買ったばかりの茶筅を容器から取りだしたのは、山越が来る日の朝だった。
まだ抹茶に触れておらず、竹の香りがする茶筅を手にしていると、気持ちが晴れ晴れとする。
いや、気持ちが良い理由は、もう一つある。
この茶筅こそが、千尋の意気込みの表れでもあるのだ。
――茶筅には、複数の種類がある。
一見同じように見えるけれど、特に違いが出ているのは穂先だろう。
水気の強い薄茶を点てる時には穂先が細い物を、逆に粘り気のある濃茶の時には太い物を使うのが一般的で、千尋が買ったものは穂先が細く……加えて、穂数も多い物だ。
ヌバタマから聞かされたところによると、なんでも江戸時代では、貴人をもてなす為に穂数が多い物を使っていたらしいのだが、千尋の意図はそこにはない。
高価でも穂数が多い物を選んだのは、抹茶を溶きやすいから、の一点のみである。
山越は、多分抹茶を飲んだことなんてないだろう。
だから、少しでも美味しい抹茶を飲んでほしいのだ。
「……えっと、糊を落とすんだっけか」
茶筅の底に付いていた糊を水で落としながら、ふと、物思いにふける。
この茶筅で、まずは今日、山越に茶を点てる。
来月になれば、初めての茶会だ。その日も大活躍してもらうだろう。
それ以外にも、常連の諏訪や岡本に対して、茶会にも案内したシゲ婆さん対して、いまだ見ぬ客達に対して。
この茶筅で、どれだけの客に茶を点てるのか、まだ分からない。
ただ、どこまでいっても今の気持ちは大切にしたいと思う。
ただただ、良い茶を点てたい。そのスタイルは、キーホルダーを探していたロビンに教えられたものだった。
何よりも大事なのは、道具でも点前でもなく、茶なのだ。
「ワンッ! おはよーさーん!」
ロビンの声がする。
はっと我に返って振り向くと、ロビンが二本足でフラフラながら小躍りしている。
周囲に人間がおらず、なおかつ気分が良い時にだけ披露する、奇妙なダンスだった。
「そーしてると、お前、ぬいぐるみかなにかみたいだな」
「おっ、かわいいってことか?」
「犬らしくない、って言ってるんだよ。それより今日は水屋から出るんじゃないぞ」
「しかしそこをなんとか」
「なんとかって、お前……」
散々説明したのに、この犬はまだ諦めきれないらしい。
どうしても山越を『日々是好日』で癒す場面に同席したいと言うのだが、茶室は当然のこと、本来は営業時間中に店内に上げるのもマズい。
そこで「じゃあ声だけでも」という折衷案で、茶室隣の水屋で聞き耳を立てることだけは許可したのだった。
こうも食い下がるほどに、ロビンは山越の事を想っているのだろう。
「……呆れた奴だよ、本当にさ」
「キシシ。誉め言葉と受け取るぜ。それより、約束の時間が近いんじゃねーの?」
「うん、そーだな。下を見てくる。お前は本当に出るんじゃないぞ」
「はいはーい」
不安を抱きつつも一階に下りると、約束の時間まではまだ三十分もあるのに、山越が席に着いていた。
時間を伝え間違えただろうか、なんて思いながら声をかけると、山越は丁寧にお辞儀をして「十分前から来ていました」と、お辞儀同様に丁寧な口調で言った。
今日を楽しみにしてくれていたのか、それとも彼女の性格なのか。考えてみれば、特に茶に興味を持っているわけじゃないのだから、後者だろう。
「ごめんね、まだ茶室の方は準備できてなくて」
「大丈夫です。私が勝手に早く来ただけですから」
「急いで終わらせるよ。待ってる間、カウンターのお姉ちゃんに、好きな物頼んでね」
