〈 Phive : 済まない、リアルの用で少し遅れそうだ 〉
「…………むぅ」
視界の端に浮かび上がった個人チャットのメッセージに目を通し、のべ助はフードの奥で軽く眉根を寄せた。
もっとも平時から滅多なことで感情を露わにしない彼女の不機嫌そうなアバターフェイスは、たとえ素顔が窺えたところで読みとるのは難しいだろうが。
そんな彼女のへそ曲がりとは対照的に、SBCグロッケンでも有数の大きな酒場は爆笑が沸き起こっていた。
笑いの中心には二人のアバターが。
一人はM90という、いかにも森林で効きそうな北欧の迷彩服を着たハンサムな男。彼の肩にはこれまた特徴的な、ナイフを銜えたドクロのエンブレムが屠られている。
もう一人は、まるでゴリラが戦闘服を着ていると評するのがピッタリの女アバター。向かい合ったドクロマークの男よりも恵体で、後頭部の三つ編みで辛うじて性別が判断出来る程度といったところ。
「こいつは楽しみだっ! 出場してくれて本当に嬉しいよ!」
イケメン男がそう高らかにゴリラ女と挨拶を交わし、満面の笑顔で二本指を振る。だが、その瞳は異常な殺意にギラ着いていた。
その視線を受け止める女も、迫力と殺意満載の笑みを浮かべている。
非常に物騒な絵面であるが、双方ともに殺意はあっても悪意はない。非常に
これもファイヴに見せた方が良かっただろうか、とのべ助は少し後悔した。
しかもファイヴは遅刻する旨を既に連絡してきている。今から「なるべく早く来て」と連絡するのも、あまり褒められたものではない。
それに、まだ午後1時まで30分以上時間がある。待ち合わせの時間設定をミスした事をメッセージで詫びた方が良いだろうか、それとも急かさないよう彼が到着してからにするか。
「……んー」
睡眠不足で回らない頭を何とか回しながらも、のべ助は注文していたお酒をちびちびと飲む。
「なんだ、ありゃ?」
「強そう、だな」
「ああ……。顔を隠してるのは、ツラと名が知られているからかもな」
「ひょっとして、BoBに出るような連中かもしれない」
仮想のアルコールに容赦なく喉を焼かれたのべ助が顔をしかめている頃、酒場の客達は不穏にざわめきだした。
そんな不穏の渦中には、やはり不気味な戦闘服の集団。
体格こそ大小高低とバラエティには富んでいるが、バラクラバと色付きゴーグルにより素顔は一切窺えない。
そしてその先頭には、2メートル近い筋骨隆々の大男。
彼は、のべ助の知る限りでGGO内最強の一角であり、そして一種の到達点であった。
その男こそ、2ヶ月前に開催された《スクワッド・ジャム》なる大会で優勝した一人。
「エム……」
のべ助は暗いフードの奥で、騒がしい酒場では誰にも聞き取れない声量でその名を呟いた。
彼女にとって、エムという男は一つの目標だ。そして、いずれ倒すべき標的でもある。
エムを筆頭とした物静かながら威圧的な男達に、のべ助も含めざわつく酒場にピリッとした空気が張りつめる。
「やっほーっ! みなさんお待たせー!」
そんな空気に全く似つかわしくない、軽快な女の声が飛び込んできた。
漫画であればそこらの男達がずっこけそうな場違いさを伴って入ってきたのは、声の主である黒髪ポニーテールの女アバターである。
身長は175センチほど。身に纏った濃紺のつなぎは、痩せ形で一切の脂肪が無い人工物のような肉体にぴっちりとフィットしていて実に機動力が高そうだ。
褐色の肌に、頬には煉瓦色のタトゥー。
顔は整っており美女の部類に入るアバターだが、大きく目立つ刺青とカミソリのように鋭い眼光が、なんとも底知れなさを漂わせる女であった。
「ッ……!!」
その女の姿が目に入った途端、のべ助は凶悪なまでの憎悪の表情を浮かべる。
飛びかかって噛みつくのを我慢しているかのように食い縛られた顎は、現実なら奥歯を砕かんばかりの圧力を彼女自身に与えていた。
「どうもね! お待たせね! ご声援、ありがとね!」
呆気に取られる観衆達など、まるで見えていないものかの様に振る舞う女アバター。
そんな褐色の女と粘ついた殺意を人知れずまき散らすのべ助の目が、一瞬合った。
「……へぇ」
「……!」
のべ助はあわてて目を逸らす。苦し紛れにグラスに口をつけるが、舌に合わない飲み物で喉を潤すような気分ではなかった。
(笑っていた……)
そう、選挙活動のご挨拶よろしく愛想を振りまいている女アバターが、のべ助と目を合わせたときだけ明確に笑ったのだ。
それはまるで、獲物をいたぶるかのような、明らかな嘲笑。
(殺す……殺す!)
