竜娘の異世界旅行記   作:ガビアル

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四話

 ──生きたいか、さほどに生きたいか。

 どこかでそんな言葉を聞いた覚えがある。どこで聞いたのだか、ひどく曖昧で、靄がかかり、知ろうと手を伸ばせば伸ばすほど掴めない。そんなもどかしい感覚だけが手元に残る。

 

 目を開く。この辺りは雀の親戚でもいるのか、部屋の外でやかましくピチョピチョと囀る声が聞こえた。

 体を伸ばす。気分的なものだ。何より気持ち良い。

 横に転がり、肌触りの良い布団に頬をすりつけた。赤色ベースの色彩豊かな敷布だ。織物はこの町の特産らしい。交易の中継地らしく、豊富な素材が行き交う中、いつの間にか発展していたのだとか。昨日の食事の後の宴会で聞かされた事だ。

 この商会が特殊なのか、あるいはこの辺りの人はみんなそうなのか判らないが、食事は家族同士で静かに食べ、宴会は商人見習いや厩の番、出入りしている業者まで入り交じり、大広間を使って飲めや歌えやの大騒ぎだった。聞けば週に一度はこんな宴会をやっているらしく、今回はフレッドも含め、十二組の交易商が無事荷を届ける事ができた祝い……ということらしい。

 身を起こし部屋を見れば、ミラベルさんが昨日とは逆の向きになり、なぜか壺を抱きしめ眠っている。窓から入る朝日に照らされた髪が赤々とした色を見せ、頬に流れ落ちていた。

 

「昨日はだいぶ飲んでたもんなあ」

 

 二日酔いは大丈夫だろうか、ちょっと酒臭さも感じてしまう。飲んでいる間も容儀をまったく崩さず、にこにこしていたミラベルさんだったが、寝顔は表情が緩み、少女めいたものが色濃く感じられる。掛け布団を盛大にはがしてしまっていたので、起こさないように掛け直した。

 

「しかし……」

 

 再び部屋をぐるっと見回して何ともなしに呟く。

 そんなに広い部屋じゃない、煉瓦の壁にはその内装が剥き出しになっているのを嫌ってか、物語の一節でもあるようなタペストリーが飾られ、壁際の棚には重そうな本や、壺や花瓶、ミラベルさんの趣味なのか、何種類ものデザインのオイルランプが並んでいた。

 こうなる前だったらとても喜ばしい事態だったかもしれない。綺麗な女の子と同衾なんてのは何だかんだ言って男のロマンなのだ。おそらく。

 腕を組んで静かに息をついた、起こさないように。この辺りの習慣か、女性の飲酒や放言については寛容だが、未婚の男女が同じ部屋に寝るというのはかなりのタブーらしい。旅先ならやむを得ないともされるようだが、少なくとも家主の居る家ではそういう事はよろしくないそうで、どうも家主に対する無礼に当たるようだった。

 寝場所は何となく、フレッドの部屋にちょっと邪魔すればいいや、などと軽く考えていたのだが「とんでもない事」と皆に止められ、ミラベルさんの部屋にお邪魔することになってしまったのだ。

 

 起こさないようにそっと扉を開け、廊下に出る。アーチを描いているドアも木製ではあるものの、真鍮か何かで装飾されていて妙に派手に感じた。

 本館の三階、両側にいくつもドアのある一画を抜けると吹き抜けになっており、正面玄関へも続いている。階段を下り、一階の正面とは逆側の廊下を行き、広い中庭に出た。

 昨日は夜なので真ん中に高い木がある程度にしか思わなかったのだが、それだけでなく中庭は緑で溢れていた。石が敷かれた道の脇には背の低い木が何本も植えられ、花を咲かせているものもある。中心部の大きな木から鳥の鳴き声が盛んに聞こえる。隅にある畑では、早くもおじさんが手入れを始めているようだった。

 ぶらぶらと歩き、中心部にある木の下まで行く。大きく枝を広げた木の下には草が一面に茂っていて緑の絨毯のようだった。

 

「ふむ」

 

