の傷は増えていく。しかし、どれだけの血が流れ、苦痛に顔を歪めようとも、剣士は一歩たりとも怯まなかった。次々と襲いかかる血に塗れた刃に傷つきながらも、怪物を斬り裂く剣を振るうのを決して止めなかった。

 気が付いた時にはどす黒い血を流す竜人の死体と、消滅した骸骨剣士が持っていた剣と盾だけが残されていた。

 長耳の剣士は剣に付いた血を振り払うと、ゆっくりとオールド・オスマンの方へと向かって歩いてきたが、がっくりと膝をつくと倒れ伏してしまった。

 それまで息をするのも忘れたように、身じろぎ一つ出来なかったオールド・オスマンは、はっと息を呑んで弾かれたように立ち上がり、足をもつれさせながらも、なんとか剣士の傍へと駆け寄った。

 剣士の身体はひどく冷たかった。顔色は青白く、浅く、荒い呼吸を繰り返していた。脈は弱弱しく、血を流しすぎているのは明らかだった。オールド・オスマンは低く、小さく唸った。地面についた手が無意識に握りしめられ、爪が肉に食い込み血が滲んだ。

 ──杖さえあれば。自分の無力が情けなく、やりきれなかった。杖さえあったならば、気休めであったとしても水の魔法で流れる血を止めるくらいは出来たかもしれない。土の魔法でゴーレムを作り出して街へと担ぎ込むことも、最悪でもフライの魔法で助けを求めに行くことくらいは出来ただろう。

 だが、それは叶わない。しかも、それは自分のせいなのだ。最初に怪物を見た時に驚愕と恐怖に呑まれることなく、即座に逃げ出すなり、攻撃することが出来ていれば、杖を失うことなどなかっただろう。自分を助けようとして、彼がこの怪我で戦うこともなかったはずだった。

 オールド・オスマンはぐっと息を呑み込んだ。そして、倒れた剣士の肩へ手を回し、何とか背負うようにして担ぎ上げた。そうして、自分が寝泊まりしていた廃村の家屋へと向かい、歩き始めた。筋肉で引き締まった剣士の身体は、老いたオールド・オスマンには大分重かった。もし彼が鎧を着けていたならとても背負うことなど出来ずに引きずるしかできなかっただろう。それでも、すぐに息が上がってしまう。

 だが、そんなことは関係がなかった。自分の後悔も、無力も、今は知ったことではない。命を救ってくれた礼すら言えないまま、決して死なせたりはしない。その思いだけが身体に鞭を打ち、奮い立たせた。変わらずに降り続ける雨が、ただただ冷たかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 オールド・オスマンはぬかるみに足を取られ、息も絶え絶えになりながらも、ここ数日の仮住まいとしていた家屋へとその剣士を何とか運び込んだ。もう打ち捨てられて幾年月も過ぎたこの廃村に、薬など残されているはずもなかった。それでも、ボロボロの家具と寝具の類くらいは残されていた。何軒も廃屋を周って集めた寝具を窓ガラスの破片で引き裂き、何枚もの布にした。

 そして、剣士の服を裂いて脱がせてから、背中に深々と突き立った矢を折れないように注意深く引き抜いた。何とか引き抜くことが出来たところで、傷口からはまた血が流れ出ていった。寝具を引き裂いて作った布を傷口へきつく巻いていき、それからベッドへと横たえた。

 どれもひどい傷だった。巻いた布にはすぐに血が滲んで赤く染まっていくが、もうオールド・オスマンに出来ることはなかった。これで流血が止まってくれるように祈るだけだった。剣士はその間中、呻き声一つ上げることはなかった。ただ、浅い呼吸だけが続き、身動き一つもすることはなかった。

 嵐は依然として吹き荒れていた。風も、雨も、家屋に叩きつけるように吹き続けていた。暗い空を照らすように雷が光り、近くに落ちた時には地面を揺らす衝撃と共に雷鳴が轟いた。

 何日か前にまだ生きていた井戸から汲んで貯めておいた水に布切れを浸し、オールド・オスマンは剣士の身体を時折拭ってやった。そうして剣士のことを見守りながら、ただ後悔に苛まれていた。

 もしも杖がこの手にあったならば。秘薬の一つでも持って出てきていれば。もし、誰かと一緒に来ていたならば。あの怪物たちにもう少しでも早く気付くことが出来ていれば。倒したと思ったあの骸骨に、もう少し注意することが出来ていたなら……。頭の中にそうした考えが廻り続け、決して離れることがなかった。一つでも違っていれば、目の前で苦しむこの剣士をすぐにでも救うことが出来たのかもしれなかったのに……。

 嵐の雲の上で太陽が沈み、夜の闇が訪れても眠ることは出来ず、オールド・オスマンは握り締めた拳を静かに震わせ、剣士の横で座り、ただ祈り続けた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 いつの間にか吹き荒れていた嵐は過ぎ去り、雨は止んでいた。時折滴が落ちる以外には何の音もしない、静かな朝だった。空から夜明けの光芒が窓から差し込み、横たわる剣士の金色の髪を輝かせ、その横顔を照らしていた。

