あれはちょうど一年前、高校三年の十二月に聞いた話だ。
師走、という言葉の語源を、言語歴史が好きな友人が語ってくれたのだ。
師匠も走るほど多忙な時期、という説が有名だけれど、四季が果てるという意味の
学会ではどの説が有力と教えてもらっただろうか、今ではよく思いだせない。
しかし、我が家に限っては「師も走る」はないんじゃないのかな、と思う。
「ヌバタマー。オリベさんどこにいるか知らない?」
階段を小刻みに軋ませて一階に下りるなり、テーブル拭き掃除中のヌバタマに声を掛ける。
だが返事を聞く前に、口をへの字に曲げるヌバタマの表情で、おおよその察しは付いてしまった。
「ごめんなさい、逃げられました……。さっき『女の子ひっかけついでに漫画を立ち読みしてくる』って言って」
「どーりで見つからないと思ったら……今日はミーティングって言ってたのになあ」
「二人だけでやりますか?」
「そうだな、始めよう。……あの人見てると、今月は師走というより、師ナンパとか、師漫画って気がしてくるよ」
客席に座り、テーブルに突っ伏しながらボヤく。
それが許されるほどに、この日の夜咄堂に客はいないのだ。
――師走である。
大学は休みに入るが、どうにか留年は回避できそうなところまでこじつけた。
さあ、今度は他のこと手を付ける番だ、と意気込みはしたものの、いざ時間ができると、やるべきことの多さに気が滅入ってしまう。
まずは、集客。
笠地蔵カムヒア! というほど酷くはないけれども、客足はいまいち伸びていない。
夜咄堂を経営し始めて半年以上こんな状態では、さすがに千尋も焦りを覚えるようになってきた。
……でも、これはまだ解決する可能性があるから、マシである。
箸にも棒にもかからないのは、シズクの件だ。
あの日以来、シズクは一度も顔を見せに来ない。
こちらから浄土寺に足を運んでも、やっぱり見つからない。
オリベは大丈夫だと言っていたけれど、やはり一ヶ月も姿を見ないと不安になってくる。
もしかしたら、店に来ようとしたが、その時に気力が尽き果てた、なんて可能性もあるんじゃないだろうか……、
「ねえ、千尋さん。聞いてます?」
「あ……すまん、なんだっけ」
「集客案ですよ。一つ、良い案を思いついたんです」
ヌバタマが両手を組んで、目を輝かせながら言う。
千尋もいったんシズクの件を棚上げして、椅子に深く腰掛けなおした。
「で、どんな案なんだ」
「お茶会を開くんですよ。夜咄堂で!」
「へえ。お茶会か」
「知人を呼んで終わり、みたいなものじゃなく、本格的に開催するんです。夜咄堂はお抹茶の喫茶店だと多くの人に知ってもらえば、人気が出るかと!」
「ふーむ……」
ずっしりと腕を組み、ヌバタマの言う状態をシミュレーションしてみた。
現時点での夜咄堂のウリといえば、瀬戸内の絶景と、茶室くらいだ。
でも、千光寺山には他にも喫茶店があって、絶景は夜咄堂だけのものじゃない。
とすると、残された茶室を使うのは悪くない気もする。
それで集客に成功しても、増えるのはお茶に興味がある客だけだろうから、いきなり大人気店に! なんて事はないだろう。
でも、少数とはいえガッチリ掴めるのは悪くない。……いや、そもそもそんな選り好みができる状況でもないのだ。
「……悪くないかもな」
「でしょう、でしょうっ!?」
ヌバタマが自分の案に小さく拍手する。多分、集客どうのでなく、茶会を開ける方が嬉しいのだろう。
「ただ、俺、お茶会って、開くどころか参加した経験さえもないんだよ。何を準備して、何をやればいいんだ?」
「それはもちろん、私達が補佐しますから。まずお茶会といっても、お茶を飲むだけの席じゃないんです。お炭の準備を拝見して、懐石料理を頂いて、お
「あっ、駄目だ、駄目。そんなにたくさん覚えられないよ」
「これは完全にやる場合です。お薄茶を頂くだけの席でも立派なお茶会ですから、それで良いと思います。新しい点前を覚えたりしなくても大丈夫ですよ」
「なんだ、驚かせるなよ」
