尾道茶寮 夜咄堂   作:加藤泰幸

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第三話『水葵蒔絵螺鈿棗 その一』

 梅雨が始まった。

 

 夜咄堂(よばなしどう)にも降り注ぐ雨は細やかで、耳に届く程々の音は聞いていて心地良い。

 庭の池で鳴く蛙の鳴き声も、まだこの時期は(やかま)しくなく風情がある。

 静かな、静かな入梅。

 

 窓を開けていても雨が中に振り込んでこないので、今日の夜咄堂は、一階の窓を開け放って営業していた。

 していたのは良いのだが……客はこない。

 六月下旬の雨空は、外を行く人の足を鈍くさせ、夜咄堂には今日も今日とて閑古鳥が鳴いている。

 やはりこれは雨のせいなのか。

 或いは、単純に店が不人気なのだろうか。

 どちらにしても、これでは困る。

 生活費に大学の学費、それに付喪神(つくもがみ)達の給料だって払わなくてはいけない。

 父宗一郎の代では、付喪神達に必要な物は父が随時購入していたそうだが、

 千尋はどうにも、金銭を施さないのは落ち着かず、自分の代では給料……というよりは小遣い程度の金を支払う事にした。

 

 しかし、このままでは給料どころの話ではない。

 父の貯金もあるにはあるが、働かなければ数年で使い切ってしまう額だ。

 結局は、店自体を何とかしなくてはならないのだ。

 

 この日千尋は、優しい雨に叩かれる庭の紫陽花を眺めながら、漠然と店へのテコ入れを考えていた。

 だが、具体案が何も出来上がらないうちに、彼の思案は押し流される。

 発端は、ヌバタマの頼み事だった。

 

 

 

 

 

「映画です! 話題の超大作です! 一緒に行きましょう!」

「超大作、ねえ」

 

 ヌバタマが胸を躍らせながら差し出したチラシに、千尋は一応目を通した。

 顔立ちの整った白人の男女が映った映画のチラシで、書かれている煽り文から察するにラブロマンスもののようだ。

 なんでも、全米で大ヒットを記録した映画らしく、近所の映画館でも近日公開されるらしい。

 千尋は全く興味がなかったのだが、時折テレビのCMでも見かけた事はある。

 おそらくは、ヌバタマが言う通りの話題作なのだろう。

 

 むしろ、千尋に興味を抱かせたのは、ヌバタマの入れ込み具合の方だ。

 映画が好きという話を聞いた事はなかったし、仮にそうだと知っていても、こうも懇願してくるヌバタマの姿は意外だった。

 思えば稽古の時も熱心だし、興味がある事への熱意はひときわ強いのかもしれない。

 そんな事を考えていた千尋は、ふと、その熱意が篭った視線が自分に向けられているのを思い出し、難しい顔を作って彼女を見た。

 

「……なんでそんなに観に行きたいんだ?」

「なんでって……だって世間で話題なんですよ。興味湧きませんか?」

「別に。意外とミーハーなんだな」

「むう……で、行くんですか? 行かないんですか? 来月ですけれども」

 拗ねかけるヌバタマであったが、すぐに話を戻してくる。

 

「行かないよ。ちゃんと給料は払ってるんだから、一人で観てこいよ」

「人間と一緒じゃないと不安なんですよ。宗一郎様は時々連れて行ってくれましたよ?」

「父さん、また変な勘違いされそうな事を……」

 片手で頭を抱えながら、視線だけをヌバタマに向ける。

 

 ヌバタマと出かけるのは、千尋とてやぶさかではない。

 商店街へ一緒に買い出しに出かけた事も何度かある。

 だがその時に、周囲から随分と視線を向けられている事に気が付いてしまったのだ。

 それはおそらく、ヌバタマの着物が目を引いているのだろう、と千尋は思っている。

 その上、着物を纏うのは、見た目は十五歳かそこらの美少女ときたものだ。

 目立つのも、無理もない。

 それでも、買い出しであればまだ許容はできるのだが、流石に映画館はハードルが高すぎる。

 

 

 

「駄目駄目。ヌバタマ着物だから、映画館なんか行ったら無茶苦茶目立つだろ。俺そういうのは嫌だよ」

「千尋さんだって、今も着物を着ているじゃありませんか」

「俺は仕事中しか着ないもん。外に出る時は着替えるよ」

「千尋さんはそれで良いのでしょうが、私の着物は付喪神の証のようなもの。着替えるわけには……」

「そうそう、着替えないで宜しい。というわけで映画は行かないからな」

 ハッキリと断り、手のひらで壁を作ってみせる。

 少し胸が痛むが、仕方がなかった。

 

 目立つだけなら、まだ我慢すれば良いのだ。

 千尋が懸念していたのは、必要以上に注目される事で、付喪神の存在が世間に知れ渡る可能性だった。

 付喪神。人ならざる知的生命体。

 否、生命という言葉には疑問符が付くが、むしろ知的『非』生命体の方が、世間に知られれば大騒動になる。

 世に知らしめないのが本当に正しいのだろうかと考えた事もあったが、少なくとも父は秘匿していた。

 そこで千尋も、この件に関しては父の方針を踏襲し、付喪神の存在はひた隠しにすると決めたのだ。

 

