「ガウァッ!」
獣の雄叫びのような呻き声と、硬質な衝突音が重なった。
のべ助が逆手で振り下ろしたナイフは、ファイヴの左手を貫いて――そこで制止する。
「……!」
ファイヴは、刀身を噛んで止めていた。その事実に、のべ助は静かに驚愕する。
彼女は、ファイヴの目を狙ってナイフを突いた。だが、肝心の凶刃は今や彼の口内に収まって固定されている。
もちろん、鋭利な刃物を口の中に放り込まれるなどたまったものではない。
だがそれでも、眼球を一突きされるよりはマシであろう。
そんな咄嗟の判断を、全く無警戒の状態から狙ってやってのけたとしたら。
「しらばくれるのは、やめて」
ソードスキル。そしてそれを、自動小銃で再現するほどの練度。
疑惑はあった。それらは小さいものだが、のべ助はそれを看過することができなかった。
「この反応速度は、何……?」
そしてその疑惑は、確信に変わってしまった。
「貴方は、誰――?」
至近で、しかし鋭く冷酷にファイヴを見下ろしながら、のべ助は熱のない声で眼前の男へ問いかけた。
対して、組み敷かれた状態で必死に文字通り食いしばっているファイヴはと言うと、
(…………やっべ、話が全然見えない)
ある意味楽観的とさえ形容できる心持ちで、一体これからどうしようかと考えていた。
ファイヴからすれば、のべ助の様子がおかしいことから何か理由があって彼女を怒らせたものとばかり考えていた。
だが、どうやらそれは誤解であって、弁解の余地は有るのかもしれない。
「……口、塞がってると喋れない」
「ぐ……?」
「…………ちゃんと話してくれたら、刺さないから」
「!?」
……どうやら、余地は無いらしい。
何せファイヴは、のべ助の望む答えを持っていないのだから。
ファイヴはだんだんと痺れに似た鈍痛に支配されていく脳を、必死に回し始める。口腔中のナイフの味が、本当に出血しているのではと錯覚させた。
第一に思いついたのは、のべ助が諦めるまでこの膠着状態を続けること。しかしそれは、非常に分が悪い。
VRMMOのペインフィードバックはよく「バカ力の指圧マッサージ」と例えられるが、GGOでのそれはかなり強力だ。
考えなしにナイフを歯で止めたファイヴだが、その代償に実は舌をザックリやられている。
掌も風穴が空いているし、全身から力が抜けてそのままシシャモよろしく喉を串刺されるのも時間の問題だ。
またその時間までにのべ助が諦めることも、まず無いだろう。
ならば無理矢理にでも――具体的には、今自身にのし掛かっている女を空いてる右腕で殴り飛ばすなりするか。
幸いのべ助は長身の割に細く、
喉は犠牲になるであろうが、ファイヴの筋力であれば相打ち覚悟の力ずくで彼女を叩きのめすのはそう難しくはない。
しかしそれも、断じて否である。
例え片目を抉られそうになったとしても所詮ゲーム。それに元が勘違いから生まれたすれ違いである。
ではどうするか。
説得するしかない。こんな悪人面で、言葉を介さずに。
まず、のべ助の目を見た。なるべく敵意を感じさせない面もちを心掛けるも、銜えたナイフを離すまいと力んでいるため、それはもう酷く凶悪な表情であった。
「……脅してるつもり?」
(違うって……!)
