尾道茶寮 夜咄堂   作:加藤泰幸

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第十五話『茶筅供養 その一』

 暖かくなり始めた三月の風が、千光寺山の尾根を撫でるように駆け昇っている。

 自室の窓から見える木々にも、いつの間にか緑が戻っているし、先日は黄色いモンシロチョウも見かけた。

 春の気候に誘われて、その辺りをぶらりと散策してみたいものだけれど、千尋はこのところ、殆ど外出していない。

 理由は、卓上で格闘している紙にあった。

 

「ん? ……また、間違えたか!?」

 紙上を流れる筆ペンが、宛名のところでピタリと止まる。

 慌てて招待客一覧を取り出しながらも、答えは薄々分かっていた。

 それでも確認したかったのは、これ以上招待状を書き直したくないからで……本当に宛名を書き損じたと分かると、千尋はぐったりと卓上に突っ伏してしまった。

 

「また書き損じたんですか?」

 傍にあるちゃぶ台の上で、ノートに向き合っているヌバタマが苦笑する。

 千尋は無言で頷き返し、書き損じた紙を乱雑に丸めてゴミ箱に放り投げた。

「あら。はしたない」

「これくらい、いーだろ。ちょっと気疲れしてるんだよ。……パソコンやスマホに慣れ過ぎたかな」

「なんでしたら、私が代わりに招待状を書きましょーか?」

「いや、俺がやる。頑張るよ。ヌバタマはそのまま、茶道具の草案作りを頼むよ」

 そう言って、新しい用紙を取り出しはするものの、もう一度筆ペンを握る気は、なかなか起こらないのである。

 

 

 ――茶会まで、あと一月となった。

 準備は大分進んでいて、一番の課題である正客も、思いの他すんなりと決まった。

 諏訪に相談し、彼の骨董品店に張り紙をさせてもらったのだが、それを見た地元流派の茶道家が面白がって、協力を申しでてくれたのである。

 一席分の正客は決まり、他の席も茶道家の伝手で埋まったお陰で、千尋の友人で穴埋めするような事態にはならずに済みそうだった。

 開催側の人員不足については、まだ完全にはクリアできていないけれど、諏訪や岡本といった仲の良い常連に手伝ってもらえそうなので、解消の見込みは立っている。

 

 しかし、他にもやるべきことはある。

 そのうちの一つ、案内状に取り掛かっているのだが、これが意外と手間だった。

 参加者には約束こそ取り付けているが、礼儀として案内状も出すべきものだそうで、千尋は数年ぶりに筆ペンを握っている。

 しかし、一切の修正が効かない筆ペンは、思っていた以上に精神を消耗し、集中力は限界にまだ達していたのである。

 

 

「……茶道具の方は、どうなんだ?」

 気分転換に椅子から立ち上がり、ヌバタマの手元を覗き込む。

 頑張ると言った傍からの中断に、ヌバタマは眉をひそめかけたものの、卓上でノートを滑らせて見せてくれた。

 

 

「軸は一期一会。茶碗は未定……あれ。主役の茶碗は未定なのか?」

「茶事の主役はお軸の方ですよ。茶碗は茶事の後にわざわざ飾りますから、こっちが主役と思いがちですけれどね」

「そっか。この一期一会は、雪之丞の本体とか?」

「いーえ。あれはお寺で保管されていますから使えませんよ。夜咄堂にも同じ言葉の軸があったんです。雪之丞さんがいなくなった後で、宗一郎様がまた買われたのでしょう。せっかく考えた主題と同じ物があって良かったですね」

「ん。そーだな」

 相槌を打ちながら、更に続きを読み進めていく。

 

 未定なのは半分ほどで、他の項目には、古天明(こてんみょう)やら家元やら、貫禄のある漢字がつらつらと並んでいた。店の茶道具については一通り説明を受けているし、どの茶道具を使うつもりなのか、一応は理解できる。

 しかし、読み進めるにつれ、千尋の表情は段々と険しくなっていった。

 

 

