竜娘の異世界旅行記   作:ガビアル

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二話

 静かに燃える火がある。

 焚き火ならぱちぱちと枝の爆ぜるイメージがあるが、目の前のそれはちりちりと微かな音を立てて燃えていた。炭でも薪でもない、何かと聞いたら牛糞を乾燥させてブロックにしたものらしい。

 ちょっと引いてしまったのはなぜだろうか。何でもこの辺じゃよく使われる燃料らしく、臭いもない。なまじの木に負けないくらい火持ちが良いのだとか。

 半ば成り行きと勢いだったが、この男を助ける形になったのは正解だったらしい。大鍋からはとても胃袋を刺激する香りが漂っていた。

 

「旅の空だと風景と飯が一番の楽しみだからな、自然と凝るようになる」

 

 そんな事を言いながら木の椀にたっぷりとよそってくれる。

 ビーフシチューのようなものだろうか、正直肉とかタマネギみたいなの以外はよく判らない野菜もあった。妙に手際よく料理は進み、目の前で段々美味そうな香りになっていく様はマジックのようにも感じる。

 しかし目の前で作られていく様を見せられていたので、気分は餌を前に待てをされた犬のようだ。口から涎が溢れてしまいそうだった。

 渡された椀の中にこれでもかと主張する、大きく角切りにされた肉を頬張る。噛み応えは十分、異様に濃い肉の味が口いっぱいに広がる。

 噛み切り、咀嚼し、飲み込む。後味の臭みはない、いくらでもいけそうだった。

 せめてがっつかないように我慢していたのだが無理のようだ。

 

「やばい、うまい、とまらん」

 

 ごろごろ入っていた野菜も一緒にあっという間に平らげ、おかわりを頼む。

 よっぽど飢えてたのか、と苦笑いを浮かべながら応じてくれた。

 もっともそれが、三杯、四杯と進むにつれて、引きつった顔になってきたが。

 

「ようやく落ち着いた、ごちそうさん」

 

 我ながら満足気なげっぷが出た。やっと人心地がついた。とはいえ、まだまだ食えそうな気はする、気分的にはちょっと物足りない。だが、さすがに……

 

「大鍋一杯……完食か」

 

 心底呆れた顔をしている男にそれを言うのも何だか申し訳なくもある。夢中になりすぎ完食してしまった。三杯目はそっと出しの精神はどこかに飛んで行ってしまったものらしい。

 男はやれやれ、とぼやき、再度自分の分を作りはじめた。今度はどうやら汁物ではなく焼き物のようだ、肉を叩いて、何やら香草をすった物をすり込んでいる。物欲しそうな目でもしていたのか。

 

「……これはさすがにやらんぞ」

 

 と、半眼で釘を刺されてしまったが。

 足りないならこれでも食っておけと大きなパンとチーズを渡されたので、ちぎりちぎり食べた。ライ麦パンらしい。独特の香りがある。これはこれで旨し。

 パンとチーズを口に放り込み、もぐもぐやりながら、あらためてとっぷりと日が暮れていた事に気がつく。本当に余裕がなかったらしい。この辺りは霧が出やすいようで、暗さもあり見通しはひどく悪い。星明かりか月明かりが結構強いのか、そう真っ暗という程でもなく、いかにもホラーな雰囲気ですらある。

 さすがに血生臭い場所でゆったりできるわけもなく、闘いのあった場所からはだいぶ移動していた。さらに少し離れた草地では馬車から外された馬があまり大きくもない木に繋がれ、ゆっくり草を噛んでいる。

 おれは男と火を囲み、土の上に敷かれた毛皮の上に座っていた。男の方は先程完成したらしい食事をゆっくり食べている。猫舌なのかふうふう冷ます様子がどことなく愛嬌があった。

 頭のぼんやり具合はいまだもって治らない、というかこの状態が標準というのではあるまいな、と心配になってきてしまう。勘弁してくれ、きっと今の知力は数値で言うなら一桁台、いや、ぽんぽん言葉は浮かぶので、そう知力も低くないと思いたいが……案外酔っぱらいとかに近いのかもしれない。言うことは言えるものの覚えてない、うん、結構酷い状態な気がしてきた。

 