そう言ってヌバタマの方を向き、目配せすると、彼女は目礼を返した上で厨房に入った。多分、茶事で半東を頼んでいるオリベに声をかけにいったのだろう。
二階に戻り、急ぎ準備を終えていると、やっぱりオリベが手伝いに来た。二人で取り組めば作業は十分そこそこで完了したので、すぐに山越を茶室に案内する。
茶筅が入った茶碗を、いつもどおり床に置く。
ここで一礼すれば茶事の始まりだけれども、千尋はその前に茶筅を見つめた。
さあ頼むぞ、今日の主役さんよ。
「……一服、さしあげます」
視線を山越に戻し、挨拶を交わす。山越は作法が分からないようで、大げさに頭を下げて返礼してくれた。
やっぱり、山越に茶道の経験はない。
加えて言えば、まだ中学生なんだから、道具のお堅い話をするのも、どうかと思う。「一点」を除いては、割愛していいだろう。
千尋は、あえて口調を砕きながら、点前を進めた。
「こんな所でお茶を飲むのは、初めて?」
「はい。そもそもお茶を飲むのも初めてで……」
「確かに、俺もこの仕事をするまで、飲んだことなかったしなあ」
「でも、いい気分転換になるかと思って。その為に誘ってくれたんですよね? ありがとうございます」
「……まあ、そんなところなのかな」
当たらずとも遠からじ。適当に言葉を濁しつつも、一つの確信を得る。
やっぱり、山越はまだキーホルダーの件を引きずっている。
ならば、あの日、ロビンが目で懇願した『日々是好日』を使う他ない。
横目で茶室入口の方を見れば、菓子器を手にしたオリベがちょうど入室し、山越に菓子器を差しだした。
彼にも話はとおしている。準備は完全に整ったのだ。
「ところで、これは何か知ってるかな?」
茶筅を清めようと手にしたところで、山越に尋ねる。
「はい。お茶をシャカシャカする道具ですよね」
「うん。茶筅っていうんだ。……実はね。この茶筅は穂先が折れることもあるんだ。そうして使えなくなった茶筅は、茶筅供養といって炊きあげちゃうんだよ」
「そんな。まだ使えばいいのに」
「お客さんの前で使うのは失礼だし、それに……」
ぴたりと手を止める。
先日、山越が口にした、キーホルダーと友への想い。
それらを、脳裏に強く浮かべながら、千尋は先を口にした。
「……供養は、感謝の気持ちだからね」
「感謝、ですか……」
「どんな道具も、いつかは必ず壊れる。むしろ、ちゃんと供養として送りだせるのは良いことだよ」
「………」
「茶道具にはね。魂が宿っている。……だから、茶筅も本気で送りだすんだよ。これまでお客さんの為にお茶を点ててくれてありがとう……ってね」
優しく語り終えるのと同時に、揺らぎが訪れた。
暖かな光を伴う『日々是好日』の変化は、一瞬で過ぎ去ってしまう。
そのわずかな間で、茶道具の良さは客に伝わるのだが、今回はどうだろうか。
若干の不安も感じつつ目にした山越は……歯を見せて笑っていた。
「……私も、感謝の気持ち、持たなきゃいけませんね」
「キーホルダーの事かい?」
「はい。……このキーホルダーのお陰で、引っ越してしまった友達を思い出せていましたから。……だから、今までありがとう。もう大丈夫だよ、って」
背筋をまっすぐに伸ばし、山越は元気な声で言う。
これまでの彼女とは違う、覇気に満ちた語り方だった。
「これからは、キーホルダーがなくても、友達のことは忘れません。ずっと……ずっとです!」
「うん。いいと思うよ」
にこやかにそう言って、中断していた点前を再開しようとする。
隣の水屋から、ガサゴソと壁をこする様な物音が聞こえたのは、その矢先だった。
