蹴りの反動を利用して、ファイヴは身を翻しながら蟻地獄の縁まで飛び移る。度重なる衝突ダメージを受け止めた彼のHPバーは、既に真っ赤になるまで減少していた。
「あ゛ー、死ぬかと思った……」
骨身に染みるような痛みに顔をしかめながら、一度屈伸する。GGOが格闘系VRゲームでない以上、一定の値を超えた衝撃にはしっかりダメージが発生するのだ。
それに、エフェクトの派手さに反して巨大アリジゴクが受けたダメージは微々たるものだ。どれだけ超人的な
「さぁってと……のべ助ー、まだ生きてるかー?」
怪物昆虫に止めを刺し切れていない事をしっかりと理解しながらも、ファイヴは暢気に武器を一挺ずつリロードしながら眼下ののべ助に声を掛けた。
「……生きてる。いろいろと、限界……」
「よし、掴まれ。……って、その足じゃ無理そうだな」
両足を失った状態でナイフの柄にしがみつくのべ助を見て、ファイヴはいったん伸ばした腕を引っ込めた。
そして唯一まともに自由の利く右手で穴の縁を掴み、無防備にも身を投げ出す。
怪物エネミーからすれば最後のチャンスであるはずだが、攻撃は無い。
アリジゴクはファイヴの蹴りにより、許容範囲を超えたスタンダメージを受けて
打撃や非致死性のゴム弾などによる衝撃判定攻撃――とりわけ頭部への振動は、通常弾と比較して非常に高いスタン値を叩き出す。ファイヴはそれを利用したのだ。
「ホラのべ助、掴まれるか?」
ファイヴは片腕一本ですり鉢の壁にぶら下がり、のべ助に自身の脚を差し出す。のべ助も少々無礼な救出法に特に文句は言わず、壁に刺したナイフを引き抜きながら飛びついてきた。
「よしよし……ふん、ぬっ!」
ファイヴはのべ助を振り落とさないように加減しながら振り子のように身を揺らし、勢いがついたところで
ファイヴと一塊になって地面を転がりながら、ついに奈落からの這い出たことにのべ助は密かに安堵する。
「ふひゃっ……!?」
だが息つく暇もなく、今度は肩と腿の裏に腕を回され持ち上げられる。
ファイヴに、お姫様だっこされているのだ。
「ちょ、ちょっと……」
「悪いな。ちょっと時間無いから、勘弁してくれ」
こっぱずかしい所作に頬を赤らめるのべ助に、ファイヴは言い訳のように謝罪する。
彼も好き好んでこんなキザったらしい真似をしている訳ではなく、この抱え方は迫り来る脅威からのべ助を庇うためのものだった。
「さーてヤバいぞー。撤収撤収」
言葉とは裏腹なのんびりとした口調で彼は呟き、一人のアバターという
「お、降ろして……」
「無理だって。急いで逃げないと爆死しちまう」
「……?」
「ほら、揺れるぞ。しっかり掴まれって」
「…………うん」
えっほえっほとジョギングのような速度で走るファイヴの首に、のべ助はためらいながらも両手を回す。
直後、二人の背後から大音響の金切り声が上がる。アリジゴクがスタンから復活したのだ。
ファイヴはそれにかまけず、とにかく走って巣穴から距離を取ることに専念する。
アリジゴクの咆哮から数秒後、彼らの頭上を気の抜けるような風切り音が通り過ぎていった。
それは、ファイヴにとっては馴染みの――シカゴお手製
信頼が、確証に代わった瞬間であった。
「お前はもう、死んでいる……」
空砲の圧力によって山なりに飛来した榴弾は、ハンドグレネードとは比較にならない弾頭重量を裏付けるか轟音と共にすり鉢の底で爆発。
プラズマエナジーの奔流は、アリジゴクを一瞬で飲み込んで木っ端微塵にした。
「――やったぜ。」
ファイヴはのべ助を庇う背に余波の熱風を受けながら、ガッツポーズの代わりにそう呟く。
のべ助は自身に経験値が入った事によって、事の顛末と戦闘の終結を認識した。
「……もう良いでしょ。降ろして」
「そうか? 欠損ペナ回復まで、まだ結構あるだろ」
「…………恥ずかしい。察して」
「人目もないし、良いじゃねーか。しばらくオッサンに頼っときなって」
「…………」
のべ助が虚空で何かを操作すると、突如として悪人面のアバターは凍り付いたように動きを止めた。
……否、ゲームのシステム権限によって止められた。
いきなり言うことを聞かなくなった電脳の肉体に困惑するファイヴに、けたたましいアラーム音とセットで視界にメッセージウィンドウが突きつけられる。
「……え?『ハラスメント警告』? 分類《セクシュアル》……は? セクハラ?」
予想外の事態に状況を飲み込めないファイヴ。それでもこの状況で唯一ファイヴに警告メッセージを送りつけられるであろうのべ助に、眼球だけを動かして視線を向けた。
