夜咄堂を前にしたシズクは、意識を奪われた様な表情で、暫く店を仰ぎ続けていた。
店が持つモダンな雰囲気に見とれてくれているのだろうか。
それなら、気持ちは分かる。かくいう自分も、初めて目にした時には同じように見とれていた。
気に入ってもらえましたか、なんて声を掛けようかとも思ったけれど、その前にシズクは店を眺めるのを止め、待たせて申し訳ないと言わんばかりに、小さく会釈を送ってきた。
「どーぞ、こちらです」
シズクの前を行き、薄暗い店内へと足を踏み入れるが、中からの反応はない。
オリベが留守番していたはずだけれど、多分、本体の
「私、飲み物入れてきますね」
最後尾にいたヌバタマが、シズクの横をすり抜けて厨房に向かいながら言う。
「頼むよ。ええと、シズクさんは飲み物はどうします?」
「どうも。なんでも構いませんよ」
「じゃあ、コーヒー三つ」
「分かりました。あと、オリベさんは……」
「起こさなくてよし」
「ですよね」
ヌバタマは即座に頷いて厨房の中へと姿を消した。女性好きのオリベをシズクに会わせたら、せっかくの時間がしっちゃかめっちゃかにされるというものである。
「手持ち無沙汰にしちゃってごめんなさい。少し待ってくださいね」
「いえ。全然暇なんかじゃありませんよ」
そう言うシズクは千尋に視線を合わせず、外にいる時と同じ様に店内を仰ぎながら返事をした。
ここまで感じ入ってもらえるとは予想外で、なんだか随分とむずがゆい。
口は挟まず、しかし先導するようにして四人掛けのテーブル席に着くと、シズクはまだ店内を眺めつつも、千尋に続いて対面に腰掛けた。
「気に入って頂けたみたいでなによりです」
「なんだか自宅に帰ってきたかのように落ち着きます。……あの、失礼な事をお聞きしても?」
「多分、気にしませんよ。どうぞ」
「千尋さん、まだお若いようですけれど、経営されているというのは本当ですか?」
「一応は。亡くなった父から譲り受けただけですけれどね」
「お父様が……亡くなられた、のですか。それはお気の毒に……」
シズクの声が沈む。知らぬ人の事なのに、はっきりと落ち込んでくれる人だった。
「あー、まあ、大丈夫ですよ。半年くらい前の事ですから。それにいつまでも悲しんでると、天国の父が成仏できませんし。……ところで、シズクさんもお茶をやってるんでしたよね」
「あ、はい」
「シズクさんは、なんでお茶を始めたんです? やっぱり学校茶道がきっかけとか?」
「それでしたら……実は、さっきの露滴庵に関係があるんです」
シズクが、遠くを見つめるような目をしながら言う。
「何年前でしたでしょうか。もうはっきりと覚えていませんけれど、ずっと、ずっと昔の話です。露滴庵で、ある男性と知り合ったのですよ」
思い出が、ゆっくりと語られる。彼女が気分良く話しているのが伝わってきて、千尋は余計な口を挟まずに話に聞き入った。
「あの頃の私、ちょっと悩みがあったんです。自分探し、みたいなものですね。私の存在価値はなんなんだろう……って。その答えを教えてくれたのが、茶室と男性だったんです。ひょんな事で知り合ったその男性が露滴庵の良さを語ってくれて、それに自分を照らし合わせてみたら、自分らしさというものが分かった気がしました」
その感覚は、千尋にもよく分かる。
まるで、茶道具の良さで客の悩みを解消する『日々是好日』じゃないか。
「……その出来事のお陰で、お茶にも興味を持てるようになって、取り組みだした、というわけです」
「なるほど。その男性には感謝ですね」
「そのとおりですね。……実は、浄土寺山によく行くのも、その方と再開したいという気持ちが幾分かは」
シズクはそう言ってはにかんだ。
「幾分?」
「ええ」
「本当に?」
「あ、あの……」
「絶対に本当?」
「……本当は、大半です」
「ははっ。やっぱり」
千尋が声を立てて笑うと、シズクは恥ずかしそうにはにかみ、それから目をつぶって、ぽつりと呟いた。
「本当に素敵な方で。……凛とした影の方でした。実直な人で、性格が見た目にも出ていたのですよ。いつも背筋が伸びていて、夕日で地面に落ちる影まで凛としていたのです」
「凛とした影の人……」
「ええ。……もう一度、あの人に会いたい」
シズクは思い出に浸るように瞼を閉じる。
ふと千尋は、瞼に隠された瞳の事を考えた。
初対面の時に憂いを感じた瞳。その理由は「あの人に会いたい」という気持ちだったのかもしれない。……そうだとしたら、彼女の瞳は憂いを帯び続けるんじゃないだろうか。なにせ、思い出せないくらい昔の話みたいなのだ。
ならば、なんとかして、彼女を励ましてあげられないだろうか。
――そう思いかけて、ふと気になった。
あの人に、会いたい?