 自分の服装を見て、どうしたものかと首を傾げる。

 寝る時用の服として着せられたのが、また足首まである長い、ゆったりとしたワンピースだったのだ。ローブと言うのだろうかこういうのは。着心地はやたらさらさらしている。足元まで見て気付いた。

 

「サンダル忘れた……」

 

 貸してもらってたのにまた素足だった。違和感がないので困る。

 まあいいかと、裾を持ち上げ、太ももの辺りで余った布を縛る。うん、動きやすくなった。

 一飛び、軽く地を蹴り、下の太い枝にぶらさが──飛び越してしまった、何とか尻尾でバランスを取って枝に飛び乗る事に成功する。

 

「……NINJAか拙者は」

 

 ござるござる。一跳び4メートルってとこだったろうか。飛んだりしたし今更驚く事でもないが。相変わらず自分で自分の身体能力が判らない。

 一体何の木だろうか、幅広で大きい葉っぱを持っている、幹はつるつると滑りやすいが、節くれ立っているのでそれなりに登りやすそうだ。太い節に手をかけ、さらに上の枝へ、もう一本上へと登ってみる。

 ……昔似たような事をしていたような気がした。こんな木じゃなかったが、同じように眼下に飼育小屋があり、囲いには兎、それに鶏、飼育係が餌をやり、目を遠く向ければ同じ年の子供が遊具で遊んでいる。下校のチャイムもとっくに過ぎ、日が暮れ始めても木の上から降りなかった。狭い世界の他愛ない反発で、ただ高い木の上で「この光景を見ているのはおれだけ」という子供っぽい優越感にひたっていて。

 木の上で足を組み、頬杖をついた。誰かが見ていたらぶすっとしているように見えたかもしれない。何か思い出しそうで思い出せなくなってしまった、もどかしい。

 町の建物にそう大きいものが無いせいか、木の上から見るとぐるっと一望できる。城壁に囲まれた町はこうしてみるとかなり大きい、城壁に沿って歩いたら一日潰れてしまうんじゃないだろうか、昨日通りがかった中央の広場はすでに朝市の支度を始めているようで、慌ただしく行き交う人が見えた。

 ぼんやりと空を見る。青い空には綿菓子のような雲が流れていた。

 

「これからどうすっかねえ」

 

 まさに雲の心持ち。うむ、非常にキザったらしい言い回しだ。

 この商会はとても懐が深そうだ、それこそちょっと信じられないくらいに。ここでひとまずお世話になり、仕事をしながらひとまず生活の基盤を作るってのは順当な気がする。何しろおれ自身がまず自分の事も、それ以前にこの世界の事も、言ってみれば何から何まで知らない事尽くしなのだから。

 ただ、それでいいのかと言うとそうでもない気もする。

 何しろ自分が人間であるとはとても思う事ができない、おぼろげながら人間であった記憶があるのにだ。価値観も大分違っている、同族意識っていうのだろうか、そういったものがどうしても抱けない。個人個人は見れるものの……それは人だから大切なのではなく、フレッドやミランダさんのように気に入ったから大切、といったものなのだ。

 この価値観がある限り、多分きっと、人の社会に馴染む事は出来ないんじゃないかとも思う。隣に居る事はできても。

 

「同族、同族なあ……」

 

 おれにとっての同族は多分二通り。かつておれが俺であった頃の周囲の人達、そしてもう一つ。

 右手を持ち上げ「ここにこい」と光るきらきらしたものを集めた。

「きっとこうあるものだろう」というどこからか湧いた確信がある、目をつむり、開けた時、右腕はごつごつとした太い腕に変わっていた。滑らかな翡翠の鱗、かぎ爪は鋭く伸び、明らかに人の手ではない。しかし醜いとも思わない、美しいとも思わないが。当たり前のように自分の腕である事を認識できる。かぎ爪を打ち合わせ、かちかちと音を立ててみた。

 肩をすくめ一つ息を吐く。力を抜き、人型を意識して手を振ると元の人の手に戻った。

 西の海には竜が居るらしい。フレッドはそれが商人の作り話であるかのように言っていたが……おれみたいなのがここにいる以上、まさか他にいないってわけでもないだろう。興味はある。

 

「西に向かって一っ飛び……ってなわけにもいかないか」

 