 オールド・オスマンはただ彼のことをじっと見守っていたが、はっと息を呑んだ。果たしてオールド・オスマンの祈りが届いたのか、それまで身動き一つしなかった剣士が静かに目を見開いたからだった。その表情は静謐で、とても穏やかなものだった。オールド・オスマンは思わず胸が詰まり、自分でも何を意味していたのか分からない、掠れ声しか出すことが出来なかった。

 剣士はぼんやりと宙を見つめていたが、その掠れ声を聞いてゆっくりと視線を動かした。オールド・オスマンの姿に気が付くと、首を傾け、オールド・オスマンを見つめて優しく微笑んだ。

 

「あなたは……そうか、奴らに襲われていたご老人か……無事なようで良かった……」

 

 彼の声は胸の奥に染み入るように暖かで、澄んだものだった。オールド・オスマンが無事だったことを心から嬉しく思っているようだった。

 オールド・オスマンは椅子から立ち上がり、彼が横たわるベッドのすぐ傍に膝をついた。震えた声で話しかけた。視界の隅は微かにぼやけていた。

 

「おお……目が覚めたか、剣士殿! 良かった……! もしかしたら、もう目を覚まさないのではないかと……おぬしには、本当に……一体なんと礼をいえば良いか……」

「いや……」

 

 オールド・オスマンの言葉に、剣士は微かに首を横に振った。

 

「その必要はない……どうやら最期の時が来たようだ……」

「何を……!」

 

 剣士の言葉を、オールド・オスマンは即座に否定しようとした。しかし、こちらを見つめる剣士の瞳に、その声を出すことは出来なかった。その瞳が映す、全てを悟ったような、理解をした上でなお受け入れたその色に、オールド・オスマンはぐっと胸が詰まってしまった。

 

「自分の身体は自分が一番よくわかる…………私の負った傷は深すぎる……助かることはない」

 

 オールド・オスマンはがっくりと肩を落とし、俯いた。両手で顔を覆い、くぐもった、悲痛な声を漏らした。

 

「……わしを、助けたせいで……」

 

 嘆くオールド・オスマンに、剣士はふっと小さく笑って声をかけた。

 

「いや……貴方が気にすることは何もない。既に見ているだろうが……貴方と出会う前、私は既に致命の傷を負っていた……死ぬことに変わりはなかっただろう……」

「そんな……」

 

 剣士はそこで差し込んでくる朝の光へと顔を向けた。空の青が、やけに鮮明に感じられた。オールド・オスマンもやり切れない思いで顔を上げ、静かに照らす太陽をじっと見つめた。

 

「……きっとハイラルの神々が最期に慈悲をくれたのだろう……こうして死の間際に、誰かと話をする時間を与えてくれたのだから……」

「……ハイラル……?」

 

 剣士の聞きなれない言葉にオールド・オスマンは声を上げた。剣士はオールド・オスマンへと視線を戻した。

 

「……ご老人、貴方はハイリア人ではないな。私とは違う、丸い耳だ……ここは……ハイラルではないのだな……?」

 

 剣士の言葉に、オールド・オスマンは頷き、戸惑った口調で返した。

 

「ハイラルとは何か、わしにはわからぬ……。ハイリア人というのも聞いたことがない……。ここはハルケギニアのトリステイン王国じゃよ。ハイラルとは……おぬしの国の名か?」

「……ああ、その通りだ……私はハイラル王国の騎士、レバン。……私の家は、代々王家に仕えてきた騎士の家系でな……此度の戦にも、ハイラル王に従い、戦ってきた。……最近は、ある城の守りを任されていて、戦いもそうなかったのだが……突然、真夜中にあの魔物どもの襲撃があったのだ……」

 

 ひとつ小さく息を吸って、レバンは続けた。

 

「私が火急の報を聞いた時には、街からも、既に城の内部からも火の手が上がっていた。なんでも、突然、あちこちで人が魔物に姿を変えて襲い掛かってきたということだった……。恐らく、街の中に潜り込んだ敵が、魔術師の力を借りて禁術を使ったのだろう……自らを、魔物に堕としてまでも、我々のことを滅ぼしたかったのだろうな……。……鎧を着る余裕もなく、剣と盾だけを持った時には、城下の門が破られ、さらに魔物たちが雪崩れ込んできているような有様だった」

 

 レバンは一度そこで言葉を切って、浅くなった呼吸を整えてから再び口を開いた。

 