「あれ? 今、変な音しませんでした?」
「気のせいじゃないかな。……じゃなきゃ、誰かが盗み聞きしてたりしてね」
千尋は、いたずらっぽく笑ってみせた。
◇
「フゴッ! ワンワン、ワンッ!」
水屋に戻るなり待ち受けていたのは、毛達磨による歓喜の体当たりだった。
和服に毛を付けられてはたまらないもので、中腰になって近寄せまいと押し返すが、それでもロビンは喜びはしゃぐのを止めなかった。
「よくやった、千尋! 見事な『日々是好日』だ!」
「と言っても、お前、見てなかったじゃないか」
「いやー、分かるんだよ、それが。あの子の喜ぶ声だけで、どんな茶席だったのか想像はつくよ」
「想像力豊かな奴だな」
「そんなに褒めるなって」
皮肉も皮肉と捉えずに、ロビンは二本足で立ちあがって胸を張る。
だが、すぐにバランスを崩してコロンと転げる様は、なんともみっともないものであった。
「おお、いてて」
「アホチン」
「……でもさ、千尋。俺は本当に感謝してるよ」
お尻を抑えながら、ロビンは真面目な声で言う。
「感謝されるようなことはしてないよ」
「いーや。してくれた。これできっと、あの子も悩みを吹っ切れる。前に踏み出せるよ。……ありがとうな、千尋。これもお前が立派にもてなしてくれたお陰だ」
ハアハア舌を出して喋るロビンの姿自体は、いつもと同じようにコミカルなものだ。
でも、姿形がどのようなものであれ、彼の言葉は真剣そのものなのだ。
言葉の内容だけで、そう感じているわけじゃない。真心が篭っているからこそ、ロビンの気持ちは千尋の胸に響いたのだ。
「……いや。ロビンのお陰だよ」
「俺が? 俺、お茶点ててないぜ」
「そーじゃないさ。……お前、愚直なまでにキーホルダーを探してたよな。あれでちょっと思うところがあって、さ。色々と参考にさせてもらったよ」
「なんだか知らねーが、役に立ってたのか」
「ま、今回はな」
「よし! じゃー、ご褒美くれ! ドーナツ!!」
「………」
ちょっと褒めると、これである。
ドーナツの代わりにデコピンをくれてやろうと指を出すと、さすがのロビンもその先を察して水屋から飛び出してしまう。
そのロビンと入れ替わりに、両手を袖に突っ込んだオリベが、鼻歌を歌いながらやってきた。
「やあ、千尋。ロビンが慌てて飛び出したが、何かあったのかね?」
「いつものことですよ」
「ヒャッヒャッ! そーかね。相変わらず仲が良いなあ!」
顎を上げながら声高らかに笑うと、オリベはどっしりと畳に胡坐をかいた。
それから、手のひらを下げるような仕草を見せるので、誘われるがままに千尋も正座して相対する。
オリベは頬杖を突くと、歪んた頬の側の口角をニッと上げてみせた。
「今の席は良かったぞ、千尋。茶を始めた頃とは天地の差だ」
「そうですかね」
「点前を覚えたのは当然の事、仕草も自然体だった。茶もきれいに点っていたし、客との語りも文句なかった。……だが、何よりも創意が見て取れた」
「え……? 道具の組み立て、あれで良かったんですか?」
正直、そこはほとんど考えなしだった。
怪訝そうに尋ねると、案の定、オリベは手を横に振ってみせる。
「いやー、茶道具の組み立て自体は適当だったね」
「ですよね」
「しかし、創意とは組み立てだけではない。……お前はあの席で、わざわざ穂数が多い茶筅を選んでいたね。私はそこに感じ入った。ただただ良き茶を点てようという気持ちが見て取れた。……実は、そんな茶人が過去にもいたのだよ。
気持ちが、創意になるのだろうか?
