尾道茶寮 夜咄堂   作:加藤泰幸

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第三話『水葵蒔絵螺鈿棗 その三』

 二階に上がると、水屋(みずや)の障子が開いていた。

 茶室には入らずに水屋へ足を進めると、やはりヌバタマがいる。

 開かれた出窓の木枠に手を掛けて、雨の降る夜空を眺めているようだった。

 中へ入ってくる風が彼女の髪をふわりと揺らしている。

 緊張感のある、それこそ茶室の中のような雰囲気が、彼女を包んでいた。

 

 千尋が水屋の前まで来ても、ヌバタマに気が付く様子はない。

 声を掛け難い気がしたので、一階に戻ろうかとも思ったが、足場が少し緩い事に気が付く。

 踏み処が悪かったのか、動くと床が軋みそうなのだ。

 物音を立てつつ逃げるように去るのは、少々無様かもしれない。

 

 

「あー……ヌバタマ?」

 結局、千尋は思いきって声を掛けた。

「千尋さん」

 ヌバタマが振り返りながら微笑む。

 その笑顔には、どこか力がない。

 

「どうするのか決めたのか?」

「……まだ迷ってますよ。難しい話ですよねえ」

「そりゃそうだよな」

 そう言いながら、ヌバタマの傍まで歩く。

 窓から夜空を覗けば、一面の群青色で、当然ながら星は一つも見えなかった。

 まだまだ、雨空の日は続くようである。

 

 

「結論でなくても良いんだけれど……どちらかというと、どうしたいんだ?」

「……秋野さんの所に興味があります」

 聞こえる声は、僅かに小さくなった。

「……もちろん、店に愛着はありますよ。付喪神(つくもがみ)になって十五年、ずっと過ごしてきた店ですから。

 でも、今回のお話は好機なんです。本来私は売り物ではありませんから、こんな話はそうそうありませんし」

「そうだな。うちにいるよりは、秋野さんみたいに向上心がある人に持ってもらった方が、格も上がるよな」

「あ、いえ……」

 ヌバタマが慌てて首を横に振った。

 大方、店を悪く言ってしまったとでも思ったのだろう。

 だが、当の千尋が笑っている事に気が付くと、それにつられるように、ヌバタマもはにかんだ。

 

 

「……昼間に話しましたよね。私が、自分の格を気にしているって」

「ああ、聞いたな」

「映画の件も、そこから来ていると思うんです」

「………」

「流行……特に人間の女の子が夢中になっているものに、私弱いんです。

 そうして、自分に箔を付けたいのかもしれませんね」

「………」

 千尋は、なおも夜空を見上げ続ける。

 

 

 

 金銭状況、茶道具に対する愛着のなさ、ヌバタマの将来。

 売る理由を挙げるならば、この三つだろう。

 千尋が物言わずに考えていたのは、その真逆に位置する売らない理由……それは、ヌバタマの必要性だった。

 

 夜咄堂の営業におけるヌバタマの影響は大きい。

 彼女が給仕を勤めてくれているお陰で、仕事量というよりは、精神面で楽をさせてもらっているのだ。

 茶道の稽古においても、彼女には大いに世話になっている。

 それに、オリベが気にするなと言っても、ヌバタマを売るという行為には抵抗を覚えてしまう。

 

 二つの選択を、心中でせめぎ合わせる。

 ヌバタマと話して、気持ちが整理できたのだろうか。

 日中相当悩んだというのに、結論はあっさりと下された。

 それは、自分にしては珍しい結論かもしれない。

 

 千尋はすっとヌバタマを見た。

 

 

 

 

 

「ヌバタマ」

「なんでしょうか」

「……映画、来月だったよな」

「え、ええ」

「つまり、お前を売ったら観に行けないわけだ」

「そうですね」

「……来月、一緒に行くか?」

「はい……?」

 ヌバタマがきょとんとする。

 やはり、どういう事なのか、ハッキリと伝わっていないようだった。

 照れ臭くて遠まわしに言いたかったのだが、これでは仕方がない。

 

 

「その……なんだ。俺はやっぱり、棗の良さとか分からないし、うちにいても格なんか上がらないよな。それは分かる」

 頭を掻いてそっぽを向きながら、千尋は語る。

「分かるんだけれども……うちも、ヌバタマがいないと困るんだ。

 だって、お前がいなくなったら、俺とオリベさんの二人だけだろ?

