尾道茶寮 夜咄堂   作:加藤泰幸

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第十二話『曜変天目茶碗 その二』

 尾道市の本土側から、数百メートルの瀬戸内海を隔てた先にある向島に行くには、二種類の方法がある。

 まずは橋を通過する陸路だけれど、千尋はここを通った経験がなかった。

 父が生きている頃から向島へ行く機会が少なかったのが理由の一つだが、その数少ない機会の際には、もう一つの手っ取り早い方法……つまりは渡船を、今回同様に使っていたのである。

 

 この日、千尋とヌバタマが船着き場に到着すると、ちょうど着岸した渡船が、船尾のランプウェイを下ろしていた。

 乗り込む車を横目に、千尋らも徒歩で渡船に乗る。他の乗客は、二人組の男女の高校生と、三人組の男子高校生。そのうち何名かは自転車で直接乗り込んでいた。渡船は生活の手段なのだ。

 人懐っこい笑顔の老船員がランプウェイを引き上げると、いよいよ出港となる。

 船員に数百円の運賃を直接手渡した二人は、むき出しになっている座席に腰掛けて、瀬戸内海を眺めた。

 耳に届くのは、船が海を切り裂く音と、渡船のエンジン音だけだ。

 確か、前回もそうだった。最後に渡船に乗ったのは二年前。遠縁の親戚の結婚式に参加する為で、あの時は父も一緒だった。

 

 もう隣に父が立たないのは、もちろん寂しい。

 でも、その代わりに、この半年でいくつもの新たな縁に結ばれた。

 ヌバタマらとの新生活もそうだし、今から向かう小谷の和菓子屋だってその一つだ。

 諏訪が褒める和菓子には、もしかしたら夜咄堂を繁盛させるヒントが隠れているかもしれないし、強面に反して純朴そうな小谷自体にも興味はある。

 

 

「……千尋さん?」

 ヌバタマが不安そうな声を掛けてくる。

 思い出が、顔に出てしまっていたのかもしれない。

「ちょっと父さんを思い出してたんだ。昔、一緒に乗ったな、って」

「いつ頃の話なんですか? 良かったら聞かせてください」

「二年前かな。……でも、昔話は今度にしよう。もうすぐ向島に着くしね」

 

 五分間の船旅は、思い出話をするには少々短い。

 着岸後、今度は船首のランプウェイを使って島に降り立ち、木造建築の多い古い通りを歩く。

 シャッターが下りた建物が多く、それらには大抵、看板が掛かっている。

 今でこそ客も歩行者もいない静かな通りだけれど、昔は活気のある商店街だったのかもしれない。

 

 

 和菓子屋赤備は、通りの端にあった。看板こそ和菓子屋らしく木製だったけれど、店自体は比較的新しいモルタル塗りだった。

 中に入ると、二組の客が棚の商品を眺めている。冷蔵ケースの中では、色とりどりの生菓子が鮮やかに咲き誇っていた。

「すみません。こちら、小谷さんのお店ですよね」

 レジ前に立つ初老の女性店員に声を掛けると、店員は大きくゆっくりと頷いた。

「私、若月といいまして、小谷さんの知り合いなんです。よかったら、ご挨拶をと思いまして……」

「あらあら。それでしたら、どーぞ中に」

「お仕事中では?」

 と、ヌバタマ。

「もちろん仕事中だけれど、むしろ最近は新作に詰め込み過ぎでねえ。『春ちゃん、気分転換したら?』って勧めても聞かないのよ。だから、ちょうどいいわ。休憩室にいると思うから、ご遠慮なく」

「はあ、どうも」

 

 

 新作がなんの話だかよく分からないけれど、勧められるがままにレジ裏の通路に進む。

 休憩室と思われるソファとデスクが備わった部屋はすぐに見つかったが、中には誰もいなかった。

 店員に確認しようかと思ったが、奥の厨房から物音が聞こえたので、そっちに行ってみると白衣の小谷がいる。

「小谷さん、遊びに来ました」

「……! ま、待った!」

 小谷が素早く振り返りながら声を張りあげる。

 声量よりは、小谷の勢いに気圧されて千尋が足を引っ込めると、小谷はあわあわと押し返すような仕草を見せた。

 何か理由があるのだろう。千尋らが素直に厨房から出ると、それに続いて小谷も出てきた。

 