「ほれ」

 

 何気ない一言と共に差し出された木のカップ、ぼんやりしていた意識が戻される。

 半ば無意識に受け取ったそれはどうやら、お茶だろうか? 香りが鼻をくすぐる。口をつけてみると、まったりと濃いミルクの味がした。ほのかに甘い。濃くしたミルクティーのようなものらしい。

 対面に座っている男もまたカップを傾け、ふうと一息をついた。見るとも無しにこちらを見る。

 

「そういえば、まだ名前も言ってなかった、フレッドだ。あんたは?」

 

 男、いやフレッドは無造作にそう言った、自然体だ。しかしうむ、名前か。名前……

 おれは向き直りおもむろに答えた。

 

「思いつかん」

 

 正直に思った事を言うと、フレッドの首がかくんと傾いた。ミルクティーが零れそうになる。

 

「おい気をつけないと、それこぼしたら染みになるんじゃないか?」

「……いや、何と言うかな」

 

 どこか頭痛を堪えるように額に手を当てる。そのまま呆れた声を隠さずに言う。

 

「名前は思いつくもんじゃないだろ」

 

 ……言われてみればそうだ、その通りだ。とはいえ、今のおれにとっては思いつくのと思い出すのはほぼ同じな気もする、何ともかんともどうしたものか。

 腕を組んで唸っていると、フレッドの呆れている目はどこか怪訝なものに変わった。

 

「何か訳有りみたいだな……いや、素っ裸でこの寒い中歩き回って、大の男をひねっちまう。訳有りでないはずがないか」

 

 途中から口の中で呟くようにもごもごと言う。全部聞こえていたが。

 ふむ、とフレッドはおさまりの悪い黒髪をぼりぼりと掻いた。

 

「ま、これも縁さ、何があったのか話してみろよ、何か力になれるかもしれん」

「ん、おお、お前良い奴だな」

「は、判らんぞ?」

 

 そう言うと悪戯気に目を細め、片頬を上げて笑ってみせる。

 

「話次第じゃそのままあんたを人買いに引き渡すかもしれんしな」

「人買い?」

 

 聞き返したら、判らなきゃいいさ、とフレッドは肩をすくめた。

 

「ひとまず今日は馬車で夜露をしのいで行くといい。明日、近くの町、それなりに大きい町があるから、そこまで行くとしよう。名前も判らん女を乗せるのは初めてだが……まさか、人食いの化け物ってわけでもないだろ」

 

 少し首を傾げた。こいつは冗談のつもりで言っているみたいだが、割と冗談にならないかもしれない。

 

「もしかしたらその人食いの化け物かもしれないんだよ」

「はぁ?」

 

 そりゃ信じないだろうな。フレッドは何言っているんだこいつ、とでも言いそうな表情だ。

 おれは羽織っていた外套を脱いで立ち上がる。さらに馬車にあった予備の服、貸して貰ったものだが、ばっさり脱ぐ。おお、そういえば羞恥心とかもない、というか裸の方が落ち着く。服を着ているとどうも違和感があるから困る。

 なぜか慌てているフレッドに背中を向けると大きく翼を広げてみせた。

 

「あ……あんたそれ、その翼、尻尾かそれは……まさか作り物じゃなかろうな」

「お、おお? 尻尾もあったか。意識してないから気付かなかった」

 

 言われてみれば確かにある。体をひねって尻のあたりを見ると、腰の辺から翼と同じ色の尻尾が生えていた、あんまり長くはない。

 

「いやー、作り物だったらこうは動かんだろ」

 

 翼をばっさばっさとはためかせる。軽く尻尾を揺らしてみた。

 フレッドは驚いた顔のまま固まっている。どこか驚きとは違う感情がその目に現れたような気がした。

 ──人は恐れるものだ。

 

「……ぬむ?」

 

 何か頭をよぎった。

 何となく大事な事のような気もしたが。

 ともかく、この固まっちゃった男をどうしようか。

 目の前でかがんでもしもーし、と声をかけてみる。

 返事がない、が何やら視線が下がったようだ。つられておれも下に目を向けるが、別段変わったものはなかった。フレッドが敷いている毛皮があるだけだ、毛色からするとキツネか何かだろうか、撫でると見た目よりずっとフワフワしている。

