尾道茶寮 夜咄堂   作:加藤泰幸

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番外編『老人の絵本 その五』

「……ところで千尋さん。あれ、何でしょうか?」

 先に迫田から視線を切ったヌバタマが、いつもよりは、やや狼狽の色が残る声で店内を指差す。

 その先、入り口付近のカウンターには、店外から差し込む日差しに照らされるように、本が置かれていた。

 近づいて手に取ってみると、二十ページほどの横長の絵本だった。表紙には手足が生えて顔のあるりんごが描かれていて「りんごくんのぼうけん」と題してある。

 

「絵本、みたいだな」

「なんでアイス屋さんに絵本があるんでしょうかね」

「さあ」

 首をすくめて答えながら、本の中身を流し読む。

 りんごくんが、やさい王国に届け物をするという話で、やさい王国の正体は八百屋だったという、オチているのかいないのか、よく分からない話だった。

 ヌバタマも千尋の隣で中身を眺めていたが、感想こそ口にしないものの、彼女の頬はほっこりと緩んでいる。

 だが、千尋はストーリーよりも別のところが気にかかった。

 この絵本、どうも紙が貧弱なのだ。ページは市販のボール用紙で作られているようである。それに、最後のページを開いても奥付がなかった。

 

「この本って、もしかして……」

「ええ。お爺ちゃんの手作りなんですよ」

 聞き覚えのない声が答えを返した。

 顔を上げると、三十代くらいの女性店員がニコニコしながら千尋を見つめている。そばかすが目立ったが、しかしそれが素朴な魅力を醸し出している女性だった。

「あ……勝手に読んだりしてすみません」

「ううん。そうして読んでもらえた方が、お爺ちゃんも喜ぶから」

「お爺ちゃんと言うと……さっきの迫田さん、ですよね?」

「そうよ。店をほっぽって子供に付き添ったあの人が、私のお爺ちゃん。ちょっと無責任よねえ」

 女性は苦言を呈しながらも、軽やかな足取りでカウンターから出てきて、絵本の前に手を出した。

 千尋が反射的に絵本を手渡すと、彼女は遠い目をしながら、一ページ、一ページをゆっくりとめくりだす。

 

「お爺ちゃんね。絵本を作るのが趣味だったんだ」

「これもお爺さんが作ったんですね。上手ですし、ほんわかしていて、いいですね」

 と、ヌバタマが嬉しそうに言う。

 しかし、千尋は腕を組みながら、女性を見つめる。

 絵本よりも、彼女の言葉が気になる。どこかしら、引っかかるものがあるのだ。

 

「ふふっ、ありがと。さっきも見てのとおり、お爺ちゃんは小さい子が大好きでね。私が小さい頃はよく絵本を作っては読み聞かせてくれたわ。ううん、私だけじゃない。近所の子にも作ってあげてね。評判は良かったし、お爺ちゃんの読み聞かせがまた上手だったから、お爺ちゃんに会いたくて遊びに来るような子もいたわ」

「あの迫田さんが、ですか」

「意外よね」

「あ、いや……」

 自身の失言に、千尋はつい目を逸らしかける。

 だが、女性はまったく不快に思っていないようで、内心胸をなでおろした。

 

 

「お爺ちゃんが近所でよく言われていないのは分かってるわ。と言うより、場合によってはお爺ちゃんが迷惑になるだろうから、私からも注意しているんだけれど、なかなか……ね。ごめんなさいね」

「いえ、迫田さんが正しいですから」

「ううん。半分くらいは八つ当たりなのよ。……二十年くらい前からかしらね。お爺ちゃんの絵本が、好まれなくなっちゃったのよ」

 女性はそう言って千尋らに背中を見せると、パタリと本を閉じてカウンターに戻した。

 なぜだろうか。

 その背中は、どこか小さく見えてしまった。

 

「……もう、絵本の時代じゃなくなっちゃったの。子供は外で遊べるゲーム機に大熱中。それはそれで楽しいし便利だし、良い物だと思うわ」

「そうですか? 情操教育には今でも絵本だって必要だと思いますけれど」

 千尋はやや大げさに被りを振った。

 さっき読んだ絵本だって、話の面白さはよく分からないけれども、ヌバタマが笑っていたのだから、きっと純粋な心には響くはずだ。

 それに、物のよしあしは、媒体には影響されないはずだ、とも思う。

「ありがとう。でも……」

 女性はなおも振り返らずに、重々しく天井を見上げた。

「……お爺ちゃん、それでもめげずに絵本を作っていたわ。でも一度、子供からはっきり言われちゃったのよ。『ゲームの方が面白い!』ってね。……あの時の茫然としたお爺ちゃんは、見ていられなかったわ」

「そんな……」

 ヌバタマが絶句するような声を漏らす。

「それ以来ね。お爺ちゃんが、ゲームとか、近年だとスマホなんかにも目くじらを立てるようになったのは」

「そう、でしたか……」

 千尋も、それ以上の言葉は繋げなかった。

 

