季節によって、釜の扱い方は大きく違ってくる。
暖かい季節では部屋の隅に風炉という台を置き、風炉の中で炭を燃やして釜を掛けるのだが、寒い季節になると風炉は置かない。代わりに、畳の一部に炉と呼ばれる穴と炭火を設けて、その上に鎖で吊るされた釜がくるのだ。
理由は、単純明快。気候に合わせて客と火の距離を調整する為である。これもまた、茶道の気遣いの一つなのだ。
先日の稽古で、この事をヌバタマから聞かされた千尋は膝を打ち……だが、暫し考え込んだ後、細い目を一層細めて、露骨に嫌な顔をした。
つまりは、風炉用と炉用、二種類の点前を覚えなくちゃいけない。
それが嫌というわけではない。夏までの千尋ならともかく、今なら望むところだ。
ただ、スタートに戻る感が、なんともしんどいのである。
「座る位置とか、柄杓の捌き方とか、全然違うもんなあ。上手くできるかな……」
茶室の前で小さくぼやきながら、これから見せる点前を脳内でシミュレーションする。
炉手前の稽古は、まだ取り組みだしてから一か月程度。不安は残るけれど、ここまで来たらやるしかない。
「千尋。そろそろ」
横で控えているオリベが声を掛けてくる。
菓子を出し、そして「力」を使う為に、彼はこの茶席には欠かせないのだ。
「ええ。宜しくお願いします」
オリベに一礼をしてから居住まいを正し、静かに障子を開ける。
畳六畳の茶室は、真ん中に炉が掘られている。春夏の頃は正方形の畳で覆っていたスペースだ。
炉の真上にある釜は、蓋の隙間から濃い煙を立ち昇らせている。その煙の向こう側に敷かれた緋毛氈の上では、迫田と孫娘が正座をして千尋の方を見ていた。
茶事の始まりの挨拶をして、千尋は茶碗や抹茶容器の棗を手にし、茶室へ入って釜の前に正座する。
「なかなか、暖かいもんじゃの」
「今朝は寒かったので、炭は、気持ち強めに燃やしています」
迫田へにこやかに返事をして立ち上がり、今度は余分な水分を捨てる為の建水や柄杓も持ってくる。
そうすれば、いよいよ茶事の始まりだ。
まずは、茶碗や茶杓、棗といった茶道具を清める。拭くのではなく、清めるつもりで、一つ一つ気持ちを込めて扱っていく。
その後で、棗の中に入っている抹茶を茶碗に移す。大別すれば、茶を点てるまでの手順は、この二つに分けられる。
柄杓を薙刀のようにくるりと回し、釜から湯をすくって茶碗に移せば、後は茶筅で攪拌して薄茶を点てるだけだ。
その間に、オリベが客の前に茶菓子を運び終えている。
迫田は相変わらず仏頂面ではあったけれど、ケチは付けずに食べてくれた。
ここまでは、よし。
なのに、自分がミスするわけにはいかない。備前焼の茶碗に湧き始める気泡を凝視しながら、千尋は一心不乱に茶筅を振り……なんとか、お茶を点て終えた。
「どうぞ」
まずは正客である迫田に向けて一声かけ、茶室の中央に茶碗を置く。
それをオリベが迫田の前に移すと、迫田は小さく頷いて茶碗の中身を喉へと流し込んだ。
「お加減、いかがでしょうか」
「……ちょっと熱いが、まあ、ええわい」
「恐縮です。……宜しければ、そのお茶碗の話をさせて頂けませんでしょうか?」
「好きにせい」
「それでは、お言葉に甘えまして」
また迫田に一礼をするが、話の前に、まずは迫田の孫娘へも茶を点てて差し出す。
それを運んだオリベと、一瞬だけ目が合うと、彼は目配せをしてみせた。
どうやら、オリベも準備は万端のようである。
オリベが茶碗を運び終えた後で、湯が冷めないよう釜に蓋をしてから、千尋はこの日の為に覚えてきた口上を述べた。
「今日、お二人が使っているお茶碗は、備前焼と言います。その名の通り、お隣、岡山県の備前市を中心に焼かれている焼き物ですね」
「うむ」
「実は、備前焼にはある特徴があるんです。これは、緑釉……茶碗の絵具のようなものですが、緑釉を掛けないんです。他の焼き物とは違って、粘土を焼くだけで作っているんですよ」
「味気ない茶碗って事か?」
迫田が頬を歪め、早口気味で尋ねてくる。
「まあ、そう見られてしまうのも無理はないかもしれません。備前焼は日本六古窯の一つでもあり、約千年の間、そのスタイルを崩さずにやってきました。なので、華やかな色合いとは無縁の焼き物なんです。……でも、私はそれで良いと思います。備前には備前の良さがあるんですから」
