竜娘の異世界旅行記   作:ガビアル

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三話

 太陽も頂点から大分傾きはじめ、少し風が吹いてくるようになった。ざあと波のように揺れる草原を見ているとあたかも海を渡っているような気分になる。

 周囲の風景も段々と変化があった。

 高い木が無いのは変わらないようだったが、その数が増え、種類も増えているようだ。ブドウのような実をたわわとつけた木もたまに見える。聞いてみたら毒があって食べられないらしいが。

 主要の街道らしく、人とも行き交う事が結構あった。三頭立て以上の大きな馬車が多いようで、さらに数台でまとまって動いているのが多いようだ。すれ違った時にフレッドが挨拶をし、なにごとか短く雑談を交わした後に片手を上げて別れる。

 何でも、行き会った時に街道の様子や天気、変わった事などあれば互いに教えるのが慣習らしい。数台の馬車でまとまっているからといって必ずしも隊商というわけではなく、見知らぬもの同士でも寄り集まって移動するのだとか。同道する者が集まらなければ余程時間に追われていない限りは町の中で待つそうで、どこか牧歌的にも感じる。

 

「北の方の内戦が終わったばかりでな、傭兵がそのまま盗賊になる、この辺りはまだ穏やかだから数台もまとまっていればそう襲われんが、少し北方に近づくと、護衛をつけないのは自殺行為とまで言われているらしい」

 

 まったくもって牧歌的とは程遠い事情のようだった。

 

 街道の途中の分かれ道で、土が慣らされただけの道に入る。木々に代わり畑が目につくようになり、ぽつぽつと人家らしきものも見えるようになる。

 山吹色の人家だ。わらぶき屋根……というのだろうか。平屋のこじんまりした家が多いようだが、中には二階建ての大きな家もあるようだ。土壁っぽい色と山吹の屋根が薄いコントラストになっている。

 広々とした畑を抜けると、やがて人家と同じような色合い、土色の壁が見えてきた。城壁と言ってもいいかもしれない、さすがに暮れ始めた夕日に照らされあかあかと染まっている。

 高さはどのくらいだろう、三階建ての家ほどもあるだろうか、飛び降りたらさすがに痛そうな気がする。

 開いた城門の側に小太りの男が城壁によりかかり、暇そうにパイプの煙をくゆらしていた。こちらの馬車に気がつくと、フレッドとは顔見知りなのか、親しげに片手を上げる。

 

「ようフレッド、今回は随分遅いお帰りじゃねえか。ハーマンさんとこのお嬢さんが何度か、お前さんが戻ってないか聞きに来たぜ?」

「ああ……こりゃあ、小言が飛んでくるかもな」

「そっちの綺麗なお嬢さん絡みの遅れだと特にな、どこでひっかけやがったよ、ええ? 羨ましいねえ」

 

 小太りの男は茶色の鼻髭で隠れた口をにやつかせて言った。フレッドは髪をぼりぼりと掻く。

 

「そんなんじゃないさ、行き倒れだ。荷検めはするか?」

「おお、一応規則だからな、ま、おじさんが検めたいのはどちらかというとそちらのお嬢さんだけどよ」

 

 好色そうに目を細めこちらを見てきた。にひひ、といかにも下品な笑い声を漏らす。

 うむ……何というか、男だろうと女だろうとこういうのは気持ち悪くなりそうなものなのだが、割とどうでもいい、というか鈍くなっている気がしないでもない。そんな自分に内心首をひねる。

 

「……いい加減にしておけ、リーファンの汚名をまた増やす気か、以前も巡礼の婦人を触って会合で問題にされてただろう」

「おう、結構な罰金くらっちまった。その時はかみさんに殺されかけたもんだ」

「懲りない奴だな……」

「色の道は懲りたものから脱落すると決まってる、俺ぁ最後まで生き残る方さ」

 

 軽口を叩きながら、馬車の幌をめくり手際よく荷物を確認していく。といっても荷物の一つ一つを紐解くわけでもないようで、さほどの時間もかからず終わったようだった。

 

「おし、通っていいぞ、お嬢さんは良かったら晩飯でもどうだい、おじさんが奢っちゃうぜ?」

「う? 飯はありがたいんだけど、おれは──」

 

 言葉の後半はフレッドに手でふさがれて、もごもごとした声にしかならなかった。

 何をするという無言の抗議を込めて睨む。

 