 普通にしてても腹が減るのに飛んだ後の空腹感ときたらもう……

 あの感覚を思い出してげんなりした。何でこうも効率の悪い体なのか。

 腕を組む、やはり仕事を紹介してもらって路銀を稼ぎ、地道に旅でもするのが良いかもしれない。

 木の上であれこれと考えていると、眼下に見覚えのある姿がちらりとよぎった。

 

「おう?」

 

 フレッドと、昨日荷下ろしする時に居た少年、確かテムとか呼ばれていただろうか。二人が何やら話しながら歩いてくる。木の下の少し開けた場所に来ると、二人は間を取り向かい合った。

 少年は額に分厚く布を巻き、着ているものも着ぶくれして見えるくらいに内側に当てモノが入っているようだ。対してフレッドの方は至って簡素な白の上下に腰巻きを当てている。

 フレッドは自分の身長ほどもある長い木の棒を無造作に揺らし、少年は木剣を手に油断なく構えている。何かしら運動でもしてきたのか、少年の方は白い頬に赤みが差し、吐く息も少し荒い。

 

「こりゃあれか、稽古か、古典的な稽古風景と言う奴なのか」

 

 二人の、おもに少年の緊張した様子に、何となくかたずを飲んで見守る。

 少年が動いた。

 突き。

 身長差があるので当たれば一大事な場所だ。容赦無い。

 フレッドは半身をずらし躱す。頬には苦笑、そのまま右手に持っていた棒を持ち上げ、木剣を下からはね上げた。

 少年は前のめりにたたらを踏む。

 それを逃さず、フレッドは少年の胴に蹴りを入れた。

 たまらず剣を離し、吹き飛ばされる少年を追い、尻餅をついた少年の首に棒を突き当てる。

 

「まずは一回死んだな。悪くはないが捨て身過ぎる」

「……意表つけると思ったんですが」

「創意工夫は大事だ、ただ、全力の突きは使いどころが難しい」

 

 そう言ってフレッドは少年の手を引き起たせた。両者はまた間を取り、向かい合う。

 今度はフレッドから攻撃を始めた。棒を打ち下ろし、少年はかろうじてそれを剣で防ぐ。

 なかなか勝負は決まらない、少年はよく防ぐ、いや、フレッドが意識してそうやっているのだろう、段々振るわれる棒が速くなる。少年は防戦一方で、どうにかして攻撃しようという素振りを見せるものの、フレッドはそれを許さない。

 

「ほら隙だ」

 

 ゴン、と木の上にいるおれにまで聞こえる音がした。痛い痛い、まったく関係ないのに思わず頭を抑えてしまった。少年もまた頭を抑えてうずくまっている。こりゃあ痛そうだ。

 だが、少年もまた慣れっこなのか、あるいは性根が据わっているのか、すぐに立ち直り向かって行く。今度は少年からの攻撃をフレッドが防ぐ形になった。

 どうやら交互に攻守を交代しながらやっているものらしい。その後もしばらく稽古は続けられたが、少年の木剣は一度もフレッドにかする事さえ出来なかった。しかし、素人のおれから見てさえ、少年の守りはぐんぐん良くなる。あえてそういう方針でやっているのかもしれないが。

 

「これで二十死に、今日はこれまでだな」

「……ありがとうござい……ばふ」

 

 疲れ切って口が回らなかったか、少年は緊張の糸が切れたように地面に膝をついた。息を喘がせている。フレッドは棒を木に立てかけ、懐から出した布で汗を拭きはじめた。

 稽古も終わった様子なので、声をかけてみることにする。

 

「とうッ」

 

 一声と共に枝から飛び降りる。ちょっと格好をつけ、空中で前回り回転、風景がぐるんと縦に回る。

 視界の端に、突如躍り出たおれに驚いてか、慌てて受け止めようとするフレッドが映った。

 

「ちょッ……と待て、どけってばおい、フレッドーッ!」

 

 このままだとぶつかる、慌てて翼を広げて速度を殺そうとしたが、服が破れる音を聞いて一瞬躊躇してしまった。

 フレッドの肩に両足がかかる、股ぐらで頭を抱え込むような形で衝突してしまう。しかも勢いを殺しきれず、もつれ込んで前に倒れかかる、やばい、フレッドの後頭部がやばい、地面とメシャアッなんて事になっちまう。