 だが、ヌバタマは千尋の思惑を知らない。

 彼女はまだ何か言いたげだったが、取りつく島がないと察したようで、結局はすごすごと退散していった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 第三話『水葵蒔絵螺鈿棗(みずあおいまきえらでんなつめ)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 退散したヌバタマは、会計棚の付近で何かを弄り始めた。

 千尋は横目でその様子を伺おうとしたが、窓際からでは会計棚上の備品が邪魔になってよく見えない。

 

(……さっきの映画の断り方、ちょっとキツかったし、いじけてるのかな)

 どうにも、気になる。

 いてもたってもいられなくなり、立ち上がって直接会計棚を覗く。

 ヌバタマは会計棚の上にティッシュを広げ、そこに何かしらの茶道具を置いていた。

 

 

 

「ヌバタマ。何してるんだ?」

「私を乾燥させてるんですよ」

「お前を乾燥……?」

 言葉の意味がよく分からない。

 ヌバタマに近づいて間近で茶道具を見ると、それは抹茶容器の黒い棗だった。

 

「はい、私です。……あ、もしかして千尋さんには話していませんでしたっけか。

 水葵蒔絵螺鈿棗。私はこの茶器の付喪神なんです」

「そう言われれば、初耳だな」

「うちの物置は湿っぽいから、梅雨の時期は使わなくても外に出さないと、なんだか落ち着かないんですよ。

 特に棗は漆器で水気に弱いですから。なんでしたら、手に取ってみます?」

「良いのか?」

「構いませんよ」

 気前の良い返事を受けて、棗を手に取る。

 

 片手に十分収まる程の大きさで、百年物とは思えない程に光沢がある黒漆塗(くろうるしぬり)

 確かにこの光沢は、ヌバタマの艶やかな黒髪に近いものがある。

 漆塗の上には、蒔絵が散りばめられていや。

 流麗な肥痩(ひそう)の線で川が描かれていて、板金で作られた六本の水葵と螺鈿の花が、その上をたゆたっている。

 平安の雅な世を凝縮したような装飾が、小さな棗いっぱいに広がっている。

 品格に満ちた端然とした造りは、まさしく和の塊。

 

 ……なのだが、やはり千尋には、その良さが分からなかった。

 

 

 

 

 

「……ふむ。これ、やっぱり良い棗なの?」

「それはそうですよ。なんせ国宝――」

「国宝っ!??」

 声を張り上げてしまう。

 そんな逸品を手にしているのが怖くなって、慌ててティッシュの上に棗を戻す。

 

 確かに百年物の茶道具は、その年数だけで価値が生じる。

 だが、国宝とはいくらなんでも想定外だった。

 そもそも、国宝が地方の小さな茶房にあると、誰が想像……

 

「あ、あれ? 待て待て。うちに国宝があるっておかしいだろ?

 普通は国宝って、美術館だか国だかが保管するもんじゃないのか?」

「……ええ、国宝じゃありませんよ。そうだったら良いんですけれども」

 ヌバタマは大きく嘆息する。

 

 

 

「話には続きがあるんです。

 これは、国宝の八橋蒔絵螺鈿硯箱(やつはしまきえらでんすずりばこ)を作った尾形光琳(おがたこうりん)作の棗……の写しです」

「ええと……国宝の硯箱を作った尾形さんが、棗も作ってて、更にそれを写した物?」

「それで合ってます」

「なんだその、友人の友人の隣人みたいな繋がりは。

 写した人は有名人なの?」

「有名だったら今頃美術館入りですよ」

 また、ヌバタマが嘆息する。

 

「なんだか、元気がないな」

「ええ。……自分の格はちょっと気にしてるんですよ。

 歴史はオリベさんの半分しかありませんし、出自も所詮は写し。

 本物の水葵蒔絵螺鈿棗は、ちゃんと美術館に展示されているんですよ」

「なるほど。そりゃ確かに、劣等感を抱くかもしれないけど……」

 頷きながら、もう一度棗を手に取る。

 

 

 

 だが、改めて見ようが、やはり千尋には良さが分からなかった。

 とはいえ、それを伝えてしまうのも気が引ける。

 嫌いな茶道具にお世辞を言いたくはなかったが『棗』はともかく『ヌバタマ』には励ましの言葉の一つや二つ、掛けてやっても良い、と千尋は思った。

 それでは、何と言ったものだろう。

 強いて言えば、ヌバタマの髪と同じ、吸い込まれてしまうような黒漆塗には見所を感じる。

 だが、技術的見地を持ち合わせていない千尋には、その良さを言葉として表現する事が出来なかった。

 

 

 

「その……うん、いい棗だと思うぞ?」

「……ありがとうございます。そう言って頂けると嬉しいです」

 結局、気休めも良い所の言葉しか出てこない。

 ヌバタマは笑ってくれたが、全く力の篭っていない笑みだった。

 これ以上、どう持ち上げれば良いのか。

 千尋が思い煩ったその時だった。

 

 

 

 コンコンッ……

 

 

 

「「……あれ?」」

 千尋とヌバタマの言葉が重なる。

 玄関から聞こえてきたその音が何を意味するのか、理解するのに暫しの時間を要してしまった。

 それというのも店が暇なせいだ、と千尋は内心言い訳をしながら、玄関へと向かった。

 

 

 

 来客、である。


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