「いい加減にしておけと言っただろう、こいつは世間知らずらしい、手をつければ面倒極まりないぞ」

 

 世間知らずというか、世界知らずというか。こちらの常識を知らないのは……うん。確かにそうかもしれない、と一つ頷いておく。

 なぜか二人が顔を見合わせ、呆れたように肩をすくめた。

 

 門を抜けると町の中はさすがに舗装されているらしい。地面は城壁と同じような色をしている、よく見れば煉瓦のような、もう少しキメ細かいような、不思議な路面だ。

 町の中はどうやら大きな道が十字に走っているようで、簡単に東西南北と四区に分けているらしい。中央の広場では夕刻の市が立っていて、買い出しにだろうか、結構な賑わいを見せていた。露天商がかなり出ているようで、目立つようにか色鮮やかな天幕が遠目にも見える。

 近づくと、野菜や肉を売る威勢のいい声が聞こえ、何ともいえぬ肉の焼ける香り、あるいはチーズを焦がしたような香りも漂ってくる。

 獣が唸るような音がした。おれの腹から。そういえば朝食食べて以降なにも腹に入れてなかった。というか、積んでいた食料を全部食べてしまったそうで、食べるものが無かっただけだが。うん、正直申し訳ない。

 

「ぐぅ……」

 

 腹をさすって唸る。フレッドの様子を見れば、口の端を上げて笑っていた。

 

「せかすなエフィ、食事はまず商品を納めてからだ」

「う、む? エフィ……なあ」

 

 呼ばれ慣れない名前を呟く。一瞬誰のことを呼んだのか判らなかった。じきに慣れるだろうが、慣れるのもどうかと思わないでもない。頬を一つ掻き、気分を変えるように話しかけてみた。

 

「あー、ところでこれから行く場所、ええと……」

 

 道すがら聞いたような気がする。聞き流してしまったかもしれない。

 

「ハーマン商会、俺の雇い主のようなものだ。荷主は俺だが資金はそこから出してもらっている」

 

 そうだったそうだったと手を打つおれにフレッドは無言で肩をすくめた。

 

「しかしいいのか? 雇われの身だってのにおれみたいな素性の知れないのを連れてきちゃって」

 

 そう言うとフレッドは少し驚いたような表情をした。

 

「そういう事を気にするとは思わなかった、案外自己判断も出来てるじゃないか」

 

 そんな事を言い、くく、と含んだ笑いを漏らした。さすがに憮然とする。

 

「ひどい言いざまだ。そのくらいおれだって気を使う、それに一度助けになった事をいつまでも恩に着せるつもりもない」

 

 今は現状がまだよく判ってないのでどう動けばいいかも計りかねるが、少なくともフレッドには親切にしてもらった。いつか借りは返すつもりなのだ。

 

「膨れるな。なに、問題ないさ、会長のジラット・ハーマンは大度の人物だ。得体の知れない人の一人や二人は何も気にせん」

「得体の知れない竜の一匹や二匹は?」

「……忘れていた。まあ、翼と尻尾を見せねば人にしか見えん、何とかなるだろう」

 

 しかし、と呟くとフレッドは顎を撫でた。

 

「何度言われてもなかなか微妙な気分にさせられる。いや、話に嘘は感じられず翼と尾もあるが……辺境にはそういう種族も居るというしな、竜の本来の姿とは人より遙かに巨大なものではないのか」

「と、言われてもなあ」

 

 何となく「そういう姿」になろうと思えばなれそうな気もするのだが、気が進まないというか。

 

「ううむ……」

 

 おれが腕を組んで唸っているとフレッドは肩をすくめた。

 

「詮無い事を聞いた。あんたの状況だと判りようも無かったな。まあ悪いようにはしないさ、一緒に来るといい」

 

 中央の市場から西に曲がり、少し曲がりくねっている道なりに行く。この辺りは問屋や倉庫街などが集中しているそうで、ひっきりなしに荷物を抱えた人、荷台を引くロバなどが行き交っている。

