尾道茶寮 夜咄堂   作:加藤泰幸

51 / 66
第十三話『凛とした影の人 その一』

 口から洩れる吐息が、めっきり白くなってきた。

 白いのは吐息だけじゃない。小雨の降る瀬戸内海上には、対岸の向島を隠すような白い朝霧が浮かび上がっている。

 随分寒くなったものだ、と思うけれど、それも当然だ。十一月も既に折り返している。

 海に面している尾道とはいえ、冬は冬。決して暖かくはなく、千尋は手袋をした手で傘を握って、商店街奥のコンビニへ牛乳を買いに出かけていた。

 朝食代わりにしている牛乳を切らしていたのは迂闊としか言えない。寒風吹く早朝の買い物は考えものだったけれど、なんだか飲まなきゃ一日が始まらない気がするのだ。

 

 

「寒いな……」

 当たり前の事を呟くが、嫌な寒さじゃない。

 千尋は、冬はあまり嫌いじゃなかった。皆が非活動的になるからだ。

 むしろ静かになるよりは賑やかな方が好きだけれど、人のいない町を独り占めするような気分も嫌いじゃない。

 現に今も、朝から散歩する人はあまりおらず、不思議な高揚感を覚えながら、一日の始まりを迎えている。

 もっとも、少ないのは人に限った話だ。人以外にでくわすのは、ままある。

 

「そう。例えば犬とか……」

「あん? なんか言った?」

「別に」

 短く返事するのと同時に、先導するように商店街を歩くロビンを睨む。

 まさか、朝っぱらからロビンと出くわすとは思わなかった。

 分かっていれば出かけなかったのに、と悔やむが、もう遅い。なんせこいつときたら、出会えばいつも……、

「なーなー、ところでさ、千尋」

「ドーナツ、買わないからな」

 きっぱりと言い放つも、ロビンはこたえた様子もなく、アホみたいにハアハア舌を出している。

「ヘヘヘッ、そうケチケチすんなよ。ほら、東雲ドーナツ店に行こうぜ」

「こんな時間にドーナツ屋は空いてないぞ」

「しかしそこをなんとか。ペロペロしてやるからさ。ペロペロ」

「やめろよ、おい。第一、なんとかしようがないぞ」

「んじゃー、開店まで待とうぜ。開かぬなら、開くまで待とう、付喪神」

「諦めましょう、付喪神。の方がいいんじゃないか?」

「やーだよー」

 

 

 どうにも、今日のロビンはしつこい。

 単なる雑談相手なら、それも悪くはないんだけれども、こいつは和菓子屋の小谷に飛びついた前科がある。

 コンビニに行くまでに撒いてしまった方がいいかもしれないが、ロビンに悪い気もする。

 さて、どうしたものか。千尋がこうして考え込むたびに、脳内では小さな千尋達がやいのやいのと緊急会議をはじめ、ヒゲを生やした議長千尋が結論を下す。

 議長は、親指を下に突き立てた。

 

 逃げちゃえ!

 

 会議が終わるや否や、千尋は傘を差したままで駆けだした。

 真っすぐ商店街を駆ければコンビニに着くけれど、そうはせずに横の細路地へと抜ける。

 出遅れたロビンの気配をまだ後方に感じたので、更に別の細路地を走り、道路を渡って山側に走る。

 傘を差したまま走ったせいか……いや、おそらくは運動不足だろうか、大して走らないうちに息は切れてしまったけれど、浄土寺(じょうどじ)山の麓にある図書館辺りまで、なんとか逃げきる事ができた。

 

 息を整えながら後ろを見るが、ロビンが追ってくる気配はなかった。

 普通に鬼ごっこをすれば負けていたかもしれないが、不意打ちが成功したんだろう。

「なんとか……撒いたか……ふうっ」

 大きく息をつきながら、上半身を起こす。

 あと少し落ち着いてから、別のコンビニに行こう。そう決めた千尋は、図書館のひさしで雨宿りしようと足を前に踏み出し……その動きを、すぐに止めてしまった。

 

 