 

「は……」

「は?」

「生えてない……」

 

 フレッドにもおれの頭のぽんこつ具合がうつってしまったのかもしれない……

 少し考えた後、斜め四十五度の角度でチョップを落としてみた。怪力があるので慎重に。

 

「うごぁッ」

 

 大げさに頭を抑えてしゃがみ込んだ。小さく呻きながら痛がっているようだ。

 まだ強かっただろうか。いや、すぐに持ち直してきた。

 

「何を、する」

 

 とこちらを睨む。ちょっと涙目なところを見ると結構効いたようだ。

 おれは一つ頷いた。

 

「壊れた時はやはり叩くに限る」

 

 おばーちゃんの知恵袋なのだ。

 うむ?

 

「なあ、おれっておばーちゃん居ると思う?」

「……知らん。というかいい加減服を着ろ、あんたが色々人から外れてるのはよく判った」

 

 どこかぶすっとした調子で答えられた。

 感覚としてはしっくりこないものの、確かに人前で裸なのは問題かもしれない、フレッドも話しづらそうだし、いそいそと服を着込む。

 そうだ、これは言っておかないとだろう。

 

「そういえばおれは男だからな」

 

 フレッドは再び頭痛を感じたように額に手を当てた。軽く握った手でそのままこんこんと額を叩く。

 

「どこの世界にそんな体の男が居るってんだ。いや……もういい、とりあえず俺の質問に答えてくれ」

 

 真面目な顔になると真っ直ぐにこちらを見て、どんな嘘も見透かしそうな目でこちらを見る。

 

「……お前は何だ?」

「竜らしいよ」

 

 答えると拍子抜けしたのか、なんだ竜か……と呟き、少し間を置いて。かっと目を開きこちらに迫る。

 

「竜ゥ?」

 

 いかにも胡散臭いと言いそうな口と驚いてる目、器用な顔芸をする。

 おれは一つ頷いた。

 

「目ぇ覚ました所に居た山羊が言ってた」

「……山羊が喋るかよ」

 

 フレッドは乱暴に頭をぼりぼり掻く。おさまりの悪い髪がさらに跳ねる。長いため息を吐き、敷物に再び腰を下ろした。

 

「ああまあ、何が何やら判らん。とりあえず一から話してみてくれ」

「おお、おれも正直わかってないしな、というかぱっと言葉は浮かぶけど頭が回ってないというか」

 

 思い出そうとしても、脈絡のない事がぽんぽん浮かんでくるだけでとりとめがないのだ。

 ただ、その回ってない頭でも一応、洞窟で目覚めてからの事を思い出しながら話す事くらいはできる。短期記憶って奴だろうか、何か違う気がするが。

 

 腕を横に伸ばすとべたりと垂れる。袖が長い。

 フレッドから貸して貰った草木染めらしい、オリーブ色の上着。形としてはシャツのような? 基本的に体の大きさが違いすぎるようだ。要所要所に皮を当て込んでいるズボンもまたえらく長い。どちらも三つほど折り目をつけて丁度良いようだ。

 おれの背はちょっと前に立ち会った盗賊っぽい男達と同じくらいだったので、単純にフレッドがでかすぎるだけなのだろう。ぱっと見それほど大柄に見えないのは、少し痩せた顔をしているせいだろうか。

 一連の話をした後、その長身をかがめ、フレッドは黙り込んで何かを思い出すように遠い目をしていた。

 ちりちりと燃える火に照らされる顔は、彫りが深く、存外に整っている。身だしなみには無頓着なのか、無精髭とぼさぼさの髪がなければ結構見れる顔なのではないだろうか。

 

「思い出した……確か、相当古い書に北のユルヴァ山に住まう竜の話があった」

 

 ぽつりと呟いた。半眼のまま、自分の頬から顎を撫でる。

 

「読んだのが子供の頃だったからさすがに曖昧だが、山中に迷い込んだ旅人が巨大な竜を見、気を失ってしまう。気がついた時には何故か、美しく、えもいわれぬ気品を持つ女性に介抱されており、冬の間、旅人は女と共に暮らした。その後は何か旅人が約束を破ったのだったか……気を失い、目を覚ますと山を下りた森の中だった、懐には翡翠色の鱗、旅人はそれを金に換え王になった……という、おとぎ話みたいなものだ」