 そういえば結構道幅も広い、今更ながらに気がついた。

 馬車が横に5台並んでも余裕がある。その道沿いにある建物は二階建てが中心で、箱形をイメージさせるものが多いようだ。

 埃っぽい道をゆっくり馬車は進む。しばらく行くと、煉瓦造りのような、色鮮やかで一際目立つ大きい建物があった。

 ここだ、とフレッドは言い、路地から回り込んで裏門を抜ける。結構な敷地を真っ直ぐ進み、建物が大きく口を開いたような場所に向かった。搬入用の入り口になっているらしい、あるいは倉庫も兼ねているのか、木箱や大きな袋などが整然と置かれている。

 

「お帰りなさいフレッドさん」

 

 まだあどけなさすら引きずっている少年が微笑みながら出迎えてくれた。荷物の整理でもしていたのか、何か書かれた木の札を小脇に抱えている。ゆったりとしたケープのようなものを羽織っている彼はフレッドと同じく黒い髪だったが、肌はむしろ真っ白で目も青い。その青い目がふと空を見た。

 

「……あ、もうそんな時間でしたか。ちょっと待ってて下さい、表の明かりをつけてきます」

「ああ、荷物はとりあえず下ろしておく」

「はい、あ、重いものだけ台車の方にお願いします、僕の力だとちょっと厳しいので」

 

 フレッドは片手を上げて返事とした。身軽に御者台から降り、馬車を引いていたトーリアの首筋を、機嫌を取るように二度三度叩く。

 幌を上げて荷物を下ろしにかかる。御者台でぼうっとしているのも何だか気まずい、何となくこちらも降りてみる。

 

「待っていてくれていいんだが」

「まあまあ、ついでだ、手伝うよ」

「……む、なら頼むか。整理は後でやるから、あまり置き場所にはこだわらんでもいい」

「あいさー」

 

 馬車に積んであった木箱や袋の類を次々と運び出す。

 といっても、一頭立ての馬車で運べるというだけあり、さほど重いものはないようだ、やたら種類があるだけで。

 最後に、重心を取るように真ん中におかれていた重い木箱を持ち上げる。フレッドが手を出そうとしたが、おれが軽々持ち上げる様子を見て呆れた顔になった。

 

「その容姿で馬鹿力を披露されると違和感が凄まじいな」

「……そう言われても困る、これはさっきの子が言ってた台車に積めばいい?」

「ああ、さっき置いた箱の隣の台車に載せてくれ、奥のは汚れ物用だ」

 

 ほいよ、と返事をして木箱を運ぶ。しかしこれはどのくらいの重さなんだろうか、感覚が今ひとつ掴めない。それなりに重いものだとは思うが、もし力を入れて運ぼうとすれば、紙のような重さにも感じてしまいそうだ。台車にひょいと置く、ちょっと乱暴だったかもしれない、どすんという音と共に埃が舞う。

 振り返って見ればフレッドは気にしてないようなので、別に割れ物とかでは無いのだろう、良かった良かった。

 何となく手をぱんぱんと叩き、埃を落とす。先程の少年がくすんだ色のランタンを手に戻ってきていた。なぜか口をぽかんと開けている。

 

「どうしたんだ、その子は」

「あー、なんだ。驚いただけだろ、おいテム」

 

 フレッドがぽんぽんと肩を叩く。少年は我に返ったようにハッとした表情を見せたかと思うと急に赤面した。

 

「道中で助けてもらってな。俺の客人だよ」

 

 フレッドがそう言うと少年は利発そうな目を一度二度まばたきさせ、軽く会釈する。落ち着かなげな様子でフレッドに言った。

 

「えと、あ、暗くなってきましたし、裏口に明かりをかけてきますね」

「裏口も? 搬入の遅れは俺だけじゃなかったか」

「ええ、バヤットさんから連絡があって、馬車の修理で少し遅れるらしいんです」

「なるほど、あのオッサンの荷物は多いからお前も大変だな」

「何てことありませんよ、子供扱いは勘弁です」

 

 そう言って慌ただしく裏口の門に行く少年を、フレッドは苦笑いを浮かべて見送った。

 

「なるほど、どうやらあんたに照れてしまったらしいぞ」

「……人見知りなのか?」

 

 フレッドはククと含み笑いを漏らす。こちらの言葉に応える気は無いようだった。

 

 ハーマン商会の敷地はそりゃ広いようだ。街路からは建物で見えないようになっているのだが、何と敷地に厩舎まである。それも安っぽい作りではなく、人が住んでもおかしくないような頑丈な作りのようだ。厩舎の外には空の馬車が何台も置かれていた。

