尾道茶寮 夜咄堂   作:加藤泰幸

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第三話『水葵蒔絵螺鈿棗 その二』

 千尋が慌てて玄関を開けると、若い女性がいた。

 肩まで伸ばした茶髪はさらりとして美しく、纏っているレディーススーツも整っている。

 やや釣りあがり気味の目は、それらの美しさを引き締めてさえいた。

 どこか品格を感じさせる雰囲気の持ち主である。

 

「こちらは茶房、よね?」

「いらっしゃいませ。はい、茶房・夜咄堂(よばなしどう)でございます。

 どうぞ、中へお入り下さい」

「良かったわ。民家の様にも見えて、躊躇しちゃって」

「看板も目立ちませんもので申し訳ありません。お好きな席へお掛け下さい」

「ありがとう。もしかすると、和室……というより、茶室もあるかしら?」

「そうですね。二階に茶室がございますが……」

「それは良かったわ。門構えからそんな雰囲気を感じたものだから。そちらで頂いても良い?」

 女性客は温和な笑みを浮かべる。

 だが、柔らかいその笑みとは対照的に、声は溌剌としていた。

 

「茶室ではお抹茶セットしかお召し上がり頂けませんが、それでも宜しければ」

「むしろ、それが良いわ。是非、お願いします」

 

 他に客はいないし、断る理由はない。

 千尋の部屋で漫画を読んでいたオリベに店番を頼んでから、女性客を二階へと連れて上がる。

 手早く準備を終えれば、客を茶室に通して、早速茶席が始まった。

 まずは和菓子を振る舞う……そこまでは、シゲ婆さんが来た時と同じ流れ。

 

 その流れが変わったのは、和菓子を食べ終えた女性客が、茶花が飾られている床の間を見た時だった。

 

 

 

 

 

「今日のお花は、紫陽花(あじさい)で?」

「ええ。庭に咲いている玉紫陽花を飾らせて頂いております」

 女性客の問いには、茶室の入り口付近に座している席主(せきしゅ)のヌバタマが答える。

 本来は、茶を点てている千尋が兼任するべきなのだが、千尋にはまだそこまでの技量はない。

「成程。手入れが行き届いているわね。花入れは唐津焼(からつやき)のようだけれど……」

「あ……はい、その通りです」

「そう。良い朝鮮唐津だわ。滴る藁白釉(わらはくゆう)が美しい」

 

 千尋は思わず、茶杓(ちゃしゃく)を取ろうとする手を止めてしまった。

 シゲ婆さんの時に交わされた会話と言えば、とりとめもない雑談だけだったが、この女性客は違う。

 茶道具に対する会話の応酬。

 これは茶席のイロハであったが、茶道に縁がなければ知りえない事でもある。

 すなわち、この客は大なり小なり、茶道をかじっている可能性が高い。

 その上、茶道具への鑑定眼まで持ち合わせているようだ。

 今日飾っている朝鮮唐津花入の良さについて、以前オリベから聞いた事があったが、オリベはこの客と同じ事を言っていた。

 

「そう言えば、自己紹介していなかったわね」

 女性客が千尋に向かって微笑む。

「私は、町外れで骨董品店を営んいる秋野という者よ。

 職業柄、茶道具には少々興味があるの」

「あ……こちらこそご挨拶が遅れまして。若月千尋です」

 

 慌てて頭を下げながら、秋野を改めて見る。

 落ち着いた大人の女性、といった風貌ではあるのだが、その落ち着きを突き破る要素がある。

 爛々と輝いて、その存在を強く主張している瞳だった。

 彼女の瞳を見ていると、それだけで自分にも活力が宿る気がする。

 品格と溌剌さを併せ持った、魅力的な女性だった。

 

 

 

