「……うーん。なーんか気持ち良く酔えないッス」
「マジか、重症だな」
先刻の女子高生との邂逅からというもの、裕士は少々調子が悪い。
重い食事が喉を通らず、普段水であるかのように飲んでいるビールもジョッキに半分以上残っている。
酒に弱くペースも遅い暁が一杯飲みきるまででこれだ。真剣に異常事態である。
「一体何なんスかねぇ……」
「恋煩いじゃね?」
「いやいや、まさか……」
つまみを口にして再びジョッキを傾けるも、やはり裕士は眉をしかめるのみ。
「……今日はお開きにすっか。ゲーセン行くのもまた今度で良いだろ」
「なんか……スンマセン。気を使わせちゃって」
「構わんよ。代わりに残りの餃子、くれ」
「うっす」
少々空腹気味だった暁はすぐさま皿に残った餃子を平らげ、テーブルに肘を突いてへばっている裕士に代わってとっとと会計を済ませてしまった。
「ゴチになります……」
「ねーよ、2,000円は出せ。今度で良いから」
「うーッス」
普段通り暁が多めに代金を持って、男二人は居酒屋を後にした。
無駄口好きな彼らには珍しく、手近に話題がないために黙りこくっての帰路となった。繁華街の喧噪が、どこか遠くに感じられる。
「……次は、連絡先の交換だな」
「!? ゲホ、ゲホッ!」
改札を通過しながらの暁の呟きに、裕士は過剰反応してむせかえる。うっかり電子定期を通し忘れ、暁の後ろで改札機に突っかかった。
「うわっチクショ……っと。一体何て事言うんですか暁さん!」
「……お前、本当に今日は早く寝ろよ。ヤバいぞ」
普段は常に余裕のあるリア充的態度を早々崩さない裕士が、取り乱しすぎである。
(こりゃかなり重めに煩ってるな)
暁は後輩の新たな兆しに、微笑を浮かべた。
期待と優しさに満ちた慈愛の表情――などと言うことは全くなく、面白いもの見たさのニヤケ面であった。
「そう言う人の悪いカオは余所でやってもらえませんかね」
「説得力ねぇだろうけど、これでも結構応援してるぜ?」
「うーんまぁ……そりゃ暁さんのそういう所は信頼してますよ」
「あ、でも一線は超えるなよ。双方合意の
「ひっでぇ皮算用ッスねそれ」
普段の調子を若干取り戻しながら、二人は路線の分岐点に差し掛かった。
「今日は勝手にヘコんでて、どうもスンマセンでした! お疲れさまッス!」
「おう、じゃーなー」
暁は地下へ、裕士は地上のホームへと別れてそれぞれの列車へ乗り込んでいった。
『次は、新宿。新宿。終点です。本日も――』
「……さて、どうすっかね」
電車が減速しだした辺りで暁は座席から立ち上がり、先程から頭の中を満たしている思考を口から零した。
時刻は未だ午後7時を過ぎず。今からまっすぐ帰っても帰宅は9時になってしまうだろうが、暁の感覚ではまだまだ帰るには早すぎた。
本来なら裕士との飲み会で時間をつぶす予定であったし、かといって一人で飲み直すほど酒が好きなわけでもない。
用もなく何げなしに新宿駅の改札を通過してから、暁は手近な柱に凭れかかってスマートフォンを取り出した。
「……あ、やべ」
GGOからのチャット受信通知がポップアップしていた。気がつかなかったが、裕士と飲み始めたくらいに届いていたものだ。
〈 Nobeske : 昨日はごめんなさい 〉
「……あー、別に良いってのに」
もう仲直りしたじゃないか――と独りごちりながら苦笑い、暁は液晶に指を滑らせる。
〈 Phive : 気にしてない。ちゃんと和解しただろう 〉
しばらく返信が無いか待った後、チャットアプリを閉じるちょうどの所で返信があった。
タスクの終了をキャンセルして、そのまま会話を続ける。