「す、すまない……厨房は料理人しか入れない結界……先代の父の教えなんだ」

「こちらこそ勝手に入ってすみません……」

「……いや」

 小谷は更に何か言いたそうだったけれど、結局、言葉の代わりに休憩室の方へ手を差しだした。

 差されるがままに休憩室に入って、随分と使い込まれたソファに腰掛けると、待っていたと言わんばかりに、小谷は頭を下げてきた。

 

 

「……さっきはすまない。……茶道でも扇子(せんす)を区切りにし、境界線を作るだろう?」

「確かに、稽古の前の挨拶で、そんな事をしていますけれど……」

「そんな事をって……千尋さん、前に教えたでしょう? あれは、相手との立場の違いを線引きしているんです。相手を敬う為に、挨拶の時に置く場合もありますね」

 と、ヌバタマが解説してくれる。そう言われれば、初めての稽古の時にそんな話を聞いた気が、しないでもなかった。

「それにしても、小谷さんもお茶をされるんですか」

「……少しは。……道具の中でも、扇子は好きなんだ。……ちょっと勿体ない道具だけど」

「勿体ない、ですか?」

「扇子は、基本的に線引き道具だ。……暑くて扇ぐ人はあまりいない。絵や文字が書かれていても、見る機会がないんだ」

「ああ、分かります! もったいないですよねえ!」

 ヌバタマがオーバーに同調すると、小谷は満足げに笑ってくれた。

 なんだかんだで喋ってくれるし、ちょっと怖いけれど、笑ってもくれる。

 いざ話しだせば、ちゃんとコミュニケーションを取ってくれる人なのだ。

 

 

 

「なるほどねえ……小谷さんの扇子も、何か書かれているんですか?」

「……有名な茶人の名言が。桜田門外(さくらだもんがい)の変の井伊直弼(いいなおすけ)、大名茶人の松平不昧(まつだいらふまい)公」

「井伊……ああ、井伊ですね。井伊」

 適当に相槌を打つ。

 井伊ナントカという人が桜田門外の変で死んだのは知っていたけれど、下の名までは覚えていなかった。松平何某に至ってはまったく知らない有様だ。

「いい扇子だよ。家の方に置いている。……今度見るかい?」

「ええ、是非。それだけ茶道にも詳しいなんて、尊敬します」

「……全然だ。……そうだとしても、本業がさっぱりじゃ本末転倒だ」

 小谷はそう言うと、重苦しい溜息を零した。

 なんの話かは、おおよその察しはつく。気が付けば、ヌバタマも「千尋さんから」と言わんばかりに目配せをしていたので、千尋は僅かに身を乗り出して口を開いた。

 

「レジのお婆さんが、新作に詰め込み過ぎって言ってましたよ。その件ですか?」

「……そう。うまくいかないんだ」

 小谷は小さな声で言う。心をどこかに置いてきたような声だった。

「……新作というより……特別な注文でね。結婚式の引き出物用の和菓子なんだが、妙案が出てこない」

「季節や慶事を模したものではいけないんですか?」

「特注だし、一捻りしたくて。……試食してみるかい?」

「はいっ、是非!!」

 威勢よく手を挙げて返事をしたのは、甘党のヌバタマだった。

 だが、すぐに男性二人が生暖かい目で見ているのに気がつき、おずおずと手を下げる。

 小谷は苦笑しつつ厨房に戻り、すぐに生菓子が載った皿を運んできてくれた。鯛を模した赤味が印象的な生菓子だった。

 

 

「それじゃあ、召しあがれ」

「どうも」

「頂きますー!」

 生菓子を切る為の黒文字(くろもじ)を手にした二人は、さっそく鯛を割く。

中には濃厚な黒餡が入っていた。口に含んで舌で押し潰すと、餡と甘味……いや、それだけじゃない。

 味の重みからくる満足感までもが口内に染み渡る。非常に出来の良い生菓子だった。

 

「美味しい! 小谷さん、これ最高ですよ! 私いくらでも食べられます!」

「ヌバタマは甘味ならいくらでも食べられるだろ……でも俺も同じ感想です」

「……ありがとう。……生菓子は、父に徹底的に仕込まれたからね。……特に餡。小豆は国産、それも産地が田んぼレベルで分かる国産を使っている」

「国産ってそんなに大事なんですか」

 ヌバタマが尋ねる。

「国産云々というより、産地が分かる事によって、特質を理解できるのが大事だね。……その特質に合わせて、機械じゃなく手で炊き上げるわけだ」

「こだわって作っているんだ……」

「……丁寧・堅実を心掛けているよ。あとは、アクにもこだわっている。アクは全て取るのが一般的なんだけれど、これは外国人の舌も考慮したもので、昔はアクを残していたらしい。……依頼者からは、参加者は全員日本人だと聞いているから、あえてアクを残して古き良き餡を目指したり……あとは……いや……」