「…………効かない、から」
(……そうかい)
その割には、語尾が震えていた。意図とは違うが付け入る隙を見いだしたファイヴは、初めて自身の悪人面に少しだけ感謝できた。
状況は好転していないが心理的余裕を取り戻した彼は、怯えながらも未だ殺意に満ちた少女を冷静に観察する余裕ができていた。
(――目、冷たいな)
間近で投げ掛けられる金色の瞳には、殺意と言うより虚無が満ちていた。
低温とは形容できない、言うなれば無温。
それとは相反する湿度が、その奥には感じられた。
その眼差しには見覚えがあって、だがしかし、ファイヴはやはりそれに対する答えを知らない。
(一体何があったら、こんな死んだ目になっちまうんだろうなぁ)
ファイヴの右手が、その深淵の金に吸い寄せられるようにもたげられる。
拳を握っているわけではない。一切の力みのない、自然にあるがままの手を、のべ助の頬へ添えた。
「っ……!」
顔を触れられたことにより、のべ助は肩をこわばらせる。両腕でファイヴを押さえつけている彼女は、その手を振り払うことができない。
目潰しでもするつもりか――そんなのべ助の懸念は外れる。ファイヴの手は彼女の頬をゆっくりと、撫ぜるように付いては離れるのみ。
「な、なに……?」
「…………」
怪訝そうに、眉間の皺を深めるのべ助。
しかしファイヴの方も、自分が何故このような行動を取っているかを口が利けないことを関係無しに説明できずにいた。
のべ助にどういう理由があってファイヴに害を成そうとしているのか、彼はわからない。
その問題の解決法など、知る由もない。
ならばその行動の原動力は、あるいは同情かもしれない。
ファイヴはその似ても似つかない金の瞳の中に、
そうしていて、どれくらいの時が経っただろう。
少なくとも、ファイヴの
ぺた、ぺたという肌と肌の触れ合う音に、静かに啜り泣く声が混じっていた。
ファイヴは嘆息し、苦労しながらも強ばっていた顎の筋肉から力を抜く。そうしてナイフが貫通したままの左手を眼前からどけると、柄にしがみついていた細い指は驚くほど素直に解かれた。
凍てつくような殺気を湛える瞳は、既にファイヴの視界には無い。
代わりに彼の胸には、声を潜めて身を震わせる少女の頭が
「おい……」
凶器を手放した指先がファイヴの肩を掴んだので、彼は驚いて反射的に声を上げる。しかし彼は、さめざめと泣いている女に対して適切な対処ができる男ではない。
結局どうするべきかと悩みながらしばらく手を宙に泳がせ、やっと刺さったナイフを抜き取る。
そうしてからのべ助の頭を撫でたのだった。
「……ごめんなさい」
「ん?」
しばらくのべ助の頭を撫で、ファイヴの左手が随分と感覚を取り戻した頃だった。
「乱暴だった。……それと、後先を考えなさすぎた」
「いいさ。きっと、俺だって悪い」
顔をファイヴの胸に伏せたままの、捉え方によっては非常におざなりに感じられる謝罪であった。
それでもファイヴは、まるで待ち合わせに数分遅刻した友人に対する反応と同じような気楽さで許した。
「……ま、早いとこ
「っ!」
ファイヴがケラケラと笑うと、のべ助はバネ仕掛けのような俊敏さで起きあがった。そのまま消えたと錯覚しかねない超速ステップで距離を離すと、ファイヴに背を向けて俯いてしまった。
「おいおい、そんなに嫌がることないじゃんかよー」
「…………ごめん」
軽い調子のジョークを交えながら、ファイヴは立ち上がって軽く屈伸した。身動きできないようにのべ助に脚を圧迫されていたせいで、多少の痺れが残っていた。
ちなみにのべ助がファイヴから距離を取ってそっぽを向いているのは、気恥ずかしさで赤くなった顔を彼に見られないためである。
「痛かった、よね」
「そりゃ、まあな」
が、そんな事を察せるほどファイヴは勘の良い男ではなかった。
「……重かった?」
「ま、多少はね」
「う……」
「冗談だ。ホレ、これで痛み分け」
肩を軽く竦めながら、ファイヴは煙草を銜えて火を灯した。なんだかんだでお人好しだが聖人ではない彼は、余裕ある表情の奥で何とか平静を保っていた。
「仲直りしようぜ。ちょっと、付き合ってくれよ」