 人が、いたのだ。

 図書館に寄り添うようにして、赤い傘を差した女性が歩いている。

 白を基調としたロングスカート姿で、腰 辺りまで伸びた黒髪を一本縛りにしている。顔立ちはすらりと高い鼻を中心として均等に整っていた。

 一言で言えば綺麗な人だったのだが……あくまでも一言、だ。

 全体的に、憂いに満ちているのだ。特に瞳が印象的で、ヌバタマのようにくりくりとした大きな瞳じゃないのに、深みを感じさせる。

 その憂いが美しさと相まって、女性は幽霊画のような雰囲気を醸し出していた。怖いくらいに綺麗、と言うのが一番適切かもしれない。

 

「おはようございます」

「あ……おはよう、ございます……」

 平然とした挨拶を投げかけられる。思っていたよりも温和な声だった。

 慌てて千尋が一礼する頃には、女性はもう背中を見せ、図書館前の坂を上がっていた。

 その足取りもまた、しずしずとしていて、力が篭っていない。緩やかな坂道なのに、上りきれないんじゃないかとさえ思わせる足どりだった。

 なんだか気になってしまった千尋は、彼女が坂を上がりきるのを最後まで見届けてしまった。

 

 

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

 

 

「千尋さん、幽霊って怖くありませんか?」

「お前は自分がなんだか分かっているのか」

 すがるように近寄ってきたヌバタマの第一声を、ばっさりと切り捨てる。

 それでもヌバタマは不安げな様子を崩さず、帰宅した千尋がカウンター席に腰掛けるまでの間、傍から離れずに話を続けた。

 

「私は幽霊じゃありませんよ!」

「似たようなもんだろ。別に怖がる必要ないと思うぞ」

「だからって幽霊と仲良しってわけじゃないんですよ。特に恨みつらみを持った霊は、何をするか分からないんです」

「なんでそんな心配をしてるんだよ。店に幽霊でも出たのか?」

 カウンター上に備えているコップに、買ってきたばかりの牛乳を注ぎながら尋ねる。

 それを飲み干す間に、ヌバタマはマガジンラックから新聞を持ってきて、カウンターの上におずおずと広げてみせた。

 新聞なんて取っていたかな、首を傾げながら紙面を覗き込むが、すぐに答えは分かった。

 購読しているものじゃなく、無料配布されている地域新聞だった。見覚えのある風景写真がいくつも載っていて、なかなかに地元民の目を引く紙面である。

 

 

「今朝のです。ここ、読んで下さい」

 ヌバタマが青い顔をしながら紙面を指差す。

「えーと、町の人々?」

「尾道の人達に、最近の出来事を尋ねるする欄です。そこの一番最後の人……」

「ああね」

 頷きはするが、目を滑らせ気味に読む。「尾道に幽霊?」なんて小見出しが載っていて、白服黒髪の美しい女性が、浄土寺山周辺で突如姿を消す怪奇現象が起こっているらしい。更には「あの人に会いたい」という、寂しげな声を聞いた者もいるそうだ。

 多分、インタビューを受けた人自身、本気で言っているわけじゃないだろう。噂だと分かっていて楽しむ類のものなんだろう、と思う。

 

 しかし、千尋は途中から真剣に読み始めた。そう切り捨てられない事情があるのだ。

 まず、非科学的な存在をを否定できない。なんたって、付喪神と生活を共にしているのだ。

 加えていえば……いや、こっちはこじつけだ。印象的な出来事があったもんで、無意識に結び付けているだけだとは思うのだが……場所と幽霊の外見は、今朝の女性と一致する。

 

 

 

「……まさかね」

「そんな事言って、本当に幽霊がいたらどーするんですか?」

「今のまさかは……いやそれより、別にいたって、ヌバタマが遭遇すると決まったわけじゃないだろう」

「あ、えっと……それは……」

 ヌバタマが、思いっきり言葉を濁した。

 上目遣い気味で、続きを言いかけては止めてを何度か繰り返すあたり、言いたくないというわけではないようだが……。

 よく分からないけれど、まずは話を聞こうと、千尋がカウンターに腰掛けなおした時だった。

 