ちょっと待て。それじゃまるで……そうだ。ヌバタマが見せてくれた地域新聞の記事と同じ言葉だ。浄土寺山周辺で聞こえる、謎の声そのものじゃないか。
千尋から暖かみが消えうせ、一瞬で背筋が凍りついた。そういえば、シズクの外見も噂と一致するのを忘れていたが、まさかそんなはずは……、
「お待たせしましたー!」
唐突に響いたヌバタマの明るい声が、思考を押し流す。
トレイを手にしたヌバタマが、そこからコーヒーカップをシズクに渡すと、シズクは幽霊とは思えない優しげな笑顔で頭をさげた。
そうだ。やっぱり考え過ぎだろう。こんないい顔をする人が、幽霊のはずがない。
「それじゃあ、頂きますね」
「お二人ともどうぞ。……あ、千尋さん。さっき、天井が揺れませんでした?」
「天井が?」
千尋もコーヒーカップを受け取りながら、天井を見上げる。
夜咄堂の板張り天井は、少なくとも現時点では微動だにしていなかった。
「いや、俺は気付かなかったな。話に集中してたからかもしれないけれど……シズクさんは気付きました?」
「いいえ、私も分かりませんでした」
「ですよね。……厨房は揺れたのか?」
「はい。こっちはガタガタ……いや、トタトタ、って感じで」
「地震かな」
「足元は揺れていませんでしたよ。天井になにか……あ、いえ……」
何かを言いかけたヌバタマが、慌てて口をつぐんだ。
多分「鼠か何かがいるのでは」と言いかけたのだろう。
飲食店として好ましくない状態だから、客のシズクに聞かせるわけにはいかないのだ。
しかし、本当に鼠がいるのなら説明は付く。夜咄堂の薄い天井板だったら、そんな音もするだろう。これは、一度業者に見てもらった方がいいのかもしれない。
「あの、もしかしたら……」
ふと、シズクが声を掛けてきた。千尋とヌバタマが同時に彼女を見ると、息の合った視線に狼狽したのだろうか、シズクは僅かに体を引いて首を横に振った。
「……いえ、やっぱり、なんでもありません」
「はあ」
「それより、お話は変わりますが……二階にお茶席があるのでしたよね。コーヒーを頂いた後で、拝見しても宜しいですか?」
◇
茶室の拝見希望を受けた時から、千尋はある決意を固めていた。
コーヒーを飲み終える頃を見計らって「胃が許すなら見学だけじゃなく一服どうでしょう」と提案すると、彼女は躊躇なく頷いてくれた。
そうなると、茶室を準備しなくちゃいけない。
普段なら、茶事が大好きなヌバタマに任せるところだけれど、この日はヌバタマが準備に立ちあがる前に、千尋が先に階段へ上がった。
理由は、一つ。シズクの悩みを知っている自分じゃなければ『日々是好日』に適した茶道具を選べないからだ。
昔の自分なら、おせっかいだと考えて、こんな事やらなかっただろう。
いや、今でも、人の心に踏み込むのは危険だと思っている。
けれども彼女は……強く、とても強く「会いたい」と思っているのだ。ならば、励ましたいじゃないか。
千尋は二階の水屋へ進んで、まずは時間が掛かる釜を取りだした。
茶室に釜を運び、炉内の炭に点火した後で釜を掛ければ、次はいよいよ、能力の為の茶道具選びとなる。
意気込んで茶室を出た千尋は……しかし、茶室の上に飾られた、描きかけの水墨画を目にして、ふと足を止めた。
――本当に『日々是好日』を使っても大丈夫だろうか。
夜咄堂の付喪神達は『日々是好日』を使った結果、今年の夏に一度消滅している。……いや、天に還ったというべきだろう。
『日々是好日』によるもてなしは、茶道具の付喪神にとって責務でもある。それを一定数こなす事によって昇天できるのだ。
今、眼前にある水墨画は、昇天までの『メーター』だった。能力を発動させると水墨画に絵が描き加えられ、完成した瞬間が『メーター満杯』という事らしい。
でも、昔の話だ。
今いる付喪神達は、水墨画を完成させて天に還ったけれども、神様の計らいでこの世に戻ってきて、自分が生きている間は一緒にいられるようになっている。
となると、メーターである水墨画も不要だ。……そう思っていたのだが、答えは違った。
