尾道茶寮 夜咄堂   作:加藤泰幸

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第十六話『花見茶会 その三』

 階段の傍に立ち、三席目の最後の客を見送り終えるや否や、水屋に向かう。

 三席目の最中、釜を見続けていた千尋には、シズクの表情を伺うような余裕はなかったけれども、大方の察しはつく。

 

 ――やはり、件の人物は小谷春樹じゃなかったのだ。

 ああ、どうして突き詰めて確認しなかったのか。

「あなたがベンジン懐炉を渡したのですね」とまで、小谷に聞かなかったのか。

 後悔しても、もう遅い。

 いや、遅いのはそれだけじゃないはずだ。

 再会を試みるのも、年単位で遅すぎた。

 凛とした影の人は、小谷春樹の父。

 すなわち……故人なのだ。

 

 

「シズクさん、大丈夫!?」

 短く、そして強く声を発して水屋に入る。

 そこには、苦しそうに胸元を抑えて屈むシズクと、それを囲むように見守るヌバタマに諏訪の姿があった。

「諏訪さん、お願いが」

 諏訪の姿を認識するのと同時に、千尋はすぐに判断をくだす。

「下に行って、次のお席の用意が遅れると伝えてください」

「シズクさんの体調が悪いからだね? でも、それよりは救急車とか……」

「いえ、休めば落ち着く持病だと聞いているので大丈夫です。少しの間、岡本さんの手伝いもお願いできませんか?」

「分かった。そうしよう」

 常連の諏訪といえど、この件だけは知られちゃいけない。

 神妙に頷いて水屋から出た彼に頭を下げ続け、その気配が無くなってからようやく頭を起こした千尋は、シズクの傍に駆け寄って顔色を覗き込んだ。

 

 

「シズクさん!」

「……亡くなっていたのですね。あの人は」

 シズクは消えてしまいそうな声で呟き、背中を壁に預けた。

 それと同時に、また彼女の輪郭が薄らいでゆく。

 思わず自分の目を擦ったけれども、それには変わりがなかった。

 猛烈な絶望感が湧きあがってくる。

 いや、彼女が感じている絶望感とは比べ物にもならないだろう。

 シズクの気力は、もう尽きてしまうのだ。

 

 

「茶会の途中なのに……ごめんなさい……」

「そんなこと言わないでください、シズクさん! 消えないでください!」

 ヌバタマがシズクに抱き着くようにして肩を揺する。

 涙交じりの声には、当事者でない千尋さえも、ドキリとしてしまう。

 しかし、それでもシズクは力ない笑みを浮かべ、ゆっくりと顔を横に振った。

 

「ごめんなさい……もう……無理みたい……だって……」

「だってじゃありませんよ。シズクさん! ねえ!」

 ヌバタマはなおも説得を続けながら、千尋とオリベの顔を見た。

 上目遣いで口元を震わせ、何かを請うているのは伝わってくる。

 でも、千尋は口を開けなかった。

 だって……彼女の心を繋ぎ止めていた人は、いないのだから。

 その事実が、もっともショッキングに伝わってしまったのは、自分の詰めが悪かったせいなのだから。

 そんな自分から、シズクに「頑張れ」とは、どうしても言えないのだ。

 

 

 

「……せめて、匠さんという名が分かっただけでも……良かった……」

「シズクさんっ!」

 ヌバタマの悲痛な声が響く。

 だけれども、寂しげな笑顔を携えた彼女の体は、ますます消えかかっていた。

「ヌバタマ……もう、限界だ」

 オリベが、そっと目を伏せる。

 本当に……、

 本当に、もう……、

 

 

「何を言っとるんじゃ、シズク!」

 ――怒声が、水屋に響いた。

 

 声の主の雪之丞は、出窓付近の木に登っていた。

 そこから店内に飛び込み、ただシズクだけを睨みつけながら近づいてくる。

「シズク! 消えちゃならん。少なくとも茶会が終わるまでは持ちこたえんさい!」

「雪之丞……」

 シズクは、音もなく手を伸ばした。

 

「ごめんね……でもあの人は、もう……」

「お前に言われんでも分かっとるわ!」

 雪之丞が一喝する。

 だというのに、なぜだろう。彼の瞳は悲しみに満ちていた。

 

 

「ええか、シズク。死んでしもうたもんは、どうしようもない。……じゃがな。お前は何度も語ってくれたじゃろが。きれいな月の日も、星明りの見えない日も、毎夜毎夜、飽きもせずに……その男が好きな言葉を」