 これまで笑いかけてくれた者に、首を横に振られたら。

 いつもそこにあると思っていた笑顔が、消えてしまったら。

 迫田の心境を想像するだけで、胸に切なさが吹き荒れてしまう。

 絵本を作らなくなってしまうのも、無理はない。

 だが、それでも、老人は子供には愛情を持って接していた。

 彼は、寂しくてたまらないのだ……。

 

 

 

「……千尋さん」

 ふと、ヌバタマが目を微かに潤ませながら、服の裾を引っ張ってきた。

 千尋は、彼女を励ますように、大きく、そしてゆっくりと首を縦に振る。

 

「そうだな。俺達が……」

 

 俺達が、あの力を使って癒してあげよう。

 

 その言葉を途中で飲み込んだのは、近くにいる女性店員に、力を隠す為だけじゃない。

 力を使えば、迫田に絵本の良さをもう一度認識してもらう事はできるだろう。

 でも、同じような事を言われれば、また彼は傷つくかもしれない。

 

 迫田の心に踏み込むあと一歩……。

 その答えは、唐突に千尋の頭の中に湧いて出た。

 

「……あの人の力も、借りなきゃな」

 

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

 

「なんじゃい。わしを締め出す気か」

 門前に出している、店案内用の小さな黒板を見た迫田老人の言葉は、意外にも喚き声じゃなく、どこか投げやりなものだった。

 

 考えてみたら、迫田がそう勘違いするのも無理はない。彼を茶室に招待したのに、黒板には「本日貸し切り」の文字が書かれているのだ。

 確かにこれは失敗だったと反省しつつ、千尋は手にしていた竹箒を板壁に立てかけ、頭を下げた。

「あー、いえいえ、これは他のお客様に向けたもので。迫田さん達はどうぞ、店内にいらして下さい」

 そう告げて、右手を門の奥へ伸ばし、迫田……そして、同伴している彼の孫娘を招く。

 

「ふん。こいつが『どうしても行こう』と言うから来ただけなんじゃ。別に帰っても構わんのだが……」

「お爺ちゃん、そう言わないで。せっかく夜咄堂さんが、お爺ちゃんの為にお茶を出してくれるって言うんだから」

「……茶を飲んだら、さっさと帰るからな」

 苦笑する孫娘に表情を見られないよう、迫田はぷいとそっぽを向く。

 子供っぽい仕草に、つい千尋まで笑みを零してしまうところだったが、なんとかそれは堪えた。

 こんな人だからこそ、絵本で子供を笑顔にしてきたのかもしれない。

 

 スマホ爺の裏の顔を認識しつつ、千尋は二人を先導して夜咄堂の中へと入っていった。

 四人掛けのテーブル二つと、窓際の二人掛けテーブルが二つ、それにカウンターでいっぱいになってしまう一階は、お世辞にも広いとは言えない。

 だが、瀬戸内海や尾道大橋、それに千光寺山の麓から山頂に伸びるロープウェイを一望できる景色だけは自慢で、狭さを引いてもお釣りがくる魅力がある。

 だが、この日用事があるのは、二階である。

 

 床板をきしませながら二階への階段を上がりきった千尋は、すぐ傍にある茶室を一瞥した。

 ()(じく)に花入に花、それに、部屋の中央に垂れ下がっている鎖と、鎖に掛かっている釜。必要な物は既に揃っている。

 目だけを動かして、茶室隣の水屋(みずや)を見ると、中から顔を出しているオリベが親指を突き立てていた。

 どうやら、準備に抜かりはないようだった。

 

 

「どうぞ、お二人はこの中へ」

「なんじゃここは。茶室かね?」

 千尋に続いて二階に上がってきた迫田が、物珍しそうに室内を覗きながら尋ねてくる。

 迫田の孫娘には事前に説明をしていたとはいえ、彼女も、おそらくは滅多に見ないであろう茶室には興味があるようで、同じように室内を見ていた。

 

「ええ。実は、今日は迫田さんにお抹茶セットを振舞いたくて。せっかくだから茶室で頂いてもらおうかなと」

「ふぅん。古めかしい事をするの」

「お嫌、ですかね?」

「そうは言うとらん」

 迫田は相変わらずぶっきらぼうにそう言い、室内に入って緋毛氈(ひもうせん)の上に正座した。

 孫娘もそれに続くと、千尋は廊下に正座し、二人に頭を下げてから障子を静かに閉めた。

 

 障子を隔ててではあるが、一人になると、階下の様子が気になってしまう。

 だが、今頃は台所で料理に取り組んでいるヌバタマがなんとか(・・・・)してくれるだろう。

 それよりも、まずは自分が迫田をもてなさなくちゃいけない。

 千尋は小さく深呼吸して、水屋に他の茶道具を取りに行った。


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