 それじゃあ、一時凌ぎの金が入ってきた所で、店が潰れるのは時間の問題だ。

 だから、まあ……必要って事だよ」

 

「千尋さん……」

 ヌバタマが顔を伏せながら呟く。

 伏せられた表情は、曇っている気がしてならなかった。

 

 自分でも、ヌバタマには悪いと思っている。

 普段なら、店や自分の都合は押し殺し、ヌバタマの希望を尊重する所だった。

 だが、そうしなかったのは何故だろうか。

 生活が懸っているからか。

 ヌバタマが人間ではなく付喪神だからか。

 或いは――

 

 

 

「ありがとうございます、千尋さんっ!」

 ヌバタマが、顔を上げる。

 露わになった彼女の瞳は、きらきらと眩く輝いていた。

 名前だけは付喪『神』のくせに、ヌバタマこそ神様でも見るような瞳をしていた。

 

「お、おうっ?」

「そのお言葉があれば、私、やっていけます」

「でも格は……」

「解決しません。でも、頑張れます。

 私は道具ですから、人間から必要と言ってもらえるのが、何よりも嬉しいのですよ」

「……秋野さんも、お前が必要なんだぞ?」

「もちろん秋野さんの気持ちも嬉しいですよ。

 でも、千尋さんの方が嬉しいんです。

 お店や宗一郎様の意思を継がれている千尋さんに必要とされる方が、もっと嬉しいんです」

「……あっ」

 不意打ちが千尋を襲う。

 ヌバタマから両手を掴まれてしまった。

 照れ臭いうえに、バツも悪い。

 ヌバタマの期待程、大層な気持ちで店をやっているつもりはなかった。

 

 

 

「……本当に……本当に、ありがとうございます」

 にっこりと、微笑まれる。

 反則も反則、レッドカードものの笑顔だ。

 顔を真っ赤に染め上げながら、鼓動する心臓を必死に抑えようとする。

 茶道具相手に何を照れているのだか。

 そう自分に言い聞かせ、落ち着こうとしているうちに……ふと、今回の件はまだ解決していない事に気が付いた。

 

 

 

「……でも、秋野さんには悪いな」

 声のトーンを落としながら言う。

「ご希望にお応えできないから、ですか?」

「うん」

「それなら、付喪神に任せて下さい。なんとかなるかもしれません」

 

 ヌバタマは手を放すと、ぐっと握り拳を作ってみせた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 約束の日になった。

 この所続いている雨は未だに止む事を知らず、蛙の声はこの数日で合唱に発展した。

 窓を閉め切った茶室にまで届いているのだが、決して雑音ではない。

 六月という季節を何よりも強く感じさせる鳴き声は、四季を感じ取る事を重要視する茶道には相応しい。

 

 そんな席で、水葵蒔絵螺鈿棗(みずあおいまきえらでんなつめ)を用いて()てられた一服を口にした後で、棗は譲れないと聞かされた秋野は、大きく嘆息した。

 

 

 

「ううん、やっぱり無理かあ」

「大変申し訳ありませんが……」

 風炉(ふうろ)の前に座した千尋は、深々と頭を下げる。

 秋野は両手を左右に振る事で、気にするなという仕草を取ってみせたが、

 それでも彼女の表情からは、まだ未練が感じらる。

 

「しかし、惜しいわ。本当に惜しい」

「そんなに良い棗と思って頂けているのですか?」

 席主のヌバタマが尋ねる。

「この前も話したけれど、もちろんよ。

 ……私のお店、今は小さいの。

 だからこそ、お店と棗、一緒に成長できると思ったのだけれど」

「……そうですか。ありがとうございます」

 