 

 話を終えるとフレッドはこちらをじっと見た。

 

「気品……はないな」

「あってたまるか」

 

 憮然として返す。男だと言っただろうに。

 フレッドの説明だと、そのユルヴァ山というのがどうもおれの移動してきた方角にあるらしい。周辺には小さい集落がぽつぽつあるだけの寂しい場所なのだとか。

 

「残念だが、俺の知識じゃ竜に関連した事などそのくらいだな、あとは本当の意味でおとぎ話だ」

 

 そう言ってすっかり冷めてしまったカップに口をつける。一口飲んで、冷めて美味しくなかったのか、少し眉をひそめ、そのまま一気に煽って空にする。

 

「そういえばもう一つあった。こちらは有名だ」

 

 無言で目を向けて促す。

 期待はしないほうがいいぞ、とフレッドは肩をすくめた。

 

「西の都アルノー、あそこの海には竜が居るというもっぱらの噂だ、年に一度祭りも行われる」

「おお……」

「ただ」

 

 苦笑いを軽く含ませ、続ける。

 

「連中は商売になるなら何でも吹聴する。東の酒と西の商人には騙されるなというのがこの辺の格言さ」

「東の酒?」

「東方の酒は甘いが強い、飲みやすいが三杯も飲めば腰が立たん、味に騙されるって事だろう」

 

 ほうほう、と感心していると、フレッドは何か思いついたように顎を撫でた。

 

「そういえばあんたは山羊と話が通じたそうだが、そいつとは話せないのか?」

 

 草原に座り混み、暇そうにこちらを見ている馬を指さす。

 注意が向けられたのを敏感に感じたのか、何か用かと言わんばかりに心持ち首をもたげた。

 

「む……というか、そんなあっさり信じていいのか?」

「どうだろうな、翼も尻尾もある、それに嘘をつくならもっとマシな嘘だってあるだろう。ならばとりあえず信じるさ。それで、どうだ?」

 

 はて、どうなのだろうか、ちょっと近づいてみる。

 栗色の毛をした馬は馬車を引かせるには勿体ないくらいに綺麗な体をしていた。

 額から鼻先にかけて白い模様があり、小麦色のたてがみが火の明かりに照らされ、淡く見える。

 近くまで寄ってみてもあまり警戒はしていない……のか? 目は興味深げにこちらを見ている様子ではある。ゆっくり手を伸ばしてみてもそう避ける様子はない。顔を撫でてみた。

 気持ちが良いかのように少し目を細める。その目をじっと見て、何となく悟る。

 

「駄目っぽいなあ」

 

 何となくだが、話せる気がしない。意志が通じる気がしない。

 どこに差があるのかは判らないが、あの山で出会った山羊とは違うようだ。

 振り向くと、なぜか感心したような瞳があった。

 近づいてきたフレッドは馬の首筋を揉むように撫でる。

 馬は軽くいななき、懐くように顔を腕にすりつけた。

 

「トーリアは気位の高い奴でな、初見で気に入られたのはあんたが初めてかもしれん。俺もかなり手こずらされたもんだ」

 

 フレッドはどことなくぼんやりした表情でこちらを向いた。おれを見ているのに、その後ろを見透かすような目。妙な事に、そんな表情をしていると野蛮さが抜け、どこか育ちが良さそうにさえ見えてしまう。不思議な男だった。

 やがて、自嘲するかのように笑みを浮かべ、頭を小さく振る。

 妙な様子に、どうしたのかと聞いてみると。

 

「なに、何でもない。ただ、俺の目はあまり当てにならんが、トーリアが認めたなら少なくとも害を為すような竜ではないだろう、あんたの言に嘘がないならその山羊が特別だったのかもしれんな」

 

 そうなのかもしれない。よく判らないが。

 さっきフレッドが言った話通りだと、あの洞窟にその竜が……うん。どういった話なのか思い出せなくなってしまった。おお、おれよ、忘れてしまうとは情けない。

 腕を組んで唸っていると肩を叩かれる。

 