「でも、簡単というわけでもありません。いいですか……」
ヌバタマはそう言って立ち上がると、カウンター裏の棚から紙とペンを取り出して「準備」の文字を書いた。
「一度に全部教えても混乱しますから、今は準備の話だけ。お茶会は、本番と同じくらい準備が大切なんです。まずはお茶会の主題を決めなきゃいけません。季節に応じたお花見とか、その年の釜始め……つまり、初釜とかですね。そんなのが主題になります」
「行事に合わせて、お茶を頂くってわけか」
「はい。主題が決まったら、今度は道具決めですけれど、何でもいいわけじゃありませんよ」
ヌバタマは「準備」の下に、次々と文字を書き連ねながら言う。
そんなに無理に書かなくても、と制そうとも思ったけれど、紙と格闘するヌバタマの口は大いに緩んでいて、千尋は口を挟めなかった。
「……はい、お待たせしました。お茶会ではお薄だけでも、これだけの道具が必要になります」
「……これ、本当に全部揃えるの?」
「はい。これら一つ一つに、主題とか、お客様との関わりを持たせなきゃいけません。いいですか、千尋さん。お茶会は、開くんじゃないんです。作るんです。抜けがないように組み立てるんです」
「頭が破裂しそうだな……」
「破裂するくらいでいーんです。一生懸命考えた方が、楽しいじゃないですか」
ヌバタマが弧を描いた目で言う。
見慣れた表情とはいえ、今でも時々、彼女の笑みには、はっとさせられる。
薄暗い夜咄堂に、突如咲いた花のような笑顔で、先の言葉は続けられた。
「我々としては、どうすればお客様に喜んで頂けるのか考える楽しみがあります」
「お前、そういうの好きそうだしな」
「お客様としても、道具の意図をあれこれ想像しながら亭主と話すわけです。そうしたら、お茶席での会話にも深みが出てくると思いません?」
「……そう、だな。そうかもなあ」
話を聞く限りでは、色々と面倒臭いのだろうな、とは思う。
まだお茶を始めて一年にもならない自分がやる事じゃない、という気もする。
だと言うのに、ヌバタマの言葉は妙に千尋の好奇心を揺さぶってきた。
お店の宣伝ができればそれで良かったのに、まったく困ったものである。
「やってみるか。お茶会」
「オリベさんも同意してくれればですけれど、是非やりましょう! ……ふふっ」
「どうかしたか?」
「いえ。千尋さんも変わったなと。最初に会った時はお茶なんか嫌ってたのに」
「ほっとけ」
口をとがらせながら、立ち上がる。
からかわれるのは恥ずかしかったし、用事もあったのを思いだしたのだ。
「ちょっと出てくる」
「あら。どちらへ?」
「小谷さんの赤備で年末年始のお茶菓子買っとかないと。留守番宜しくな」
「いってらっしゃいませ。あっ、お茶会の時期や主題は常々考えておいてくださいね。これが決まらないと、何も始まりませんから」
「季節ネタでいいんじゃない? 四月頃に花見茶会、みたいにさ」
「結果としてそうなるにしても、そうする意図が大事ですよ。だって……」
「あー、分かった分かった」
軽く手を振って、夜咄堂の玄関を開けようとする。
すると、玄関のガラスにうっすらと映った自分の顔が目に入った。
……この男、無意識に笑っているじゃないか。
別に気にする相手はいないのに、また恥ずかしくなってくる。
師走の寒風も相まって、千尋はこの上なく顔をしかめて、店を出るのであった。
◇
この日の赤備には、年末年始用の商品がずらりと並んでいた。
お餅やら、新春用の生菓子やら、おはぎやら……そして、その中に混じった「花びら餅」を目にした千尋は、我が目を疑ってしまった。
半透明の薄い餅でピンク色の餡を挟んだ、いかにも新春らしい紅白柄の餅で、そこまではいい。
一体何を考えているのか、細く切ったゴボウまで一緒に挟んでいて、それが角のように餅からはみ出ているのである。
商品傍にあるポップの説明書きを見ると「硬い物を食べて、齢も固める」という理由で、平安時代の新年行事として振舞われた餅が由来で、今では茶道用の菓子らしい。
