尾道茶寮 夜咄堂   作:加藤泰幸

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第二話『軟派野良犬ドーナツを喰らう その一』

 夜咄堂(よばなしどう)を経営すると決めてから、いくつか判明した事があった。

 

 一つ目は、夜咄堂には居住ができるという事。

 一階台所の奥には、何も置かれていない六畳の和室があった。

 畳は古く、小さな窓が一つあるだけの部屋だが、大学生が一人暮らしをするには不足はない。

 付喪神(つくもがみ)達は、休息したい時は自分の茶道具と一体化するそうなので、彼らの部屋を用意する必要もなかった。

 難点としては、風呂が無い事が挙げられるが、商店街にある銭湯を使えば解決できる問題だ。

 これまで父と住んでいたアパートは、一人で住み続けるには少々広すぎる点も踏まえて、

 家賃を節約する為に、千尋はアパートを引き払って夜咄堂に住み始めた。

 

 二つ目は、夜咄堂の料理は千尋でも作れるという事。

 飲み物は業務用を出すだけで済むし、軽食もサンドイッチや菓子屋から仕入れるカットケーキ等と、手の込んだものはない。

 その上、ヌバタマが給仕を担ってくれるお陰で、千尋は台所に専念できるのだから、

 事務上の手続きを除けば、食材の仕入れを整えるだけで夜咄堂は営業を再開できた。

 

 最後に三つ目が……そうして再開に漕ぎ着けても、夜咄堂には客が来ない事。

 喫茶店として利用する客は、過去最多でも一日五組で、誰も来ない日さえある。

 茶室で抹茶セットを注文する客に至っては、あの後もう一度シゲ婆さんが来てくれただけだった。

 それについてオリベに聞いてみれば、昔もそう繁盛してはいなかったが、まだ常連客がいたと言う。

 すなわち、夜咄堂が営業再開した事が知れ渡れば、客足が伸びる可能性がある。

 時間の問題でもあると解釈し、千尋はこの三つ目を深刻には捉えなかった。

 

 それよりも、店が暇な今のうちにやるべき事がある。

 そう考えていた千尋は、しかしそれが一筋縄ではいかないと、すぐに思い知らされるのであった。

 

 

 

 

 

 シャカシャカと、茶筅(ちゃせん)が抹茶を泡立てる音が響く。

 今の茶室に流れるのは、その茶筅の音と、釜の水がたぎる音のみ。

 ただただ穏やかな、和の音。

 雑音なき空間に流れる一定の音程が、実に心地良い。

 ……はずなのに、千尋の心は、茶室の音とは対照的に大いに乱れていた。

 

 

「……どうぞ」

 泡立て終わると、隣に座るヌバタマに向けて茶碗を差し出す。

 茶碗を持つ右手の手首の感覚は、少し鈍くなっていた。

 先程から、十杯分は茶筅を振り続けている為だ。

 人間とは体の作りが違う為にそれを全て飲み干せるヌバタマは良いのが、作る千尋はたまったものではない。

 

「頂戴致します」

 ヌバタマが頭を下げて茶碗を受け取り、早速一口飲む。

「お服加減は如何でしょうか?」

「大変結構……」

 ヌバタマがにっこりと微笑み、そして……

「……では、ございません! 底にダマがたくさん残っているじゃありませんか!」

 笑顔が一変、眉間が曇る。

 首を激しく左右に振った彼女は、茶碗を突き返してきた。

 

 

「え、ええっ? 相当念入りに茶筅を振ったのに……」

「まだまだですよ。漠然と振っています。茶碗の底の抹茶を溶く事を意識して下さい。

 それに泡立ちも中途半端だし、お湯の量だって五口分くらいありました。

 いくら付喪神が無尽蔵に抹茶を飲めるからって、量はきっちり守りましょう。

 三口分です。三口分。多すぎても少なすぎても、味が落ちます!」

 ヌバタマが矢継ぎ早に問題点をまくし立てる。

 いずれも、もう何度も指摘された事だ。

 自身が至らなかったとはいえ、いい加減嫌気が差してきた千尋は、溜息をつきながらその指導を聞き流す。

 しかし、これこそが、千尋がやるべき事なのであった。

 

 

 

 

 

 茶を()てられるようになりたい……そう言い出したのは千尋である。

 とはいえ、茶道も茶道具も、未だに好きにはなれない。

 それでも茶道を学ぼうするのは、シゲ婆さんを笑顔にした茶道の魅力を知りたいが為。

 因縁と興味の板挟みにはなるが、それだけ、先日のシゲ婆さんの笑顔は眩かった。

 そして理由はもう一つ。

 何よりも、夜咄堂を経営する以上、一服を所望する客に失礼がないよう、最低限の手前を覚えたいからである。

 