「いかがですか? まだ埋まってない道具もありますけれど……」

「……よく、分からないな」

「分からないことはないでしょう? ちゃんと説明した道具ばかりなのに」

「そーじゃなくて、茶席にふさわしいかどうかが分からないんだ。いや、ヌバタマが選ぶ道具だし、基本的には問題ないと思うんだけど……」

「ありがとうございます。でも、最後は千尋さんが吟味しなきゃダメですからね?」

「やっぱり、そうだよなあ」

「これはあくまでも草案です。ちゃんと吟味して、千尋さんの創意を出さなきゃ駄目です。夜咄堂の主は千尋さんなんですから」

「どんな道具なのかは調べておくよ。多分、大丈夫だ」

 

 

 草案を力なくヌバタマに返すと、彼女は対照的に、嬉々として再度ノートに向かった。

 知識と創意を持っていれば、彼女のように楽しく思えてくるのだろう。

 千尋も宣言どおり、知識に関しては勉強して補うつもりだ。

 しかし、創意とやらは、どうすれば作りだせるんだろうか。そもそも、創意の定義とはなんなんだろうか。

 

 

「ヌバタマ。創意……」

「さあ、残りの茶道具も考えないと!」

「なあ、創……」

「一席目の正客さんは地元の茶道家さんですし、お棗も広島繋がりで地元の一国斎(いっこくさい)作に……いえ、桜に縁のある物も捨てがたいですし……」

「………」

「どれにしたものか、嬉しい悩みですよねえ。えへへっ」

 

 ヌバタマが筆を躍らせながら、千尋の声を何度も上書きする。

 鼻歌まで歌って、なんとも気分良さげなのだ。

 自分の世界に完全に浸っているところを邪魔するのも悪い気がして、結局千尋は、案内状に戻るしかなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

 

「今更、私が稽古をつける必要があるだろうかね?」

 と、オリベは私見を述べながら、手にしていた漫画を机に伏せた。

 閉店後に、千尋の部屋で漫画を読んでいた彼に稽古を申しでたところ、返ってきたのがこの一言だったのである。

 ちゃんと自分の目を見ながら言ってくれているし、決して面倒臭いから頷かないわけではなさそうだった。

 

 ――千尋の茶道稽古は、閉店後にほぼ毎日行っている。

 稽古をつけてくれるのは基本的にヌバタマなのだが、月一度くらいの頻度で、オリベが気まぐれに見てくれる日もあった。

 それはそれで構わないと思う。

 オリベの方が熟練しているとはいえ、ヌバタマの稽古にも不足は感じないし、やっぱりおっさんよりは、女の子に教えてもらいたい。

 だから、これまでに一度も稽古を乞うた経験はなく、今更頼むのはなんだか気まずかったけれど、それでも千尋は忍んで頼んだのだ。

 

 

「今は、茶会用の稽古をしているんだったね」

「ええ、まあ」

「だったら、基本的には過去の稽古のおさらいだ。ヌバタマでも不足はあるまい」

「そうなんですが……オリベさんにも仕上げに見てほしいというか」

「ふむ」

 値踏みするような視線と共に、オリベが頷く。

「よろしい。そこまで言うなら、一度見ようじゃないか」

 いつもの馬鹿笑いもなく、オリベと立ち上がった。

 二人して二階に上がるが、すぐに茶室と水屋に別れる。水屋に向かった千尋は手早く道具を準備し、稽古の用意は整った。

 

「いつでもどうぞ」

「はい」

 茶室の前で返事をしたけれど、まだ開始の礼はしない。

 千尋はいつも、稽古の前に深呼吸をして、頭の中で手順を確認している。

 まずは足を踏み入れ、炉の前に座し、それから……それから……、

 ……なぜだろうか。今日はあまり集中できない。

 かといって、いつまでも立っているわけにもいかず、千尋は茶室前に座した。

 多分、なんとかなるとは思う。基本的な点前はもう完全に覚えていると、ヌバタマも評しているのだ。

 それでもオリベに頼んだのは、どこか漠然とした不安が千尋の胸にあるからだ。

 創意への悩みが、点前にまで及んでいて、一度はオリベに見てもらっておいた方がいい気がしたのだ。

 

 

 