「一期、一会……」

「ほうじゃ、一期一会じゃ。その男に会いたいのは、単に茶室の価値を見出してくれただけじゃないじゃろ。その気高き心に共感できたからじゃろ!」

「………」

「じゃったら、今日の茶会はやり遂げんと、その男が泣くじゃろうが……ワシは……ワシは……ワシの大事なモンが、そんな不義理をするのは、許さんけえの!」

 雪之丞が目に涙を浮かべながら主張する。

 もはや、言葉尻は悲痛な叫び声と化していた。

 

 シズクはそれに言葉を返さず、雪之丞もまた呼吸を整えていて、僅かな間ではあるが水屋に静寂が訪れる。

 皆、雪之丞の言葉を反芻しているんだろうか。

 少なくとも、千尋はそうだった。

 雪之丞の熱い友誼に胸を打たれるのと同時に、大事なことを思いだす。

 そうなのだ。

 この席の主題は、一期一会なのだ。

 ここでシズクが抜ければ、茶会は人数的に続行が難しくなる。

 それは、単に茶会が中止になる、というだけのことではない!

 

 

 

「……俺、この半年で、いくつか出会いがあったんです」

 千尋の声が、静寂を破った。

「まず印象的だったのは、小谷さんとの出会いかな。……今日来ていた息子さん、小谷春樹さんって言うんです。お父さんと同じ和菓子職人さんで、今日の和菓子も作ってもらいました。……その春樹さん、実は弟さんと喧嘩別れして十年になるけれども、仲直りできたんですよ」

「あの方が……」

「はい」

 彼女の傍で正座しながら頷く。

 間近で見るシズクは、相変わらず虚ろげだった。

 それでも、彼女の力は必要だ。次の席を開く為には欠かせないのだ。

 

 

「その後で、シズクさんや雪之丞と出会いました。……親友からもらったキーホルダーを大切にしている女の子とも知り合いました。不思議とね、みんな、人間関係で悩んだり困ったりしてたんですよ」

「………」

「……でも、思うんです。大事な人がいるからこそ、悩むんだと。人との繋がりって、素敵なことなんだなと」

「人との、繋がり……」

「だから、一期一会の主題を掲げたこの茶事も、中断するわけにはいかないんです。……シズクさん。もう少しだけ、力を貸してください。……一期一会の茶事を成立させるという、新しい希望を、どうか持ってください……」

「……千尋、さん」

「はい」

 シズクは、ゆっくりと体を起こし、居住まいを正して千尋の名を呼んだ。

 

 それに相対し、じっとシズクを見つめる。

 彼女は口元に手を宛がい、くすり、と笑ってみせた。

 何気ない、ごく当たり前の仕草。

 だからだろうか、不思議と現実感のある笑いだった。

 

 

「今日の和菓子……春樹さんが、作られたのですよね……?」

「えっ? あ、ええ……」

「落とした場合を考えて、多めに注文されていますよね?」

「はあ。まあ」

「じゃあ……お茶会が終わっても余っていたら……頂けるかしら……」

「……シズクさん!」

「もしかしたら……あの人の名残が、残っているかしらね」

 

 段々と、彼女の体に輪郭線が戻ってくる。

 声に、生気が戻ってくる。

 シズクはゆっくりと、とてもゆっくりとした動きながら……立ち上がった。

「皆、ごめんなさい。あと二席……頑張れます。よき一会の為に、頑張りましょう」

 

 

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

 

 

 茜色をした太陽が瀬戸内に沈んでいく。

 幾多の文豪達を虜にした日没に見とれかけながらも、千尋はすぐ気持ちを切り替えて、一階の清掃に戻った。

 なにせ、茶事とは違って今度こそ人手が足りないのだ。

 諏訪と岡本に後片付けまで手伝ってもらうわけにはいかず、後日の礼を約束して二人は帰したので、人手はオリベとヌバタマ、そしてシズクの三人だけだ。

 もっとも、シズクは体に力が入らなくなってきたらしく、茶道具を扱っている最中に消滅されても困るので、窓際の席に座って休んでもらっている。

 

 

「シズクさん、お体の方はどうですか?」

「掃除が終わったら、余り物の和菓子で一服だからな。私に食われたくなかったら頑張るのだぞ。ヒャッヒャッ!」

 ヌバタマとオリベが、清掃しながら声をかける。

 シズクは何も言葉を返さず、腿の上で丸くなっている雪之丞を撫でながら、ただ黙って微笑んだ。

 あの後の二席を乗り切れて、今は余韻で残っているだけで、もう姿が消えるのは時間の問題らしい。

 

 限られた時間を、シズクは。

 そして彼女の友は。

 どのような気持ちで、過ごしているんだろうか。

 

 