「考えても進まん時は休む事だ、一晩寝れば湧く知恵もあるかもしれん」

「……む」

 

 この男、案外、説教臭いところがあるのかもしれない。人の悩みを判ったような事を言う。とはいえ、返す言葉も見つからない。不本意な呻きを一つ漏らし、フレッドが指さす馬車に向かうのだった。

 

 空から高い音が響く。

 コルクを何度もひねるような音。

 どこかで聞いた事がある。

 映画の中だっただろうか、鷹とかハヤブサ……そんなたぐいの鳴き声だった気がする。

 

 疲れを感じていたわけでもなかったのに、あっという間に眠りについてしまったらしい。馬車の中にあった敷布の上に横になったところまでは覚えていたのだが。

 

「……ぐ」

 

 声にならない声をあげた。

 覚えている、覚えている、覚えている。

 蜃気楼のように揺らめく記憶が頭にあった。

 生まれ、育ち、学生を経て……

 どうなったのだろうか。

 肝心なところがぼやける。曖昧模糊という、絶対日常では使わないだろう四字熟語を思い出す。

 おれは何者なのか。掴めない、霞のように逃げていく。

 

「う……」

 

 一つ呻き身を起こした。

 体に違和感はない。不思議なほどに。

 右手の指を小指から順に折りたたんでみる、広げてみる。

 おれの手だ。

 どうしようもなくおれの手だ。違和感なんて有りはしない。

 しばらくそのまま呆然としていた。

 頭は昨日よりずっと回っている。

 夢の中にどっぷり漬かっている感覚は薄れていた。

 得体のしれない笑いがこみ上げる。どこか自暴自棄になりそうな。

 

「なんてぇこった……」

 

 手を額に落とした。ため息を深く吐く。

 昨日の事を思い出してみれば、明らかに今居るところ、この場所は現代社会とはちょっと言えない。

 大体、俺の体じゃあない……はず。さらに言えば精神も何か変だ、こんな事態になればもっと深刻な気分になってもいい。それがない。なぜかどこかで、これが当然であり、当たり前であるかのように受け止めている自分が居る。その事自体有り得ない。有り得ないが、現実そうなっている。

 おれは髪を掻きむしった。考え詰めると頭がおかしくなりそうだ。

 記憶はぼんやりしていた。

 人であったはず、男であったはず。普通の両親にそう周囲とあまり変わり映えのない学生生活、仕事はどうしていたのだろうか、あまり楽しんでいなかったのかもしれない。覚えているのは映画だのゲームだの、誘われて行っていたスポーツジム、あるいは友人が強引に押しつけていった

 

「異世界とか……」

 

 ふひゃ、と気の抜けた笑い声が出た。まさか、ゲームじゃあるまいし。

 あるまいし……

 

「まだ薬でラリって夢見てるって方が現実味が」

 

 といやまあ、そんな危ない薬に手を出すようなおれじゃないと信じたいが。

 上半身を起こす。掛けられていた敷布が落ちた。自分で掛けた覚えはないから、あの男のちょっとした気遣いだろう。

 背中の翼を動かし、前に持ってきてみる。昨日も見たが、まじまじと見ると翡翠の色をしながら角度によっては異なる色になったりもする。何となくなでさすった。ちょっとひんやりしている。

 

「竜……なあ?」

 

 自分が竜である事にもなぜか納得できてしまう。そしてこうも思うのだ。

 もう考えても仕方無いと。

 

「むぅ……」

 

 開き直りでしかないと思うが、心の深いところでそう思い、納得してしまっている自分がどこか嫌だった。

 馬車の幌を開け、外を覗くとうっすらと日が射し始めている。夜明けぴったりに起きてしまったようだ。のそのそと馬車から降りる。

 昨日は全く気がつかなかったが、ずっと裸足で歩いていたらしい。地面に足をつけたとき、一瞬ひやりと冷たさが伝わったが、次の瞬間には何ほどでもなくなっていた。

 

「……これもあれか、考えたら負けって奴か」

 

 何かすごい力でも働いているのだろう。普通なら裸足で石だらけの荒れ地を歩いたら酷い事になりそうなものだが、傷一つ付かないようだ。

 何となくため息を一つ漏らす。頭を巡らすとフレッドが昨日と同じく火の前で座りこんでいた。

 どうやら夜の間、番をしていたらしい。ちろちろと燃える炉の前で手慰みにか、小刀で木を彫っている。気配を察したのかこちらを向く。

 