 トーリアを厩舎に入れる、フレッドは、世話係もいるがこれだけはと言って餌を自分で与える。

 厩舎から出た頃にはすっかり辺りも暗くなってきていた。

 街路に面した本館のほか、それと連結した形の倉庫がある、また離れを使用人などが住む住居にしているらしい。さらに敷地の角には家畜の飼育小屋、ちょっとした畑などもあるという。

 ひとまず報告をするというので、本館に向かう事になった。

 気になっていた壁の材料など聞きつつ歩く。何でも土壁は土壁らしいが、時間をかけて突き固めた土のブロックを使うのだとか、この辺りの土はそういう加工をすると石のように堅くなるらしい。

 

「といっても、最近ではこの家のように、煉瓦を使う家も増えてきたが……」

 

 フレッドの言葉が途中で立ち消えるように止まった。

 視線を追うと本館の裏口に行き当たる。開いた扉のすぐ前に人影が見えた。片手にカンテラを持っている女性……少女と言った方がいいだろうかどうも年齢は判らない、白の艶のあるカーディガンに赤で鮮やかな模様が描かれている。ふわふわしていそうな黒地のスカートにもまた鮮やかな模様が縫われているようだ。

 カンテラの揺らめく明かりに照らされた髪は赤毛にもブロンドにも見える、色白の頬は若干膨れ、形の良い、青い目は無表情を装うように細められていた。

 

「予定より二昼夜遅れましたねフレッドさま」

 

 抑揚の無い声が小さな口から飛び出した。鈴の鳴るような透き通った声だ。それだけに負の感情を混ぜるとなかなか怖いものがある。

 隣を見ればフレッドは片頬を上げ、笑おうとして失敗しているようだ。ひくひくしている。それでも何とか言葉を絞り出そうとした。

 

「そのだな、たまには旧道を使ってみるのもいいかと思ってな……」

 

 女性は白々とした目を向けた。

 

「どんな事情にせよ、遅れが出そうな時は使いを先に出すのが私達のルールです、忘れてしまわれましたか?」

 

 フレッドは言葉に詰まったが、なお反駁しようと口を開く。

 

「む、ついでにちょっと迷ってしまってだな……」

 

 女性は半眼でじっと見つめた。フレッドは「む」だの「う」だの小さく呻き、やがて観念したかのように頭を垂れた。

 

「すまん」

「はい、それでいいです」

 

 いいのかよ! と心の中で叫びそうになった。女性はうってかわってにこにこと微笑んでいる。

 

「何かあったんじゃないかと心配しましたよ」

「あー、うむ。ちょっとした事はあったが、心配するようなモンじゃない。まあ、何はともあれ無事戻った」

「はい、お帰りなさいフレッドさま、ところでそちらの……」

 

 女性の目がこちらを向く。向こうからすると暗くてよく見えないのかもしれない、カンテラを持ち上げ、照らすようにした。まじまじとこちらを見つめる。まあ、とでも言いたげに口が開き、それを自分で抑えた。フレッドは苦笑を交えて言う。

 

「俺の客ということにしておいてくれ。出先で助けられた。わけ有りのようだ。その件でも少し話したいのだがジラットは?」

「父は町議会に出かけています、緊急の案件が出来たそうで……いつもの事ですが、ともかくも冷えてきましたし、お風呂を用意しておきましたのでどうぞ召されてください」

「そいつはありがたい」

 

 フレッドは少し考える様子を見せ、おれの肩を叩いて押し出す。

 

「だが、先にこいつを案内してやってくれるか、その間にお前にも話しておこう」

「……はい。ではどうぞこちらへ」

 

 かっぽーん、などという擬音を思い出す。その音には懐かしさすら感じる。お風呂と言えばついつい湯船を連想してしまったのだが、案内された場所は予想とはまったく違った。

 

「サウナ、いや蒸し風呂か」

 

 本館と通路でつながっている半地下の建物、広さはどのくらいだろうか、普通の家くらいには大きい気もする。本当は何かと手助けする世話係も居るらしいのだが、途中でフレッドが言い含め、一人で使わせてもらえる事になった。うんまあ、尻尾とか翼とか服で隠せないし、騒ぎにしないためだろう。