 

「むンッ」

 

 翼をはためかせ……いや、それは形ばかりだが、俺が後ろに一杯に背をそらし、逆に転がろうとして精一杯力を使う。

 気がつけばフレッドの頭を足で抱え込んで巻き込んで後ろに回転、頭から打ち付ける事はなかったものの、背中から地面に落としてしまった。

 

「お、おお……これはまさにフランケンシュタイナー」

 

 なぜ無駄な知識ばかり覚えているのか自分でも不思議だ。

 

「じゃなくて、大丈夫かフレッドッ、おいッ!」

 

 駆け寄って慌てて声をかけると、げほと一つ咳き込んで顔をしかめた。フレッド自身鍛えていたからだろう、無事なようだ。よかったよかった。

 

「……なあ、エフィ、あんた何か俺に怨みでもあったか?」

「いやなんつーか、本当ゴメン」

 

 不幸な事故だとも思ったが、おれが格好つけて飛び降りたりしなければ良かっただけなので謝っておく。

 フレッドは髪をぼりぼり掻きながら、長嘆息と共に起き上がる。こちらを確認してまた一つ、呆れたようにため息を吐いた。

 

「とりあえず、その剥き出しの足を何とかしておいた方がいい。子供には目の毒だ」

 

 親指で少年を示す。目を向けると少年の顔がぱっと赤くなった。

 無意味にぱたぱた翼を動かす。こっちの方が驚きポイントではないのだろうか。驚いてはくれないのだろうか。

 何となく釈然としないものを感じながら縛っておいた裾をほどいて服を元の形にした。背中側が破けてしまったのはどうしようか……いやまあ、仕方無い。ミラベルさんに怒られるとしよう。

 

「あれ、エフィさん……なんですかその背中のは! それに尻尾が」

「反応遅ッ!」

 

 思わず少年に突っ込んでしまった。

 フレッドは苦笑している。

 

「言ってやるな、こいつも数えで十二になったばかり。この年の男子は寝ても覚めても女の事が頭から離れん、ましてや普段から仕事の手伝いで子供同士の遊びもしてないしな、それはマセてしまうさ」

「フレッドさん……」

 

 少年は恨めしげな目を向けた。フォローしているようで全くフォローしてないって事だろうか。

 フレッドはそんな少年の側に寄るとぽんと肩を叩いて言った。

 

「まあ、こいつに知られても問題ない、何せこの商会の跡取り、ジラットの息子であるテムルだ。昨日は仕事に精を出すあまりに夕食の場にも出なかったがな」

「ん……会長の息子が自分で荷物運びとか倉庫整理をか?」

「はい。会長の息子だからです、苦労して荷を運んでくれた方に、使用人に挨拶させるのと僕が出迎えるのとでは意味が違ってきますから」

 

 そういう見方もあるのかと素直に感心する。

 精一杯に背伸びしているようでもあり、気負いすぎにも見えるが、フレッドにとっては微笑ましいものなのかもしれない、目が笑みを浮かべている。その笑みが少し変化した。

 

「でだ、エフィの翼と尻尾に関しては他言無用だ。こいつは辺境の生まれのようでな……聞いた事があるだろう、人とも動物ともつかない民が居ると。しかもこの美しさだ、見せ物にされ大分辛い思いをしてきたらしくてな、逆境に挫けぬようにだろう、自分を竜、しかも男だと思い込んでいる」

「そんな……」

 

 テムル少年は愕然となっている。

 おい、フレッド、ちょっと待て、まことしやかに嘘を吐くな嘘を。

 

「可哀想な事に記憶もあらかた失っていてな、名前すら覚えていない。エフィという名も不便なので俺がつけたんだ。常識知らずなのはそのためだろう、俺達とは違う民だからか、やたら馬鹿力だったりもするが、心は普通だからな、お前も守ってやれ」

 

 おおお、事実も入り混ぜて話しているので突っ込みにくい!