〈 Nobeske : 怒ってない? 〉
〈 Phive : ないない 〉
〈 Nobeske : 蒸し返して、ごめんなさい 〉
〈 Phive : 良いってば 〉
〈 Nobeske : 今日は、ログインしていないけど、何かあった? 〉
(なるほど、それで心配になって連絡してきたのか)
暁は心配を引き延ばすような真似をして悪い事をした――と小さな罪悪感を覚える。と同時に、不安になって連絡してくるとは可愛いところもあるな――と少しだけほっこりした。
〈 Phive : 何もない。単純に、今日はお休みってだけ 〉
〈 Nobeske : そう 〉
〈 Phive : シカゴも今日は、多分休み。体調悪いんだとよ 〉
〈 Nobeske : そう 〉
「……いや、会話のキャッチボールしろよ」
会話を綺麗に締めくくれない時点で暁も他人にとやかくは言えないのだが、のべ助の返信はデッドパスも良いところだ。
無口な女アバターの半眼を思い返しながら、ひょっとしてコミュ障なだけなのでは――と邪推した。
〈 Phive : アイリスにはこっちから連絡しとくから 〉
〈 Phive : とりあえず今日は、これで。お疲れ 〉
〈 Nobeske : お疲れ様です 〉
なんで最後だけ敬語なんだ? と含み笑い混じりに呟きながら、暁はアイリスに宛てて今日は野郎二人がログインしない旨を簡単に伝える。
返信はない。大抵の人ならそれなりに忙しい時間であるし、彼は気にせずチャットを閉じた。
「……さて」
どうしたもんか、と暁は凭れた柱から身を離して腕を組んだ。
夜の時間が丸ごとフリーになったのは良いものの、彼はいわゆる若者の遊びを特に好んではいない。ダーツやカラオケなどは、裕士を筆頭とした友人に誘われて嗜む程度。
気軽に時間を潰せる趣味も特に持ち合わせて無く、強いて言うなら銃器専門誌を眺めるかGGOをプレイするくらい。
そして課外時間を犠牲にせねばならないような課題にも追われていない。無趣味な文系大学生は、どうしようもなく暇なのだ。
(まぁ、いいか。煙草吸ってから考えよ)
組んでいた腕を解き、右手をポケットに突っ込んで歩き出す。このままだと何となくで時間を無為に浪費するだけだろうと察しつつも、暁はそれはそれでも別に良いと投げやりに考えた。
地下連絡路を抜け、都庁へ向かう道すがらにある商業施設の喫煙スペースが、暁のお気に入りであった。
少し距歩く必要があるものの、そちらの方が換気がしっかりしていて割りかし煙くないのだ。
(ああ、そうだ。都庁に行くのも良いかもな。居酒屋でそれほど飯食えなかったし、都庁食堂で軽く晩飯食って――)
脳内をやかましくしながら地下通路を進んでいた暁の、歩みと思考がそこで止まる。
その造形から
小柄で細い体躯更に輪郭をぼかすように着込んだぶかぶかのパーカー。今日はその上に、ブレザーを着込んでいた。下のスラックスと合わさって、どうやらそれは制服のようだった。
そして、小さな頭には不釣り合いに大きなキャスケット帽。その縁からこぼれる明るい色の髪。
その全てが、暁のエピソード記憶に語りかけていた。
「お……」
「あっ……」
互いの目が合った。暁は今日二度も偶然の再会に立ち会ったことを愉快に感じ、珍しくにこやかに笑いながら軽く手を振った。
それを受けて少年は、慌てたように会釈した。恥ずかしがって顔を伏せたようにも見える。
暁が階段の下へと向かうと、少年も階段を降りてきた。
――ただ単に、顔見知りとまた偶然会っただけであるが、二人の心象にはそれ以上の変化があった。
「……よ、こんばんは。久しぶり」