 今ではそんな事も予想つくが、考えてみれば昨日は初見のフレッドによくひょいっと見せられたものだ。我ながら頭がお花畑だったとしか思えない。とはいえ、強いて隠していたいかと思うと……そうでもなかったりするのが困惑するところでもある。

 更衣所で貸してもらっていたフレッドの服を脱ぐ、何とも言えない開放感、やはり裸は落ち着く。実は竜族とかじゃなくて裸族なんじゃなかろうか。ちょっとそれは落ち込む想像だ。

 次の間に入るとほんのり暖かく、湿った空気が顔に当たる。この真ん中の間が一番広いらしい、部屋を暖める用の湯気とは別にお湯もちょろちょろと水路を通って流れてきており、小型の浴槽のようなものに溜まっている。ここのお湯を桶ですくって体を流したりするのだとか。マイ桶が必須らしい。

 壁には一面に壁画が描かれている、何だか神話とかそっち系の場面のようだがさすがに何かは判らない。大理石の床は思ったより暖かく、壁に沿うように……座るためだろうか、段差が作られていた。

 さらに一番奥の扉を開けると、もわっとした蒸気が溢れる。

 いかにも蒸し風呂だった。部屋は広くはなく、せいぜい十人が座れば一杯なんじゃないだろうか。ここにも壁際に段差があり、座れるようになっていた。ここでがっつり汗を流して、真ん中の広間で垢を落とすという事らしい。

 扉を閉めて座りこむ。尻尾があるのでちょっと後ろがつっかえるが、斜めに座ればそう無理な姿勢でもない。天井を見上げて大きく息を吐いた。

 

「おお、今更気付いた、明かりがあるんだな」

 

 本当に今更だったかもしれない、壁に埋め込まれる形でランプが室内を照らしている。ガラスで室内とは遮られているようだが、空気取りとかどうしてるんだろうか。というか文明的にはどんなもんなんだろうか、お金持ちだからできる事とは思うが、お風呂の設備というのもかなり技術がいるものだと素人考えでも判るし。

 

「あれ、でもローマとかって似たような事やってたっけ……」

 

 やってたようなやってなかったような、いやはや、歴史もうちょっとやっておくべきだった。あるいは名前とかと一緒に記憶をどこかに落としてしまったのかもしれないが。

 しかし極楽だ。何となく自分の体というものがちょっと判ってきたような気がする。

 右手を持ち上げてみる、相変わらず何かきらきらと光っているものがまとわりついている。

「この辺」と何となく意識してみると、指先にきらきらが集合した。意識を逸らすとそれは散る。この妙なきらきらがキモのようだ。

 嫌な感覚は一瞬感じるがすぐにシャットアウト、気持ち良い感覚はそのまま据え置き、そんな都合のいい感覚にできるのもこれのおかげらしい。何だか判らないがえらく便利だ、とてもありがたい。

 

「めっちゃ堕落してしまいそうだけどなー」

 

 ふひひと笑う。素足で歩いても足の裏には傷一つつかなかったし。

 しかし体に傷一つ付かないからといって汗がでないわけでもないらしい、ぼんやりしていたら結構汗だくになっていた。もっとも蒸されていたので汗か蒸気かは判らないが。

 試しに頬からしたたった汗を舐めてみる。

 

「しょっぱ……くないなあ」

 

 塩分ゼロ、ちょっと香りとコクがある。おれはどこの料理食材だと言うのか。もっとも竜なんていうといかにも栄養が有りそうだが。

 そろそろ体でも洗うかと、真ん中の広間に戻る。

 貸してもらった桶にお湯をくみ、頭から被る。指で髪を掻くとざらざらしていた、あの不思議なきらきらも砂埃まではシャットアウトできないらしい。一緒に貸して貰ったちょっと茶褐色の入ったような色の石鹸を泡立ててみる。あまり泡立たなかったが、どこかで嗅いだ事のあるような臭いがした。わしゃわしゃと髪を洗う。そういえば髪もこんなに長くなかったような気がしないでもない。違和感がなかったのでまるで気にしてなかったが、普通に肩口まで伸びている。ぷつりと一本抜いてみれば、色もまた妙な色だった。緑がかったブロンドのような不思議な色だ。

 

「うぅむ……」

「悩み事ですか?」

 

 返事が返ってきて驚いた。振り向くと、さっきの女性が赤色チェックの布を体に巻いて座っている。

 相変わらずにこにことしていた。

 

