尾道茶寮 夜咄堂   作:加藤泰幸

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番外編『老人の絵本 その一』

 人間、誰にだって間違いはある。

 勘違いや伝達ミス、ついうっかりで何かを間違えるのもよくある話だろう。例えば、料理をする人だったら、砂糖と塩を間違えたことが一度はあるだろう、と若月千尋(わかつきちひろ)は思う。

 だから、湯と水を間違えることだってあるのだが……客席に正座する黒髪・黒和服の少女は、間違いに気がつくなり、嬉々として指摘してくるのだった。

 

 

「千尋さん、今のは駄目ですよ。茶筅(ちゃせん)通しは水ではなくお湯。基本中の基本ですよ?」

「あっ、そうだったな。わかってはいるんだけれど……」

「ええ。さすがにこれくらいは分かっていてくれないと。他の動作に集中してて、失敗しちゃいましたね。そういうわけで、もう一度最初からお茶を()てましょう!」

「き、今日はこれくらいにしない? そろそろテレビで日本シリーズがさ……」

「いーえ、もう一回! 今月は『ミスがなくなるまでやる』って標語を掲げたの、千尋さんですよ?」

「……余計なこと言ったな、こりゃあ」

 

 

 頭をかきながら、その少女、ヌバタマの顔をちらりと覗く。

 その視線に気がついた彼女は、肩先で揃えられた艶やかな黒髪をふわりと揺らして微笑みを返してきた。

 贔屓目を抜きにしても、可愛らしいといえるだろう。

 でも、今日ばかりは勘弁してよ、と千尋は思うのである。

 二階の茶室で本格的なお抹茶セットを出す和風カフェ『茶寮・夜咄堂(さりょう・よばなしどう)』の主として、茶道の稽古は重要なものだと認識している。でも、流石に今日だけは茶道から離れたかった。待ちに待った広島カープの日本シリーズ第一戦が、間もなくテレビ中継されるのだ。これを見逃すわけにはいかないと、放送開始の一時間前には稽古が終わるよう予定を立てていたのだが、ヌバタマが言う標語のことをすっかり失念していた。

 

 

 

「……じゃあさ、続きは野球を見終えてからにしない?」

「駄目です! 集中力切れちゃいますよ。それに、録画もしてるんでしょう?」

「そりゃそーだけれどさ。やっぱりリアルタイムで見たいんだよ」

「お稽古の方がずっと楽しいと思いますよ」

「しかし、そこをなんとか」

「だーめ! ささ。千尋さん、ガンバです!」

 ヌバタマが両手でガッツポーズを作り、稽古の継続を催促してくる。

 この茶道熱心すぎるところが珠に傷なのだけれども、尾道(おのみち)から出ることが殆どないヌバタマにとっては、今が数少ない楽しみの時間なのである。あまり邪険にするのも気が引けてしまった。

「……まあ、いいさ」

 額に手を当てて首を横に振りながらも、結局は稽古再開の為に立ち上がる。

 同時に出てきた言葉は、何かを諦めた時に出てくる口癖ではあったが、それを発した口角はにやりと上がっていた。

 

 

 ――今年の春に千尋は、最後の肉親である父を、茶道絡みの事故で亡くしている。

 天涯孤独となった彼が、父の遺産である夜咄堂で出会ったのは、茶道具の付喪神(つくもがみ)達……少女の姿をしたヌバタマに、おっさんのオリベ、そして犬のロビンだった。

 父だけでなく、他の家族も茶道絡みで亡くしている千尋にとって、茶道は受け入れがたい文化だった。しかし、付喪神達との交流や、客に茶道の良さを感じてもらえる不思議な力『日々是好日(ひびこれこうじつ)』のお陰で、やがて茶道を受け入れられるようになったし、過剰に相手の反応を気にしてしまう自分の性格も変えることができた。

 口癖だって、以前とは変わっている。

 いや、文言自体は何も違いはない。ただ、以前は自分の意見を押し殺す為に発していた口癖が、いつしか、相手の事情を理解しようと発する前向きなものになっていたのだ。

 そうだ。俺は成長しているのだ。稽古くらい、どうということは……、

「あ、千尋さん! 腰に付けた帛紗(ふくさ)、裏表逆ですよ!」

 ……まだまだ、どうということはあるようであった。

 

 

 

 

 

 稽古は、その後三十分程続いた。

 ようやくノーミスで茶を点て終え、ヌバタマが稽古の終了を告げると、千尋は突風のように茶室隣の水屋に駆け込み、使った茶道具を清めてしまった。

 それを終えると、板がきしむ階段を小走りで駆け下り、洋風の喫茶スペースと厨房を抜けて、自室に入るや否や、早速テレビを点ける。

 試合は三回表で、また両チーム無得点だった。どうやら見所はこれからのようである。胸を撫でおろしつつ、ようやく一息つく。

 そんな千尋の前に、すっと湯呑が差し出されたのは、試合が三回裏に入った時だった。

 

 