 テムル君は何だか目を輝かせて頷いているし、悪い予感しかしないのだが。

 話し終えるとフレッドはこちらをチラリと見、お決まりのからかうような片頬を上げる笑いを見せた。さっきの仕返しのつもりか。

 

「エフィさん!」

 

 テムル君は何か覚悟を決めたかのようなキラキラした目で真っ直ぐにこちらを見る。がっしり手を掴まれた。

 不覚ながら頬が少し引き攣る。

 

「僕が力になります、上手く言えないけど、これまでがどうとかは関係ないですから、これからを良くしましょう! 一緒に頑張りましょう! えと……今はそれだけですッ」

 

 そう言うと真っ赤な顔のまま、翻り、すごい勢いで館に走っていく。

 それを呆然と見送り、ゆっくりとフレッドに振り向いた。

 

「おい、どうするんだあれ」

「ああ……思ったより熱血漢だったな」

「少年の純情というか正義感を弄ぶような事は感心しないぞ」

「少年を発奮させるものは常に英雄譚と守るべき不幸な姫って事だな、あいつは遊びが足りないと常々思っていた、ダシに使われるくらいは構わんだろ」

 

 ……ダシか、いいダシ出そうだな。なぜかドラゴンが大鍋で煮られているイメージが頭に湧いてしまった。うん、あほか。

 

「さて、さっき飼育小屋から卵を持っていくのが見えたからな、もうじき朝食だろう。行くとするか」

 

 そう言い、棒を回収。背中を向けて先に行こうとする。その背中に声をかけた。

 

「なあ、フレッド。結局何者なんだお前?」

 

 駆け引きは得意じゃない、疑問を真っ直ぐに投げかけてみる。自分が言えた事でもないのだが、実際この男も不思議な存在なのだ。

 宴会でもハーマン商会に特別扱いされている事は周知のようで、皆からも下には置けぬ扱いをされていた。そのくせ、フレッドが何者かというと詳しく知っている人は居ないのだ。

 交易商と言うわりに有り得ないほどに腕が立ち、占いなどを信じて交易ルートを外してしまう。ミラベルさんの言い方だとこれまでも危険な事に首を突っ込んでいたような感じであるし。まったくわけの判らない奴なのだ。

 ただやはり、教える気はもとより無いのか。

 

「言っただろう、至って普通の真面目で善良で温厚な交易商人だよ」

「温厚の追加で怪しさがさらに増したんだが」

「よく覚えている」

 

 背中を向けたまま、肩を軽く震わせる。また含み笑いでもしているのだろう。

 おれも肩をすくめ、軽く息を吐く。どうせ問い詰めてもはぐらかすだけに違いない。

 裏庭に面している厨房からスープの香りが漂ってきた。香草がたっぷり入ったスープに違いない、昨夜出たものもそうだった。羊の骨のスープと言っていたが、クセがあるものの濃厚でとても美味かった。

 何はともあれ腹ごしらえだ、とフレッドの後を追い館に入る。その前に破れた服をどうにかしないといけないけども……

 

 食事を終え、思い思いの休憩をとっている時間、おれは会長とまた書斎で向き合っていた。

 少し唖然としている。

 西の都とやらに行きたい、という希望を出す前に、会長から同じ事を頼まれてしまった。

 聞けばフレッドのお目付役だと言う。色々おかしい、おかしすぎる。首をひねって考え込む。

 

「知らないと不思議がられてもおかしくはないですな。理由はあるのです」

 

 温厚そうなニコニコ顔は崩さないまま、ジラットは目に軽い憂いを浮かべた。

 

「ぼっちゃ……フレッド様はいかんせん強すぎまして、それにまた別の理由もあるのですが、ご自身の命を軽んじておられる。護衛をつけようとしてもその者が自分より弱い事を理由に頑として受け付けてくれなかったのですよ」

 

 確かに、剣や槍や飛び道具なんてものに一斉に狙われて生き延びていたってのは生半可な強さではないのだろう。素人でも判る。そう、素人なのだおれは。それがお目付役……ってどうだろうか。

 ジラットは机の上に置かれたお茶を一口啜る。ことりと軽い音をたててカップを置いた。どこかこちらの内心を見透かすように言った。

 