「えーと……」

 

 何をどう切り出していいか迷う。相変わらず女性は黙ってにこにこしている。胸でかい。腰細い。いや、おれはどこを見ているのか。ただ問題は自分が全く興奮してないって事だ。その事自体に寂しさを覚えないでもない。

 

「とりあえず、何をしに?」

「はい、不慣れでしょうからお手伝いに」

 

 他に何があるのか、と言いたげに首をかしげる。赤みがかった髪がさらさら揺れる。

 おれは頬をぽりぽりと掻いた。

 

「ええと、こんなだけど怖くないか?」

 

 翼を揺らめかせ尻尾をひらめかせる。女性はちょっと困った顔になった。

 

「事情はフレッドさまから聞きましたし、その……正直言ってそうされましても怖さとは逆にしか……」

「……そんなもんか」

「そんなものです」

「フレッドは大分固まってたけどな」

「……どのように見せられたのですか?」

 

 そりゃ裸で、と何気なく答えたが、一瞬女性の顔に怖いモノがよぎったような気がする。気のせいだろうきっと。あまり考えたくない。

 とりあえず途中で止まっていた洗髪を再開、さっきのようにわしゃわしゃと洗おうとしたら止められてしまった。

 

「そんな乱暴な洗い方はしないでください」

 

 と言われ、髪を洗われた。頭をマッサージするかのように柔らかく手が行き交う。流す時も一気に流すのではなく小分けにして流しているようだ。

 そしてまた悔しいことにこれが気持ち良い。洗い方一つとっても結構な違いがあるものらしい。

 次は体を洗いますので、と言われ、自分で洗うからと言いかけたものの、見ればすでに床に布を敷いていた。手を取られてどうぞ、と言われれば断る理由もない。

 言われるがままにうつぶせに寝そべると先程の石鹸を軽く泡立て、体に塗られた。手ぬぐいのようなものでゆっくりこすりはじめる。これはこれでマッサージのようで気持ちいい、が、しばらくして訝しげな声が聞こえた。

 

「あら……ら、垢がでないですね」

 

 汗出るのに垢が出ないとはこれいかに。というか言われても困る。

 

「時期が来たら脱皮するんだよ多分」

「あ、なるほど」

 

 納得されてしまった。蛇じゃないからそれはないと思うが。

 ともかくも隅々まで洗ってくれたのだが、どうも尻尾がこそばゆくて参った。猫が尻尾に触れられるのを嫌う気持ちが判るってものだ。

 しかし相変わらず恥ずかしさだとかを感じない、困らないけど困る。人の心が判らなくなっているようで困る。それをなぜ「困る」と感じているのか、その感情も正体不明でまた参ったものだった。

 一通り洗ってもらったが、どちらかというとマッサージをされたようなものだった。更衣室で用意された服、ブラウンのガウンのようなものを羽織ると、置かれている長いすに横になる。とろけそうだ。

 

「これをどうぞ」

 

 爽やかな香りが鼻をくすぐる、身を起こしてグラスを受け取った。色はオレンジジュースのようだが、香りが違う、何だかレモンに近いような。

 

「近辺に生えているサーシュの実のジュースです、子供がおやつ代わりによく摘んでいますが、ジュースにしたものも美味しいです。お酒にもなるんですよ」

「ほほー」

 

 口をつけてみるとオレンジより酸味が強い、野性味の強い味だが喉に残るいがらっぽさはない。するする飲めてしまう。あっという間に一杯飲んでしまった。ごちそうさま、とグラスを返す。

 いやしかし、いたれりつくせりだ。行きがかりで何となく助けた形になっただけなのだが。というかフレッドがかなり大事にされている感じだが。そういえば……

 

「ところでフレッドからはおれの事どういう風に聞いた?」

「え? そうですね、旅先で迷っている所を助けられたとか、後は……記憶を大分無くしてしまわれていると、自分を男だと主張してやまない、竜かどうかはともかく見せ物にでもされ、よほど辛い目にあったのかもしれない、とも言っておりましたね」

「そ……そっか」

 

 フレッドの奴め、何と言う嘘八百を叩き込むのか……

 何となく頭痛を感じ、こめかみに指をあてて揉んだ。

 

「あ、フレッドさまが嘘ついているのは判っておりますので、また危ない事をされていたのでしょう?」

「うぇ?」

 