「………」
「この茶碗は、何よりも土の良さを感じる事ができる。そして焼き加減からくる色むらという自然の美しさを楽しめる茶碗です。それに、とても硬くて実用性にも優れている。もちろん、他の焼き物には他の焼き物の良さがあります。そして、備前には備前の良さがあるんです」
そう告げて、迫田が目の高さで掲げている備前茶碗をじっと見つめる。
柿色をしたそれは、上部と下部で色むらができていて、どこかおどけたような土味を見せている。
表面は、見た目どおりに硬く焼き締められていて、迫田が今の場所から落としても割れる事はないだろう。
「新旧は、関係ありません。焼き物にはそれぞれの良さがあるんです。……それはきっと、焼き物に限った話じゃありません」
最後にそう言いながら、備前焼特有の良さを強く意識する。
同時に、物言わずに茶碗を見つめている迫田、彼の持つ悩みを、備前焼に照らし合わせていく。
茶の良さと、客の悩み。
そして、客をもてなす千尋と、付喪神の存在。
これこそが、夜咄堂と店の付喪神に備わる不思議な力……『日々是好日』の条件――
「この茶碗にも、良さが……」
ぼそりと呟いた迫田の顔が揺らぐ。いや、揺らいだように見える。
同時に、備前茶碗を中心として暖かな光が広がり、それはすぐに消えてしまう。
『日々是好日』……それは、客の感受性を著しく高める効果を持ち、そうする事によって、千尋と付喪神が作り出した茶道の良さを、深く感じてもらう為の力だ。
不可思議な状態は瞬く間に収束し、茶室の空気は元に戻ってしまう。
だが、力を発動する前と比べると、大きな違いが一つある。
その違いがちゃんと生じたかどうかを、千尋は真っ先に確認し、そして一安心した。
気難しそうな顔をしていたはずの迫田が、昔を懐かしむような温和な表情になっていたのだ。
「備前には備前の良さ、か……。わしが描いてきた絵本にも、それなりの良さが、あったのだろうか……」
迫田は、ゆっくりとした口調で、何かを噛みしめるように語る。
備前焼の良さが転じて、絵本の必要性という迫田の悩みを解消してくれたのだ。
「私のような若輩者には、迫田さんの絵本を云々とは言えません。ただ……」
千尋は、心穏やかに語る。
「………」
「迫田さんの絵本で育った方は、お隣にいますよ」
「……隣に?」
迫田の首が、そよ風で流されたかのように横を向いた。
隣に座る迫田の孫娘もまた、同じ様に迫田を見ていた。
何を語るでもなく。
何を訴えるでもなく。
二人の視線が交差する。
「……ふっ」
「……ふふふっ」
笑い声が漏れたのは、どちらからだっただろうか。
一度零れてしまえば、それは湯に溶ける抹茶のように、茶室中へと浸透していくのであった。
◇
茶事を終えた迫田は、すぐに階段を下りなかった。
満足げな表情で階段の前までは来たのだが、ふと立ち止まると、おもむろに天井を仰いたのだ。
どうしたのか、と迫田の孫娘が話しかけてもすぐには反応を示さず、やがて振り返った彼は、力なく視線を床に落とした。
「お爺ちゃん、本当にどーしちゃったの?」
「……ちょっとな。考え事をな」
消えてしまいそうな声を漏らし、迫田はまた前を向くと、一段、一段、ゆっくりと下りながら話を続けた。
「わしの絵本は、何も卑下する必要はないものだ……ゲームやらすまーとほんにも、そして絵本にも、それぞれの良さがあるからな……」
「なら、もっと元気出したらいーじゃない」
「……わしは、そう思う事ができたし、実際そういうものだとも思えるようになったさ。……でも、子供達は違う。また絵本を作ったところで、受け入れられないんじゃないか、と思ってな」
「……なるほど」
彼女から、迫田を励ます言葉は出てこなかった。
千尋は、それを意外とは思わない。自身もまた、迫田に声を掛けようとはしなかった。
二人とも、分かっている。
その事で迫田をもう一度励ますのは、自分達の仕事ではないのだ。
「さて、帰るかの」
迫田は語るのを止めて、階段を下りるペースを速める。