「これは昨日、エフィさんをお呼びする前の話なのですが、フレッド様があなたを評し、どんな手を使っても倒せないと思ったのは初めてだった、と言っておられましてな」

 

 口止めされているので秘密です、と付け加え、口の前で指を立てる。いい年をして茶目っ気のある仕草が妙に似合っていた。というか、まさかそんな感想を抱かれていたとは。会う奴会う奴、倒せるかどうかとか考えているのだろうか、とんでも無く物騒な奴だ。

 

「しかし、それをあっさり信じるか普通?」

「いえ、朝方の有り得ない木登りと、いともあっさり飛び降りる様子を見なければ信じられなかった事でしょう」

 

 ……見られていたらしい。迂闊。

 二日後にフレッドは西の都アルノーまで行くというので、そりゃおれにとっても渡りに船ではあるが、都合が良すぎる気がしなくもない。安直に乗ってしまって良いのだろうか?

 

「勿論、報酬は出しましょう。往復でおよそ一ヶ月かかります。契約金として銀貨九十枚、無事に帰着したらさらに銀貨九十枚ではいかがでしょうか」

「む……」

 

 おれは腕を組んで唸った。ジラットはバツの悪そうな顔をする。

 

「ご助力すると言いながら、頼み事をしてしまう手前勝手は承知しております。個人的にはもっと上乗せもしたいのですが、金銭面で特例を出すのはいささか……」

「あ……いや、そういうのでなくて、ええと、銀貨一枚ってどんなもん?」

 

 そう、価値が判らないのだった。どうも難しい顔をしているのを勘違いさせてしまったものらしい。

 ジラットもまたそこに思い至ったのか、得心した顔になり苦笑する。

 

「これは申し訳ない、うっかりいつもの癖というものが出てしまいました。ふむ、おおよそ家族五人の農家が一月何とか暮らすのに銀貨二十枚、二十ティールがあれば良いと言われております。また判りやすいようにパンに換算しますと……今の相場なら銀貨一枚で大体四十斤ほどのパンが買えますな」

 

 ぐ……数字がぽんぽん飛び出た。つまり銀貨九十枚という事は……

 

「三六〇斤のパン!」

「桁が一つ違いますぞ……」

 

 しまった恥ずかしすぎるミスを。良いのだ、どうせおれは文系なのだ、だったのだきっと。しかし三六〇〇斤のパンとな、どれほどの山になるのか想像もつかない。ともあれここは。

 

「引き受けた!」

「……即決ですか、詳細を聞いてからにした方がよろしいのでは」

「どうやら竜を釣るにはパンとチーズがあればいいみたいだ、今思いついたんだけど」

 

 そう言い舌を出す、ジラットはなんともはやと呆れ、終いには笑い出した。

 

「ではリーファン自慢の羊のチーズも前払いでお付けしましょう。山羊と比べて取れる量も少ないものですが、これがなかなか美味しいのです」

 

 それはなんとも魅力的な話だった。しかし、食後だというのに食べ物に釣られるとは、我ながら呆れないでもない。

 

 夜の帳がおりる。体感温度はまた例によって勝手に調節してしまっているようでさほど感じないのだが、かなり冷え込んでいるようだ。吐く息が白く見える。これでも時期は春らしい。短い夏を終え、あっという間に秋となるそうだ。

 広い中庭があっても鳴く虫はいない。ちょっと寂しさも覚える。夜はもっと騒がしいものじゃなかったろうか。

 照明用の油もタダではなく、窓から見渡せば町の中で明かりが灯されている家の方が少ないくらいだ。商会に務めていた人たちの多くは風呂に入りに行っている。夜に明かりを灯し入れる風呂というのが一種の贅沢だそうで、また、仕事の垣根を越えて情報をやりとりする場所、いわばサロンのようなものにもなっているらしい。先日おれが風呂を独占してしまった形だったが、それはかなりの例外のようだった。

 

「エフィさま、また縫い目が乱れていますよ?」

 

 ミラベルさんの指摘が飛んだ。がっくり項垂れる。

 

「ぬ……だ、駄目かな」

「はい、駄目です。こんなに縫い目が大きくては布が伸びた時に耐えきれません、ここから破れてしまいます」

 