暁は、「現実は小説より奇なり」という言葉を頭に思い浮かべながら愉快そうに。
「はっ、はい。こんばんは……」
少年――エミル・マンリッヒャーは、抑えきれない自身の期待に不安を抱きながら、挨拶をした。
そこから、しばし沈黙が続いた。
「……あー、ごめん。マンリッヒャーさん」
「? ……あ、名前、ですか?」
「ホントごめん」
どうにかして名前を思い出すなり向こうから引き出すなりと言った小賢しい事を考えていた暁であったが、さすがに放送事故クラスの無言が居たたまれなくなって素直に頭を下げた。
「だいじょうぶです。エミル、です」
「ごめんな。俺、真部暁」
「……はい。今、覚えました。暁さん」
口振りからエミルが暁の名を忘れていなかったことは、鈍感な暁でも疑う余地もなく理解できた。
「気が回るな。将来良いオトコになるぞ、お前は」
「……いえ、そんな」
歯切れ悪く、エミルは肯定とも否定とも取れない言葉を返した。それと同時に翠の瞳が帽子の鍔で隠れる。
2秒沈黙が続いて、暁はやはり自分がエミルの
「今日はどうしたんだ? 俺は暇潰し」
「え? あっ、えっと……。ぼくも、そんな感じです」
少々雑な話題転換だったが、細くだがエミルは暁の軽い口調につられるように話し出した。
暁はどうにも鈍感であったが、鈍感なりに気を回すくらいはできる男であった。
「そっか。晩飯、食った?」
「まだ、です」
「そっか。どこ行くか決まってる?」
「……いえ、特には」
暁は、会話を行いながらも逡巡していた。
二度会っただけの少年に、深入りしすぎではないかと。事情も知らない他人に、干渉しすぎではないかと。
「あき、さん……?」
言葉を絶やしてしまった暁の顔に、不安げな翠の眼差しが向けられた。
エメラルドグリーンやターコイズブルーなど、煌びやかな宝石に例えられそうなその瞳は、しかし輝きを湛えてはいない。
「良かったら、さ」
暁は、その死んだ眼に対する適切な解を持っていない。
「何とかしなきゃいけない」という義務感で行動を起こすのは、一種の傲慢であると彼は自覚していた。
「はい……?」
「晩飯、食わないか。奢るよ」
結局暁は、痛々しい様子のエミルを放ってはおけなかった。――自分には何も出来ないであろう事は、しっかりと自覚しながら。
そうでなければ、彼自身の目はもう少し生き生きとしていたはずだ。
「いや、そんな……悪い、ですよ」
「良いって。ホラ、いつかお礼してくれるんだろ?」
「あっ――は、はい」
「じゃ、その『いつか』の為にもさ……」
暁は、少し膝と腰を曲げてエミルと視線を合わせた。
少しクサいな――と思いつつも、彼は目尻を僅かに下げながら右手を差し出した。
「友達になってくれないか? 一緒に、飯食おう」
――その笑顔は、憂いを帯びながらもその青年には珍しい、一切の険が取れた表情だった。
エミルはその微笑を間近に見て、ぱちりと一度瞬いた。
数瞬後に、じわじわと頬を赤らめて、暁の視線から帽子を盾に逃れるように俯いた。
「――――いいん、ですか」
「勿論」
か細い声に、暁は迷い無く応じた。
「むしろ、願い下げかね?」
ふるふると、俯いたままのエミルは力なく頭を振った。
「…………お願い、します」
暁の右手に、おそるおそるとエミルの手が添えられた。
ゆっくりと脅かさないように、しかし確実に暁はその手を握る。握手と称すにはどうにもよそよそしく頼りなかったが、今は互いに、それで良かった。
「――んじゃ、よろしくな。エミル」
「はい……暁さん」
――この後、彼ら二人の関係が、少しだけ世界を変える事になるのだが――
それはまだ、先の話である。