 間抜けな声を出してしまった。女性は口に手を当てころころ笑う。なんてことない仕草がえらく上品だった。

 

「そうだ、申し遅れました。ミラベルといいます。この家の長女でフレッドさまとは幼なじみでもあります。あの方は私達を心配させまいとしてか、危ない事があると誤魔化したがるのですが」

 

 女性──ミラベルはそう言って穏やかそうな眉をひそめ、ため息をついた。

 

「んー、本当は何があったか聞きたい?」

 

 あまり裏を読むのも大変なので率直にそう聞いてみる、とすぐに首を振った。

 

「いえ、フレッドさまが隠されようとしているならあえて聞こうとは思いません、話しても良い事なら必ず話してくれるでしょうから」

 

 それに、と言い加え、少し不満そうに口を尖らせる。

 

「父には多分全て打ち明けていると思いますし」

 

 女の浅知恵の出る幕じゃないんでしょうか、と小さく呟いてため息を吐いた。

 気を取り直すように胸の前でぽんと手を打つと妙な笑顔で「さて」と言う。なにやら悪い予感がした。

 

「エフィさまの着替えはしっかり選んでおきました。暗がりの中でもはっきり判るくらい綺麗な方ですのに、着ているものがフレッドさまの服なんですもの、なんて勿体ない事をしているのかと内心憤慨していたのです」

「え、いや、ちょっと、あの服で良かったんだけど、ぶかぶかで動きやすいし、ほら尻尾とか翼とかあるし」

 

 今思えば尻尾や翼が気にならなかったのもあんなオーバーサイズの服のおかげだろうと思うのだ。きっとそうだ。ミラベルが収納棚から取り出してきた明らかに女モノの服を嫌がっているわけじゃない、実用的な意味があるのだ。そう訴える。しかし──

 

「尻尾が気になるのでしたらやはりスカートでしょう、それにこのワンピースの背中の開き具合は翼を外に出して休めるのにぴったりだとも思いませんか?」

「いや、だから、ほらおれってこう見えて中身男だし、もうちょっと活動的な方が」

「はい、実はスカートはとても活動的ですよ、それにご自身を男だと思われているのは錯覚です、どう見ても綺麗な女性にしか見えません、よほど辛い目にあって記憶が混乱しているのでしょう」

 

 まて、それはフレッドの誤魔化しだと自分で認めていなかったか。

 

「お、おとこものがいいなーとか」

「はい」

 

 ニコニコしたまま淡い紫のワンピースを掲げて動かない。

 おれは右を見て、左を見て、孤立無援なのをあらためて確認すると天井を仰ぎ見た。

 人前に裸身をさらす事への恥じらいなどは最初からなぜか欠けていたが、どうやらここで女装への、かろうじて残った人間らしい恥じらいも欠落させなければならないらしい。

 

「着マス……」

「はい、それでいいです」

 

 ミラベルさん恐るべし。なぜか頭が上がらない気がする、さんづけもやむなし。

 着慣れない服を手伝ってもらいながら何とか着る。

 何となく落ち着かないものを感じながら頭を掻いているとミラベルさんが鏡を持ってきた。妙に装飾華美な鏡をこちらに向ける。

 

「……誰だこいつ」

 

 まじまじと近づいて見てしまった。いや鏡なのだから自分以外のなにものでもないのだが。実感が湧かなかったというか。そういえば自分の顔を確認するのは初めてだった。うっかりしていた。

 髪は何だか有り得ない緑色のような金色のような不思議な色をしているし、いやそれは髪の毛で何となく判っていた事だが。まばたきを二度三度、鏡の中の顔も同じくまばたく。目の色は青みがかったグリーン、というかよく見れば瞳孔が丸くない、猫科かおれは。口に指を突っ込んで引っ張ってみれば、吸血鬼のごとく尖った犬歯も見える。

 

「おや……?」

 

 髪に隠れていたが、こめかみの後ろから何かが見える。髪をかき分けて映し出してみれば、小振りなものの角が生えていた。髪の流れと同じく後ろに向かっているのであまり目立たないようだ。触って見ると当たり前だが結構堅い。

 

「あの……服の方はそれでよろしかったでしょうか?」

 