付喪神が帰ってくるのと同時に「またメーターを貯めろ」と言わんばかりに、水墨画は白紙に戻ってしまったのだ。
付喪神達にも、その理由は分からないらしい。
不気味ではあるのだけれど、特に害はない様なので、結局千尋達は『日々是好日』を使い続ける事にした。
本音を言えば、やはり理由は気になるけれど、今はそれよりもシズクの方が大事だ。
「……さて、道具か!」
懸念を振り払うように声を強め、水屋に戻って、茶道具を収納している押入れを開けた。
そして現れる幾多の茶道具や収納箱と相対する事、数十秒。
ぴん、と来たのは、古ぼけた竹
「父さんの花入……か」
間違っても落とさぬよう、そっと取りだしながら呟く。
オリベからの又聞きだけれど、この花入には父と母に関する由来があるのだ。
これなら『日々是好日』が使える。そう確信して、竹花入を茶室の
客の前を通って庭の茶花を積みに行くのは気が引けたので、花は廊下の花入に差したものを流用した。他の茶道具も並べ清める頃には、釜の水は大分温まったようだった。
「千尋さん、まだでしょうか?」
それを見計らったかのように、ヌバタマが階下から顔だけを覗かせて、様子を見に来る。
「今、終わったよ。シズクさんの相手、続かないか?」
「いーえ。ずっと盛りあがってます」
張りのある声だった。とはいえ、お茶を待たせすぎるのも……という事だろう。
「じゃあ、シズクさんを茶室に案内してくれるかな」
「はい。あ……お茶菓子はいらないそうです。そこまで気を遣わせたくないみたいで」
「分かった。別にうちは構わないんだけれどな。あー、あと、日々是好日を使うよ」
「あら……シズクさん、何か悩みがあったんですか」
「みたいだな。……ま、後で話すよ。同席、宜しくな」
「はい。頑張りましょーね!」
「おう」
話を終えて水屋に入り、茶碗やら棗やらを手にする。
入席の連絡が来るまでの間、千尋は少しだけ、シズクの事を考えた。
――彼女の正体は、未だによく分からない。
確かに噂と一致する点は多いし、非科学的な存在も実在する以上、本当に幽霊だったりするのかもしれない。
でも、それならそれで構わない。仮に幽霊だとしても、彼女は手を差し伸べるに足る、良い人じゃないか。
それにしても、半年前に比べると、随分と他人に興味を持つようになったものだ……。
「準備、できました」
ヌバタマの声が、千尋の思考を止める。
おう、と軽く返事をして茶碗を手にすると、もう考えるのは茶事だけだ。
茶室の障子を開けると、客席のシズクがこちらを向いて微笑んでくる。茶をたしなんでいるだけあって、体をまったく動かさないきれいな座り方だった。
「一服、差しあげます」
挨拶を交わし、釜の前に歩いて点前を進めていく。
最近ではようやく炉点前にも慣れてきて、シズクと茶道具の会話をしながらでも、特に慌てることはなかった。
だが、唯一の例外は存在する。件の竹花入に話を振られた瞬間だ。
「ところで、本日の花入について伺っても?」
「ああ、これはですね……」
言葉では平静を装いながらも、頭をフル回転させて、必死に情報を引き出す。
それと同時に、茶室の入口に座すヌバタマに目で合図を送ると、彼女も承知しているようで、すぐに目礼が返ってきた。
「……一重切竹花入。今は亡き父が大事にしていた花入ですが、ちょっとした逸話がありまして」
「あら。どんなお話でしょうか」
「この花入、元々は私の母が大事にしていたものでした。母も私が小さい頃に亡くなったのですが……実はその際、父はこれを売ったのですよ。花入を見ていると母を思い出すからだそうです」
「そんな……」
「ですが、ね」
シズクの声は沈んでいたが、その分だけ千尋は陽気に言う。
「悲しみが癒えた頃になって、父も手放したのを惜しんだそうです。方々探したけれども見つからず……しかし、諦めずにいたある日。ふらりと入った骨董品屋で花入と再会し、即座に買い戻したそうです。奇遇にも、その日は母の七回忌だそうでした」
「良かった。そうでしたか」