「もはや出来ることは人々が逃げるための時間を命ある限り稼ぐことだけだった。わずかばかりの無事だった兵たちには一人でも多くの人を逃がすように命じ、妻にも赤ん坊の息子を連れて逃げるように馬に乗せて別れ……それからはただひたすらに奴らを斬り続けた……しかし、どれだけ剣を振り、斬り裂いたところで敵の勢いは衰えることがなかった。一匹斬ればまた新しく三匹湧いてくると思えるほどだった。……一つ、また一つ傷は増え、血は流れていった……。気が付いた時には味方は皆倒れ伏し、まだ立っているのは私一人だけだった。……魔物どもに囲まれ、これまでかと思ったのだが……どうやら、訳も分からぬ内に随分と遠い所へ飛ばされてきたらしい…………」

「飛ばされた、とは……?」

 

 オールド・オスマンの問いに、剣士は微かに眉根を寄せた。

 

「私は奴らに囲まれていたのだが……それが突然、目の前が真っ暗になったように何も見えなくなり、何かに引っ張られるようにもみくちゃにされたと思ったら、いつの間にか、あの森の中で倒れていたのだ……何をされたのか、誰にされたのかも何も分かることはないが……私がそれまでいた場所とは全く違う場所だということは間違いないだろうからな……」

 

 そこでレバンは微笑みを浮かべて、オールド・オスマンに笑いかけた。

 

「だから、貴方が気に病むようなことは何もないのだ……あの魔物たちは私が戦っていたものだ。むしろ、私が貴方を巻き込んでしまったようなものなのだから、謝るべきならば私の方だろう。……それに、私の命は、私の戦いの結果だ。責を負うのは私自身だよ」

 

 レバンはふっと息を漏らし、満足げに小さく微笑んだ。

 

「数奇なことだ……まさかこのような異国の地に飛ばされて最期を迎えることになるとは。だが、貴方を助ける役に立てたのだったなら……それも悪くはない」

「おぬし……」

 

 それ以上に言葉を返すことが出来なかったオールド・オスマンに、レバンは笑いかけ、優しい、穏やかな声で続けた。

 

「死の間際になると、過去のことが思い出されるというのは本当だな……思い出がいくつも浮かんでくる……幼き頃に駆け回った庭や、連れ添った愛馬のこと……王に付き従った戦……修行のためにハイラルを遠く離れた地での日々……そして……何よりも愛する家族のことが……」

 

 レバンは深く息を一つ吐いて、それからオールド・オスマンを見つめた。その青い瞳の帯びた色が、オールド・オスマンの胸を詰まらせた。

 

「……ご老人。どうか私の最期の頼みを聞いてもらえないだろうか? 」

「……気休めの言葉は、無駄なのじゃな?」

 

 沈痛な面持ちでそう問いかけたオールド・オスマンに、レバンは穏やかな表情のままにこくりと頷いた。

 

「わかった……約束しよう」

 

 微笑んだレバンはゆっくりと胸元へ手をやった。オールド・オスマンは胸が締め付けられる思いでただそれを待った。

 

「……これを」

 

 レバンが力ない手つきで留め金を外し、掲げたのは銀のペンダントだった。揺れる銀鎖が澄んだ音を立てた。

 

「叶うのならば、それを私の家族──エリスとリンクに──どうか渡してはくれないだろうか……私が、家族のことをいつも想っていた証として……エリスは、彼女はとても賢い人だ……きっと、うまく逃げおおせてくれているだろう……私はそれを信じている」

 

 オールド・オスマンを見つめる瞳を、レバンは心苦しそうに細めた。

 

「……名も知らぬ異国だ。どこにあるかもわからないのに、こんなことを頼むのはすまないと思うのだが……」

 

 オールド・オスマンはその言葉を遮るようにレバンの手を力強く両手で握った。真っすぐな眼差しで頷き、そのペンダントを受け取った。

 

「……確かに託された。このオールド・オスマン、たとえ何があっても、どれほどの時間がかかったとしても、おぬしの最期の願いを果たそう。そして、おぬしがどれほど勇敢で、高潔な騎士だったかを語ろう。見ず知らずの老いぼれの命を救ってくれた、その尊き行いを必ず伝えようとも。それが、おぬしへの、せめてもの恩返しじゃ」

「……ありがとう……心から感謝するよ……」

 

 安堵したのだろうか、もう一度、深く息を吸い込み、ゆっくりと吐き出したレバンは、オールド・オスマンへにっこりと笑った。朝日を受けるその笑顔は、穏やかで、美しかった。そして、哀しみがあった。

 

「……面倒事を頼んですまない。そして……手当てをしてくれてどうもありがとう、オールド・オスマン」

 

 そういって、レバンはすっと目を閉じた。口元には小さく微笑みが浮かんでいた。

 

「あの子は、まだほんの赤ん坊だ……私の顔なんて……きっと、覚えていないだろう……もし、これを見て……私のことを知ってくれたのなら……嬉しいな……」

 

 それを最後に、もう彼が再び目を開けることはなかった。穏やかな光だけが、変わらずに窓から差し込み、包み込むように照らしていた。

 

 


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