 

 

 好きな事なら舌が回るのか、小谷は矢継ぎ早に語り続けたが、ふと、途中で電源が切れたように黙ってしまった。

 喋り過ぎた自分に気づいて、恥ずかしくなったのだろうか。理由は分からなかったけれど、代わりに千尋が言葉を挟んだ。

「それだけ手間をかけているのに、どこがいけないんですか?」

 小谷は静かに顔を左右へと振る。

「……普通すぎる。本当はもっと冒険しなきゃいけないんだ」

「普通……駄目なんですか?」

 と、ヌバタマ。

「駄目というわけじゃないが、他にも……いや、愚痴だな。忘れてくれ」

 小谷は、はっきりとそう言ってのけた。

 どうにも、あまり良くない時にお邪魔してしまったような気がする。

 会話も潮時だったので、今日はここでお暇する事にし「また今度買い物に来る」と告げて店を出る。

 ヌバタマが話を切り出したのは、船着き場へ歩き出して、すぐの事だった。

 

 

「……力に、なりたいですよね」

「うん?」

「小谷さんの力に、です。何に詰まっているのか分かりませんでしたけれど……凄く困っているようでした」

 活舌の良い声だった。声同様に、黒く大きな瞳には力が篭っている。

「そうだったな」

「ねえ、力になってあげましょうよ、千尋さん」

「ううん……」

 千尋は腕を組みながら唸った。

 

 おせっかいにならないかな、という心配がある。

 人の悩みに対しては、千尋としては多少思うところがあるのだ。茶道を始める前の自分なら、深入りした結果、小谷に迷惑をかける可能性を恐れただろう。

 今では、恐れは克服している。でも、気を遣わなきゃいけないのに変わりはない。

 関わらないのが、一番楽。

 関わらないのが、一番無難。

 だけれども――

 

「どうでしょうか?」

「……まあ、いいさ」

 ボリボリと頭を掻きながら、投げやりに言う。

 昔は、自分を押し殺す為に使っていた口癖だった。

「いいさって、どっちなんです? どうでもいいさ? やってもいいさ?」

「……言わなくても分かるだろ、そんなの」

 そう答える千尋の口の端は、くっきりと上がっていた。

 

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

 

 立島真樹子が、本当に夜咄堂に遊びに来てくれた。

 その日の午後は客が少なく、自室で趣味の野球雑誌を眺めていたところ、ヌバタマが「この間の女性が来ていますよ」と喜び勇んで教えに来たのだ。

 身だしなみを整えて客席に出ると、確かに四人掛けテーブルに知った顔があった。それも二人。

 立島真樹子の向かい側には、先日彼女の店で、花入をナイスキャッチしてくれた男性が座っていたのだ。

 

「立島さん! それに、この間の……」

「来ちゃいました」

「おー、俺も来たぞー!」

 立島と男性は、にこやかに返事をしてくれた。

 立島が近々結婚するという話を踏まえれば、二人の間柄にも予想は付く。千尋がぺこりと一礼すると、頭を上げるのを待ち構えて、男はにっと歯を見せた。

 

 

「真樹子の婚約者だ。(ゆたか)と呼んでくれ。名字で堅苦しく付き合うのは嫌なんだ」

「豊さん、ですね。ここの店主の千尋です」

「うん。店主、今日は花入を割らないようにな」

「うっ、それは……」

「はっはっ! 冗談だ。それよりも若いのに店持ちなんて凄いな。頑張ってな」

 豊は腕を組みながら笑った。なかなかに気持ちのいい男だった。

 

「店持ちなのは豊さんもでしょ。……あ。彼、和菓子職人なの。結婚したら東京で店を持つのよ」

「東京で……豊さんこそ、凄いじゃないですか」

「……俺は恵まれただけだよ。それより、良かったら茶室で一服、いいかな?」

 恵まれた、が意味するところは分からなかったけれど、それよりもお茶だ。

 今日は運良く、午前中に諏訪が来て、茶室での一服を所望済だったので、使っていた道具を少しは流用できる。一も二もなく頷いた千尋は、ヌバタマに一階の番を頼んで、二人を二階へと案内した。