 千尋の茶道志願には、ヌバタマが応えてくれた。

 茶道歴百年を軽く超えるオリベ程ではないが、ヌバタマにも茶道の心得がある。

 ヌバタマは当初、オリベからの指導を勧めたのだが、オリベは面倒臭がって稽古を一切付けようとはしなかったのだ。

 そこで、仕方なしにヌバタマから稽古を付けて貰うようになった。

 千尋は当初、それを役得と密かに喜んでいた。

 なにせ、彼女は掛け値なしの美少女だ。

 人間ではないにしても、一緒にいて悪い気はしない。

 

 

 

 

 しかし、いざ始まった稽古は、内心浮かれる千尋を散々に打ちのめした。

 覚えるべき事が山積しているのだ。

 立ち方、座り方、足の捌き方、茶道具の持ち方。

 礼の仕方、挨拶の仕方、それらを覚えて、ようやく一服点てるまでの手前に入る。

 この手前がとにかく難儀だった。

 どれだけ覚えても次の課題が出てくる為に、千尋は相当参っていた。

 しかも、今学んでいる事は最低限というのだから、気持ちは落ち込む一方だ。

 役得どころか、今では少々息が詰まる気さえしていた。

 

 その稽古も、今日で三日目になる。

 この日、一時間の予定で行われていた稽古は、既に二時間を過ぎていた。

 千尋が失敗を繰り返す為の延長なのだが、一時間を過ぎた頃から失敗は更に増加した。

 その理由を、千尋は自覚している。

 彼にはこの後、日課になっている予定がある。

 だが、このままでは予定時刻に間に合わず、気持ちが急いているのだろう。

 

 

 

 

 

「そうそう、茶杓を持つ時も……」

「な、なあ、ヌバタマ?」

 おそるおそる、ヌバタマの言葉を遮る。

「なんでしょうか? まだお話の途中なんですが……」

「そろそろ上がりたいんだけれど、良いかな?」

「半端はダメです! 今日覚える予定の所まで、きっちりやりましょう!」

「いや、でもなあ……」

「いけません。一度妥協したら今後もズルズルといっちゃいますから。

 完璧なお手前を覚える為にも、もう少し頑張って下さい。ねっ?」

「お前、凝り性だよな。

 付喪神にも血液型があったら、絶対A型だぞ」

 片手で頭を抱えながら、ヌバタマの顔を煙たそうに見て言う。

「わけが分からない事言って誤魔化そうとしても駄目です!

 そうそう、菓子器も冷えていなかったじゃないですか」

「そ、そんな事言ってたか?」

「言っていました!」

 

 千尋の記憶にはなかった。

 ヌバタマが言っていたというのなら、そうなのかもしれない。

 だが、失敗続きで気持ちが弱っている千尋には、そう簡単に割り切れない。

 むしろ、知らぬ事まで指摘された気がして、理不尽にさえ思えてしまう。

 とうとう、千尋の我慢は限界に達してしまった。

 

「……冷やし忘れたくらい、どうだって良いじゃないか!

 ああ、もう、やめにしよう」

 ヌバタマに許可を取らずに、立ち上がる。

 足は大分痺れていたが、時折崩していたので、身動きはとれそうだった。

「ち、千尋さん?」

「俺、用事があるんだよ。じゃあな」

 突然の起立に唖然とするヌバタマを残し、茶室から飛び出す。

 勢いそのままに一階に下りると、客がいないのを良い事に、オリベが客席で千尋の私物の漫画を読んでいた。

 

 

 

「おや? 稽古はやっと終了かね?」

「無理やり終わらせました。ちょっと出てきます」

 苛立ちを隠さずにそう言い残し、千尋は外へと出て行く。

 

 そして、一階にはオリベが残る。

 千尋の背中が見えなくなると、オリベは漫画を机に伏せた。

 ふらふらと椅子をたゆたわせながら、彼はぼそりと呟いた。

 

 

 

 

 

 

 

「……本人は隠しているつもりのようだが……またあそこか、ね」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 第二話『軟派野良犬ドーナツを喰らう』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 千光寺(せんこうじ)山の外見は、山というよりも丘に近い。

 標高がそれほど高くない上、伐採されている区画が目立つ為だ。

 緑もそれなりに生い茂ってはいるのだが、野放図に自然が広がる野山とは大きく異なる。

 切り開かれた箇所には民家や観光施設が建っており、その間に無数の石段が伸びている。

 そしてその一角には小さな墓地があった。

 当然ながら観光とは無縁の墓地は、いつも人気(ひとけ)がなく、山の麓の商店街とは対照的に静まり返っている。

 稽古を途中で抜け出した千尋の姿は、その閑静な墓地にあった。

 陽が落ちる前に若月家の墓を掃除するのが、父亡き後の千尋の日課になっていた。 

 