タールのようなどろどろとした敵意が、さらに火をつけられて燃え上がるかのようにのべ助は感じた。
褐色タトゥーの女アバター、その名をピトフーイ。
彼女はのべ助にとって、GGOでの仇敵であると同時に、
それこそ、
「ピトフーイィ…………!!」
幸いと言うべきか、その静かな怨嗟の声は騒がしい酒場の誰にも聞き取られることはなかった。
それを見越してしか声を発せない自分が、のべ助はたまらなく情けなかった。
悔しいが、ピトフーイはのべ助よりも強い。更に言えば、ピトフーイ自身はのべ助に何をしたかなどもう忘れてしまっているかもしれない。
(殺す……! 絶対に、殺してやる……!!)
激烈な怒りと、爆発しようとするそれを抑えつける冷徹さ。その二つがのべ助の内でない交ぜになって、彼女を深い絶望へと孤立させてゆく。
「おい、どうした。大丈夫か?」
「……!」
グラスを握りしめるのべ助の手に、低く落ち着いた声と共に手が置かれる。
それによってのべ助の意識は、スイッチを切り替えられたかのようにVR世界へと回帰した。
「遅れて悪い。さっき名前呼んでも反応無かったが、具合悪いのか?」
黒髪黒帽子に黒いジャケット、そして泣く子が更に号泣しそうな強面の男アバター、ファイヴの姿があった。
「……ううん、平気」
「そうか? ……昨日、ちゃんと寝たか?」
そう言った後、ファイヴは大きく欠伸をした。
ちゃんと寝てないのは自分の方だと言わんばかりのその平和な行動に、のべ助は少しおかしくなって口の端を少しだけ上げた。
「……急な誘いに付き合ってくれて、ありがとう」
「おうよ。こっちこそ、約束の時間に10分も遅れて悪かったな。ところで今日俺何で呼ばれたんだ?」
「それは…………え?」
ファイヴの「10分遅れた」という言葉に数瞬遅れて反応したのべ助は、左手首の内側に巻かれた大型のデジタル時計を慌てて見る。
時刻は13時11分。のべ助はピトフーイと目が合ってから、30分近く呆けていたことになる。
そして、第二回《スクワッド・ジャム》が開始してから11分が経過している。試合が動き出すには十分な時間だ。
のべ助は弾かれたように顔を上げ、テーブル席の近くに備え付けられた大型モニターを見やる。
しかしそこには、のべ助の目当てのモノ――ファイヴに見せたかったモノは、映っていない。
「こっち。着いてきて」
「は? いや、まだ何故呼ばれたか理由を聞いてn――ぶべらッ」
困惑するファイヴをよそに、のべ助は彼の手を握って走り出す。
AGI極アバターの瞬間加速ダッシュは、それに馴染みのない他のアバターには思いの外ダメージを与える。
店内ということもあって控えめではあったものの、焦ってその辺りの配慮を忘れたのべ助にその衝撃を強制体験させられたファイヴは、変な悲鳴と僅かな残像を残してかっ飛ばされた。
「……あった」
「あべしッ!?」
目当てのモニターを見つけすぐに急停止したのべ助とは違い、慣性で吹っ飛んだファイヴは顔面からテーブルの角に激突する。
「……あ、ごめん」
「おう……大丈夫だ」
生まれたての子鹿のように震えながらファイヴは立ち上がる。のべ助は申し訳なさそうに、彼の肩を支えた。
「見て、ファイヴ。……今日は、これをあなたに見てほしかった」
「おう、ちょっと待て。前が見えねェ」
ゲーム内であるため顔面陥没の惨事は免れたが、角が直撃した痛覚で痺れた目を開くのにファイヴは難儀した。
顔を拭くように袖で擦り、ようやくのべ助の指す大型中継モニターに視線を向ける。
「ああっ!」
周囲のどよめきと同時に、ファイヴも目を見開いた。
彼は――否。
彼等は、見た。
家屋のガラス窓が内側から弾け飛び、そこから飛び出した――
――小さなピンクの、塊を。