 

 

 

 ――夜咄堂の二階には、六畳の茶室と、茶事の準備をする為の水屋(みずや)がある。

 当然、客が入るのは茶室だけだ。客席側に敷いた緋毛氈(ひもうせん)に二人が座した後で、水屋で準備を整えた千尋が入室し、早速茶事に取り掛かった。

 だが、今日はどうにも調子が悪い。茶を点てるのには支障がないけれど、釜の蓋を倒したりといったドジを、何度か踏んでしまう。

 それでも二人の客は、全く気にする事なく、茶室の空気を楽しんでくれているのは幸いだった。

 いや、客が寛大だったわけで、こんな調子じゃいけない。そんな反省の念を抱きはするが、反省会は後回しだ。

 千尋はただただ目の前の茶に集中して、ようやく二人に茶を出す事ができた。

 

「お茶をどうぞ」

「頂戴致します」

「おー。ありがと」

 差し出した茶碗を二人は煽り、そして顔を見合わせて笑い合った。

 なんとも、お似合いのカップルなのである。

「いやー、うまいな。千尋君はお茶を始めてどれくらいになるんだ?」

「半年ほどでしょうか」

「半年!? たった半年で、店もお茶も、ちゃんとできるようになったのか?」

 空いている手を強く握りしめながら、豊が言う。

 確かに、驚かれるのも当然の話かもしれない。それが成せたのは、付喪神という裏技のお陰でもあったのだが……さすがに裏技を口走るわけにはいかない。

 

 

 

「元々は亡くなった父の店で、基盤はありましたから。心強い従業員もいますし」

「それでも大したもんだよ。自分で店を背負っていく気概がなきゃ、できないぜ」

「豊君も見習わなきゃね」

 と、立島が言う。

 豊は何も返事をしなかったけれど、神妙な顔付きをしていた。

 なにかあったのだろうか。聞いた方が良いのだろうか。

 点前(てまえ)を止めて考え込みかけたが、結局は豊の方が、ゆっくりと口を開いてくれた。

 

「……俺さ。さっきも言ったけれど、店を持てたのは恵まれただけなんだよ。要はパトロンだ」

 豊が、どこか呆れたような口調で言う。

 彼の手は、未だに強く握りしめられていた。千尋まで体に力が入ってしまう。

 

「俺、元々は尾道の和菓子職人だったんだよ。仕事観の違いで家族とトラブって、東京に駆け落ちしてね。そこで、もう一度和菓子職人として修行していたんだ」

「ええ」

「そしたら、修行先の大旦那さんが、俺の和菓子を『独創的だ』と気に入り、独立の為に色々と助力してくださって、今に至るってわけさ」

「豊さんの和菓子が評価されたわけですね」

「そーいう事になるが……。普通はさ、長期間、和菓子も経営も勉強した上で、店を持つもんだ。それが、運良く評価されたお陰で、三十歳手前で東京に店を持つ事になったもんで……ま、ちょっと自分の和菓子に自信がないってわけだ」

 豊は、また歯を見せて笑う。

 階下で見せた表情と同じなのに、今度は力がないような気がしてならなかった。

 

 

「千尋君は、不安とかないのか?」

「ないわけじゃありませんが、俺は一人じゃないですから。大事な二人の従業員と……あと、たまに遊びに来る犬が、支えになってくれています」

「大事な人達みたいだな」

「家族の様なものです」

「家族……か」

 豊の深い嘆息が、茶室に行き渡る。

 しまった。そういえば、家族とトラブったらしいじゃないか。

 地雷を踏んでしまった様で、千尋は慌てて話を変えた。

 

「そういえば……この間、向島の赤備という和菓子屋に行ったんですよ。あそこの店長さんも若いのに頑張っていますし、何か参考になるかも……」

「兄貴の店に……兄貴、元気なのか?」

 豊がはっと顔を上げた。

 先程までの消沈ぶりとは対照的に、顔色は良かったような気がするけれども、よく分からない。なにせ、彼はすぐに顔を背け、立ち上がってしまったのだ。

「い、いや! 兄貴なんか……! 悪い、今日はもう帰る!」

「豊君、ちょっと!」

 豊が茶室を飛び出すと、立島も慌てて膝を起こす。

 彼女は立ち上がる前にためらう素振りを見せたものの、結局は深々と頭を下げ、豊に続いて出て行ってしまった。

 