「ごめんください」

 ふと、低く落ち着きのある声が聞こえてきた。

 玄関から聞こえてくる声の主を、千尋は知っている。

 そうだ。この男を呼んでいたのだ。

「小谷さん」

「……やあ。お疲れ様」

 茶事中と変わらぬ和服姿の小谷春樹は、小さく手を掲げながら店内に入ってきた。

「今日は和菓子に正客に、大変お世話になりました」

「先にお世話になったのは、こっちだからね。結構なお点前だったよ」

「ありがとうございます。実はそれなりにドタバタしてたんですけれども、なんとかなりました」

「お客さんが増えるといいけれどね。……ところで」

 小谷はゆっくりと顔を動かして店内を見回し、その視線をシズクのところで止めた。

 

 千尋が呼んだのだから、当然ではある。

 しかし、会話中にシズクが消えてしまったら大問題だ。

 無礼は承知で、体調不良を理由に戻ってもらうべきだろうか……。

 

 

「小谷春樹さん……ですね」

 だが、先にシズクが声をかけた。

 言葉を受けた小谷も、まっすぐに彼女の前へと歩いてゆく。

 もう、なるようにしかならない。

 夜咄堂の三名は顔を見合わせあったが、結局、少し離れた所から二人を見守った。

 

「……確か、点出しの。……そうでしたか。あなたが」

「ええ。……春樹さんのお父さん……匠さんには、大変お世話になったものでして」

「……随分とお若い。十五年以上前の話として聞いていたので……あ、いや……」

「ふふっ。良いのですよ」

 シズクは穏やかに笑い、そっと雪之丞の背中を撫でる。

 

 

「ごめんなさい。体調が優れないもので、座ったままで……。でも、こうして見るとあの人の面影を感じます。顔だけじゃなく、凛とした佇まいも。……きっと春樹さんも、あの人と同じく真面目な方なのですね」

「……私は、どうだか。ただ、父は真面目に過ぎました。死んだのもそれが理由で」

「あら……」

「亡くなる数年前から体調が優れなかったのに、仕事をしたがって検査をせず。ガンが見つかった時には手遅れでした」

「病にかかったのは、いつの話でしょうか?」

「……九年前。……シズクさんの話は、病床で聞いています。今日は、父の残した言葉を伝えに来ました」

 

 やはり、又聞きだったのだ。

 自身の失態を改めて思い返し、顔から火の出るような思いをするも、視線は小谷からそらさない。

 気のせいだろうか、彼の背中は普段よりも伸びているような印象を受ける。

 シズクの言葉の影響を受けて、見ているからだろうか。

 或いは、小谷は意図的にそうしているのだろうか……。

 

 

 

「……父は、あなたと会うのが楽しかったと言っていました」

「私と……? 私、何もしていないのに」

 シズクは困ったように俯き、はかなげに身じろいだ。

 ふと、そのまま彼女が消えてしまいそうな錯覚を覚えてしまう。

 それほどまでに、シズクは困惑しているようだった。

 

「……いえ。あなたの純粋な人柄に触れると、心が洗われると」

「それは、私の方が感じていたことですのに」

「……似た者同士、なのでしょう。……だというのに、二度しか会わなかったと聞いています。……今思えば、私達に気を遣ってかもしれません。当時、私と弟は思春期真っ盛りな上、母は既に病死していましたからね」

「ふふっ。それもあの人らしい」

 

「……ええ。それともう一つ。シズクさんの印象も聞かされています」

 一呼吸間を置いた小谷は、今度は明らかに背筋を伸ばした。

 やはり。

 これは、彼の気遣いなのだろう。

 

「……瀬戸内の穏やかな空気から生まれた露が、茅葺屋根をつたる滴となり、陽光を反射させて庵を飾る……」

「………!」

 ふと、雪之丞が膝から飛び降りた。いや、それよりも先にシズクが動いたのかもしれない。彼女は弾かれたように立ち上がり、声にならない声を漏らした。

 すっと。

 一条の滴が、彼女の頬を伝って落ちる。

「露滴庵のような、美しく物静かな方だった……亡くなる前日の、父の言葉です」

「ああ。ああ……小谷さん。私は……私は……」

 涙声のシズクが、支えを求めるかのように両手を突き出し、一歩、二歩と小谷に歩み寄る。

 その白く美しい手は、春樹の頬に触れる……直前で止まった。

 人差し指が流れるように動き、自身の涙を拭う。

 笑顔は、その動作から遅れてやってきた。

 

 

「……春樹さん、今日の茶会で、あなたに会えて良かった……。ありがとう。あの人の面影を、ありがとう……」

 かすれた声で、シズクが言う。

 窓から差し込む夕日は、彼女の影法師をまだ床に落としていた。


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