 その言葉を耳にするなり、千尋は神経を尖らせる。

 事前にヌバタマから『ありがとうございますを合図にする』と聞かされていたのだ。

 合図とだけ聞かされても、何の合図なのか皆目見当がつかない。

 その疑問は当然投げかけたのだが、返ってくる答えは『当日分かる』だけだった。

 当日のお楽しみとは、少々落ち着かないものだが、千尋はそれ以上真意を尋ねようとはしなかった。

 

 そして、ようやく訪れたその瞬間。

 ……それは、痛烈な違和感の始まりでもあった。

 

 

 

 

 不意に、千尋の視界が弾ける。

 強い閃光を感じ、眼前の風炉が揺らめいた。

 目に映る茶道具は、まるで水面に映したかのようだが……

 否。

 茶道具が揺らいだのではない。

 これは、自身の意識が遠のいた為に生じた揺らぎだ。

 即座に気が付けたのは、これを一度経験をしていたからだろう。

 

(この感覚……前に……)

 

 唐突に訪れた揺らぎを、千尋は忘れてはいない。

 初めて夜咄堂に来た日の出来事だから、良く覚えている。

 シゲ婆さんが茶を啜った瞬間、同じように強い光と視界の揺らぎを感じた。

 そう思ったのも束の間、やはり前回同様に、違和感の潮はすぐに引いてしまった。

 

 一体、今の感触はなんだったのだろう。

 前回は、この後何をしただろうか。

 確か、シゲ婆さんの顔を見たはずだ、と記憶を掘り起こす。

 

 

(確か前回はシゲ婆さんを見たら、悲しんでいたはずのシゲ婆さんが笑って……あ……)

 同じように、客である秋野を見る。

 愛惜の表情を浮かべていた秋野の顔が……変わっていた。

 シゲ婆さん同様に、笑っていた。

 梅雨模様とは対照的な、晴れ晴れとした、見ている方が気持ちよくなるような笑顔が、そこにはあった。

 

 

 

 

 

「ううん。良いのよ」

 千尋とヌバタマの顔を交互に見てから、秋野が言う。

 

「確かに棗は欲しかったわ。でも、茶道具は用いてこそよ。

 骨董品店で客を待つよりは、今日のように茶室で用いられた方が、棗にとっては幸せだと思う」

「そうかもしれませんね」

 ヌバタマが笑いながら同意する。

 そこからは、戸惑いや狼狽の色は全く感じられない。

 ヌバタマは、今の異変に気が付いていないのだろうか。

 いや、その様な事はないはずだ。

 おそらくは、ヌバタマが言う『合図』とは、揺らぎの合図だったのだろう。

 彼女は確実に、何かを知っている。

 

 

 

「それに、千尋君を見ていて、思った事があったの」

「あ、はいっ?」

 考え込んでいる所へ、話を振られた。

 裏返ったような声になってしまったが、とにかく返事をする。

 

「千尋君、まだ茶道を始めて間もないでしょ?」

「……恥ずかしながら、その通りです」

「始めたばかりだから、なのかしらね。

 確実にお茶を点てようという、慎重堅実なお点前だったわ。

 実際、頂いたお茶も凄く美味しかった。

 ……まるでその棗みたいなお手前。そう思える程にね」

「棗みたいな手前……?」

「そう。……私ね。なによりも、棗のお手入れが行き届いている所に惹かれたの。

 古い茶道具なんだから、価値も大事だけれど、使用に耐えうる事も重要だもの。

 そんな、堅実で本質を大事にしている所、貴方にそっくりよ」

「………」

「このお店、そして何よりも千尋君が持つべき棗だと思えば、もう未練はないわ。

 千尋君、ありがとう。結構なお手前でした」

 

 秋野が改めて笑う。

 一片の偽りも感じられない、見事な笑顔だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

日々是好日(にちにちこれこうにち)……それが私達付喪神の能力です」

 

 秋野の退店後、ヌバタマは待ち構えていたようにそう告げて、他に客のいない客席に腰掛けた。

 むしろ、何事だったのかと自分から聞こうと思っていたのだから、都合が良い。

 無駄口を挟まずに彼女に面して座ると、ヌバタマはそれを待って言葉を続けた。

 