「千尋さん、お疲れ様です」

「ん。サンキュー」

 ゆったりとした手つきで湯呑を差し出してくれたヌバタマに、軽く礼を告げて受け取る。

 お茶の稽古の後に、またお茶を差し出された格好だが、重い抹茶に比べれば煎茶は飲みやすく、緊張感から解放された今の千尋にはちょうどいい味だった。

「私もご一緒していーですか?」

「別に構わないけれど、お前、野球のルール分かるの?」

「分かりませんけれど、楽しんでいる千尋さんを見るのは楽しいですから」

「……変な奴」

 そうは言うが、拒みはしない。

 ヌバタマは軽快な足取りで台所に戻り、自分の分の湯呑とおはぎが二個乗った菓子器を持ってきてから、隣に正座した。

 

「千尋さん、カープ、大好きですねえ」

「まーな。別にカープだけじゃないぞ。高校もメジャーも、野球は全部好きだ」

「熱心で良い事です」

「お前の甘い物好きには負けるけどな」

 湯呑と菓子器が置かれたちゃぶ台の上で頬杖を突きながら、呆れ笑いと共に呟く。

 それを受けたヌバタマは、頬を僅かに赤らめたが、平静を装ったような抑揚のない声を返してきた。

「わ、私は普通ですよ」

「いやあ、相当好きな方だと思うぞ?」

「そーいうことを言う人には、おはぎあげませんから」

「ごめんごめん。でも、食べたかったら二つとも食べていいぞ」

「えっ、本当ですか!! ……あっ」

 にぱっ、と表情を輝かせたのも一瞬のこと。

 とうとう好みを顔に出してしまったヌバタマは、そっぽを向いてしまった。

「一個で十分です!」

「ははっ。別に構わないのにさ」

「もう、千尋さんなんて知りません!」

 

 

「そんなに恥ずかしがらなくてもいいのに。……あ、そうだ。この菓子器って備前焼(びぜんやき)だよな?」

 いつまでもからかうのも、かわいそうだ。そんな気持ちで話題を変えると、ヌバタマは渡りに船と言わんばかりに話に乗ってきた。

「あ……ええ、そうです。千尋さんも備前焼くらいは判断できるようになりましたね」

「これでも、少しは成長しているからな」

「それじゃあ問題です。備前焼は何県の焼き物ですか?」

「岡山。お隣だろ?」

「正解です。次は少し難易度を高くしますよ。第二問。備前焼の陶芸家としては初の人間国宝となった、備前焼中興の祖と言えば誰ですか?」

「なんだその問題。分かるわけないだろ」

「残念ー。答えは金重陶陽(かねしげとうよう)です」

「お前の『少し』はおかしいぞ」

 

 

 千尋の苦情を受け付けず、ヌバタマは「まだまだですね」と言わんばかりに人差し指を振ってから、その指をおはぎに伸ばし、小さな真紅の唇をめいいっぱい広げて頬張った。

 千尋も嘆息しつつ、彼女に続いておはぎを食べる。どうやら、今日で賞味期限を終えた店の商品だったようで、あんこは少しばかり固くなっているが、それでもずっしりとした甘みが口内に広がる。

 それから、空となった菓子器に何気なく触れる。陶器の絵具ともいえる釉薬(ゆうやく)を一切用いていない備前焼は、元の素材である土の感覚を楽しめる焼き物とされている。この菓子器も例に漏れておらず、指先にはざらついた器の感触が伝わってきた。

 残念ながら、まだ茶人として駆け出しである千尋には、この器がどれほど良い物なのか、触っただけでは判別できない。

 ただ、無骨なまでに厚く作られた器は、不思議な頼もしさと落ち着きを与えてくれる気がする。

 答えは分からないけれど、自分なりの感想を持てるようになっただけ、少しは進歩しているのかもしれない。

 

 

 

「その菓子器、気に入りました?」

 おはぎを食べ終えたヌバタマが、身を乗り出しながら尋ねてくる。

「気に入ったって程じゃないよ。ずっしりしてるなあ、とか思ってただけ」

「どんな窯で焼いているんでしょうかね。備前なら日帰りで行けますから、いつか、皆で窯元見学とか行きません?」

「まー、そのうちな」

 そっけない返事をするが、悪くはない、と思う。

 面倒くさがりのオリベに、ノラ犬状態のロビンは行きたがらないだろう。でも、家族旅行みたいで楽しくなりそうな気はするのだ。

 じゃあ、彼らをどの角度から誘ったものだろうか。

 それを考えているうちに真剣になってしまったようで、無意識のうちに目をつぶって集中したのだが、それが良くなかった。

 

 

「あ。さっき点が入ったみたいですよ」

「え? ……あ!」

 広島の選手の打球が、どうやらスタンドインしたらしい。しかも、打ったのは千尋の贔屓の選手だ。

 だが、千尋が顔を上げた時にはリプレイも終了して、次の選手の打席になっていた。

「……見逃した」

 あれまぁ、とちゃぶ台に上体を崩し落とす。

 せっかく点が入ったというのに、素直には喜べない千尋であった。


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