「一服、差しあげます」

 一礼の後、稽古が始まる。

 まずは水指の前に移動して座り、手にしている棗と茶碗を置く。

 更に他の茶道具を持ってこようと立ち上がった……その時だった。

「お、わっと!」

 あろうことか、袴の裾を踏んづけて転びかけてしまう。

 たたらを踏みながら辛うじて踏ん張ったけれど、点前以前の失態だった。

「おや、大丈夫かね?」

 オリベが他人事のように声を掛けてくる。

 あまりにも淡々とした語りだが、冷たさというよりも、案の定といた雰囲気が漂っていた。

「な、なんとか」

「なら良かった。茶会を前に怪我でもしたら問題だからね。まだ続けるかね?」

「いえ。やっぱり、もういいです」

 

 

 どうにも、集中できない。

 肩を落としながらオリベの前に正座すると、オリベは逆に足を崩して、思いの他、優しい声をかけてくれた。

「まーた、ドジを踏んだね」

「面目ないです。集中したいんですが、なかなか」

「いーや。ある意味では集中できている。ヌバタマも言っておるが、お前さんのドジはいつも、何かに集中するあまり、他が疎かになってのことだからね」

「でも、さっきは他に集中していたことなんて……」

「あるさ。自分の創意が分からず、そればかり考えてるんだろう?」

「あ……」

 

 千尋は言葉を失い、金魚のようにパクパクと口だけを動かした。

 ずばり、心中を見抜かれている。

 付喪神として生を受けて百五十年以上と言っていたはずだが、それだけ生きれば人の心を見抜くなんてたやすいんだろうか。普段はふざけていても、さすがである。

「千尋の部屋で創意の話をしていた時に、裏で茶筅供養の準備していたから、たまたま聞こえていたんだよ」

 なーんじゃい。

 

 

「じゃあ、俺が言い損ねた言葉まで聞いていたんですね」

「左様。……創意とはなんぞや。実は、これ自身は実に簡単な問題なのだよ」

「それを知りたいんです。……是非」

 背筋を伸ばしながら、真剣な声で頼み込む。

「率直に教えてやろう。創意とはお前のことだ」

 ふと、オリベの目つきが、鋭くなったような気がした。

 

「俺……ですか?」

「そうだ。……茶会には主題がある。創意もそれにある程度沿う必要はあるのだが……あまり主題を意識しすぎてもいけない。でなければ、判を押したように同じ茶事、同じ創意になってしまうからね」

「まあ、それは確かに」

「そこでお前だ。……創意とは若月千尋自身なのだよ。お前の心にある感情、それがそのまま創意になるのだ。……詰まるところ、自分が何者であるのか自覚できていなければ、自分の創意は見つからんだろうな」

「………」

 

 言葉がひねり出せず、体は段々と強張ってしまう。

 オリベの言わんとするところは、なんとなく分かる。

 でも「自分が何者か」なんて考えたこともない。

 理屈は分かったのに、答えは遠ざかって、どんどん泥沼に飲み込まれるような気がしてしまうのだ。

 

 

 

「参考までに、オリベさんの創意を教えてもらえませんか?」

「自由、だな」

 即答だった。

「知ってのとーり、私は自由な形状を持つ織部茶碗の付喪神だ。形式に囚われず、良かれと思うようにするのだよ」

「俺も、その考えは悪くないと思うんですけれど……」

「だからといって、それがお前の本質とは思えない。……お前はお前の創意を見つけなさい。こればかりは私も手助けできない。自分との闘いのようなもんだからね」

「……はい」

 重苦しいながらも、返事をする。

 しかし、自分をどう知ればいいんだろうか。

 途方に暮れて溜息一つ付こうとしたその時……外から何か鳴き声が聞こえた。

 いや、大方の見当はつく。夜咄堂にやってくる動物は、あの二匹のどちらかしかいないのだ。

 

 

「オリベさん、今……」

「何か聞こえたね」

 やっぱり、聞き間違いじゃない。

 茶室の小さな窓から下を覗けば、軒先に掛かったランプがロビンを照らしていた。

 

「ロビンじゃないか。どーしたんだ?」

「ワン! ワンワンッ! おい千尋、たーすけてくれー!」

「助けてって、どうしたんだよ。他の犬にでもいじめられたか?」

 しかし、こちらを見上げてワンワン吠えるロビンには、外傷の類はないようだ。

 千尋が不審に思っていると、ロビンは鼻息を鳴らす癖を一発かました。

 

「フゴッ! 違うよ、違うよ。人間の女の子を助けてほしいんだよー!」


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