 

「私達は、ただの付喪神ではありません。茶道具の付喪神として生まれました。

 一般的な付喪神には、人間に雑に扱われた恨みを晴らすべく、付喪神と化した者も多くいます。

 でも、茶道具の付喪神は違う。例外なく皆愛用されて付喪神になりました。

 その恩を返すべく、茶道具の付喪神には、非実体化以外にも特別な能力が備わっているのです」

「それが日々是好日とやら、なのか?」

「その通りです」

「なんだか聞き覚えがある言葉だな」

「元々は禅語ですから、ご存じでもおかしくはありませんね」

「そっか。毎日良い日……とかそんな意味なのか?」

「意味は少しばかり違いますが……今回は、禅語としての説明は割愛しましょう。

 それよりも、付喪神の能力としての意味、です」

 ヌバタマは一度言葉を切って、ちらと二階を見るような仕草を見せる。

 だが、すぐに千尋に向き直り、澄んだ声で言葉を続けた。

 

 

 

「これは、茶道具、お抹茶、空間……総じて、茶道の良さを実感して貰える能力です。

 茶道の良さって、普通の方だとなかなか感じ難いものだと思うんです。

 千尋さんも、茶道具の説明を受けても、良さがまだよく分からないのではありませんか?」

「まあな」

「ゆくゆくは分かるようになって下さいね」

「気が進まないなあ……」

「そこは進んで下さいよ」

「そう言われてもな……それより、良さが伝わらないから、何なんだ?」

 千尋が面倒臭そうに尋ねると、ヌバタマはポンと手を打った。

 

「良さが分からない……でも大丈夫なんです。そこで、この日々是好日ですよ!

 確かに、茶道の良さなんて、ある程度場数を踏まなければ分からないものなんです。

 でも、この日々是好日を発動させる事で、それが容易に理解できるようになるんです。

 具体的には、その席で持て成されているお客様の感受性を一時的に豊かにし、

 茶道の良さを深く感じ入ってもらえる能力です。

 他の付喪神にはない能力ですよ。茶道具。茶道具の付喪神だけの能力です!」

「なんだか通販番組みたいな語りだな……」

 頬杖を突きながら、淡々と突っ込みを入れる。

 

 だが、内心では日々是好日に少々の衝撃を覚えていた。

 どうやら、この能力を用いれば、誰でも茶道の良さが分かるらしい。

 シゲ婆さんや秋野も、茶道の良さを通じて、それぞれの煩いを乗り越えたのだろう。

 すなわち、滅多にできない体験を提供できるのだ。

 閑古鳥の鳴いている夜咄堂を、これで立て直せるかもしれない。

 大々的に『癒しの茶室』等と看板を掲げると、付喪神の存在がどこかで漏れてしまう可能性はある。

 なので、そこを加減する必要はあるが……手間が掛かろうと、解決できない問題ではない。

 もちろん、ヌバタマらが首を縦に振ってくれればの話ではある。

 しかし、光明は確かに見えた。

 

 

 

「それにしても、千尋さん、なんでそんなに茶道に興味を持ってくれないんですか?」

「え? あ、ああ……」

 ヌバタマの不満そうな言葉に、適当にお茶を濁す。

 付喪神には言えない理由があるのだ。

 

「……まあ、ええ事よ」

「ちっとも良くありません! ほら、お客様が来るまでお稽古しましょう。

 映画のお返しみたいなものですから、遠慮しないで良いんですよ」

 ヌバタマが勢い良く立ち上がった。

 どうにも、本気のようである。

 それを悟るや否や、千尋も遅れて立ち上がり、ヌバタマから視線を切らずに後ずさった。

 

 

 

「お稽古、お稽古! 逃がしませんからね!」

「か、勘弁してくれよ……!」

 

 

 かくして、ドタバタの茶番劇が始まる。

 客は来ずとも、こうして夜咄堂は日に日に賑やかな茶処と化すのであった。


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