「……?」
「ま、とりあえずホテル出たいんだ。今度こそ、案内頼むよ」
「うん……」
二人はプライベートルームから出て、のべ助の案内でホテル施設から退出。
そこからは、ファイヴが先行してSBCグロッケンを抜け(る途中に何度か迷子になりながら)、目的地を目指した。
その間、両者はぽつぽつと会話を交わした。特に色気のある会話ではない、単純に互いの疑問を提示しあうだけの、冷酷とも取れるやりとりであった。
「反応速度がどうとか言ってたな。ありゃ何だ、化学の問題か?」
「化学……?」
「大雑把に言うと、物質の化学反応が進む速さ。違うのか?」
「……勉強、苦手」
「ふーん、まぁいいや」
深夜にも関わらず、夜のGGOは更にその賑わいを増しているとすら感じられた。
気を抜くとその賑わう雑踏の音にすらかき消されそうな声量で、両者のコミュニケーションは続く。
「その、アイン……なんだっけ?」
「アインクラッド」
「ああそうだ。確かそれ、ちょっと前にダチが騒いでたゲームマップの名前だったと思う。奴は確かALO民だったっけな」
「そう」
「もしかして、お前も剣モノVRの出身か?」
「…………うん」
とりわけのべ助の囁くような話し方は、語の短さも相まって気を使わないと聞き逃しそうになる。
道行くアバターには、まるでファイヴが一方的にまくし立てているように見えただろう。
「んで、ヴォー……っと」
「ヴォーパルストライク」
「そうそう。アレは、見よう見まねだな。第三回BoBの。見たことあるか?」
「うん。リアルタイムで」
「そうか。まぁ俺は至近で敵と戦うことが多いからさ。だから使えるかと思って、練習しまくった訳よ。多分上手く行ったのは見本が良かったからだろうな」
「そっか」
「もしかして、知り合い? 確か名前は――」
「キリト。一方的に、わたしが知ってるだけ」
「やっぱ結構有名なんだな。あの女剣士」
「……あれ、男」
「…………マジ?」
「まじ」
だが、二人の間には以前の――それより温かな何かが、ゆっくりと繋がり始めていた。
それが何なのか、その場を行き来する何人たりとも――当事者の二人でさえ、未だ解せなかった。
「おっ、着いた着いた。一時はどうなることかと」
「……これは?」
そこはSBCグロッケンの幹線道路に面した、GGOでは珍しくもないレンタカーの停留所。
だがしかし、そこに置かれている車両が異形であった。
「いや、最近ヴィクトルにバイクの乗り方を習ってんだが、如何せんマニュアル車って難しくてな。コイツは操作が簡単だし、実戦でも役に立ちそうでここんとこお気に入りなんだ」
それは、横から見れば何の変哲もないSF調のスポーツバイクである。但し、4輪で自立している。
二輪車のフォーク部に無理矢理2つのタイヤをつけてしまったような、未来を先取りしすぎたような設計である。
「これ、動くの……?」
「勿論。10年くらい前にこれと似たようなバイクをヤマハが開発してたんだが、知らないかな」
ファイヴは不安そうなのべ助を後目に、ストレージからライダースジャケットを実体化させてバイクに跨がる。
上着を着込む片手間で、のべ助に手招きしてからタンデムシートをポンポン叩く。
「乗りなよ。結構風が冷たいから、上着は着た方がいい」
その言葉を受けて、のべ助もフィールドジャケットを実体化させて着込み、恐る恐るファイヴの後ろに腰を下ろす。
その間にファイヴは料金支払い手続きを済まる。すると、メーター類を表示するであろうディスプレイに、英字が踊った。
【 Hi, Phive. You have a girl friend today. I'm sure that it will fall spheres tomorrow! 】
無機質な文字であるにも関わらず、何故か陽気に感じられるそのバイクの語り口に、ファイヴは溜め息を吐きながらも応じる。
「はぁ……。Hermes. I think "it'll fall spears tomorrow" is right.」
【 Oh, that's right! Thanks, Phive. 】