疑問には思ったけれど、とりあえずはオリベの問いに応えようと、首を横に振る。
「いいえ。上林って苗字は、どこかで聞いた気もしますが」
「竹庵は製茶を生業としていたし、現代でも一族の者が老舗の茶問屋をやっているから、それで聞き覚えがあるのだろう」
「ああ、そっちかもしれませんね」
「でだ。ある日、千利休が竹庵の茶事に参加したのだよ。だが、天下の大茶人に茶を点てる興奮か、それとも緊張からか……竹庵は茶筅を倒してしまい、同席していた利休の弟子達に白い目で見られたそうだ」
「……なんか、想像すると心が痛いです」
「似た経験あるもんなあ。……だが似ているのはこの先も同じだ。散々な内容だったのに、利休は茶事後『竹庵こそ天下一の茶人』と評したらしい。疑問に感じた弟子が理由を尋ねると『彼は点前を披露したかったのではない。ただただ私に美味しいお茶を点てようと奮闘していた。その心こそが天下一なのだ』と答えたそうだよ」
「心こそが……天下一……」
「なあ、千尋。私には、お前と竹庵がダブって感じられるよ。客を一心に思うところも、ついでにドジを踏むところも、そっくりじゃないかね」
オリベはしみじみと語り、嬉しそうに千尋をまじまじと見つめてきた。
ドジはともかく、創意の件も含めて、褒めてもらっているのは間違いない。
つまり、これは……、
「……俺の茶は、上林竹庵に似ている。そこに創意がある、と?」
「そのとーり」
「でも、道具の組み立ては……」
「さっきも言ったじゃないか。道具の組み立ては、あくまでも創意が作り出した一要素なのだ。その創意とはお前自身……すなわち、客を想う気持ちなのだ」
「………」
「客をひたすらに想う。それこそが、若月千尋であり、若月千尋の茶でもあるのだ」
「それで、良かったんだ……」
先程の茶事で茶筅を扱った右手を見つめながら、考え込む。
正直なところ、上林竹庵と同じ茶だと言われても、ピンとこない。
むしろ歴史上の茶人に失礼な気さえする。
しかし「若月千尋の茶」という言葉だけは、妙にしっくりと心に馴染むものだった。
まったく答えが見つからずに、ウンウン唸っていたというのに、なんとも不思議なものだけれど、自分自身の再認識のようなものなのだから、見つけてしまえば違和感はないのかもしれない。
「……ともかく、これで来月の茶会は、なんとかなりそうですね」
「うむ。……そうだな。千尋も茶会を開くまでになったのだなあ」
「なったのだなあ、って、前から決まってたじゃないですか。何を今更」
「ヒャッヒャッ! そーだった! ……主題は一期一会だったかね?」
「ええ。名目上は花見茶会ですけれどね」
「そうか、一期一会か。……良き一会があるといいな」
オリベは呟くようにそう言って、音を立てずに立ちあがった。
もう、話は終わったのだろうか。
続いて千尋も立とうとしたところで、オリベは背を向けながら語りだした。
「……私にも、良き一会があったよ」
「………?」
「昔の話だ。私とて付喪神になった頃は、歪んだ茶碗に劣等感を抱いていたのだ。ある骨董品屋で、それはそれは端正な茶碗と並べて売られていた時期もあったから、なおさらだったね。……だが、そこで私を買った一家の子が、歪んだ私を見て楽しそうに笑ったのだよ」
「オリベさん……?」
「その一家と出会えたことで、これが私の存在価値なのだと教えられたのだ。懐かしいな、あの頃が。……もう、記憶の彼方の出来事だ」
急に思い出話なんか始めて、一体どうしたのだろうか。
話自体は、なんだか良い話っぽいのだけれども、オリベが語り始めた理由が分からない。
きょとんとしてオリベの背中を見つめ続けたが、どこか寂しそうな背中だった。
その背中は水屋の出入口へ向かい、廊下を出たところで、足が止まる。
くるりと振り返ったオリベの顔には、はちきれんばかりの笑みが浮かんでいた。
「ヒャッヒャッヒャッ! ま、出会いを大事にってことだ! それじゃー千尋、後片付けはよろしく。私も負けじと一期一会、ナンパでもしてくるとしよう!」
これである。
がっくりと崩れ落ちつつ、心配したのが馬鹿らしく思えてきた。
「ちょっと、オリベさーん」
「ヒャーッヒャヒャッ! じゃーあねー!」
すたこらと廊下を駆けて去ってしまい、水屋には千尋一人が残される。
思わず溜息さえ零れてしまったけれども、嫌な気はしなかった。
彼らがいるから日々が楽しいし、店も経営できる。そして茶会も開けるのだ。
「……もうすぐだな、茶会」
立ち上がって、水屋の出窓から外を眺める。
近くの林にはえている桜の木では、蕾が今にも目を覚ましそうに膨らんでいた。
シズクも、ちゃんと目を覚ましてくれるだろうか。
上手く、小谷に引き合わせられるだろうか。
……良き茶会に、できるだろうか。
胸の鼓動は、少しずつ強くなっていた。