 ふと見ると鏡を持っているミラベルさんが困っていた。あはは、と誤魔化し笑いをして顔を引く、体が映るように一歩引いて見た。

 とはいえ、正直服の事などまったく判らない。着せて貰ったのは薄い紫に結構派手な模様の入ったワンピース。丈は膝の上くらいなので結構動きやすい。背中が開くようになっていて、確かに翼は邪魔にならない。その上からゆったりとした大きく黒いケープ、やたら複雑な編み込みで装飾されていたが、それを羽織っている。何となく民族衣装っぽい気がする。

 背筋を伸ばしてキリッ、とするとなかなか大人っぽい美人にも見えた。その姿が自分じゃなければ良かったのに。

 

「……うん、正直服の事はよく判らないや、でも良いんじゃないかな?」

「そうですか……」

 

 ミラベルさんは少しばかり落胆の表情を浮かべた。正直すまん、でもこればかりはどうしようもない。

 

 お風呂を頂き、着替えさせてもらっている間に結構な時間が経ってしまったものらしい。

 当主のジラット……ミラベルさんの父親らしいが、既に戻ったようで、フレッドと話しているという。おれの話も聞きたいとかでお呼びがかかっていた。二階の書斎だという部屋までミラベルさんに案内してもらう。

 

「では、私はこれで。あ、この後お食事になると思うのですが、何かご要望はありますか?」

 

 食事という言葉につられてか、言葉を発するより腹が先に答えた。

 ミラベルさんがくすくすと笑う。若干情けない気持ちになり腹をさすった。

 

「むぅ……さっき飲んだジュースをお願いしていいかな」

「はい、承知しました」

 

 ミラベルさんは笑いをかみ殺した顔でドアを開けてくれた。

 

「誰だあんたは」

「……昨日の仕返しか?」

「これで対等というものだ」

 

 部屋に入って早々、おれを一瞥したフレッドがそんな事をしれっと言ってのける。やはり無愛想に見えて人をからかうのが好きだろうこいつ。

 部屋は心持ちひんやりしていた。壁に組み込まれる形で本棚になっていて、高い場所の本ははしごでもなければ取れなさそうだ。そんな本に囲まれる形で大きな机が置かれ、書類の束や木板が積まれている。壁に設えられたランプの明かり、その揺れる明かりに照らされた羽根ペンとインクポットが妙にはまって見えた。

 机の向こうに座っている人が、当主のジラットなのだろう。ミラベルさんの父というだけあって、色の白い肌や青い瞳がよく似ている。にこにこ笑っている顔もまた遺伝だろうか。年齢はよく判らないが多分結構な年なんだという事は判る。額には深く皺が刻まれ、整えられている髪も長い髭も真っ白だった。

 

「ふむ、これは大層な美人を拾ったものですな、坊ちゃん」

「ジラット……坊ちゃんはやめてくれ」

 

 フレッドが困った顔をしていた、このおじさまやりおる。何とこの男を坊ちゃん扱いとは。ジラットは愉快げに笑ったあと、さて、と話を切り出した。

 

「初めまして、エフィさん。あなたの話はこの坊ちゃんから一通り聞きました。坊ちゃんの客は我が家の客も同然です、できる事なら何でもご助力しましょう」

「……って、ええ? いや、ありがたいけど、そんなあっさり決めちゃって平気か? 自分で言うのもなんだがかなりの不審者だぞおれは」

「はっは、ご自分で不審という不審者はおりますまい。それに坊ちゃんの目利きは信用しておりますのでな」

 

 何度も坊ちゃんと呼ばれたフレッドはどうやら苦り切っているようだった。

 ジラットに促され、おれも椅子に座る。

 

「まあなんだ、大丈夫だと言っただろう。ハーマン家は頼ってきたものの支援も積極的に行っている。望むなら仕事の斡旋や住み処を探してくれさえするしな」

 

 大度の人物だとは言っていたが、これが篤志家というやつだろうか。

 そんな心の声を読み取ったわけでもないだろうが、ジラットは苦笑して言った。

 

「口の上手さではアルノー商人に、品の質では東のものにはかないませんからな、売れるものが恩くらいしか残ってなかっただけですよ」

「それが巡り巡ってこの家を富ませているならそれに越した事はなかろうさ」

「人のありがたさです」

 

 ジラットはそう締めくくるように言うと、目をつむり、何事か小さく唱えた。祈りのようなものかもしれない。


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