「いやいや千尋よ。その話、あながち噂と言い切れないのかもしれないぞ」

 楽しげな声と共に、オリベが厨房から出てくる。

「あ。ただいま、オリベさん」

「うむ、お帰り。私が頼んでおいた漫画雑誌は?」

「そんなもの頼んでいないでしょう」

「ヒャッヒャッ! そーだった、そーだった!!」

 いつもの笑い声を元気よく披露しつつ、隣のカウンター席に座ったオリベは、千尋に向き直る。

 すっと、右手の人差し指を立てながら、彼は悪だくみでも語るかのように話を切りだした。

 

 

「お前が帰ってくる前に、私もその新聞を読んだのだがね。実は、浄土寺山周辺には、ある昔話があるのだよ」

「はあ」

「昔々、あの山の浄土寺で、法要の際にお膳が無くなる事件が多発してな。妖怪だか化け物だかの仕業じゃないかと噂になり、殿様が弓の名手に退治を命じたらしい。寺にろうそくをびっしり並べ、昼間のような明るさになった寺の広間に、名手と繕。そして息を飲む人々。刹那……ろうそくの炎がふらと揺らめいたっ!!」

 ぱちん、と指を鳴らして、オリベは語りに勢いを付ける。

 そんな子供だましでも効く人には効くようで、背後では、ヌバタマが微かに肩を震わせた気配があった。

 

「揺らめきに反応した名手が、天井に弓を放つと『ギャオッ!!』と悲鳴が聞こえたんだ。天井からは血がしたたり、それが寺の外の方へと続いた。侵入者が天井を伝って逃げたのだな。名手が血痕を追うと、山奥の洞窟まで続いていた。中に入ると、一切の照明がない暗がりのはずなのに、ふと、二つの光が浮かび上がる。下手人の目玉だ。下手人は力を振り絞り、鋭い爪で名手に襲い掛かったが、名手はそこを見事に射抜いた! ……そして、断末魔をあげて動かなくなった下手人。それはなんと、ばかでかい猫だったらしい。……そんな昔話だよ。浄土山寺の化け猫退治だ」

「ほら、ほらほらほらっ!!」

 話が終わるのを待っていたかのように、ヌバタマが泣きそうな目で見あげてくる。

 

「やっぱり、何か怖いのがいるんですよ!」

「幽霊と化け猫は別物だろ? 大体、オリベさんのは単なる昔話だよ」

「あうう……そうかもしれませんけれど……行くんですよ、今日」

「今日?」

「はい。今日はお店がお休みだから、私、浄土寺に出かけるって言ってたの覚えていません?」

「あー、そう言われれば……」

 確かに、今日はどこかの寺に出かけると言っていた記憶がある。寺の敷地内に由緒ある茶室がそびえているそうで、それを見学に行くと言っていたはずだ。

 やっと、ヌバタマが怖がっている理由に合点がいく。だからと言って、ここまで怖がらなくても良いんじゃないかな、とは思うけれども。

 

「……つまり、幽霊に出くわすのが怖いと。昼間だから大丈夫じゃないの?」

「うー。でも……千尋さんも一緒に来てくれませんか?」

「俺っ? なんで俺まで……」

 せっかくの休みなのに、なんで付き添わなきゃいけないんだろう。

 

 やや長めの黒髪をわしゃわしゃと掻きながら、面倒臭そうにヌバタマの目を見たが、それが、いけなかった。

 黒く大きな瞳で、雨に濡れる捨て犬のように見つめられては、千尋に抵抗する術はない。

 本日二度目の脳内千尋会議が一応開かれたけれど、議長の判決はあまりにも早く下された。

 

 

「……まあ、いいさ」

 口癖を放ち、露骨に目を背ける。

「やった! 千尋さん、ありがとうございますー!」

 ヌバタマが歓喜を爆発させ、千尋の両手を強引に取ってぶんぶんと上下に振ってきた。

 それがやたら恥ずかしく、今度は上体ごと背けたのだが、そんな様をオリベに笑われてしまって、一層恥ずかしさが込み上げる千尋なのであった。 


▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。