「よう、起きたか」

「誰だお前」

 

 ついツッコミが出てしまった。

 いや、判る。フレッドなのはよく判る。だが、昨日の印象からするとせいぜい三十と四十の間くらいなものだと思っていた。そのくらいの顔に見えたのだ。

 

「おお、暇でな。それに今日の夕方には町に着く。多少は整えんとな」

 

 そう言ってつるりと顎をなでる。

 

「髭剃っただけで十は若返ったな……」

「よく言われる」

 

 そう言って欠伸をしながら頭を掻く。ぼさぼさの頭なのは変わらないが、今のフレッドはどうも二十前後の青年にしか見えない。髭一つで随分印象が違うものらしい。

 

「で、どうだ、一眠りして何か変わったか」

「……あー、うん、何と言えばいいか。とりあえず落ち着きはしたような」

 

 どう説明したものか迷う。

 そんなおれの迷いの色を見て取ったのか、フレッドは肩をすくめた。火にかかっていたポットを取り、カップに注ぐ。

 

「とりあえず、ほれ」

「あんがと」

 

 カップを受け取り、昨日のままになっていた毛皮に座る。一口啜ってみれば昨日のお茶とは違い、薬草茶のようなコーヒーのような。苦味のあるお茶だった。ちまちまと飲みながらどう話せばいいか整理する。

 

「朦朧とはしなくなったようだな」

「……昨日はそんなに酷かったか?」

 

 フレッドは微かに片方の唇を持ち上げて笑った。

 

「心ここにあらず、話しかけても何も反応がない時さえあった。あまりに無防備だったな。俺が女に飢えていたら組み敷いていたかもしれん」

 

 あまり上品ともいえない事を言う。やれやれと空を仰いでため息を吐いた。しかしそこまで朦朧としていたとは……自分じゃ判らないものだ。

 

「勘弁してくれよ……男だ一応、というかどうも人間じゃあないし」

「そりゃ見れば判った、ただ、竜だってのはさすがにな」

「とはいえ、寝て起きたら尚更確信が持てたというか。経緯がまるで判らないんだけど……何というか、なぜかこうしっくりくるんだよなあ」

「……感覚的な話だな。翼と尻尾を見ていなければどこの狂人かと思ってしまうところだ」

「おれもそう思う」

 

 そう言い、カップを傾けた。慣れるとこの苦味がクセになるかもしれない。どこか遠くで狼の遠吠えのような声が聞こえる。馬……トーリアだったか、がぴくりと耳を動かし首をもたげた。

 

「狼?」

「ああ、この辺りはよく出る。あまり人は襲わんが飢えていれば別だ。夜は火を絶やせん」

 

 フレッドはそう言い、眩しげに朝日を見る。腕を軽く回し、肩をごきりと鳴らせた。

 

「さて、俺も少し休ませてもらう。日が高くなる前には出立しよう」

 

 腹が減ったらそれを、と蓋のついている鍋を指す、欠伸をかみ殺しながら馬車に向かって行った。

 ……頬を掻く、そんなに空きっ腹を抱えているように見えてしまっただろうか。

 

「うんまあ」

 

 腹が鳴った。まったく本能に忠実な胃袋のようだ。彼の心遣いはありがたく頂くことにしよう。

 

 ゴトゴトと上下に揺れながら景色がゆっくりと流れる、本当にゆっくりとだ。

 思ったより馬車というのは速く走れず、揺れるものらしい。御者台でフレッドが手綱を持っている、ただ荷物と一緒に幌の中に居るのでは暇なので隣に座らせてもらった。

 日が昇り、出ていた霧もすっきりと晴れた。馬車の左側、遠くに山の稜線が見える。周囲は一面の草原、まばらに木が生える風景は今のところ変わっていない。

 

「見渡す限り人らしい人も居ないんだけど、本当に今日中に町に着くのか?」

「ああ、今は南東に向かっているんだが、もう少しで街道に入る。そうすれば道が良くなるからな、ぐっと早く進める、夕方にはリーファンの町に着く事ができるはずだ」

 

 おっと、と呟いて手綱を微妙に動かした。石に車輪が乗り上げないように少し方向をずらしたものらしい。わずかに手綱を動かしただけなのに馬はしっかり反応している。よく知らないが、結構な技なんだろうか。

 そういえばと、ふと思う。かなり今更ではあるが、この男何者だろう。

 囲んでいた連中の言葉からすると、商人だと思ってたらしいが……ちょっと武闘派過ぎる気がする。それともこの辺の商人というのはこんなものなのだろうか?