 むう、と小さく唸り、糸を引き抜きやり直す。ランプの明かり頼りなので見えにくい事この上ない。同じく繕いものをやっているミラベルさんは、何でそんな手際よくできるのか、不思議でならなかった。

 何をやっているかと言えば裁縫を教えてもらっている。旅をする上での必須技能らしい。

 今日の一日はそれはもう濃厚だった。おれがフレッドのお目付役というか付き添いというか、そんな形で同行する事を知ったミラベルさんは教師役を買って出てくれたのだ。

 なにぶん知識がない、なぜか言葉は伝わるものの、文字の読み書きもできない。それどころかこちらの最低限の常識も知らない。頭を撫でるのは子供に対してでさえ失礼に当たるとは思わなかった。そんな状態だったので、本当にミラベルさんには感謝するしありがたいのだけど、何だか頭はますます上がらなくなった気がする。

 出発まで日がないので、とにかく実体験で覚えさせられた。例えば文字が書けない人のために代筆屋という稼業がある。伝えたい事を言うとそれを持ち込んだ紙なり木なりに書いてくれる。看板はトランプのスペードみたいなマークの上にペンが乗っている形だ。そこで手紙を作ったら配送屋に依頼する。こちらは急ぎなら高値の早馬で、急ぎでないなら安値の定期便で配送してくれる。丁度隣村に今年の麦の生育状況を聞く用件があったので、ミラベルさんに代わってやってみたりもした。

 勿論それだけではない。水の確保から食の確保、食べ合わせてはいけない組み合わせなどなど生活のための知識も教えてもらう。

 簡単な読み書きは覚えておいた方が良いというので、午後、日の出ている間は単語の習得にあてられた。表音文字とか言うのだったか、仕組みはアルファベットみたいなものらしく一文字一文字に意味があるわけではないらしい。

 

「実は字が読めなくても、何とかなる事はなるのですが、やはり侮られてしまいます。これからエフィさまが行かれるアルノーなどはその傾向が一段と強いので、覚えておいて損はないでしょう」

 

 とのこと。字が読めない者を見つけると、言葉巧みに書類にサインさせ、法外な借金を負わせるなどという手口もあるそうで、特に祭りの時など田舎からきた見物客がこれに騙される事が多いらしい。普通の時でも怪しげな宿屋などは用心してかかった方が良いのだとか。

 まあ、なんだ。うん、正直一日で頭に詰め込みすぎて、半分くらい忘れてしまったかもしれないが。

 

 繕い物もようやく合格点が出た時には、ミラベルさんも大分眠そうにしていた。穏やかな表情は変わらないが時折目が閉じかかってうつらうつらしている。どのくらい時間が経ったのか……窓から空を見れば満天の星空が広がっている。慣れれば星の位置で時間も判るようになってくるのかもしれない。

 ミラベルさんは壁に掛けられているランプを吹き消す。小さく漏れた欠伸が聞こえた。布団に潜り込む音がする。

 

「……もしもし、ミラベルさん、こちらはおれの寝床なのですが」

「今日は冷えますから暖房になってください」

「男女同衾せずの通念はどこいったー」

「この体で説得力があると思ってますか?」

 

 そう言って横合いから抱きつかれた。説得力の無さは自分が一番実感している。虚しい。

 

「うつ伏せで寝るんですね」

「背中と尻に余分なものがあるんで」

 

 ミラベルさんの手が背中をなぞる、服の上から翼を確認するように。

 腕を回して抱きしめられた。ほっと、小さく吐息が耳にかかる。

 おれの肩に柔らかいものが当たり、形を変えている。凄く、凄く勿体ない事になっている気がする。悲しい事にぴくりとも反応するものがない。尻尾をゆるゆる揺らすのみ。

 

「正直嫉妬しています」

「……へ?」

 

 耳元で小さく呟かれた。顔を向けて見てみれば、目を瞑っていて表情はよく判らない。窓から入った星明かりで赤みがかった髪が紫にも見える。

 

「私もフレッドさまと一緒に他の町に行った事はあります、ただそれは私が守られるだけの関係でした。でもあなたは、エフィさまは違います。フレッドさまが一目置き、父もどこか特別な目で見ています」

 