「随分お詳しいと思いましたが、骨董品を扱っておられれば、ごもっともですね」

 後方のヌバタマが会話に加わってきた。

「詳しいなんてとんでもないわ。まだまだ勉強中の身よ」

「ご謙遜なさらなくとも」

「ううん、謙遜なんかじゃないわ。あくまでも『今がそうだ』と思っているんだから。

 いつかは本物の目利きになって、お店も扱う品も、一級にしたいものね」

「それは良い目標ですね。特に茶道具は、お持ちになった方のお名前で評価が変わる事もありますし。

 本物の目利きになれるよう、応援しております。

 ……あ、千尋さん。手が止まってますよ?」

「おっと……」

 ヌバタマに催促されて、右手で茶杓を取る。

 もう片方の左手では抹茶の入った棗を取るのだが、その時にふと、ヌバタマの事を考えた。

 今日の棗は、先程まで乾かしていたばかりの水葵蒔絵螺鈿棗(みずあおいまきえらでんなつめ)

 すなわちヌバタマだ。

 落としでもしたら、後でどれだけ怒られるか分ったものではない。

 慎重な手つきで、習っている通り、茶杓を握り込んだ右手で棗の蓋を開けようとする。

 ……事故とは、そういう所にこそ潜んでいるものだった。

 

 

「それは!」

「わ、わっ!?」

 唐突に秋野が声を張り上げる。

 その声に驚き、早速棗を落としかけてしまうが、どうにか堪えた。

 

「お、驚いた……秋野さん、どうしました?」

「もしかしてそれ、水葵蒔絵螺鈿棗じゃないの?」

「そ、そうですが……あ、でも写しです」

「写しか……それもそうよね。現物は美術館に入っていたのよね……はあ」

 小さな溜息が零れ、表情が曇る。

 だが、それでも彼女はまたすぐに目を輝かせ、膝を前に押し出して前進した。

 

「そうだ。順番が前後しちゃうけれど、先に棗を拝見しても良いかしら?」

「どうぞどうぞ。正規のお茶席ではありませんし」

「ごめんね」

 秋野との間に棗を置くと、彼女はかじりつくようにして棗を見つめ始めた。

 正面から。

 右から左から。

 下から上から。

 蓋の中も、棗の底も。

 蒔絵の流水の流れに沿うように、隅々まで凝視している。

 彼女の評価が気になって、千尋はつい背筋を伸ばしてしまった。

 鑑定番組で鑑定結果を待つ依頼者も、同じ心境なのだろうか。

 そう考えた所で、自分よりも緊張している者がいる事を思い出し、ちらと背後を見る。

 案の定。

 その人物……ヌバタマは、もはや戦々恐々といった様子だった。

 

(それもそうだよな。骨董品屋に見られているんだもん。

 格に劣等感がある上、評価まで低かったらなあ……)

 

 ヌバタマの気持ちを思えば、青ざめてしまうのも無理はない。

 だが、茶室にいる限り、ヌバタマは答えを耳にしてしまう。

 適当に理由をつけて、ヌバタマを退席させようかと思ったその時に、

 秋野は棗から顔を離し、毛氈の上に戻ってしまった。

 

 

 

 

「無理を言ってごめんね。十分に拝見させて貰ったわ」

「いえ、無理だなんて……」

「でも、それだけの価値はあったわ。良い棗よ」

 秋野は片目を瞑り、人差し指を突き立てながら言う。

 

「華やかな装飾に、世界の凝縮。そんな元の棗の良さを見事に写しきっているわ。

 手入れも相当入念のようね。傷もなく、保存状態も良好。

 作り手も、持ち主も、丁寧な仕事をしていると見たわ」

「そんなにも良い物なんです?」

 そう尋ねたのはヌバタマだ。

 聞こえてくる喜色に満ちた声から、ヌバタマの心境はおおよそ理解ができる。

 

「ええ。良い物よ。

 いつ頃作られた物かは分かる?」

「百年ちょっと前ですね」

「明治か大正といった所ね。ふむ……」

 秋野はまたちらと棗を見たが、今度はその視線をすぐに千尋へと移した。

 