 見るともなしに見ていたら、視線に気付いたらしい「どうかしたか?」と声をかけてくる。

 別に隠す事でもない、正直に聞いてみた。

 

「いや、自分の事で一杯だったけど、考えてみたらフレッドもまただいぶ毛色が違うってか……何者だろうと思ってさ」

「なるほど、もっともだが今更でもある」

 

 そう言って、片頬で笑みを作る。髭の無い今だと随分子供っぽく見えた。

 

「至って普通、真面目で善良な交易商人さ」

「……真面目で善良な交易商人はあんな大立ち回りできないと思うんだけど」

「嘘だからな」

 

 しれっとした顔で言う。頬杖をついてじっとりした目で見ると、ククと小さく笑った。案外人をおちょくるのが好きなのかもしれない。

 

「交易商の端くれには入るだろうな、実質は雇われのようなものだが」

「雇われ?」

「ああ、俺のやる事は目利きと運送のみさ。リーファンに着いたら判るだろうがな」

 

 フレッドもまた退屈を感じていたのかもしれない。ぽつぽつと自分の事についても話してくれた。

 どうも宝石だの秘薬だの貴金属だの、説明されてもよく判らないものが多かったが、要するに高値のものを扱っているらしい。流通量が少なく嵩張らない上に高値なものなので、隊商を組むよりむしろ腕に自慢のある者が単独で運んだ方がかえって身軽で安全なのだとか。

 話しているうちに街道に入ったようだった。何となくこういう風景なもので、街道と言っても荒れ地が多少慣らされている程度だろうと思っていたのだが、とんでもない。

 どこかで聞いた事がある。石造りの道には馬車の車輪がすっぽりはまる溝が設けられている、確かそうする事で何度馬車が通っても道が荒れにくく、運行も早くなるのだとか。幅は馬車が余裕ですれ違えるほどもあり、その石造りの街道は遠く霞むところまで延々とうねりながら伸びていた。

 驚くほどしっかり出来てる道だ、と感心しているとフレッドがおもむろに説明してくれる。

 

「今は分裂してしまったが、この辺りが昔一つの国だった時に作られた東西を結ぶ街道だ。帝国の建国記念事業でな、そのままの名前で帝国街道とも呼ばれている。洒落た名前が付かなかったのは」

 

 どこか皮肉を含んだ笑みを浮かべた。その昔の話を心に思い描いているのか、遠くを見る眼差しになる。

 

「街道の完成前に帝国が滅んでしまったからだ。大事業に加え、北に南に軍を向けすぎた。内乱が起こってな、国は三代で幕を閉じた」

「ほー」

「……といっても帝国の事なども知らないんだったな」

 

 まあなあ、と呟いて頬を掻く。

 街道を走るようになると、それはもう快適だった。草原を走っていた時と比べれば倍以上に速さが違うんじゃないだろうか。この街道を東に行くとそのリーファンの町に着くのだとか。

 ……ふと、疑問が浮かんだ。

 

「そういえば、こんないい道があるのに、何でフレッドはあんな街道から外れたところに居たんだ?」

「……何とも、それもまた今更だな」

 

 苦笑いのようなものを浮かべて肩をすくめてみせる。

 

「ついでに言わせて貰えば『なぜ商人が襲われているのに肝心の馬車が荒らされていないのか』なんて疑問も持った方が良いと思うぞ」

「……余計なお世話じゃなかろーか」

 

 確かにもっともだ。あの襲ってたおっさん達が野盗としたら、商人一人に構ってないでさっさと荷物を奪っていきそうでもある。つまり何か理由がある。しかし洞察力の無さを見透かされたようで面白くない。してやったりなんて笑みがちょっと漏れているところを見ると、やはりこの男、さりげに人をいじるのが好きと見える。