 

 

 残されたのは、突然の退室劇に唖然とする千尋だけである。

 一体、今の豊の反応は何だったのだろうか。

 ……いや、ちょっと考えれば、察しが付く。

 豊はおそらく、小谷春樹の親族なのだ。

 つまりは、小谷春樹と喧嘩か何かをして、東京へ出たんじゃないだろうか。

 

「……あっちゃあ。やっちゃったな」

 自分をとがめるように、側頭部をピシャリと叩いて溜息を付く。和菓子職人と言われた時点で、なぜピンと来なかったのだろう。もうちょっと、考えていれば……、

「千尋さーん!」

 ふと、元気な声と共に、階段をパタパタと駆け上がる音がする。

 慌ただしく茶室に入ってきたのは、下の番を頼んでいたヌバタマだった。

「……豊さん達、出ていったよな?」

「凄い勢いで退店されましたが、それよりも! これ、この、すまーとほん?」

 ヌバタマの手には、一階に置いていた自分のスマホが握られていた。

 それが、手の中でブルブルと震え続けている。着信中のようだった。

 

「あっ。貸して」

 ヌバタマからスマホを受け取ると、モニターには「和菓子屋 三笠(みかさ)」と表示されている。父の代から贔屓にさせてもらっている、商店街の和菓子屋だった。

「はい、若月です」

「ごきげんよう。三笠だ」

 老齢の三笠氏の声が耳元に届く。元々落ち着きのある語り方をする人だったけれども、少し電話が遠いのか、今日は特に声が小さい気がした。

「突然電話してすまないね。話しておく事があって」

「どうされました?」

「実は……近々、店を畳むと決めたもんでね」

「……そう、ですか」

 

 それだけしか言葉を捻り出せない。

 体調不良からくる隠居の可能性については、前々から聞いていた話だった。ついに決断したというわけだが、分かっていても、その宣告は残念でならない。

「悪いなあ、千尋君。本当にすまない……」

「お気になさらないでください。それよりもお体をお大事になさらないと」

 そこに相手がいるかのように、千尋は左手を横に振りながら話す。

 とはいえ、少しまずい事になった。

 千尋の父は、店で出す物には一切妥協しない人で、そんな父が見出した三笠老人の和菓子は、超一級品だった。

 代わりを務められる和菓子店なんて、そうそうあるわけがないのだ。その辺のデパートで仕入れてきたところで、味の違いは明確だろう。

 その悩みを声には出さないように努めていたのだが……年の功で察したのか、それとも元々提案するつもりだったのか、三笠老人は謝るのをやめると、一変して明るい声で話を続けた。

 

 

 

「それでだね。もちろん決めるのは君だが……実は、代わりに推薦したい和菓子屋があるのだよ」

「えっ、本当ですか?」

「向島の赤備という店だが、知っているかね?」

「……小谷さんの店ですよね?」

 縁深い名が出てきて、千尋はつい早口で確認してしまう。

 ついさっき、口走った店名なのだ。縁とはどこまでも続いているものである。

 

「左様。あそこの先代、(たすく)君とは知り合い……いや、熱いライバルだったのだよ」

「なんだか、燃える間柄だったんですね。意外だな」

「おやおや、何を言うかね。私だって昔は……いや、昔話はどうでもいいね」

 三笠は苦笑し、なおも語る。

「肝心なのは匠君だ。彼は私の子ほどの歳だったけれども、熱意を燃やすのには些細な事だった。互いに相手の和菓子を研究し、高め合ったものだよ。……残念ながら匠は早死にし、今は三十歳そこそこの息子さんが店長だが、彼もいい和菓子を作る。私に言わせれば、ちとまだ堅実すぎるところはあるが、それでも他店よりよほどいい」

「ああ、やっぱりそうなんですね」

「やっぱりとは?」

「実は最近、その小谷さんと知り合ったんです。言われるとおり、美味しい和菓子でしたから」

「なるほど。こりゃ、私がでしゃばる必要はなかったな」

「いえ、もちろん三笠さんの気遣いも嬉しいです。ありがとうございますね」

「気にする事はない。……夜咄堂、頑張りたまえよ。私も引退はするが、困った事があればいつでも力になるよ」

 三笠老人は満足げな声でそう言った。


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