 ずるいです、と言ってミラベルさんは口を尖らせる、どこか子供っぽい顔になった。いや、もしかしたらこちらの顔の方が素なのかもしれない。しかし、これはどうしたものか。正直困った。

 

「……なんかその、疎いからよく判らんけどお邪魔虫になっちゃってるかおれ?」

 

 そう言うと思わず、といった感じに目を開き、ぷっと吹き出した。ひとしきり笑った後、穏やかな顔になって言う。

 

「すいません、あまりに困った顔をされていましたので。大丈夫です、無いものねだりの愚痴です。エフィミアさまの名前から呼び名を取られたわけですし、私の居場所を取られるような事でないのは判ってましたから」

「エフィミア?」

 

 不思議に思って聞き返すとミラベルさんの笑顔が固まった。なぜかマンガ的な冷や汗が流れたような気がする。

 

「……あの、フレッドさまはその呼び名を言われた時、どのように説明していたのでしょうか」

「いや、昔飼ってた猫の名前だとか」

「……猫」

 

 今度はずんと沈んだ顔になる、頭痛でも感じているかのように人差し指で額を揉んだ。

 

「何とも……フレッドさまらしいと言いますか、物事に拘らなすぎると言いますか」

 

 ミラベルさんは呆れ成分を含んだため息を漏らす。

 

「えーと、ミラベルさん?」

「何も聞かなかった事にとか……できませんよね?」

 

 おれは首を傾げる。聞かなかった事にはできるかもしれないが、フレッドに直接聞いてしまいそうな気がする。その様子を見てか、ミラベルさんは何か決めたような真面目な顔になった。

 

「エフィミアさまはフレッドさまの……夭折された御妹さまです」

「……はい?」

「……亡くなった実妹の名前を猫の名前扱いとか、正直無いですよね?」

「ないない、ありえん」

 

 おれがぱたぱた手を振ると、ミラベルさんは安心したように息を吐いた。

 しかし、初見の怪しい奴相手に、呼び名に困ったからって妹の名前つけるとかどういう感性をしているのかあの男は。あるいはひょっとして。

 

「そのエフィミアって人と見た目が似てた?」

「似てないですね」

 

 ミラベルさんは即言い切った。まず考え違いだったらしい。

 ただ……と言い、目を細め遠いところを見るような顔になる。

 

「ただ、エフィミアさまはとても活発な方でした。いつもフレッドさまの後を追って草原を走っていて、男勝りで、きらきらと生命に溢れていて。私などは昔から小さい方だったのでよく子供達にからかわれましたが、そんな時に庇って頂いた事も一度二度ではありません」

 

 昔を懐かしんでいるのか、目を閉じ微笑んだ。涙が一筋流れる。

 まばたきをし、どこか含羞を含んだ笑みを浮かべた。

 

「私はすぐには判りませんでしたが、内面は似ている気もします。フレッドさまは事の本質を見抜かれる事においては誰にも負けない方ですから、すぐに結びつけたのかもしれませんね」

「……あいつ明日お兄ちゃんと呼んでやろう」

 

 そう言うと、ミラベルさんが吹き出した。笑いのツボにはまったらしく、肩を震わせている。笑いの納まりきらないうちにおれの髪を指で梳いて言う。

 

「それなら……私をお姉ちゃんと呼んでくれたら明日サーシュのジュースに加えてとっておきのデザートを食べさせてあげますよ」

「よっし! お姉ちゃん大好き!」

 

 食欲は正義。いくらでも媚びるのだ。

 くすくすと笑いながらミラベルさんはおれの頭を撫でた。

 

「……ん? 頭撫でるのはマナー違反なんじゃ」

「頭に守護の霊は宿りますからね、ただ家族や親しい者同士なら許されます」

 

 そういうものらしい。

 ミラベルさんは保護者のような気分にでもなってきたのか、静かに歌を歌いだした。不思議な抑揚の歌。子守歌だろうか、草原で月を眺めていたら、羊になっていた羊飼いの歌。季節が一巡すれば戻るだろうとのんびり構え、夏を待ち草を噛む。

 

 高ぶることのない静かな声に聞き入るうち、いつしか意識は沈んでいった。


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