面白いものを考えつくもんだ、と思いながら餅を眺めていると、以前と同じく、初老の販売店員が声を掛けてきた。
「あらあらこの前の! いらっしゃい。あの時は春ちゃんをありがとうねえ」
「こちらこそ、春樹さんにはお世話になっていますから」
「謙遜しなくてもいいのよお。春ちゃん、調子が出てきただけじゃなく、豊ちゃんとも仲直りしたんだよ。それもこれも、坊やのお陰だってね。春ちゃんからちゃーんと聞いてるよ」
どうやら、小谷からは買い被られているようだった。
大したことしていないのになあ、なんて思っているところへ、店員は手招きして「春ちゃんに会って行きなさい」と誘ってくれる。
むげにするのも気が引けて中に入ると、ちょうど応接室から出てきた小谷春樹と鉢合わせした。
「……お、千尋君。……遊びに、来たのか?」
いつものとつとつとした口調で、しかし好感の色をにじませながら小谷が言う。
「いや、まあ、なんというか……」
「……ああ。また亀井の婆ちゃんか……でも、断らないでくれてどうも。さ、中に」
小谷の誘いを受けて応接室に入り、ソファに腰掛けると、小谷はすぐに緑茶を振舞ってくれた。
湯呑を両手で握るだけで、空風で冷えきった体に熱が戻ってくる。
「気を遣わせちゃいましてすみません」
「……いいんだよ。最近は、どうだい?」
「夜咄堂が、ですか?」
「あ、うん」
「それが、いまひとつなんですよね。お茶会でも開いて集客できないかな、なんて話はでてきましたが」
「……考えたな。夜咄堂ならではだね」
「ですけど、まだなーんにも決まってないんです」
「……じゃあ、生菓子も未定かい?」
「それもこれからでして。あっ、良かったら小谷さんに作ってもらえないかな……」
今思いついた事だったが、妙案だと思う。小谷の腕なら全面的に信頼しているし、なんの問題もないだろう。
「……ふむ」
小谷は重々しく頷くと、何も言わずに立ち上がって、厨房へ行ってしまった。
ソファに腰掛けて室内をおもむろに見回していると、小谷はすぐに盆を手にして戻ってくる。
盆の中を覗き込むと、桜の形をした生菓子が菓子器に載っていた。こっちの方がよっぽど花びら餅っぽい。
「……これ、生菓子」
「分かりますよ」
「どうぞ、食べてくれないか」
「そんな。本当に気を遣わないでくださいよ」
「いや……是非。春用のお茶菓子の試作テストを兼ねているから」
「……でしたら」
そうまで言われたら、断るのも悪い。
まずは目で楽しもうと、菓子器に乗った生菓子を見つめれば、桃色の主張が強烈で実に目を引いた。
食べてしまうのがもったいない気もしたけれど、思い切って一口で頬張ってしまうと、この前食べた引き出物同様に、これまた美味い。
ケチのつけようはどこにもなかった。
「……どうだい?」
「んぐ……っと。ごちそうさまです。いけますよ、とても美味しいです!」
「見た目は?」
「見た目も最高だと思いますよ。鮮やかですし、お茶席ではめだつと思います」
「……だったら、五十点だな」
小谷は難しい顔をして頭を左右に振った。
「五十点……? 見た目も味もいいのに、ですか?」
「ああ。菓子としては良くても、お茶菓子としては駄目だ。……めだちすぎるんだよ。和菓子と菓子器は、人間と衣のようなもの。……どちらかが過剰にめだつと、もう片方が死んでしまうからね」
「そんなもの、なんですか」
「……お茶会で俺の和菓子を求めてくれるのは、嬉しいよ。……でも、まずはテーマを決めた方がいい。その後で、付随する菓子器を先に決めるんだ。……菓子だけじゃない。花にも、抹茶にも言える。……最後に、俺がふさわしいか考えてみてくれ」
小谷が重々しく語る。
短い言葉が多い小谷にしては随分と多弁で、それだけ千尋の心にも響いてきた。
茶会は主題一つが、まるでドミノ倒しのように幾多の要素に絡んでくるのだ。ヌバタマが重要性を解こうとしたのも理解できる。
「……頑張れよ」
「はい」
身じろぎもせずに、はっきりと返事をする。
同時に、主題という課題が改めて圧し掛かってきたのを、千尋は感じ取っていた。