一階に戻り、そこから玄関へと歩を進め……られない。
物理的にも、そして心理的にも。
狭い一階では、ヌバタマと十数名の客がぎっしりと詰めかけて、階段を取り囲むように立っていたのだ。
「こ、これは……?」
突然の出来事に、迫田は唖然としながらも声を漏らす。
「迫田のお爺ちゃん、ありがとうございます。……そして、ごめんなさい」
男性が、群衆の中から一歩前に出て迫田に頭を下げる。
その姿を認識した迫田の目は、僅かに大きくなった。
「あんたは……もしかして、清水さんところの坊ちゃんかい?」
「ええ。十五年……いや、二十年ぶりくらいですよね。小さい頃はよく絵本を読み聞かせてもらいました、清水のボンです」
「あ、ああ……だが、ありがとうとは?」
「迫田さん、これまでありがとう、今後も頑張って……って事です」
清水はそう言いながら、他の面々を見渡す。
「考えてみたら、わざわざ絵本を作ってもらっていたのに、お礼なんてその場だけでしたから。だから今日は、迫田さんに可愛がってもらった皆が集まって、お礼を言う為のパーティーを開こうと思って、お店を貸し切らせてもらいました」
「皆……? あ、ああ……本当だ。本当に……」
清水同様に、集まった人々を一瞥した迫田の口元が震える。
暖かかな目つきで迫田を見守るこの人々は、皆、迫田の絵本で成長したのだ。
時間は、経ってしまったかもしれない。
それでも、確かに迫田は、受け入れられたのだ。
「でも、俺だけは、謝らなきゃいけません。……もう一度言います。ごめんなさい」
清水が、また頭を下げる。
それを受けた迫田は、背伸びをするようにして清水の両肩を叩き、そっと首を横に振った。
どうやら、上手くいったようである。
千尋がヌバタマをちらと見ると、彼女は目端を緩めてアイコンタクトを送くってきた。
迫田の孫娘に協力してもらい、皆で手分けして、当時の子供達を集めるのは、対象者の引っ越しや就職もあって、容易な事ではなかった。
特に、迫田のトラウマのきっかけとなった、絵本を批判した少年……清水を探してくるのには、苦労した。
それだけに、千尋としても、この成功には大いに安堵できるものだった。
……いや、千尋やヌバタマだけではない。
「じーさん。……あー、えっと……」
人垣の中から、ひときわ小柄な女性が割って前に出てくる。
照れくさそうに頭を掻きながらも、しっかりと迫田を見つめるその女性……岡本千紗は、少しだけ首を前に倒した。
「お前さん、この間の」
「ああ。岡本ってんだ。……その。話、聞いたんだ。あたしも物作りは好きだからさ。じーさんが辛かったのは理解できるよ」
「そうか。お前さんも……」
「でもさ。いいもんは、いつでもいいもんだと思うよ。今だって、じーさんの絵本、欲しがる子はいるんだからさ」
岡本がそう言うと、清水の下半身に隠れるようにして、まだ五歳くらいの女児が前に出てきた。
清水が、俺の子です、と話して女児の背中に触れると、それに弾かれたかのように、女児は迫田の目の前まで来る。
女児の胸元では、古い絵本が抱きしめられていた。
「お爺ちゃん。この絵本、お爺ちゃんが作ったの?」
女児は上目遣いで迫田に尋ねた。
千尋は、その答えを事前に聞いている。
迫田が批判された、あの時の本だ。
「……そうだよ。お嬢ちゃんのパパが、お嬢ちゃんくらいの頃、作ってあげた本さ」
迫田は、優しく諭すように語る。
だが、彼の瞳は大いに潤んでいた。
「とっても面白かったよ! また、続き、描いて!」
元気にそう言い切った女児は、にぱっ、と笑顔を浮かべる。
一方、迫田の顔は、もうくしゃくしゃになっていた。
ぼろぼろと涙を零し、皴まみれの顔は大いに歪んでいる。
「……わしは……まだ、わしは、必要だったんだな……」
「お爺ちゃん、泣いてるの……?」
女児が不安げに、迫田を揺らしながら尋ねた。
その不安が、迫田にも伝わったのだろう。
彼は、まだ涙を止める事はできなかった。
それでも、頬を緩ませ、そして――
「いや、大丈夫、大丈夫だよ。……ああ、続きを描こう。いつまでも、描き続けるさ……」
泣き笑いの顔で、はっきりとそう誓ってみせた。