 

「くく、そう睨むな。まあ、簡単な事でな、占いだよ」

「は?」

 

 占い? タロットとか、手相とか……ええと星座とか。うむ、全く興味が無かったので出てこない。よほどおれは鳩が豆鉄砲をくらったような顔でもしていたのか、こちらを見たフレッドが苦笑を浮かべた。

 

「商都を出る時に辻占いの婆さんに言われたのさ『北の古道を通り、進むがままに。宿運尽きねば運命と相対するだろう』ってな」

 

 ……運命っスか。あまりに大仰な単語に口の端がひきつるのを覚えた。

 

「連中に襲われた時は、死が運命かとも思ったもんだが……それがあんたみたいなのならそう悪くはない」

 

 中身が問題だが、と付け加えた。

 うむ、まあ何というか。一歩引いた。御者台なのでちょっと身をずらす程度しかできないが。

 

「その、な、見た目はこんなだけど同性愛になっちゃうから勘弁な」

「安心しろ、俺は熟練者だ」

「熟練だと!?」

 

 趣味の悪い笑みを浮かべているところを見ると、完全に冗談のようだが……いやまて、女の体になっているというのにこのノリはホモの範疇に入るのか、心は完全に男のはず、少なくとも自己認識は、いやしかし体は……どーなんだこの場合。

 

「うぬ……」

「どうした急に考え込んで」

「心と体の問題について深刻な悩みが」

 

 ひとしきり考えたところで、何て無駄な事を考えているのかと虚しくなった。

 阿呆な事に頭を使った、と大きくため息をつく。そんなおれを横目で見ながら、フレッドが唐突な言葉をかけてきた。

 

「そういえば、名前は思い出したか?」

「……いや」

 

 それは本当に思い出せないのだ。正直言って自分がどんな人間だったかもかなり曖昧になっている。

 

「いつまでも呼び名が無いと不便だ、何か思いつかないか?」

「あー、確かになあ。しかし呼び名か、見た目から行くと……」

 

 竜、ドラゴン、の女? 安直に行くと……ドラ子……ドラコ? フォイ! いかん何か変な記憶が混じった気がする。もっと単純に考えて。

 

「ドラ美?」

 

 ……やめよう、何だか黄色くまるまるとなりそうな気がしてならない。

 腕を組んでしばらく悩む、ピンとこない。いや、何か思い出せそうな。名前名前、何か引っかかる。そうだ、こんなだった。

 

「じ、寿限無、寿限無、五劫の擦り切れ、海砂利水魚、水行末、雲来末、風来末、食う寝る所に住む所、薮らこうじのぶらこうじ、パイポパイポパイポのシューリンガン、シューリンガンのグーリンダイ、グーリンダイのポンポコピーのポンポコナーの長久命の長助やいって……」

 

 頭を抱えた。何でいらん事ばかり覚えているのか。

 

「な……なんだそれは」

「……落語の一節」

 

 縁起のいい名前をつけようとして、とんでもなく長い名前になってしまったという話だったような。

 うむ、段々もう面倒臭くなってきてしまった。頭を抱えたままフレッドに頼む。

 

「なんつうか、うん、良い名前浮かばないし、フレッドが決めてくれ、文句は言わない」

 

 恐ろしく珍妙な名前でなければ、と心の中で付け足す。

 フレッドはふむ、と呟き、しばし考える様子を見せた。

 

「エフィってのはどうだ」

「む、エフィ……エフィなあ?」

 

 口の中で転がすように名前を呟く。

 

「何というかその、響きがちと可愛らしいような」

「昔飼ってた猫の名前だ」

「猫かよ」

 

 がっくりと力が抜ける。きっと多分、珍妙な名前でもないのだろうし、何ともかんとも。

 

「嫌か?」

「……にゃあにゃあ」

 

 抗議の意志を込め、首を振りつつ猫語で返しておいた。呼び名程度で騒ぐのも馬鹿らしいとはいえ、何とも言えないもやもやが残る。文句は言わないなどと言わなければ良かったかもしれない。後の祭りというものだった。


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