 

「千尋君。初対面でこんな事を言うのは、甚だ失礼だとは分かっているわ。

 分かっているのだけれど……それを承知で、一つお願いがあるの」

「……なんでしょうか?」

 

 千尋は首を引き、相手の様子を窺うように聞き返す。

 確認の言葉とは裏腹に、秋野の考えには予想が付いていた。

 

 それは、元々千尋が考えていた事でもある。

 急場凌ぎではあるが、生活費の足しにはなるだろう。

 店だって、茶道具が一つ無くなっても続けられる。

 ヌバタマにとっても、寂れた茶房で働くよりは良いかもしれない。

 全てにおいて、良い選択のはずだ。

 

 はずなのだが――

 

 

 

 

 

 

 

「この水葵蒔絵螺鈿棗を、譲ってもらえないかしら?」

 

 秋野の言葉に、理由の分からぬ漠然とした動揺を覚える。

 それはやはり、千尋が予想していた通りの言葉だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……なるほどねえ。あの棗を譲ってほしい、か」

 オリベが鼻髭を弄りながら頷く。

「返事は保留にさせて貰いましたよ。二、三日してまた来るそうなので、その時に回答します」

「うむ。確かに即答は難しいかもしれんな」

 

 夜の夜咄堂でかわされる、男二人の話し声。

 あまり好ましい状況ではないのだが、二人で話しておきたい事だから仕方がない。

 この日の営業を終えた千尋は、オリベと一階を掃除しながら、今日のあらましを話していた。

 ヌバタマには二階の掃除を頼んでいたのだが、今日は茶室も使ったので、少々時間を要するだろう。

 ヌバタマも交えて話すのは、彼女の気持ちが固まってからにしたかった。

 

 

「で、秋野さんとやらは美人だったのかね?」

 オリベの声は、口調も言葉の中身も軽い。

 先程から、あまり話を深刻に受け止めているようではなかった。

「……まあ、大人の女性といった感じの美人でしたが」

「ヒャッヒャッヒャッ! それじゃあ代わりに私を買ってくれんかなあ」

「適当な事言わないで下さいよ。大問題なんですよ?」

「はいはい。で、その大問題にはどう答えを出すのだね?」

「それなんですけど、判断はヌバタマに任せようと思います」

 ヌバタマがいる二階を見上げながら、千尋は言う。

 

「ただの茶道具なら話は別ですけれど、水葵蒔絵螺鈿棗には、ヌバタマが宿っていますから。

 いくら夜咄堂の茶道具とはいえ、俺の一存で決めてしまうのは横暴かと思います」

「優しいもんだね」

「そうでしょうか?」

「我々は所詮道具。私も多くの人の手を渡り歩いたよ。

 なので、そう深刻に捉えなくとも良いとは思うが……ま、あくまでも私の考えだ。

 まだ夜咄堂での生活しか知らぬヌバタマは、違う考え方をしているかもしれんしね」

「ええ。秋野さんが帰った後から、ずっと悩んでいるみたいです」

 

「うむ。……で、君はどうしたいのかね? いてっ」

 オリベが鼻毛を抜きながら聞いてくる。

「さっき言ったじゃないですが。判断はヌバタマに任せますよ」

「そうではない。『どうする』ではなく『どうしたい』と聞いているのだよ。

 やっぱり、売って生活費の足しにでもしたいのかね?」

「………」

 

 答え難い問いだった。

 正直な所……ヌバタマだけでなく、自分も気持ちは固まっていないのだ。

 状況を考えれば売るのが良いだろうし、元々はそうするつもりだった。

 では売ろう……と決断できないのは、やはりヌバタマの存在が引っかかっているからだ。

 

 

 

 

「……ヌバタマの様子、見てきます」

 

 結局、千尋はオリベの問いには答えない。

 掃除もそこそこに、彼は二階への階段を上っていった。


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