 

 

 

「……これでよし、と。なんとか間に合ったな」

 墓を拭き終えて、額に浮かぶ小さな粒を腕で拭う。

 それから、一つ大きく息を吐いて墓を見つめ、感慨に浸る。

 墓に相対していると、墓石の傍に父がいるような錯覚を覚えた。

 墓の清掃よりも、この気持ちを感じに来ているのかもしれない、と千尋は思っている。

 

 だが、感慨に浸る理由は父だけではなかった。

 墓石は、父宗一郎だけの物ではない。

 墓石には千尋の知らぬ先祖……更には祖父母と母の名も刻まれている。

 祖父母は千尋が産まれる前に亡くなっているし、母は物心付いた頃に亡くなった。

 すなわち千尋は、三人の人となりを殆ど知らない。

 そんな三人を強く意識するようになったのは、父が亡くなった時だった。

 そこには……茶道が絡んでいる。

 

 茶道具を守った宗一郎の死因は『茶道』とも言えるのだが、それは一度や二度の話ではない。

 茶道を嗜んでいた千尋の祖父母は、茶席で痺れた足をもつらせて頭を打ち、父と同じく外傷性ショックで亡くなった。

 千尋の母も、締め切った茶室でうっかり長く稽古をしているうちに、一酸化炭素中毒に罹って亡くなった。

 すなわち、宗一郎の死をもって、千尋の近しい親族は茶道で全滅した事になる。

 茶道で一家全滅。

 それこそが、千尋の茶道への因縁だった。

 

 だから、シゲ婆さんが笑ったという理由で茶道を始めだしたのには、自分でも戸惑っている。

 因縁と、興味。

 二つの間で、千尋の感情は揺れ動いていた。

 

 

 

 

 

 

「……まあ、ええことよ」

 家族への想いに蓋をして、水桶と雑巾を水場に戻しに歩く。

 その代わりに脳裏に浮かんでくるのは、残してきたヌバタマの顔だった。

 

 

 

(熱くなって強引に出てきたけど、ヌバタマには嫌な思いさせたかな……)

 少しだけ、胸が痛い。

 千尋は、自分の言動で相手が不快感を抱くのを、何よりも嫌っている。

 嫌っているというよりは、怖がっているのかもしれない、とも思っている。

 

 十五年前、当時は何事なのか全く理解していなかった母の葬儀。

 覚えているのは、悲嘆に暮れる父の姿。

 あの時、おぼろげに思い至った気持ちは、今でも千尋の行動理念として根付いている。

 傷ついた人を見ると、自分も苦しい。

 だから、自分を押し殺してでも、人を傷つけたくはない。

 無難に、ただ無難にやり過ごせるのなら、何事も耐え忍んできた。

 

 ならば、茶道の稽古も耐え忍ぶべきなのか。

 それは少々苦しい、と千尋は思う。

 ヌバタマには悪いが、やはり茶道を好きになれそうにない。

 とはいえ、お茶を点てられなければ、店は続けられないのだ。

 

 

 水桶と雑巾を戻し終え、空を仰ぎながら呟く。

 降り注ぐ陽の光からは、暖かさよりも暑さを強く感じる。

 どこか、とてもとても遠い所で、虫が鳴いていた。

 もう、夏が近い――

 

 

 

 

 

「お店やめれば、解決するのかな……」

 

 

 

 

 

「おうおう、夜咄堂なんか売っちまえよー」

「だ、誰だ!?」

 突然掛けられた声に反応し、千尋は声を張り上げた。

 慌てて周囲を見回すが、人の姿は全く見当たらない。

 ただ、いつの間に墓地に入ってきたのか、雑種犬が一匹いるだけだった。

 

 

 

【挿絵表示】

 

 

 

「なぁんだ、ロビンか。まさか今の、お前が喋ったんじゃないだろうな?」

 犬に近づきながら、冗談半分で声を掛ける。

 

 茶柴系統で小太り気味の雑種犬、ロビン。

 ここ千光寺山や商店街に居つく野良犬として、町の人々から可愛がられている犬である。

 千尋も、街中を闊歩するロビンの姿は、これまでに幾度となく目撃している。

 まるで歩くトーストのような、こんがりとした犬だ。

 千尋が近づくと、ロビンは舌を出しながら顔を上げた。

 

 そして……

 

 

 

 

 

「んでさ、店売った金で車でも買ってナンパに使わない? 俺はりきっちゃうよー」

 

 トーストは、はっきりと人の言葉を喋った。


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