「それから亡くなるまでの間、父は花入を特別大事にしていたそうです。再会する運命だったと思うんですよ。……これは、父だけの話じゃない。そこに運命というものがあるのなら、誰だって、会いたい人にもう一度出会えると思うんです」
そう告げるのと同時に、シズクの悩みに思いを馳せる。これで、条件は全部満たした。花入の良さと、彼女の悩みがシンクロし『日々是好日』が発動……、
……しなかった。
不思議に思いながら、再度視界の端にヌバタマを捉えるが、彼女も訝しんだ表情をしていた。
ヌバタマはちゃんと能力を発動させようとしていたみたいだし、悩みと良さも分かっている。茶席や点前にも大きなミスはないはずだ。
やっぱり、条件は全て満たしているはずなのだが……長らく考え込んで、ふと、千尋は思い至った。
『日々是好日』は、人間の感受性を際立たせる能力だ。
しかし、相手が人間じゃなかったら? 例えば……幽霊だったら、能力は発動しないんじゃないだろうか――
「きゃっ!?」
突然、ヌバタマが茶席にふさわしくない声を漏らした。
理由は、千尋にも分かる。足元に明確な揺れを感じたのだ。ヌバタマが言っていた揺れとは、これなのだろう。鼠か、あるいは地震かもしれない。
シズクにも気を付けてもらおうと、千尋が素早く顔をあげると……いなかった。ついさっきまで客席に座していたはずのシズクが、姿を消していたのだ。
「し、シズクさんは?」
「え……あ、あれ? ええーっ?」
ヌバタマも気がつかなかったようで、裏返った声を張りあげる。
シズクは確かに消えた。これもまた噂と合致する。
本当に、彼女は幽霊なのだろうか……?
「やっと、捕まえました……」
床下から、シズクの声がする。
千尋が体をこわばらせるのと同時に揺れは止み、一呼吸の間をおいて……シズクが、畳から出てきた。
まるで土をかき分けて芽を出す植物のように、上半身だけがぬうっ、と浮かびあがってきたのだ。
「――っ!」
ヌバタマが息を飲みんだような声を出して立ちあがる。千尋も殆ど同じような状態だった。茶室に、普段とは性質の違う緊張感が走り……、
……そしてその緊張感は、階下から聞こえてくる声によって破られた。
「おぉ~い! お客さんかね~」
間延びした声と共に、オリベが階段を踏み鳴らして茶室に入ってくる。
そして、シズクの異様な姿を目にした彼の表情は、瞬く間に驚きの色に染まっていったのだが……なぜだろうか、そこには喜びの色が混じっていた。
「ややっ、シズクじゃないか!」
「ああ、やっぱりオリベさんもこちらに。ご無沙汰しています」
「ヒャッヒャッ! 何年ぶりだろうか……それより、畳に埋まって何しとるんだ?」
「一階と二階の間が揺れたので、もしかしたらと思って透明化して様子を見たのですが、案の定でした」
シズクはそう言うと、泥沼からでも抜け出すように下半身を持ち上げて、茶室に戻ってきた。すると、彼女の手元があらわになり……そこには、白猫が抱かれていた。
「雪之丞、邪魔をしたらいけないと言ったでしょう?」
「ニャゴッ!」
雪之丞と呼ばれた猫は、低い声で返事をしながら、シズクの手の中で大いに暴れる。
驚いたシズクが手を緩めたのか、猫はそこから抜け出しいぇ、素早く階下まで逃げてしまった。
「あっ! もう……。様子を見に来たみたいで……本当に、困った子です」
「ヒャッヒャッ! なんだ、雪之丞も一緒だったか」
オリベが親しげに笑う。
どうやら、二人は知り合いの間柄と見て、間違いはないのだろう。でも、今何が起こっているのかまでは、千尋にはさっぱり分からない。
「あ……あの。宜しければ、事情をご説明頂けませんか? シズクさんは幽霊さんじゃないんですか?」
理解できないのは、自分だけじゃないらしい。
ヌバタマが誰に対するでもなくそう切り出し、千尋も同調するように頷くと、オリベがにやにや笑いながら答えてくれた。
「ああ、浄土寺山の噂と照らし合わせていたのかね。灯台下暗しというやつなのかねえ……。この女性は、幽霊でもなんでもないんだよ。なあ露滴庵の付喪神、シズクよ」