ファイヴのそこそこ流暢に感じられる英会話に、のべ助はぴくりと反応した。
そんな背後の女の様子には気づかず、ファイヴはバイクとの対話を続ける。
「Not at all. By the way, can you go?」
【 Of course. 】
「Good. Now, "Ready to Race".」
ファイヴが発した最後の一言を皮切りに、4輪バイクが唸りを上げて振動し始める。
ファイヴはアクセルを数回捻って調子を見てから、満足そうに頷いてのべ助に振り返った。
「良い音だろー!」
「さっきの、なにっ?」
エンジンの音に遮られないようにと、自然と二人の声の音量も上がった。
「コイツな、エルメスって言うんだけど! たまに会話に付き合ってやらないとヘソ曲げちまうんだ! 何でか知らんが、日本語は受けつけねぇし!」
「……」
「出すぞ! 掴まれよー!」
言うが早いか、ファイヴは爪先でチェンジペダルを踏み込んだ。ギアが噛み合う音がして、二人を乗せた『エルメス』は嬉しそうに走り出した。
それなりにゆったりとした発進であったが、突如推力が発生したことに驚いたのべ助は、小さな悲鳴を上げてファイヴの背中に抱きついた。
「ひゃっ!?」
「ハハ、それでいいんだよ! そのまま掴まってればいい!」
ファイヴは更にギアチェンジを繰り返し、どんどんエルメスのスピードを上げていく。
そうしてSBCグロッケンを大きく周回する環状道路へ差し掛かった時には、既にのべ助も独特のスピード感に慣れていた。
「バイクっ、乗れたんだっ」
「いーや! 無理! コイツは自動遠心クラッチの、セミATだから! 車に乗れりゃあ誰でも乗れる!」
「自動――とか、わからない!」
「そーかい! ――見えてきた!」
そう言うなり、ファイヴはアクセルを全開にする。
車線変更して前の大型車を抜き去ると、常に左右を巨大な建造物に挟まれていたはずの環状道路の両脇から、視界を遮るものが突如として消え失せた。
「わぁっ――!」
のべ助の口から、思わず感嘆の声が挙がる。
そこは、ファイヴが偶然見つけた、ビル群の切れ目。
この環状道路を走る十数秒間だけの、下から見上げる
「これを、見せたかったんだ! やっぱデカいよな、グロッケン!」
「――――」
空に広がる厚い雲さえ貫く、煌びやかなレーザーをあちこちに投げ掛ける、巨大な戦艦。
役目を終えて地に突き立ってなお、その堂々たる姿。正に圧巻の一言であった。
バイクに乗って来たのは、この巨大なグロッケンの底から天辺までを全て見たかったからだ。窓から覗くしかない車だと、戦艦の腹ばかりしか見えない。
ファイヴはアクセルの開きを絞って、他の車の流れを邪魔しない程度にスピードを落としていた。
だがやはり、魔法の時間は15秒と持ってはくれなかった。
名残惜しく思いつつも、きっとあの光景は、こうしないと見られないからこそ価値があるのだとファイヴは考えた。
また来ようと静かに決意して、彼は得も言われぬ切ない苦みを飲み下した。
「……付き合ってくれて、ありがとな!」
そう背後に投げ掛け、ファイヴは環状道路の分岐帯にエルメスを進行させる。ディスプレイ上のタコメーターが下がっていくのが、何故か不機嫌がっているように見えた。
「――っかい」
「ん?」
「もう、いっかいっ」
腰に回された腕に力が入るのを感じたファイヴは、即座にアクセルを開いてギアを落とした。エンジンが再び嘶き、メーターが躍り上がる。
「いいのかー!? もう一周は、だいぶかかるぞ!」
「いいっ、もう一回、見たいっ!」
「……参ったねぇ」
のべ助に聞こえないようにそう呟いたファイヴの表情は、まるで子供のおねだりに便乗して遊ぶ悪い大人のように、無邪気だった。
「――コイツでさ! 他に行ってみたいところが、まだまだ沢山あるんだ!」
「そう、なんだっ」
「いつでも良い! 一緒に、行こう!」
返事は、無かった。
だがファイヴは、自分の背にかかる質量がに僅かな変化を認めた。
それで、十分に通じていた。
4輪バイク・エルメスのテールランプが環状道路に尾を引いて行く。
GGOの夜は、そうして更けていった。