夜咄堂の茶室でお抹茶セットを欲しがる客は、あまりいない。
なので、一階の客への対応が普段の仕事となるが、この仕事は二種類に分けられる。
喫茶スペースで接客を担当するのは、オリベとヌバタマの付喪神ペアだ。もっとも、オリベは面倒臭がって千尋の部屋でサボりたがるし、接客が好きなヌバタマも、オリベに文句こそ付けるけれども、最後には自分で全部こなしてしまう。なので、オリベが働くのは店が忙しい時くらいだろう。
そしてもう一種類の仕事、厨房の担当は店長の千尋である。提供する飲食物は、菓子屋で仕入れたケーキや、注ぐだけのジュースといった極めて簡素なものだけれど、衛生面で万が一が起こってもいけないから、他人には任せられない仕事だ。
だが、千尋も暇な時は厨房には立たない。彼の場合はサボっているわけではなく、暇を見ては自室でやらなくてはいけないことがあるのだ。
「ヒャッヒャッ……」
「……えっと、マルクスが……ううん……」
「ヒャッヒャッヒャッ! スウェーデンって! スウェーデンだって!」
「……むう」
ノートに向かい合ってうんうん唸る千尋の声を、オリベの笑い声がかき消す。
千尋はペンとノートを離し、勢いよく椅子から立ちあがると、室内で寝転がって漫画を読んでいるオリベにツカツカと詰め寄った。
「ちょっと、オリベさん!」
「ヒャッヒャッ! あ、千尋。どーかしたかね?」
「勉強してるんですから、少しは静かにしてくださいよ!」
「あー、すまんすまん。じゃあ厨房で読むとするか」
「そーしてください。俺、テスト近いんですよ」
「でも千尋。勉強とやらが終わったらお前も読むといいぞ。このギャグがな。スウェーデンがな……ぷくく……」
軽く頭を下げるものの、すぐに漫画の内容を思いだしたようで、鼻ヒゲごと口を緩めてしまう。
左右非対称の色合いで幾何学模様が描かれた和服を纏うオリベは、その見た目同様に、いつも自由気ままなのだ。
「まったく……。百年以上生きている付喪神がそれじゃあ、威厳も何もあったもんじゃないですよ?」
「私は自由を愛する
「はいはい。それより早く出てってください」
「なーんじゃい。相変わらずお堅い奴だなあ」
口をとがらせながら、オリベは漫画を片手に部屋から出る。
やっと静寂が訪れると思ったのも束の間、しかしオリベは、千尋が椅子に戻らないうちに、扉の隙間からひょいと顔だけを覗かせた。
「……まだ、何か?」
「千尋。喫茶スペースにいるお客さんがいるのは知っとるかね」
「大学の
追加注文があれば、厨房の仕事に戻らなくてはいけない。
なので、そう確認はしたものの、早口気味のオリベの声には、何か別の問題の可能性がうっすらと漂っていた。
「いや。なんだか言い争うような声が聞こえる。その二人じゃないだろうかね?」
「まさか」
「だが、ヌバタマの声じゃないぞ。様子を見てこようかね?」
「……いえ、俺が行きます」
早口で返事をする。
無意識のうちに大股になりながら、オリベの横を抜けて喫茶スペースに通じる扉に手をかけた。
もうその時点で、確かにヌバタマではない喧騒が耳に届いてくる。奥歯を噛みしめて顔をこわばらせつつ、思いきって喫茶スペースに入ると、そこには案の定の光景があった。
「だーかーら! あたしがスマホいじるのを止める権利、じーさんにはないっての!」
「お前の為を思って言っとるのに、何を言うか!」
「何があたしの為なのさ!」
「そんなもんタプタプ弄っていると、頭まで機械じみるんじゃ! 食事中くらいはしまっとれ!」
「だから、言ってるじゃん! 百万歩譲って機械の頭になるとしても、あたしの勝手だっての!!」
「なんじゃとチンチクリン!」
「じーさんの方が低いじゃん! スーパーチンチクリン!!」
互いの顔がくっついてしまいそうな距離で、岡本
岡本は成人していながら女子中学生並の低身長だが、老人もほとんど身長差はない。言葉遣いが子供じみている事もあって、傍から眺めれば、どこか微笑ましくも思える口喧嘩だった。
でも、店の主がこの事態を放っておくわけにはいかない。ヌバタマも二人の前でオロオロするばかりだから、ここは千尋が出る他なかった。
「二人ともちょっと落ち着いてくださいよ」
「なんじゃい! 店長はあっち行っとれ!」
「そーだぞ千尋! スマホ爺を懲らしめてるんだから、邪魔するな!」
息の合った反論を受けてしまい、思わず後ずさりしてしまいそうになる。
勢いに飲み込まれて反論の材料を無くしかけてしまったが、ふと、ヌバタマが一層不安そうな表情を浮かべているのが、視界の隅に見えた。
「いやあ、でも……」
「なんじゃい! まだ邪魔をするか!」
「ほら……女の子が困ってますよ?」
「……むう?」
老人は唐突に唸り、次第にばつの悪そうな表情になって目を逸らした。
泣いてこそいないものの、あわあわと口元を震わせているヌバタマを目にして、冷静さを取り戻したのだろう。
狙いどおりではあったのだが、どこか拍子抜けさえもするクールダウンだった。
やがて老人は、ポケットから千円札を取り出して二人掛けテーブルの上に置き、木の床を強くきしませながら玄関へと向かった。
「……チンチクリン! 説教はまた今度だ」
それだけ言い残して、玄関の扉が乱雑に閉められる。
ようやく安堵の息を漏らした千尋は、隣でまだ不安げな表情を浮かべているヌバタマの肩を優しく叩いた。
それでやっと、ヌバタマも小さいながら笑顔を浮かべてくれた。
ヌバタマは、これでいい。
よくないのは、もう一人だ。
岡本が外の向かってアカンベエをしているのを目にした千尋は、今度は口調を強めて声をかけた。
「……岡本さん、何やってるんですか!」
「何って、アカンベエ」
「そうじゃありませんよ! もう……言いたい事、わかるでしょう?」
「そりゃーわかるさ! でもな、千尋! ちょっとあたしの話も聞いてくれよ!」
岡本はそう言うと、肩をいからせながら、座席にどっしりと腰掛けた。
陶芸サークルの先輩がこう言っているんだし、千尋としても事情は聞いておきたいところだ。
他に客もいないから、遠慮なく彼女の対面に腰掛けると、岡本はそれを待ち受けていたかのように口を開いた。
「今の爺さんな。スマホ爺だ」
「なんか、さっきもそんな事言ってましたね。あだ名なんですか?」
「そーだよ。本名は
「じゃあ、さっき口論になっていたのも、それが理由ですか?」
二人のそばに立っているヌバタマが会話に加わってくる。
「そのとーり! 店内で弄ってる時まで怒られる道理はないっての!」
「でも、歩きスマホは危ないですよ」
「そーだとしても、怒鳴るのはないだろ。じーさんってのはこれだから嫌だねえ」
「なるほど。そういう事でしたか……」
顎に手を添えながら、千尋は窓の外を見た。
季節の花が咲く庭の先には、もう迫田の姿は見えなかったが、それでも千尋は迫田に想いを巡らせた。
岡本のいう通りなら、マナーにうるさく我も強い老人。それが迫田だ。
だが、本当にそれだけの人なら、うろたえるヌバタマを見ても引きさがらないんじゃないだろうか。
迫田の言動には、何か理由があるような気がしてならなかった。