ファイヴが混乱している理由に思い至ったのべ助は、緩く溜め息を吐きながら自身の顔を覆い隠すフードを捲った。
露わになったのは、戦闘前にファイヴにも一瞬見えた金色の目。思っていたよりも穏やかな目つきであり、そして睫毛が長い。
頭髪は、一部マニアにカルト的な人気を誇るピンクより、少々青みが強い紫色。SF世界であるGGOではさして珍しい髪色ではないが、兵士としてはかなり長めのそれらは後方寄りのサイドテールに結われていた。
そして背丈に比べあどけない印象の顔は、厳つい男に似ても似つかぬ滑らかな曲線によって構成されている。
気恥ずかしさで頬を赤く染めるのべ助は、疑いようもなく――女性であった。
「……あ、そういう……」
「わかって、くれた……?」
「はい」
「……降ろして、くれる?」
「はい」
顔から湯気が出そうなほどに真っ赤になりながら、のべ助はファイヴに対する警告設定を解除する。
身の自由が利くようになったファイヴは、未だ足の戻らないのべ助を丁重に地面に降ろす。爆発物処理でも行っているかのように慎重な動作で両手を離し、数歩後ずさった。
「ファイ……」
「――済みませんでしたァ!」
ファイヴは自身の持つ
「……いいよ。怒ってない」
「はい! 心の底より反省しております!」
「本当に、怒ってないから。……紛らわしい格好してた、こっちが悪い」
「はい! 以後気を付けます!」
「…………いいから、頭上げてよ」
「はい! ありがとうございます!」
「…………」
噛み合わない会話にのべ助は頭を痛めながら、頭を上げたファイヴに手招きする。
ファイヴは動けないのべ助に近づきながら、情けなくもガクガクと震えていた。
「GGOに女プレイヤーはごく少数」という先入観もあったとは言え、勝手に男と勘違いした上で移動の自由の利かないのべ助に好き勝手やらかしたのだ。過去のトラウマも手伝って、いったいどんな仕打ちを受けるのかと戦々恐々の極みであった。
そんな彼に対し、のべ助からの回答は実にシンプルであった。
「……ん」
どこか眠そうな表情でファイヴに手渡されたのは、ナイフの柄。
ファイヴは泣く泣くナイフを握り、自身の小指に薄く鋭い刃をあてがった。ゲームとは言え痛いものは痛い。自傷ともなれば、そのメンタルダメージは殊更だ。
「……何してるの?」
「……『誠意見せろ』って意味じゃないんですか」
「違う……。あと、敬語やめて」
ゲームの中とは言え、良い年をしたチンピラ顔の男が半ベソかきながら指を詰めようとする光景は、精神衛生的に非常によろしくない。
――指どころか手足の欠損や五体爆散など日常茶飯事であるGGOではあるが、このように現実に近いスケールの負傷はやはり生々しいものがあった。
「でしたら、一体……」
「敬語」
「……じゃあ一体、コイツで俺に何しろって言うんだ」
その言葉を待っていたと言わんばかりに、のべ助は目を細める。
そのどこか儚い金色の眼光に、ファイヴはなぜか強い既視感を覚えた。
「……わたしを、殺して」
「っ――――」
「ファイヴが助けてくれなかったら、死んでたから。……どうせ殺されるなら、あなたが馴れた方が良い」
少々言葉は足りないものの、ファイヴは意図を嫌と言うほど理解した。細身なグリップを握った手が、冷たくなっていくような錯覚を覚える。
「手を、離しちゃだめ。……大丈夫、たかがゲームだよ」
「……でも」
「がんばれ、ファイヴ」
10cm程度の刃で人の命を絶つ
それを実行できるだけの
逃走もままならぬ無防備な獲物が、そこにいる。
逃げ場は、無い。
肩を落とし、ファイヴは煙草を銜えて火を点けた。
溜め息代わりに目一杯の紫煙を吐き出し、ぺたりと座ったまま微動だにしない少女の背後に回り込む。
「いい趣味してんな、お前」
「……それほどでもない。実は少しショックだったから、お返し」
性別を間違えられた腹いせに、文字通り自身の首を差し出すなど前代未聞だ――ファイヴは煙草を銜えたまま、シニカルに笑った。
「……ホント、いい性格してるよ」
言い終わると同時に、ファイヴはのべ助の顎を強引に持ち上げる。
白く細い喉に刃を刺し入れ、ひと思いに引き裂く。
手を離すと、アバターは糸の切れた操り人形のように身を横たえる。
――――砂漠の風に掻き消されるほどに、静かな死であった。
「……帰るか」
ダークグレーの空に舞い溶ける光の粒子をぼんやり眺めながら立ち上がり、ファイヴはマットブラックのナイフ片手に独りごちる。
分厚い雲に届きそうな高さまで昇ってゆく信号弾が、白い尾を引いていた。